司書棟は司書の居住場ではない。そこには各自の執務室こそ置かれているし、簡易的な宿泊設備を整えている司書も少なくはない。原則としてのルールはもちろん存在しているが、公的な秘密とでも言うのだろうか。仮にいずれかの司書がその各ルールに反したことをこっそりとやっているにしても、それは大半見逃してもらえる流れになってもいた。「恋人と一緒に住みたいなら、執務室にではなく、外にその環境を整えなさいと、叱られてしまいました」 世界司書ヒルガブはそう言いながら肩をすくめた。「え! そ、それで、大丈夫なの!?」 隣を歩く七夏は、背丈の差のあるヒルガブの顔を仰ぐように覗きこむ。ヒルガブは七夏の顔に視線を落としてゆるやかに微笑み、自然な流れでその手を握った。 初めのうちこそ手を繋ぐのも気恥ずかしく思えていたが、ここ最近ではようやく、その流れは自然なものとして固定されている。七夏はわずかに頬を染めながら、握られた手に小さな力をこめた。揃いのブレスレットが音をたてて揺れる。 そんなわけで、外に新居を探したいのだとヒルガブは言う。壱番世界と同じように並ぶ様々な店の中に交ざり軒をかまえる不動産の店先で足を止めては、難しそうな顔を浮かべつつ小さくうめいてみたりしている。その横顔を眺めつつ、七夏は何度か何かを言いたげに口を開き、そのたびに慌ててかぶりを振るのを繰り返していた。ヒルガブが振り向き首をかしげるが、七夏は触覚をぴょこんと跳ねさせて強くかぶりを振るばかりなのだ。 いずれは私の伴侶として ヒルガブから言われたその言葉が頭から離れない。返事はいつまででも待つと言っていた。そしてその言葉の通り、その後会っているときも、七夏に返事を求めることをしない。――だからこそ、それを言い出すきっかけを作るのにも難儀している部分も、なくはないのだけれども。 ヒルガブが執務室ではなく他にちゃんとした部屋を探すのなら、七夏と選び買ったばかりの家具類も当然にその部屋に運び出されることになる。もちろん、七夏が作業をするために買い揃えた机や道具たちも。 ヒルガブの手を握る手に力をこめた。ヒルガブが気がついて振り向く。「あのね、ヒルガブさん。今から私の仕事場に来ない?」 意を決めたように顔をあげて口を開く。ヒルガブはどこかキョトンとした顔で七夏の顔を見ている。「貴方と出会うまで、一番自分らしかった場所。私が0世界へ来てからの思い出が色々詰まっているから……。そこを今、改めてヒルガブさんに見てもらいたかったの」 七夏なりに意味をもたせた言葉を告げたつもりだ。伝わるかどうかは分からない。それでも。「ええ、ではぜひ」 返された応えは簡素なものだったけれど、ヒルガブは嬉しそうにふわりと笑ってうなずいた。それからもう片方の手を持ち上げて七夏の頬に触れる。くすぐったさに目をすがめ笑った七夏に合わせ、ヒルガブもまた笑った。 0世界の通りは壱番世界に合わせ、クリスマス色で染まっている。二人はケーキを買い求め、それを携え、七夏の仕事場へと向かった。寒さはもちろんあるわけもない。けれど、繋いだ手を寄せれば自然と身体も引き合う。ヒルガブの腕に頬をくっつけてみたりしながら歩く二人は、クリスマスにひしめく空気の中、ほのぼのとした空気をまといながら歩き進む。 そうしてやがて、七夏の部屋の前で足を止めた。 心もちヒルガブの手に力がこもったような気がした。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>七夏(cdst7984)ヒルガブ(cnwz4867)=========
