走り去っていったロストレイル号を送った後、ドアマンはまるで乱れのないネクタイの位置を改めてきちんと正した。ロングジャケットの上にはロングコートを合わせている。深くかぶったシルクハットの下で思い出したように明滅する青は、冬に沈む凍りついた湖の静寂を彷彿とさせる色だ。 燃え盛る炎にも似た赤で染め尽くされていた森の枝葉は、今はもう冬枯れて森の土を肥やすための敷布となっている。 司書から示された場所までは森の中に続く細い道を辿り進まなくてはならない。もはや獣道と称しても過言ではないそれは、しかし、かすかにではあるが人工的に通されたものであることの形跡を残していた。それも落葉樹が落とした残骸によって覆い隠され、見出すのも比較的に困難を要するものとなっている。 すらりと伸びた長躯が森の奥を目指す。 黒で包まれた品良い紳士然とした佇まいは、けれど、今は広大な樹海の中にただひとりきり。声をかけてよこす者がいるわけでも、彼自身もまた誰に声をかけるともなく、ただ風の音ばかりが枯れた樹木の海をくぐって空へと戻っていくばかりだ。 ――申し訳ありません、……なにやらひどくぼうやりとした文字列でして ドアマンが対面した世界司書は、導きの書の頁を幾度もめくりながら首をかしげた。初めて対面した司書だった。モノクルの下、困惑したような色を浮かべた双眸をすがめてはドアマンに謝罪を述べていた。 ――この場所に覚醒したばかりのロストナンバーがいるのかもしれません。……その兆しは現れているのですが、……それもひどく薄いものです そう続けると、司書は顔をあげてドアマンの目をまっすぐに捉えた。 チケットを受け取り、現地まで足を運んでもらうように依頼をするのは良しとしても、もしも仮にその兆しが空振りに終わってしまった場合には、足を寄せたロストナンバーの時間や手間を無駄にしてしまうということにも繋がってしまう。少なからずの時間諸々の拘束に対し、司書は詫びているのだ。しかしひどく薄い兆しであったとしても、それが出ている以上、確認を取るのもまた当然の流れとも言える。 しかし、ドアマンは彼の依頼を快く引き受けた。行く先は壱番世界の欧州。落葉樹の木々が色を染める場所だった。古くは森という地に根ざした独自の呪い術等を抱えていた土地だというが、言われてみれば確かに、森の中には何か不可視のものが息吹いているような感覚を覚える。 枯れ落ちた枝葉の上を踏み歩いても乾いた音が目立たないのは、一帯を覆い包む深い霧のせいだろうか。空気は冷え、仰ぎ見る空は重く広がる厚い雲で覆われていた。 森はほどなく抜けた。変わって広がったのは岩と緑とを敷き広げた丘陵だった。そうして森の獣道からそのまま続く砂利道のその先に、司書が示したその場所は深いまどろみの中、目覚めぬ夢の底に佇んでいた。 レンガを重ね造りあげたように見えるその建物は、かつてヴァイキングの襲撃により崩壊したものの、その後改めて格式高い修道院へと修復されたのだという。その後はひとときの賑わいを迎えこそするが、近代に移り再び静寂ばかりが訪なうものとなり、現在では廃墟と化し深い眠りに沈むばかりとなっているらしい。にも関わらず予想よりも美しい外観を保ったままでいるのは、この修道院を愛する有志の者たちによる修繕が定期的に施行されているからなのだろう。 出入り口であろうと思しき木戸の前で足を止める。内外に何者の気配も伺えない。居住まいを正すと、ドアマンは古びた、しかし重厚的な空気をまとう木戸を数度ノックする。むろん、一般住居ではないのだ。教会は基本的にはいつでも何者をも迎え入れる場でもある。ノックをせずとも良いのだろうが、やはり閉ざされた場を訪れ足を踏み入れるための作法として、礼節はきちんと守りたいとも思う。 当然に応えのないのを検める。シルクハットをかぶりなおし、木戸を軽く押してみた。施錠は特にないようだった。荒らされた形跡があまりないのは、ここが教会であるという理由の影響もあるのだろうか。 木戸をくぐり、長椅子が並ぶ礼拝堂へと足を入れる。ステンドグラスを通して差し込む光は曇天に遮られて淡く薄い。壁の数箇所にランプが飾られているのは、昼なお薄暗いこの空間を慮ってのものだろう。そのランプに火が揺れているのを想像した。ガラスの中、オレンジ色の小さな炎が揺らめき光彩を落とすのだ。礼拝堂の隅に暖炉がある。薪が焚かれ、火が爆ぜる音と共に心和む光が宿るのだ。その光に合わせ揺らぐランプの光は、この場で敬虔な祈りを捧ぐ者たちにどれだけの安らぎをもたらしていただろうか。 石床を靴底が鳴らす。乱れのない律を保ちながら進むその足が、長椅子の間を過ぎて壇上の印を前に止まる。壁に掘り込まれたそれは天の教会に座すとされている天主の象徴だ。かつては天主の子とされる預言者が、この印を背負い刑に処されたともいう。 壇上に上ることはしない。そこに上り神の教えを説く神父の姿を思う。