それは寒い寒い雪の日。 この国の貴族の娘ソフィーアは、吊り橋の下を流れる川のそばで人を待った。(はっ……眠ってしまっていたわ。いけないいけない。きちんとお待ちしないと) 遠くへ引っ張られかけた意識を引き戻し、時折上を向いては吊り橋を渡る人が、崖のそばにある隠れた道を降りてくる人がいないか確かめて。 こんな雪の日にこんなところに来るなんて、余程の物好きか切羽詰まった人しかいないと知っているから。 ソフィーアは後者だった。このままでは恋人のユリアンと強制的に離れ離れにされ、別の所に嫁がされてしまうのだ。 元々許されぬ恋だった。二人の父親は国を二分する大派閥のトップである。互いに因縁もあり、家同士に続く確執もある。それはこの、吊り橋のかかった断崖のよう。 だからふたりとも隠れて逢瀬を重ねていたというのに、どこからか父親達に伝わってしまったのだ。 侍女や部下たちのつてで何とか短い文をやりとりし、駆け落ちを決めた。その待ち合わせ場所がここ、吊り橋の下の川のそば。 誰もこんなところまで二人が降りるとは思わないだろうから、絶好の場所だった。『問題ない』 心配するソフィーヤにユリアンは短く、だが力強い筆跡でそう返してきた。だからソフィーヤも心を決めた。 約束の時間の前に待ち合わせ場所についたけれど、あれからどれくらい経ったのだろうか。 毛皮の帽子と毛皮のケープをつけてきたけれど、流石に吹雪が強くなってくれば寒さを凌ぎきれない。帽子から流れる金髪も、寒さで凍りそうだ。 雪はどんどんひどくなって、このままでは手を伸ばした先すら見えなくなりそうだ。 彼はまだこない。 まだ……。 不安がどんどん大きくなる。「ユリアン……」 彼はこないのではないか、一瞬でも疑ってしまった。そんな自分を恥じて、ソフィーヤは胸元につけた石のついたブローチを抱きしめるようにした。(ごめんなさい、ユリアン) ユリアンから貰ったそのブローチは、他のどの宝石とも違った変わった色をしていて、ソフィーヤは宝物として大切にしていたのだ。「ユリアン」 返事がないのをわかっていて、白い息を吐きながら呟いたそのとき。『ソフィーヤ』「!?」 声が、聞こえた。 彼女がそれを聞き逃すはず、間違えるはずはなくて。まごうこと無きユリアンの声。 雪が降る中ふわりと現れたユリアンはソフィーアを抱きしめて――。「ユリアン? ユリアンっ!?」 掻き消えた。 残されたソフィーアは呆然としながらもユリアンの名を呼ぶ。だが、いらえはない。 けれどもあれは、ユリアンだった、ソフィーアは確信している。 たった一瞬の抱擁だったけれど……。「最期に、会いに来てくれたのね?」 冷えきった頬に温かい涙が伝う。「今、あなたのもとに行くから――」 ザバンッ……手を祈りの形に組み、ソフィーヤはひどく冷たい川に身を投げた。 けれども水は全然冷たく感じなかった。 もう、何も感じない――。 ブローチから光が溢れ、ソフィーヤを包む。 そして姫君は、つかの間の眠りから、また目覚めるのである。 *-*-*「っていう話がヴォロスのとある地方に伝わっててね。このユリアンって男性は、待ち合わせの場所に行く途中でソフィーヤの父の手の者にかかって殺されてしまったんだって。いくら武術に長けてても、多勢に無勢。抵抗すればソフィーヤを殺すって嘘で脅されもしたんだって」 ターミナルの一室。集まったロストナンバーたちに世界司書の紫上緋穂はヴォロスのとある地方に伝わる伝承を語って聞かせた。これが依頼と関係があるのだろうか?「実際に、竜刻の影響で一年中吹雪いている谷があるんだよ。吊り橋がかかってて、近くの崖から降りられるような足場はあるらしいんだけど、危ないからめったに人は近寄らないんだ」 そこは元々国があり、その領土の一部だったがその国も、とうの昔に滅んだとか何とか。「ところでなんでそんな話を?」 一人のロストナンバーが問いかけると、緋穂は笑った。「依頼に関係あるからに決まってるじゃん!」 まあそれはそうなんだろうけど。皆は本題に入るのを待っているわけで。