ターミナルの演出だろうか。天候の変化のないはずの空のどこかからちらちらと雪のようなものが舞い降ってきた。 振り向けば、数歩離れた先にヒルガブが立っているのが見えた。慌てて傍へ駆け戻る。その顔を仰ぎ見て笑みを交わし、するりと指を重ねた。そのまま身丈の差異のあるその顔を覗き込もうとすると、必然的に指だけでなく腕までもが絡み合う。――頬が紅潮したような気がして、七夏はふと視線を逸らした。 ――そんなやり取りを思い出しながら、七夏はゆっくりと名残惜しげにヒルガブを離れ、部屋のドアに触れた。ゆっくりと回しながら、自室の中の状態を思い返しす。――掃除も片付けも日ごろからある程度は手を入れている。見られて慌てるようなものは転がしていないはずだ。 「七夏さん?」 ヒルガブの声がして、七夏の触覚がぴんと伸びた。 「なんでもないわ! 部屋の片付けとか出来てたかなって考えただけで」 もごもごとしながらも正直に口に出してしまった。顔面が紅潮する。身体を密着させて、いつもよりも顔を近くに合わせたときの感情の波を思い出した。ヒルガブはほんの一瞬だけ驚いたような顔をして、それからすぐにくしゃりと笑う。――この表情も、一緒に過ごす時間の中で、もう何度も目にしてきた。何度見ても心が跳ねる。 ヒルガブの顔を仰ぎ見て、視線と視線とを重ね合わせた。七夏もまた知らずふにゃりとした笑みが浮かぶ。 「どうぞ、ヒルガブさん」 言いながらドアを押し開けた。慣れ親しんだ空気が外気に触れて流れる。 「……緊張しますね」 独り言のように呟きながら部屋の中に踏み入ったその背を見つめ、ドアノブにさげた札を検める。 営業外であることを報せるためのclosedの文字が、風で静かに揺れていた。そうしておけば、来客がチャイムを押すこともなく、誰に邪魔をされることもない。 札はclosedのまま、こっそり、そっとドアを閉めた。 ドアを開けて玄関をくぐり、短めの廊下が伸びる床を歩く。工房を訪れたお客様のために用意していたスリッパが役に立った。スリッパが床をぺたぺたと鳴らす音がやけに響く。肩越しにちらりと振り向くと、ヒルガブが部屋のドアや壁を興味深そうに見回していた。 「ヒルガブさん」 声をかける。ヒルガブはすぐに気がついて七夏の顔を見つめ、少し気恥ずかしげに目をすがめた。 「すみません。……女性の部屋という場所にお邪魔するのは初めてで」 「え? そうなの?」 「ええ」 七夏の驚きに小さくうなずいて、ヒルガブは頭をかく。 「そうですね……女性司書の執務室へなら何度か」 執務室は司書ごとに振られた自室という扱いにはなっているし、中には執務室にあれこれと運び込んで居住の場にしてしまっている司書も少なくはない。ゆえに、司書同士でそれぞれの執務室を行き来することは多々あること。 「そういうものなの?」 訊ねた七夏に、ヒルガブはこくこくと数度ほどうなずき、それから再びふわりと頬をゆるませた。 「……ちょっと照れますね」 笑みを浮かべるヒルガブに、七夏もまたふわりとした笑みを返した。 「いらっしゃい、ヒルガブさん」 最初に案内をしたのは工房だった。 ソーイング台の上に置かれた、アンティーク型の足踏みミシン。使いこまれてはいるが丁寧な手入れが届いているのが容易に想像できる。糸くずや布の端切れは椅子のすぐ横に置いたゴミ箱や小さな箱の中に収められていた。糸くずはさておき、端切れはパッチワーク等で活用できるのだと話す七夏に、ヒルガブは感心したように何度もうなずく。 「立派なミシンですね」 触れてもいいのかどうか分からず、そわそわとミシンを眺めているヒルガブの横で、七夏は口を開いた。 「ターミナルに来た頃、中古で買ったの。だからだいぶ古いミシンなんだけど、厚手のものもすいすい縫ってくれる働き者だったのよ」 ミシンを指先で撫でながら言う。手に馴染んだ感触。ほんのりとした温もりすら感じられる。 「でも最近はちょっと調子が」 「あまりよくない?」 小さくうなずいた。 「いろいろ見てはみたんだけど、特にここの動きが悪くなったからっていうんじゃないみたいで」 続けながらミシンを撫でる。――陽だまりに座り安穏とした笑みを浮かべる老婆の姿が浮かんだ。 