ヴォロスの北部、針葉樹が広がる深い森の中に、小国ラタトスクは存在している。 一年を通し、肌寒さと曇天とに覆われる事の多いその小国は、森に囲まれ閉塞とした側面を保ちながらも、それなりに長い歴史を重ね続いてきた場所でもあった。 森の奥には尖塔を有する古城が眠る。数月ほど前に近接する村や内外の者たちが引き寄せられて場内に立ち入り、そのまま無残な屍と化し尖塔から吊るされるという事案が生じた場所だ。その事案はふたりのロストナンバーによって解決を迎えるに至ったが、おぞましい案件を生んだ場所は忌まれ、寄り付く者も皆無となって、今はもう住まう者もなく放棄されている。あとは緩やかな眠りの中、森を包む針葉樹に飲み下されていくばかりだ。 小国ラタトスクが抱える、観光客を招くための目立った要点は少ない。かろうじて所有するのはルーネという花。ルーネがほころぶ花園で眠った者は、喪失していた過去の優しい記憶を夢に見ることが出来るのだ。けれどこの花が開くのは一年の内でたった一週間。また、他所への移植は決して許さないという、とてつもなく気難しい条件を備えた花でもある。 ゆえに、ラタトスクはこのルーネを商売の源とし、観光客を寄せている。例え花が咲かない時期であったとしても、その美しい平原には一見の価値があると、住民たちは触れ込んでいるのだ。 けれど、この小国を訪れる者たちの多くは、ラタトスクが隠し持つ暗い側面には気付くこともないのだろう。 ――この小国が、かつて、周辺をも巻き込み起こした陰惨な歴史をもはらみ持っていることに。 「先だって二名の方がこの地に足を運んでくださったのですが、それと時期を同じくしたころ、インヤンガイからのディアスポラ現象で、このラタトスクに飛ばされた方も発見されていました。しかし、その方の保護に向かっていただいたときにはすでに、その方の所在は不明となっていたのです」 世界司書ヒルガブは珍しく難しい表情を浮かべながら頁をめくる。「その後何度か有志の方々のご助力をいただきながら探索を重ねてきたのですが、その居場所は杳として知れず」 ヒルガブの前に集うロストナンバーたちが小さくざわめいた。それではその保護対象者はそのまま消失の一途を辿ってしまったのか、と。けれど司書はかぶりを振った。「新たな情報が下されました」 ディアスポラによって他世界へ飛ばされた者は、当然ながらその地での言語を解することは出来ない。ゆえに意志の疎通もままならず、場合によっては身体的特徴の差異などから、その地においての異端として扱われることもある。 保護対象者はインヤンガイでの記憶の一切を喪失しているらしい。――よほどに悲痛な過去でも重ねたのだろうか。それに関してはヒルガブは口をつぐんだ。性別は男、名はリュウというらしい。黒いチャイナ服を身につけ、――両手には鉄の爪を提げている。 ヴォロスは広い。じつに多彩な種族が住んでいる世界でもある。けれどこのラタトスクは壱番世界で見られる人間の形態と同じ姿の者たちが住む土地だ。森に囲まれ、長く閉塞とした歳月を重ねてきた土地なのだ。 さらに、と、司書は言葉を曇らせる。「この国ではかつて、俗に言われる異端審問や魔女狩りが行われてもいました。森の中、古い教会があるようです。教会の裏には小さな湖があり、審問にも使われたりしていたようですね」 保護対象者はこの教会に通う敬虔な少女の家にかくまわれているという。が、この教会に新しくやってきた神父が、神からの啓示を得たと言い出したらしい。 いわく、この地のいずれかに異端なる罪人がいる、と。 いわく、その罪人を審問にかけ、神の意向を尋ねなければ、ほどなくラタトスクに禍が訪れるであろう、と。 そうしてその言葉の通り、稚い年頃の子どもたちが消失し、無残な屍となって発見されるという事態が続くようになっているのだという。