クリエイター櫻井文規(wogu2578)
管理番号1156-26401 オファー日2013-11-23(土) 22:09

オファーPC ジャック・ハート(cbzs7269)ツーリスト 男 24歳 ハートのジャック

<ノベル>

 まるで何かの呼気の律に合わせてでもいるかのようなリズムで、波が壁を打って飛沫を散らす。けれどもそれは海原に広がる青々とした色とは異なる、鮮やかな黄緑色をたたえた水だ。
 その水が打つのは肉色のどろりとした壁だ。所々が脈打つように蠢いているようにも見える。その壁を目指して空間を跳ねる。足先が水面に触れて、火傷を負った時のような熱を覚えた。表情が苦痛に歪む。思い出したように指を鳴らした。シャボン玉にも似たものが全身を覆い包み、彼は初めてそこで安堵の息をひとつ深々と吐き出した。
 自分の名前など、もはや薄い記憶の中にある。仮に今その名を問われても、彼はそれを正しく迷いなく答える事は出来ないだろう。自分がなぜ、自分を取り囲むこの球を――サイコシールドを張る事が出来るのかさえも分からない。故に、それを現出させるための合図として、彼は指を鳴らす事を定めた。
 サイコシールドを張り、そのまま肉の壁へ近寄る。シールドの一面が壁に触れた、その場所だけシールドの解除を施した。息が跳ねる。呼気は乱れ、全身は汗でじっとりと湿っていた。褐色色の肌に張り付く髪の色は青銀色。半ば正気を失いつつある眼光は紫色に染まり、流れ落ちる汗を振り落とすように強く瞬きを繰り返す。口角が歪み、持ち上がる。粘つく壁面に片手を据えた。愛しいものの肌に指先を這わせるように、ゆっくりと指を滑らせる。
 
 自分が何故この場にいるのかも分からない。忘れてしまったという言い回しのほうが正しいだろうか。――ともかくも、どういう道程を踏んで己が今ここにいるのか、その経緯などすでに失っていた。
 広がるのは触れれば溶ける死の海だ。強い酸で出来たそれは、時には薄黄色に染まり、時には今のように黄緑色へと変化する。波にも似た揺らめきは月の引導によるものではなく、生物の呼気の律に合わせたもののようで、時に正しく律を刻みもすれば、思い出したようにその律を乱し大きくざわめく時もあるのだ。
 どれだけの時間、この場に留まっているのか。それすらも分からない。記憶は刻一刻と薄らいでいく。初めの内は自分の名も、ここに至った経緯も目的も、全てを理解していたのかもしれない。思い出そうとしても見当もつかない。やがて考えるだけ無駄だとさえ思い至るようになった。――その後には思い出そうとする事をも忘れてしまった。
 失われていくのは自意識や記憶ばかりではない。感情も思考するという事も、何もかもが少しずつこぼれ落ちて失われていくのだ。それらが失われていく理由や律さえも理解出来ない。それでも根底に深く刻まれているのは深い深い焦燥にも似た激情だった。
 ――こんな場所で死んでたまるか
「くそっ」
 粘つく肉の壁を殴り、唾を吐く。息が跳ね上がる。汗で全身が冷えていく。
 触れていた指先に力をこめた。正気を失った獣が獲物に向けて爪を剥くように。その爪が獲物を捕らえ、引き裂き、微塵に千切り喰らうかのように、口角を吊り上げ歪んだ笑みさえ浮かべて。
 放ったのは満力を込めた電撃。幾筋もの撃を放ち、カマイタチのごとくに無尽の刃と変じさせて壁を完膚なきまでに切り裂いた。
 笑みが浮かぶ。何の確証もなかったが、この壁を裂けばこの場より外へ通じる出口へと通じるはずだ、と。漠然とした確信が頭のどこかにあったのだ。
 ――が、確信は次の瞬間には無様な惨劇へと転じる。
 切り裂いた壁の奥にあったのは出口などではなかった。広がっていたのはやはり黄緑色の酸の海。海水が幾筋もの流れとなってシールドの中に降りかかり、顔面と腕とを直撃した。
「がああぁぁっ!」
 悲鳴ともつかない苦痛がもれてこぼれた。喩えようのない激痛が全身を巡る。急ぎシールドを解き、身体が海に落下する前に再び新たなシールドを張る。指を鳴らそうとして、その指が酸に溶けかけているのを気付くまでも瞬きの間。新たに張ったシャボン玉のようなシールドの中で、彼は喘ぎにも似た息で喉を枯らした。短い安堵で呼気を整えようとして、――次いで彼は顔面を見舞うえげつない程の熱に声を張り上げる。
 髪を伝い流れる汗が、酸を浴びて溶けた顔面の肉を襲う。拭おうとして肉を擦ればやはり灼熱のような痛みが彼の喉を裂き潰さんばかりにほとばしった。
「く そ、がああぁぁっ……!」
 当て所のない怒りを全身を巡り続ける激痛と共に噛み砕き、彼はねめつけるようにしながら周りをあらためた。
 裂けた肉壁からは強酸の海水が滝のようにあふれ出ている。壁はわずかに揺らいだかのようにも見えたが、その揺らぎも程なくして静まった。――彼の周りには再び皮肉なまでの静寂が訪れたのだ。
 