「もうそろそろ世代交代だ、って、分かったのかしら」 名残惜しむようにもう一度指先でミシンを撫でた後、七夏はヒルガブを振り向き笑みを浮かべる。 「布の保管棚とか、糸もすごくいろいろあるのよ。服をかけておくマネキンも」 言ってミシンを後にした七夏の背を見つめた後、ヒルガブはもう一度ミシンに目を向けた。それから、今度はそっと指を伸べてミシンの肌に触れる。 「ヒルガブさん」 司書の名を呼ぶ七夏の声がした。見れば七夏が布を収めた棚の戸を開けてこちらを見ていた。 「すごい」 ヒルガブもまたゆっくりと指を離し、感嘆しつつミシンを離れた。 仕切り板によって細かく区切られた中にたくさんの布がしまわれている。列ごとに類別しているのだと簡単に説明した後、七夏は鮮やかな青で染められた布を手にしてヒルガブの肩に掛けてみた。 「草木染めのものなの。壱番世界によく行く人から買ったんだけど、ラピスラズリみたいな色がすごくキレイよね」 言いながら布とヒルガブの顔とを何度か見比べる。 「うん、やっぱりヒルガブさんに合うわ。ヒルガブさんはオリエントな感じがするから、壱番世界の中東って辺りで売られてたっていうこの布もしっくりくるんじゃないかなって思ってたの」 「中東ですか」 大きくうなずき、目を輝かせながら、七夏はヒルガブを仰ぐ。 「工房が新しくなったら、一番にヒルガブさんの洋服を作るわね」 満面の笑みで言って、ヒルガブに掛けた布を大切に折りたたみ、棚の中に収納した。 「楽しみだ」 ヒルガブの声が返される。肩越しに振り向いて視線を重ね、七夏もまた大きなうなずきを見せた。 それからもしばらく布の披露をし、糸の種類の話を続けた。慣れ親しんだ工房の中、七夏はくるくると楽しげに動き回る。きっと目を閉じたままでも歩き回れるのかもしれないほどに、そこは七夏を構成する一部となっていた。 そうして一通りの案内を終えた後、七夏は小さな息を吐く。――工房の中の案内は済んだ。あとは七夏が生活する自室スペースへの案内だけ。 工房の奥にあるカーテンに手を伸べる。ヒルガブに背を向ける格好だから七夏の顔に浮かぶ表情までは見えていないだろう。……けれど、やはり緊張はする。 「この奥が私の部屋」 平静を保とうとしながら振り向く。目が合い、触覚が跳ねた。ヒルガブは常と変わらない笑みを浮かべている。 「……ケーキ、ここで食べてく?」 工房に来る途中で買ったクリスマスケーキを思い出した。 「ぜひ」 ヒルガブが返す。 七夏の触覚がぴょこりと跳ねた。 カーテンの奥にあるのは七夏の自室。 アイボリーの壁紙、白と森のような深い緑を基調とした家具類やロールカーテン。家具類は必要最低限に収めているようで少なく、決して広くはないスペースを無駄なく広めに使っていた。 フローリングの床の上には手織りと思しき平織りのラグが敷かれ、部屋の隅には寝心地のよさそうなベッドが置かれている。 間接照明のやわらかな光が部屋の隅まで届き、照らしていた。 「お茶いれてくるわ。座ってて」 ヒルガブをテーブルに案内して、小さな台所に立つ。ヒルガブはコーヒーを好んで飲んでいる。その影響で、気がつけばコーヒーを淹れるための簡易的な道具なら揃ってしまっていた。 ドリップされるコーヒーの香りが部屋中を満たす。 「運びます」 気がつけば、すぐ後ろにヒルガブが立っていた。七夏はわずかに驚き触覚をぴょこりと躍らせたが、すぐにふにゃりと笑ってトレイを用意する。ソーサーにのせたコーヒーカップとピッチャーにいれたミルク、角砂糖をいれた小皿、コーヒースプーン。それをテーブルに運ぶヒルガブを追うように、小皿にうつしたケーキとフォークをのせたトレイを手に、七夏もまたいそいそとテーブルに向かった。 椅子ではなく、ラグの上に置いた木製のテーブル。洋酒を染みこませたケーキにはふわふわのホイップと真っ赤なイチゴが飾られていた。甘すぎず、コーヒーにもよく合うケーキを口に運びながら、何と言うことのない会話に花を咲かせる。旅先で見てきたいろいろなもの。