「予言の書には、保護対象者もろとも捕まり糾弾され、ともども審問にかけられる少女の死が表記されています。またその少女の死によって保護対象者が復讐の念に捉われ、人々を惨死させるだろうという暗示も記されています。……罪を犯した者を保護し、そのまま咎めなく生活させるという流れには疑念を感じなくもありません。が、これはあくまでも予言です。成就する前に対象者を保護すれば良いだけの話なのですが、」 言って、司書は視線を伏せる。「上記事情から、住民たちは既に怒りと復讐という狂気の念に捉われています。既に何の罪もない方々が審問にかけられ命を落としてもいるようなのです。異端であると判じられれば、皆さんの身も危ういかもしれません……どうか、くれぐれもお気をつけて」
「かつて、私の同胞の中には、金のない者は異端であると断じた者もいるようですが」 黒いカソックによく似た衣服で身を包む長躯の男は、言いながら、眼前で広げられている光景に眉根を寄せる。 教会の裏手にある湖のほとり、黒い布地を頭からすっぽりと被った風貌の人間たちが、数人で、ひとりの女を縛り付けているのだ。女は老いていて、ろくな抵抗を見せるでもなく、ただ呆としたまま、両手首と両足首とを交差させる形で揃え縛り付けられていた。 カソックの男――神父は続ける。 「貧しい者は勤労に忙しく、ゆえに信仰を保つことができない。信仰を持たざるは、それゆえに異端であると判じるのだと」 神父の声は印象に残る低さをもって、黒衣の者たちが担ぎ上げる女の姿へと注がれる。 「あるいは、年老いた者はそれゆえに魔術を秘め、魔境のものと通じるのだと説く者もいます。……どちらも、私からすれば暴論の極みであると思うのですが」 女が湖に放られる。ひと時もがき抗ったが、抵抗など無意味。女の身体は縛られ自由を封じられたまま、水の中に沈んでいく。神父は額の前で指を動かす。半円に縦線を引いた図形だ。そして湖のほとりに膝をつき、祈りの姿勢で目を伏せる。 水中に沈められた女が罪科の無い人間であるのか、あるいは罪科にまみれた魔女であるのか。その判別が、この儀式によって判然とされる。すなわち、水に沈んだままであるならば罪科無し。浮いてきたならば魔女である。仮に魔女だと判じられれば、その者は刑に処さねばならない。教会は深い森に囲まれている。その木の枝をふたつ引き、それぞれの枝に片足ずつを縛りつけるのだ。枝は戻り、反動で、縛り付けられた身体は真っ二つに裂かれてしまう。 ディアスフェンドネーゼ。 それがこの処刑方法を呼ぶ名前。 ◇ ラタトスクの街中にある数軒のバーの内の一軒で、西迫 舞人は軽い食事を取りつつ、周囲を飛び交うあらゆる会話に耳を寄せた。 観光シーズンは外れているらしい。そのせいか、観光客といった風の者は少ないようだ。バーで飲食を楽しむ客たちの会話はそれぞれの日常に関したものが中心となっている。どの顔も凡庸としたものばかりで、とてもではないが異端狩りなどといった薄暗いものに関与しているとは思いがたい。 情報は得られそうにないか。考えつつ腹の中でため息をひとつ落とすと、舞人は食事代をテーブルに置いて席を立った。 思えば、確かに、世界司書は、あまり知られていない歴史だと言っていた。ならば少なくともこういった場で、表立った話題として取り沙汰されることもないのかもしれない。 司書から預かったチケットを確認する。保護対象者の分だ。 出来るなら事前に入手しておきたい情報はいくつかあった。 連続殺人事件がいつから起き始めたのか? 事件は、いつ、どこで起きたのか? 奇妙な行動をしている人が居たかどうか? もしも仮に、神父が教会にやってきた時期と頃合が重なるのなら、怪しむべきは神父に他ならないのではないか。舞人はそう考えたが、それに関する情報も期待できそうにはなかった。新しい神父にまつわる話題も皆無に等しいのだから。 