 己の中からあらゆる記憶が薄くなっているような気がする。名前も、出自も、もはや己の中には残滓すらも残ってはいない。けれど自分が今死の海にいて、文字通り死に瀕している事だけは確実に理解出来ている。忍び寄る死の嘲笑から己の身を護るための手段として、サイコシールドを張り続け、カマイタチや電撃で壁を裂き道を拓くというものだけが残されていた。もはやどういうカラクリによるものなのかも知れないが、どうやら己には再生能力というものも備わっているらしい。故に酸を浴びて溶けた手や顔面も、時を経れば再生されていく。――しかし
 しかし、もしも仮にこの能力の使い方すら全て忘れてしまったら?
 シールドという鎧の張り方を忘れれば、己の身は強酸に対し無防備なものとなってしまうのだ。再生能力も追いつかず、いずれ必ず死の底へと絡め取られてしまうに違いない。
 強い焦燥が彼を突き立てる。
 呼気が跳ねる。汗なのかも知れぬもので湿った髪をかき混ぜて、彼は大きくかぶりを振った。

 思い出せない。
 名前などもはやこだわるものではない。
 どうしてこんな場所に来たのか。ここで何をしようとしていたのか。
 何を望み、何を欲し、何を得たいと渇望していたのか。――何もかもがもはや消失の彼方に掠れている。
 それでも、薄れていく記憶の端に、願うように焼き付けているものがある。
 大事な人たちがいたはずだ。己の瑣末な命などよりも大事な何かが確実にあったはずなのだ。
 ――では、問いかけますが
 耳の奥、少女の声が細く消えそうな律をもって響く。彼は思わず顔を上げた。声の主などいるわけもない。
 ――何故あなたは、自身の体を傷つけてでも、他人を助けようとするのです?
 思い出す傍から消失の波に飲まれていきそうになる少女の声に、彼はわずかに口角を緩めた。少女の名ももう思い出せない。けれど記憶の隅に浮かぶのは、顔面の上半分をマスクで覆い隠した少女の姿。その怜悧な眼差しばかりが何故かやけに色濃く鮮やかに、彼の記憶を真っ直ぐに射抜いてくるのだ。
 ――少女の問いかけに、己は何と返しただろうか。あるいは、今ならば何と返せるのだろうか。
 少女は己の帰りを待っているのだろうか。己と少女が果たしてどんな繋がりにあったのかすらも分からない。けれど少なくとも彼にとってはかけがえのない存在であったに違いないのだ。それだけは確信をもって言える。
 立ち上がり、黒い死神のそれにも似たマントのフードを目深にかぶりながら、静かに席を立っていく少女。その口元が動き、言葉を紡ぐ。その声を思い出そうとして――聞き取ろうと試みて、気がつけば彼は消失していく誰かの幻影を掴み取ろうとしていたかのように、片手を強く伸べていた。
 指先は宙を泳ぐ。何をも掴む事も出来ないままに、彼は伸ばした腕に己の視線をふつりと落とした。
 伸ばした手。何を掴もうとしていたのだろう。思い出す事も出来ず、彼は深い息を吐く。
 そうだ、己には大事な人たちがいたはずなのだ。命にかえても護りたいと願う誰かが、何よりも強く願う使命が、帰りたいと渇望する場所が。その全てがもはや消失の彼方に砕かれてしまっている今ですら、その強い気持ちばかりが彼の行動を支え続けているのだ。
 沸き立つ焦燥、向けどころもない強い怒り、忘れてしまった忘れえぬ願い。――それでも彼は思う。諦念だけは抱いてはならないのだ、と。何もかもを忘れ活力すらも手放し、足元に広がる死の海に溶かされて無様に死んでいく事だけは。――それだけは、決して。
 渦を巻くあらゆる感情に身を任せるように、彼は強力な電撃を纏い、放った。酸の海が割れ、強く大きな波を起こす。四方を囲う肉の壁のあらゆる場所が引き裂かれ、その向こうに広がる海が滝を描いて水脈を描く。割れた海面は大きな波と共に元の姿へと戻り、増していく海水は洪水のごとくに荒れ狂い、彼の四方を取り囲む。
 彼は己を取り囲み迫り来る死の海の色を眺め、紫色の眼光を細く細く歪め上げた。口元には酷薄な笑みが薄く浮かび、張り巡らせたシャボンのようなシールドは押し迫る強酸の水を跳ね返しては不穏な水流の音を彼の耳へと響かせる。
 
