黒嶋憂が司書室を訪ねたとき、無名の司書は、もう泣いてはいなかった。「わーー? 憂たんが来てくれるなんて珍しい。いらっしゃいー!」 朗らかに微笑んで、今日はどうしたの、と問う司書に、憂は口ごもる。「あの……。ラファエルさんとシオンさんの、迷宮の……」「そっか。憂たんも気にしてくれてたのよね。……ありがとね」 司書はふっと笑い、淹れたばかりのコーヒーをカップに注ぐ。「《比翼の迷宮》に行くには、その周りに発生した迷宮群を消さなくちゃならなくて……、でもね、たくさんのひとが現地に行ってくれたの。……だからね」 だからきっと、路は開かれる。 そう信じてる。「あの……!」 しかし憂は、胸の上でぎゅっと指を組む。「憂も……、憂も……、少しでもお役に立ちたいのです。こうして待っているだけなのは、とても歯がゆくて」「……ん。そうだね。……そうだよね」 無名の司書は、おもむろに『導きの書』を開く。「霊峰ブロッケンで発生した《比翼の迷宮》や、その周囲の迷宮群は、女王オディールが入手した世界計の欠片の影響に由来するものらしいのね。けれど、フライジングはもともと、《迷卵》が孵化することにより《迷宮》が発生する世界なわけで」 ヴァイエン候領の西、《風待ちの森》―― ここで迷宮が生まれるというのが、司書の予言だった。 ぽつり、と。 孤独に。 氷の洋館に似た迷宮が出現するのだと。 その最奥には、可憐な鸚鵡の少女がいるのだと。 そこに誰かが入ったなら。 そのこころの内にひそむ、善も悪も哀しみも憎しみも喜びも、つらく残酷な過去もきらめくような想い出も、幻影として返ってくるのだと。 そして、それに囚われたら最後。 永遠に凍り付いてしまうのだと―― 「……そうねぇ、あまり攻撃的ではない迷鳥だし、戦闘力も大したことないんで、憂たんひとりでも討伐は可能だと思うのよね。でも憂たんは、この子を助けたいんじゃないかな? どう?」 こっくりと、憂は頷いた。「……じゃあ、この鸚鵡を卵に戻してあげることを考えてくれると、うれしいかな。……あ、そうそう」 迷宮が収束したのち、《風待ちの森》を抜ければ視界が開け、《花のかわせみ亭》のあたたかな佇まいが見えるという。「結果がどうでも憂たんは頑張ってくれたんだから、帰還前にちょっと息抜きしてくるといいよー。収穫祭のとき来てたリンダさんが、歓迎してくれると思うから」 =========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>黒嶋 憂(cdfz2799)=========
ACT.1■木霊――Echo 足を踏み入れた瞬間、刃のような冷気が憂の身体に吹きつけてきた。 (来ないで) (来ないで) (私に近づかないで) (私に近づかないで) 吹雪かと思ったが、そうではない。しんと透明であるのに、激しい烈風だった。 とても目を開けていられず、といって閉じてしまえば前に進むこともかなわず、憂は右手をかざしながら歩き出す。 いんいんと反響する、哀しい思念。つと手を伸ばし、触れてみた氷の迷宮の壁は、痛いほどに冷たい。まるで誰かの心の傷を、そうと気づかず抉ってしまったときのように。 (行かなければ) (憂は行かなければ) (貴女に会いに行かなければ) 迷宮は入り組んでいて、二叉路にも三叉路にも分かれている。どこをどう行けば最短距離であるのかはわからない。それでもこうして、手を壁に添わせたまま進んだなら、いつかは目的の場所に着くはずだ。 切り揃えた前髪が吹き散らされる。後ろでひとまとめにしていた長い黒髪は、湿気を吸ってずしりと重くなった。 白い指先が赤くなり、徐々に紫に変わり、やがて感覚が薄れ始めるころ―― 海の底にも似た、蒼い空間に辿り着いた。 ステンドグラスのような虹彩が、ゆらゆらと揺らめく下で、鸚鵡の少女は膝を抱え、顔を埋めている。 「こんにちは。私は黒嶋憂と言います」 「こんにち……は。わたしは、くろしまゆうといいます」 「貴女の名前を教えてください」 「あなたのなまえをおしえてください」 「……そうですか。