バーを後にしようとした舞人と入れ替わり、若い男が駆け入ってきた。ずっと走ってきたのか、頬がわずかに紅潮している。横目に男の顔を見据え場を後にしようとしかけた矢先、舞人の耳はようやく関心の糸に引きつけられた。 「やっぱりバアさんは魔女じゃなかったってよ!」 わずかに息を切らしながら椅子を引き乱雑に腰を下ろす。連れなのだろう、そのテーブルについていた男たちのうちのひとりが木製のカップを差し伸べる。カップの中身を一息に干し、男はさらに続けた。 「外からの客が連れてきたガキまで消えたらヤバいだろ。さっさと狩り出してぶっ殺さないと」 「しかし、もうあらかた怪しいのはみんな殺したじゃねえか」 「どさくさに、邪魔な女だのを通告した女もいるって話だがな」 下卑た笑いをこぼす男もいる。舞人は思わず眉をしかめた。 と、そのときだ。 「魔女っていうのは女の人ばかりなのです? 男のひとは魔女って言わないのです?」 男たちが座るテーブルの端で、白い少女が口を開く。男たちの驚愕した視線が一斉に少女に向けられた。舞人も目を見開く。 ふわふわと伸びた長い銀色の髪、白い肌、銀色の双眸に白いふわふわとしたワンピース。無垢めいたまなざしで男たちを見ていた少女は、 「ゼロはゼロなのです」 そう告げてぺこりと小さく頭を下げた。次いでふわりと微笑み、細い首をちょこんとかしげて言葉を続ける。 「ゼロはよその土地からここへ来て、この近くに古い教会があって、そこに新しい神父様が見えたと聞いたのです」 少女――ゼロは、店内にいる者たちすべての視線を寄せ集めていることも気にせず、臆することもなく言葉を続けた。 「神父様に会ってみたいのです。いつ教会に行けば神父様に会えるのです?」 言ってのんびりと微笑むゼロに、男たちはしばし互い互いに顔を見合わせ、それからドアの前に立ち話を聞いている見知らぬ男――舞人の顔にもちらりと視線を向ける。ゼロも目線を持ち上げて舞人の顔を見つめた。視線が重なる。 ――ゼロがみんなの注目を集めるのです ロストレイル号の中、少女は安穏とした口調でそう言った。 目立つことは危険にも繋がりかねないことだ。そう心配した同行者たちに、ゼロはかぶりを振って続けた。 ――ゼロは傷つけられることがないのです ゆえに、仮に審問の場に連れ出されたとしても、何者にもゼロの生命を脅かすことは出来ない。 会話を思い出し、舞人はゼロから視線を外して店を後にした。 それぞれで入手した情報は、ノートを使って共有化すればいい。どんな条件が異端のそれに該当するのかもしれない。今回この地に足を踏み入れたロストナンバーは、それぞれにどうにか人の姿態とさほど変わらない見目をもっている。ならばあとは観光客を装い情報を仕入れ、隠密に、なおかつ速い行動をとることが要求されるだけだろう。 教会や神父に関する情報はゼロに任せることにして、今はまず、保護対象者への接触をはかることを優先としよう。 考えて、舞人は森の入り口へ歩み進めた。 ユニ・クレイアーシャは森の中、湖近くの瀬川の中に立っていた。 一見だけでは女、しかし美しい男の顔に見えなくもない中世的な面立ちをしている。けれども緑色の頭髪の毛先の一部が水草を模した形状のものとなっている。むろん、ヴォロスという世界には多様な種族が暮らしているのだから、ユニのような頭髪や見目をもつ者も少なからず存在しているかもしれない。――けれどこの地において、その見目はおそらく、異端という烙印を押されるに充分な条件をそなえたものになっているだろう。 考えたすえ、ユニは髪を覆い包むように布を巻き付けることにした。そうすることで、もしも誰かと顔を合わせたとしても、見目の違和を咎められることはなくなるだろう。 ユニの属性は水陸両性。ゆえに水中に身を沈めても、通常の人間とは異なり、長時間をそこで過ごすことも出来る。 