振り向き、長椅子を見た。席の随所に腰かけ神父の話に耳を寄せる者たちの姿が見えたような気がした。 礼拝堂を後にする。 一郭にあった吹き抜けの通路をくぐり、やはり石床の廊下へと出た。窓はなく、やはりランプが一定の間をあけて飾られている。窓がないせいか礼拝堂よりもずいぶんと暗さも増した。 シルクハットの下の双眸を一度だけ明滅させると、ドアマンは迷いを見せずに歩き進める。やはり何者の気配も感じられない。あるのはただ静けさばかり。 廊下を進む。すぐの場所に周りから区切られた小部屋があるのが知れた。閉ざされていた木戸をノックして、静かにそれを押し開ける。 小さな狭い空間。壁のすぐ前に椅子が置かれている。壁には小さな吹き抜けの窓があった。その小窓から向こうを覗き見る。向こうにも同じように椅子が置かれていた。 告解室だ。 この小窓には恐らく仕切り代わりの布か何かが張られ、罪を聞く者と告白する者との間を離していたのだろう。罪を明かす者はここで神の代行者たる者に対して己が所業や心の内を語るのだ。代行者はそれに耳を傾け、己が心を隠さず明かした者の勇気に免じ、それに対しての赦しを与える。交わされた言葉のすべてはこの狭い空間の中でのみ生まれ、終息を得るものとなるのだ。 そういえば。ドアマンはふと思い出す。そういえば0世界にも告解を行うための場があったはず。そこもこの場と同じような静寂で包まれているのだろうか。 己が罪、己が心の奥底でわだかまる追憶や感情。そういったものを余さず吐露することで、何か大きなものからの赦しを得られるならば。 ――わずかに目を伏せて小さな笑みを浮かべた。 告解室を後に、廊下を進む。 次に見つけたのは、やはり吹き抜けの出入り口の向こうに広がる一室だった。壁に面して書棚と思しき棚が三つばかり並んでいる。奥には大きな窓が並び、覆うもののないガラス面の向こうには霧に飲み込まれつつある丘の景色が開けていた。 ともすれば陰気なものと言えなくもない風景だ。 湿り、肌寒く、行きかう者の姿もなく。丘の向こうを窺えば湖が広がっているのも知れる。時おり、鳥が飛び交う様は見て取れる。あれらは湖を仮の住処としているのだろうか。じきに訪れる冬の寒さに、湖面はおそらく凍りつくことだろう。その前に何処かへと飛び去っていくのかもしれない。 書棚には並ぶ書物もなく、がらんとした空間だけがあるばかり。石床の上には古い絨毯が敷かれている。組紐柄をあしらった、見事な織物だ。――確か、この辺りに伝わる魔除けの文様であったように思う。思い出しつつ、青を基調とした色柄を眺め、ドアマンは感嘆の息を吐いた。 そうしてやはり、この部屋にも誰の気配も感じられなかった。何者かがいた気配の残滓さえも感じられない。他にも同じように、いくつかある部屋を探訪してみた。どの部屋にも誰の気配も名残も感じられず、あるのはただただ深いまどろみの底に沈む静けさばかり。 壁がけのランプ、もう薪がくべられる事もない暖炉。聖歌が響く事もなく、祈りや懺悔が唱えられる事もない。 ――様子見の心積もりでいてくださるとありがたいです 司書の声が浮かぶ。司書はおそらく、いわゆる無駄足という結果になるかもしれない依頼をドアマンに向けるのを、ひどく申し訳なく思っていたのだろう。現に、こうして現地にまで足を運び、精査を重ねた検分の結果、何らかたちを成す成果というものは得られずにいる。ならば導きの書に並んだ予言の言葉の列は、果たして何を感じ取り浮かび出たものであったのだろう。 ――考えてもその仮説などいくらでも浮かんでは流れていく。仮説になど意味はない。ここに足を運び、得られた結果はひとつだ。 修道院の中を歩き回り、先々で同じような静謐を感じ取る。聴こえてくるはずのない聖句、交わされる何という事の無い会話、さざめく笑い声。駆け回る子どもらの稚い声と足音、点されるランプの灯、ぼうやりとした温もりを放つ暖炉、爆ぜる火の粉の音。窓の外では冬の足音が聞こえている。森を撫で、丘の土地を過ぎ、曇天の空へと帰着していく風の唄。オルガンが響き、人々は歌う。 再び礼拝堂へと戻ると、ドアマンはしばし長椅子に腰を落としたままにひっそりと目を閉じていた。 祈りを捧ぐのではない。懺悔を唱うわけでもない。この地に根ざしていた神に向けて語りかけるわけでもなく、ただ密やかに、通り過ぎた過日の気配に耳を寄せる。 過ぎた歳月が戻る事はない。せめて、眠りに就いたものたちが幸いたる夢の内にある事を願うより他にはない。 閉じていた双眸をゆっくりと開く。目に映るのは礼拝堂の奥に座す十字の印。シルクハットをかぶりなおし、乱れのないタイを正して、ドアマンは静かに席を立つ。そうして再び木戸をくぐり、曇天と霧とに満ちた外気の中へ踏み出でた。 空を仰ぐ。もうじき夜が訪れる。
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