お名前をお持ちではないのですね」 「そうですか。おなまえをおもちではないのですね」 少女は顔を上げようともしない。憂を見ようともしない。 ただ、憂のかけた言葉を木霊のように繰り返すだけだ。 「貴女を見ていると、子どものころを思い出します」 「あなたをみていると、こどものころをおもいだします」 憂は、暗世(くらきよ)の住人と、明世(あかきよ)の住人の混血として生まれた。暗世と明世は、文化も言語も異なっていたため、接触は禁忌とされてきた経緯がある。それでも近年、交流が試みられ、憂の両親のように子を成すものも出てくるようになった。 しかし、ふたつの地域の相互理解は難しく、諍いは未だ絶えない。大名の娘であり、かつ、双方の言葉に堪能であった憂は、物心ついたときから、交渉の場において双方のことばを伝える、いわば通事の役割を担ってきた。 だが、交渉ごとにはつねに政治的思惑が絡む。双方の思惑を汲んで適切な表現に翻訳するには、相当の世間知が必要だ。 憂はただ、素直に直訳してきた。その内容は間違っていなかったのだが、文化の違い、価値観の違いがあまりにも直裁に伝わったため、それは相手への批判と受け止められた。 ――どうもこうも、まつりごとがこじれてしまう。姫ぎみを責めるつもりはございませぬが、本当に、我々の言葉は先方に通じているのでしょうかな? ――私は、ちゃんと……。 ――なにぶんにもまだお若い通事どのであらせられます。いささかの思い込みや歪曲がなされてもいたしかたないところではあれど。 ――私は、ちゃんと、伝えました。 ――ならば何故、先方様はあのようにお怒りになって席を立たれたのですか。姫ぎみは本当は、我々の諍いをおさめるつもりはないのでは? ――そんな……。 やがて憂は、「話すこと」を極力、避けるようになった。 手話を覚え、筆談を多用した。 自分の言葉が他者に与える影響がおそろしく、声を出すことすらも忌避した。 ゆっくりながら、自分の口で話せるようになったのは、覚醒してからのことなのだ。 (この子には自分がない。他者の思いや言葉ばかりを借りる。だからこの子は、鸚鵡返しをしてしまう) 「貴女は、自分がないことが、他人に対する最大の拒絶になっているのです」 「あなたは、じぶんがないことが、たにんにたいするさいだいのきょぜつになっているのです」 「……本当の自分を表に出すことに迷いがあるから」 「ほんとうのじぶんをおもてにだすことにまよいがあるから」 「だから、己の言葉で己を語れない」 「だから、おのれのことばでおのれをかたれない」 「……。……」 「……。……?」 憂は口ごもる。そんな生き方を背負ってしまった迷鳥が、可哀想で仕方がないのだ。 救いたい。 けれど、どうすればよいのだろう。 こんな袋小路に、誰も迷いたくて迷い込んだりはしないものを。 ACT.2■言葉――Feeling 「これは、貴女の国でも私の国でもない世界に伝わる神話です」 「これは、あなたのくにでもわたしのくにでも」 「……しばらく、復唱しないで聞いてください」 鸚鵡の口もとに人差し指を当て、憂は語る。 それは、ターミナルで聞いた、壱番世界のギリシャ神話における逸話だ。 「アルカディア地方に、パーンという神がいました。パーンは、エコーという森の妖精に恋をしました。エコーは、歌や踊り、楽器の演奏が巧みな妖精でした」 「……」 「ですが、エコーはパーンの求愛を断りました。パーンは恋多き男性であり、エコーは性愛に対して潔癖だったのです」 「……」 「パーンは逆上し、彼女を殺しました」 「……!?」 「かねてより、彼女の音楽的才能に嫉妬していたこともあったのでしょう。配下の羊飼いや山羊飼いたちを狂わせて、エコーを襲わせ、彼女を八つ裂きにしたのです」 「……。そんな。ひどい」 ――ようやく。 鸚鵡の口から、木霊ではない言葉が漏れた。 憂は微笑んで、先を続ける。 「ばらばらになったのは、彼女の身体というよりは、彼女の『歌』の『節』とも言われています。