情報によれば、魔女であるかを判じるため、教会裏にある湖に嫌疑のあるものを沈めているのだという。沈めば罪無し、浮けば魔女の確証。いずれにせよ嫌疑をかけられたものが長らえるすべは残されていない。 瀬川の水は清らかで冷たく、湖へ向かい脈々とした静かな流れを保ち続けている。その流れは決して深くはないが、身を沈め泳ぐことは可能だった。 身を隠すならば湖の中。そこならば教会にもほど近く、神父や教会に出入りするものたちの動向を探ることも出来るだろう。なおかつ、水中に身を隠すものがいるなどと、誰ひとりとして考えるものもいないだろう。 流れにのり川を下る。ほどなくして視界は瀬川のそれを過ぎ、やがて透明度の低い、土と藻で覆われた湖の底へ抜けた。 視界は決して良好ではない。しかしユニの目はさほどの難に遮られることもなく、湖の底に広がる惨状を検めることが出来た。 藻に囚われる数多の屍がそこにある。骨になったもの、水棲の生物たちに食まれ肉塊と化したもの、あるいは食まれてこそいるが、まだ人としての形状を保っているもの。いずれにせよ水を含み膨らんだ身体は、もはや生命の残滓などわずかにも残してなどいない。 ユニは目をすがめ唇を噛む。 水底に、教会が放棄したもの――例えば過去の遺物や何らかの証拠隠匿物などがあればと思いもしていたが、あるのはただただ、重なり積み上がる屍ばかりだった。 ――神父は、基本的には、日中はあちこちの家を訪ない、そこであらゆる慈善活動をしているらしい そんなメールがゼロからの発信で届いたのは、夕方間近となった頃だった。 それによれば、確かに、子どもたちの失踪等が生じるようになった時期と神父が教会にやってきた時期は重なるのだという。 それならやはり、神父が怪しいということになるのではないか。 メールを確認しつつ、舞人は森の中で静かな息を吐く。 針葉樹は冬になっても葉を散らすことはない。その色濃い緑の中で、舞人の赤い髪はひどく印象的だった。 他所から来たから。他者と異なるから。ただそれだけの理由で異端であると判じ、あまつさえその命を奪取しているのであれば、それは決して赦されてはならない行為のはずだ。 森を奥に進む。確証などあるはずもなかったが、魔女であると判じられ処刑されるものが続出している中で、保護対象者は未だ見つかりもせず捕縛もされずにいるのだ。それを匿う少女の存在があるにせよ、おそらくはあまり人との接触を持たず、それゆえにまつわる情報も薄く少ない、そんな生活を送っているだろうと思われる。 考えられるのは森の奥、人の多く住む街からは離れた、隔絶とされた場所。そういう場所に身を潜ませ、静かに暮らしているのではないだろうか、という点だ。 新たなメールの着信を報せる気配を感じ、舞人は足を止めた。 ――ゼロは思うのです。このような事件が続いた後は親は子どもを家から出さず、外に出すときも目を離さないはずなのです だから ――ゼロはゼロを餌にしてみることにしたのです。神父様は夕方には教会に戻るのだそうです。ゼロはこれからひとりで教会のあたりを散策してみるのです 万が一にそれが功を成したとしても、ゼロが一連の犯人や魔女狩りに狂い酔う人間たちに囚われることは確実なこととなる。何者であってもゼロを傷つけることは出来ない。それでも。 胸をよぎる小さな不安に、舞人はきびすを返し街へ戻るため引き返そうとした。しかしその足は次の時には動きを止める。 視界の端に映ったのは木々の隙間に立つ少女の姿だった。少女は舞人と目が合うと、弾かれたようにきびすを返し、慣れた足取りで森の中を走り出す。 「あ、きみ!」 走り出した少女の背を送りかけ、思い出したように舞人もまた走り出す。少女は跳ねるように軽やかな足取りで森を進む。森は見る間に深くなる。もうどこをどう走ってきたのかもわからない。 何者かの気配を感じ、ユニは湖面から顔を浮かせた。 