 ――人と共に生きろというのならば

 ふつり。水流の音にまぎれ、少女の声が記憶の隅に浮かんだ。彼は眉を跳ねあげる。
 ――まずはご自身はどうされたいのか、教えていただけますか?
 少女の声が問いかける。
 彼は自分の頭を軽く押さえ込み、浮かんでは消える記憶の声に心を馳せた。
 己がどうしたいのか
 ――どうしたかったのか。
 ああ、そうだ。
 わずかに浮かんだ記憶の名残に、彼の表情は知らずわずかに緩やかなものと変わる。
 何と答えたらいいものか、と。深く深く、何度もそう考えていたはずだ。
「なァ」
 応えるもののいない場所で、彼は息を落とす。
「俺を殺していいのは」
 思う端から消えていく記憶。それでも、形となした言葉を留める事はしない。
「殺されてやってもいいのは、」
 続け、目を伏せる。
 水流の音は風に揺れる森の梢が鳴らすそれに似ているような気がした。もはや思い出す事もない、どこか懐かしい風景。けれど浮かべればその度に記憶は端から失われていく。
 彼は唇を噛みしめた。破られた皮膚から噴き出た血液が、口中を鉄錆びた臭いで満たしていく。手の甲で拭い捨てて、彼は閉じていた眼を再び広げた。
 再び身に纏う電撃。水が弾かれて飛ぶ。
「俺は帰る」
 放ったカマイタチが世界を削る。波は強さを増し、強酸の海は怒号をもって彼を囲む。
「絶対にだッ!!」
 叫びに続き、胃が何かを押し上げて枯れた喉を通り、シールドの中に吐寫された。血液の塊。――能力の使いすぎによるオーバーヒートが、彼の身体の内面をも蝕んでいたのだ。
 死の嘲笑はもう背中のすぐ後ろにまで迫っているのだろう。己の吐寫物を踏みつけながら彼は笑う。

 ――世界はやがて彼から全てを消し去るだろう。

クリエイターコメントお届けが遅くなってしまいましたこと、まずはお詫びいたします。それでも、本当に、本当に大好きなジャック様の最後の場面をわたしに描かせてくださいましたこと、心よりお礼申し上げます。

ノベルはどういった仕様にまとめようかと、本当にいろいろと悩みましたし考えました。本当に、色々と。
その上で結局、淡々とした描写をさせていただくに留めることといたしました。

あとは、そうですね……
わたしの思うところは、タイトルとキャッチとノベルそのもの、すべてにこめさせていただいております。

何度も申し上げます。わたしはジャック様が本当に好きでしたし、好きです。
なので、いずれまたどこかでご縁をいただけますこと、心よりお待ちしております。
公開日時2014-02-06(木) 21:10

 

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