大地の女神ガイアはエコーの身体を隠しましたが、『歌の節』は残りました。だからパーンが笛を吹くと、どこからともなく歌の節が、木霊となって聞こえてくるのだとか」 「……」 「けれどそれは、パーンだけの横暴でしょうか? ……本当にエコーには、何の非もなかったのでしょうか?」 「……え?」 「性愛を忌避したいのであれば、そう伝えれば良かった。まったく価値観の違う相手に、自分の価値観を理解してもらおうと思ったら、言葉で伝えなければならないと思うのです。何も言わず、伝えるべく努力もせず、ただ『私の気持ちを踏みにじらないで』という拒絶の態度だけを、エコーは取ってしまった」 「……それは、いけないことなの?」 「自身への理解を求め、自身を尊重してほしいのなら、相手への理解と尊重は必須だと思います。八つ裂きは残酷過ぎる仕打ちだとは思いますが」 怪訝な顔で、ぱち、ぱち、と、鸚鵡の少女はまばたきをする。 鮮やかな新緑のような瞳のいろだ。 「神話はこれでおしまい。今度は、私のことをお教えしますね」 ACT.3■唯――Only-One 「故郷を離れ、違う世界に来て、ようやく自分の言葉で話すことができるようになったのに、それでも心はいつも、障子の向こうにあるようでした」 ――本心が言えない。 いや、言っているつもりだけれども、うまく伝えられない。 ラファエルにも、ヘルウェンディにもだ。 こんなことを言ったら、気を悪くしないだろうか。 自分のことを、嫌いになったりしたらどうしよう。 いつも、どこかしら気を遣い、顔色を窺っていたような気がする。 おそらくは、それが壁になっていたのだろうけれど。 「幼いころ、沢山の拒絶を受けました。同じものをまた、ひとから返されるのが怖かったのです」 「……」 「……でもそれは、ひとを信用していないのと同じだった」 「……」 「今まで知らなかった気持ちがあります。……それが好き、ということでした」 「……好き?」 「はい。私、ラファエルという殿方が好きなんです」 「……よくわからない」 「きっと、そのうちにわかります。だから、貴女のことも教えてください」 「……私の、こと……?」 「何でもかまいませんよ。憂はすべて受け止めます。貴女の好きなものはなんですか?」 「……よくわからない」 「では……、そうですね。もし、貴女に名前をつけるとしたら、どんな名がいいですか?」 「……よくわからない」 「たとえばですが、唯(ゆい)という名は如何ですか?」 「ゆい……?」 「唯一という意味の、私の母の名前です」 「……よくわからない。……でも」 ゆうのことは、「すき」かもしれない。 鸚鵡の少女が、ささやかな好意のことばを口にしたとき―― 蒼い空間の中央に、小さな卵がころん、と、転がった。 ACT.4■翼―― Flying-Freising 「おやおや。いらっしゃい。寒かったでしょう?」 柔らかな毛布に卵を包み、《花のかわせみ亭》を訪ねた憂を、女主人は抱きかかえるようにして出迎えた。無垢のテーブルのうえに、温かなスープが置かれる。 憂は礼を延べ、事情を説明する。リンダにはおおよそのことは把握できているようだった。 付けたばかりの名を伝えると、卵に笑みを投げかけ、「わかった、唯ちゃんね」と頷く。 「リンダさま。憂は……、いつかこの世界で唯の親になりたいのです」 決意に満ちた目で、憂はきっぱりと言い切った。 「ですので、それまで保護者になってくださるかたを探すことは可能でしょうか」 「わかったわ。ここで引き取ってもいいんだけども、わたしが仮親だとがさつな娘になっちゃうからねぇ」 そうだ、と、リンダは手を打つ。 「収穫祭のときの教会を覚えている? あそこの司教さまなら、安心して預けることができると思うわよ」 「はい……!」 憂は卵をそっと抱き直す。 この足で、『白鳥』の司教、ヴィルヘルム・レヴィンに託すために。 ほっと息をついた彼女の頭上には、フライジングの真理数が点滅していた。 ――Fin.
このライターへメールを送る