日は沈みかけ、視界は夜の薄闇に沈みつつある。日が沈めば森は一層得体の知れぬものへと変じるようにも見える。水の底で波に漂う藻のように、夜風にあおられて揺らぐ樹海は、文字通り怪物の触手のようだ。 神父が歩いていた。手にはランタンを掲げ持ち、湖のほとりを教会に向けて進んでいく。 ふと神父が足を止める。ちょうどユニが顔を浮かせている方に向き直り、静かに膝をつき、ランタンを置くと、深い祈りを捧げるように頭をたれた。 「何の罪も咎もないあなた方を苦しめ、死に追いやってしまった行為は、決して赦されるものではありません。……せめてあなた方の魂が神の御許へと招かれ、その先で一切の苦しみより解放された幸いの中にあらんことを」 祈りながら、神父は幾度となく頭をたれる。 ランタンの火が所在なさげに頼りなく揺れている。 ユニの見ている前で、神父はひとしきりそうして鎮魂の詞を繰り返すと、再び教会へ向かい歩みを進めて行った。 「……?」 ユニはわずかに眉をしかめる。 当然のように、神父が一連の犯人だろうと思っていた。しかし今、胸に湧くその小さな違和感は。 「……神父が怪しいのではない?」 落とした言葉は湖面に立つ波が飲んでいく。 ゼロはバーを後にした後、ひとり、当て所もなく街中をふらふらと回った後、夕方近い頃合となったのを確かめて、教会へ向かう道を進みだしていた。 当然に、教会へ向かう道もまた森の中にあった。 生い茂る針葉樹の枝葉は昼であっても薄暗くあるのだろう。夜ともなればその薄闇は色濃い闇へと変じるのだ。その闇の中、白い少女の姿は際立ち浮かび上がっている。 ふわふわと風に踊る長い銀髪。スカートの裾も風をはらんで流れていた。 神の意向など、それを提言するものの妄言や虚言に過ぎない場合がほとんどだ。崇高なるものからの啓示という看板を盾に、立場を利用した凶行を繰り返しているのではないか。時期も重なるという。ならばやはり怪しむべきは神父と見ていいのではないだろうか。 けれど、神父の人柄に関する評価は思っていたよりも悪くはなかった。 もちろん、魔女狩りや異端審問というものを執行している立場にある以上、恐怖の対象とされるのは当然のことといえるだろう。しかし反面、神父は日々熱心な慈善活動もしているのだという。共に土を耕し、種を蒔く。病に臥せるものがいれば薬草を求め歩き、子どもたちと遊び、読み書きを教えることもあるという。この相反する性質は、神父が内包する異常性を示唆するものであるのだろうか。 考えながら進むゼロは、その時メールの着信があるのを知った。 ――保護対象者を発見 それは舞人が発信したものだ。 メールはさらに続く。 ――犯人は神父じゃありません 「ゼロ君」 水上に上がってきたユニがゼロを呼ぶ。 「急いで舞人君を追いかけよう」 「舞人さんはどこにいるのです?」 返し、メールの続きを確認しようと目を落とした。それをユニが引き止める。 「森の奥らしいんだけど」 言いながら指を持ち上げる。細い指先が指した方角をゼロも見た。夕方を過ぎ、森はもう既に夜の闇の底にある。 「ただ、わりと遠くだと思うんだよ。視界も悪い。追いつくまでにどのぐらいの時間がかかるかは分からない」 「それはゼロがどうにか出来ると思うのですー」 そう返すと、ゼロの身体は見る間に大きくなっていった。樹木の高さを越え、教会の尖塔を越えて、まだまだ大きくなっていく。教会の中から神父が転げ出てきて驚愕に目を見張っている。祈りを捧ぐポーズをとって、力なくその場に膝をついていた。 ゼロの手の上、ユニは神父を見下ろし、口を開けた。 「ここに通う女の子の住む家を探しているんだけど、知らない?」 神父はまだ驚愕を浮かべたまま固まっている。無理からぬ話だ。ユニはゼロの目を見る。 「神は何事にも寛容だとゼロは思うのです。