最近だとヴォロスで珍しい体験もしてきた。その話をすると、ヒルガブは興味深げに目を輝かせ、七夏の話に耳を寄せた。 ロストメモリーは基本的には0世界より外に出ることはない。依頼を渡し、旅人たちをいろいろな場所へ送り出しはしているが、やはり外の世界への興味はあるのだろう。だから七夏は目にしてきたものの様々を話すのだ。目にした風景、人々、服装や建物、文化。色彩や食事。そんなものを。 そうして楽しくケーキを食べ終えて、テーブルを片付けた後、七夏は思い出したようにベッド脇へ行って紙袋をひとつ持ってきた。 「ヒルガブさん。これ」 差し伸べた袋は、少し驚いたような顔をしたヒルガブが受け取る。そうして袋を開けて中を確認した後、表情は一変、満面の喜色へ変わった。 「これ、七夏さんが編んでくれたんですか!?」 手にしたそれは手編みのマフラー。アイボリーを基調とした中に、深い緑や青といった色彩が散りばめられている。 「あんまり捻りのないデザインなんだけど……あっ、でも、端にスムールの柄を編みこんでみたの」 言いながらヒルガブの横に身を近付けて、マフラーの端を手にとって見せた。有翼の黒い蛇がワンポイント織り込まれている。 「かわいいですね」 七夏の手の中にあるスムールの柄を、七夏の手ごと手にとって嬉しそうに目をすがめたヒルガブに、七夏は静かに頬を緩めた。 「……ねぇ、ヒルガブさん」 名を口にした。 ヒルガブの目が七夏を見る。 ――心が跳ね上がりすぎてどうにかなるのでは、と思っていた。けれど、不思議と心は静かだ。触れているヒルガブの手に目を落とし、そのままヒルガブの腕に頬を寄せる。 「私、昔からいつも自信がなかったの。むしろそれが普通なんだと思ってた……思い込んでいたわ。でもヒルガブさんを好きになって、楽しい事が沢山あって、……でも私にはやっぱり向いてないのかな、って悩んでしまうこともあった」 そんなこと、と口にするヒルガブの声を、七夏は視線を持ち上げることで留める。 「……でも、それを含めて、自信を持って楽しいと思えたの。ここが居場所なんだって思えた」 視線が重なる。ヒルガブは静かに七夏の言葉の先を待っていた。 「だから私、あなたの傍で生きていきたい」 そう続け、そのままゆっくりとヒルガブの首に触れる。 「……七夏さ」 七夏の名を口にするヒルガブの声は、七夏の唇によってふさがれた。 「私の全てをあげるわ。……だから、ヒルガブさんの全てを貰っても……いい?」 重ねた唇を離し、けれどすぐにまた重ね合わせられる距離まで顔を寄せたまま、七夏は静かにそう告げた。――それはヒルガブからの求婚に対する七夏の応え。 ヒルガブの手が七夏の頭を引き寄せる。貪るように何度も唇を重ね、互いの呼気が小さく乱れた頃にようやく離れて七夏の目を覗き込んだ。 「……愛しています、……七夏さん」 ヒルガブの呟きが落とされる。同時に七夏の身体がふわりと宙に浮いた。ヒルガブに抱き上げられたのだと知ったのは、そのすぐ後のこと。ベッドの上で下ろされ、それからすぐにまた唇を重ねる。呼気が跳ねる。指を背にまわして強く抱いた。 森を襲った水の荒ぶる音はただただ恐ろしいばかりのものだった。けれど今、七夏の耳に触れる水の音は恐ろしいものではない。ヒルガブの指が七夏に触れるたびに七夏の身体は水の中に包まれていく。 森のざわめきが聴こえる。心を撫でる懐かしい声だ。何度も何度も繰り返しさざめくその音に、七夏も何度も何度も浮かされながら返し続ける。 森を覆う水の音がひときわ大きく響いた。――そうして、ゆっくりと、安寧の白が視界のすべてを覆う。 「……私を選んでくれたことに感謝します」 ヒルガブの声が耳をくすぐった。腕に抱かれたまま、七夏はふわりと笑う。 「私を選んでくれてありがとう……ヒルガブさん」
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