異端だからという理由での迫害や拷問は、神はきっと認めたりしないと思うのです」 巨大化したままの姿でゼロは神父に向けて声を落とす。 「異端審問を行う者は偽聖職者なのです。本人以外には見えない啓示をもっともらしく語る者は偽預言者なのです。それらは断じて赦してはいけないのです。なので、ゼロは、偽聖職者や偽預言者の追放を推奨するのです」 常と変わらぬ穏やかな声音。 眼前で巨大化した白い少女が常なる人間と同じ存在であろうはずはない。神父はおののき、祈りを捧ぐ。 「し、しかし、私が確かに啓示を受けたのです。この地に罪なき無垢をさらい、生気を喰っているものがいるのだと」 人は等しく神より賜りし愛の恩寵を受けねばならぬ。反面、神より愛されし人間に脅威を向けるものがあるなら、それは地獄に送り返してやらねばならない。 だからこその行動だった。神父はそう言うと、ようやくゼロの顔を仰ぎ見つめた。その顔に迷いの色は浮かんでなどいない。 「ゼロさん、それよりも早く」 ユニがゼロをつつく。ゼロは神父からユニに視線を移してうなずいた。 森の木々よりも大きくなったゼロの目は、森の奥にある一軒の家を捉えている。闇の中、その家の周りに、時おり小さな火花が飛んでいた。 森の中で目にした少女を追いかけ走り、舞人はやがて深い森の出口を飛び出すことが出来ていた。 抜け出た場所はわずかに広がっている平原で、その端に小さな家が一軒だけ立っていた。少女は家の前で足をとめて振り返り、舞人の顔を見つめて大きくにやりと笑う。それからわざとらしいぐらいの大きな悲鳴を叫んだ。その流れをまるで理解できずにいる舞人の目の前に、家の中から黒ずくめの男が現れた。 両目を覆い隠す布が男の顔を隠している。 男が両手に伸びる鉄の爪を掲げ上げたのは、それからほどなくの後のこと。 考えるよりも先に身体が動いていた。振り下ろされた爪は後退した舞人の身体をかすめはしたが、かろうじて届きはしなかった。弾かれたように構えたトラベルギアである巨大ハンマーで、二撃目、三撃目と受け流す。爪は木の枝を容易に切り落とした。 「リュウさんですよね!?」 攻撃を受け流す。そのたびに赤い火花が飛び散った。 「私たちは図書館からの使いです! あなたを保護しに来ました!」 攻撃を返すわけにはいかない。切れ間なく向けられる攻撃を前に、舞人はただひたすらにそれを受け流すしか術を持たない。 舞人の言葉が届くことはない。チケットを渡さねば、それが届くことはないのだ。しかし、舞人の声を耳にした瞬間に、リュウではなく少女がわずかに表情を変える。 少女の声が何事かを告げる。呼応するように、リュウの動きがぴたりと止んだ。 ――少女と言葉の交流をしている? 否、それはありえない。異世界に住まう者同士が言葉の交流をもつことなどないのだから。現に、ふたりは会話をしている風ではない。しかしリュウは確かに少女の声に呼応した。 司書の言葉がよぎる。――少女もろとも審問にかけられ、少女は死に、その死によって復讐の念にかられ殺人鬼と化すリュウにまつわるものだ。 ――この地には異端がいる それは当然に神父自身のことだと思っていた。子どもたちを殺しているのは神父で、それゆえの自作自演なのだと。 けれど。 リュウの動きが止まっている隙に、舞人はノートにメールを記す。 今は手助けが必要だ。――おそらくはあの少女こそが。 つかの間動きを止めていたリュウの近くに歩み寄った少女が、リュウの耳に何事かをささやきかけていた。次の瞬間、リュウは再び猛然とした怒気をあらわに表情を歪め、再び強く地を蹴り上げた。舞人もまた再びギアを構え持つ。 再び火花が散りかけた、そのとき。 舞人の足元が大きく揺らぎ、大地が軋みを響かせた。バランスを崩し膝をつく。保護対象者もまた膝をつき、異変に驚愕している。 「保護完了なのですー」 ゼロの声が降ってきた。視線を上げる。そこには巨大化したゼロと、その肩に乗るユニの姿があった。次いで自分たちが、地面ごとゼロの両手ですくい上げられたのだと認識する。 リュウはわずかな間をあけた後、再び鉄の爪を振り上げた。ゼロの指を樹林と同じように斬りおとすため、幾度もそれを振り下ろす。が、何ものであってもゼロを傷つけることは出来ない。やがて半ば脱力したように肩を落とした男に向けて、舞人がチケットを差し伸べた。 「もう大丈夫です、リュウさん。――ずっと大変だったでしょう。落ち着ける場所にお連れします」 言って、ふわりと小さな笑みを浮かべる。 リュウはしばし黙したままに舞人とチケットとを見比べ、それから胡乱な顔でゼロとユニとを検めた。三人とも黙したままリュウの選択を待っている。 数を消失したものは、しかるべき場所で保護しないと、いずれ完全なる消失の結末を迎えることになる。 「もう一度生きてみませんか」 舞人が言う。 それに押されたように、保護対象者はゆっくりと、迷いながら、チケットを手に受け取った。 ◇ 「――分からない。本当に、何も覚えてないんだ」 ロストレイルでの帰途、リュウはシートに浅く座りながら重々しく口を開けた。 インヤンガイでの自分、それにまつわる人々の記憶。生い立ち。何ひとつとして思い出せない。あの森に迷いこんだ後も、しばらくはわけもわからないままに樹海の中をさまよっていたのだと、男は語る。 その中でひとりの少女と出会い、言葉も意思も交わせず解することが出来ないままに、あの家へ招かれ、寝食することとなっていた。 「あの森近くの国では、子どもがたくさん殺されていたのだそうです。犯人は結局分からずじまいだったのです」 言って、ゼロはちょこんと首をかしげる。 「ゼロは神父が怪しいと思ったのです。でも違ったのです?」 「僕もそう思ったんだよねぇ。……違ったのかなぁ」 ユニが続く。 「子ども……」 リュウがつぶやく。両目は布で覆い隠されていた。その下にあったはずの目蓋は見る影もなくつぶれていた。傷口の古さから判じるに、おそらくはインヤンガイにいた時分すでにつぶれていたのだろう。 「時どき、床の下から子どもの泣き声はしていたが」 「床の下?」 舞人が返す。リュウはうなずき、続けた。 「なにを訴えていたのかは分からない。……すまない」 息を落とすように声を紡ぐ。その謝罪に、三人はそれぞれにかぶりを振った。 「とにかく、ターミナルについたらゆっくり休もう。お腹すいてないかい? 行けそうだったら、食事でも一緒に行こう」 ユニが微笑む。 リュウはうつむき、黙したまま。何かをひどく悔いているように唇を噛み、それきり口を閉ざしてしまった。 ◇ 「神父様! 先ほどこちらの方に怪物のような影が見えました!」 教会に駆け込むなり、少女はそうまくしたて、長椅子に腰かけ祈りを捧げていた神父の傍に走り寄る。 「ご無事ですか!?」 「……ああ、君……。心配して来てくださったのですね」 「当然です!」 「大丈夫ですよ。少々……とても驚いていますが」 返し、弱々しく微笑んだ神父に、少女は困ったように表情をかたくさせ、それから祭壇に向かい祈りを捧げた。 「魔女や怪物や……恐ろしいことばかり。……神様は私達を試していらっしゃるのかしら」 呟いた少女に、神父もまた困ったような笑みを浮かべた。 神は異端審問を禁じられているのだろうか。 「審問を行う者、本人にしか見えない啓示をもたらす者は偽聖職者であり、偽預言者、ですか」 呟き、白い少女の言葉を思う。 ――ならばこの地より追放され、厳罰されるべきは、自分自身なのかもしれない。 黙してしまった神父を見つめ、少女は不安げに眉をしかめた。 「神父様……」 森を揺らす夜風は次第に強くなっている。やがて嵐になるかもしれない。
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