「で、その吹雪は竜刻の仕業だってわかったんだ。しかも暴走しかかっているの」 だから回収して封印のタグを貼って欲しいということらしい。「ただ、問題があって」「問題?」「吹雪の中にソフィーヤがいるんだ」「はぁ?」 ロストナンバー達が首を傾げるのも無理は無い。ソフィーヤというのは伝承の、たとえ実際に存在したといってもかなり昔に川に身を投げて亡くなった貴族の姫君ではないのか。「竜刻の力が、彼女に死を繰り返させているみたいなの。駆け落ちの待ち合わせ場所で寒さに凍えて待ち続けて、漸くユリアンが現れたと思ったら消えてしまう。それでユリアンが命を落としてことを知ってしまい、悲観して川に飛び込む――その後は、いつの間にか待ち合わせ場所で待っている、の繰り返し」 しかも彼女自身は自分が死を繰り返していることに、何十年も、もしかしたら何百年も待っていることに気がついていないという。「彼女がユリアンからもらったブローチが竜刻なんだ。でもそろそろ危ない。暴走しそうなの」 極端な話、もしそこで竜刻が暴走したとしても地形が多少変わる程度だろう。人がめったに近づかない場所なのだから、被害はそのくらいで済むはずだ。くわえて吹雪も止まる。「でも、もしかして暴走した時に近くに人が来ているかもしれない。長年降り積もった雪が雪崩になって、どこか別の場所を巻き込むかもしれない」 緋穂は言い募る。ひとつでも多くの『もしかして』を積み重ねて、ロストナンバー達を動く気にさせようとしているように見えた。「何より……ソフィーヤさんをちゃんと眠らせてあげたい、そう思ってくれる人はいないかなぁ?」 泣きそうな顔で、緋穂はロストナンバー達を見つめた。======※このシナリオは、ナラゴニア襲来以前の出来事として扱います。======
ヴォロスの駅に降りると、涼やかな風が一同を撫で上げた。風は時々ひんやりとしてはいるが、まだ吹雪く季節ではないのは誰もが肌で感じていた。 「私とポッケちゃんはまず近隣住民の所へ行くけれど」 「では、私もお供してよろしいでしょうか?」 行きのロストレイル内でまずは近隣住民を訪ねることとその理由をを宣言していた脇坂 一人。 (絶望の時を繰り返すなど、むごい話です。むごすぎます) 冥府で死者を見続けてきた身としては、愛する人と生きる事を望みながら殺されたユリアンの前で、ソフィーヤに自ら死を選んで欲しくない――そう考える樹菓はソフィーヤが生きる手助けとなるならばと、一人との同行を選んだ。 「万が一そっちが駄目だった時の策は俺が準備してある。そこは安心していいゼ」 ジャック・ハートは出発前からソフィーヤの受け入れ先を考えていた。 『悪ィ、ちょっと準備させてくれ。エミリエ! テメェメリンダと連絡取りあってたナ。今度俺が行く場所からダスティンクルまでどれだけかかるか聞いてくれ。それと人を1人頼みたいッてナ』 ダスティンクルの未亡人にソフィーヤを頼むべく手配をしていたのだ。 だが一人は出来れば彼女が生まれ育ったこの地で、彼女には再出発して欲しいと願っていた。 彼女にとってどちらがいいのかは一概には言えない。 もしかしたら死を選ぶのが彼女にとって一番いいのかもしれない。 ずっと支えてはやれないのだから、無責任に頑張れと言えない。死を選ぶ事も覚悟する。最終判断は彼女に任せたい。彼女にとって良い道を選んでくれれば、と思う。 それを聞いてジャックは条件付きで譲った。まず選択肢が多いのは彼女にとって良いことだから、現在のこの地で暮らすのも悪くないと思う。ただ、彼女が死を選ぶというならば、無理矢理にでもダスティンクルに連れていく。 生きていて欲しい、から。 (氏族の為なら腹の中の赤子さえ殺した。今でも目的の為なら嘘もつける、人も殺せる。それでも関係ない人間を助けたいと思う俺は、ただの偽善者なんだろう) ジャックは自分で自分のことをよくわかっている。それでも、偽善だとわかっていても、見捨てられないのだ。自分の中に芽生えたその心境の変化に戸惑っているのは、誰よりもジャック自身なのではないか。 「……」 三人がそんな会話を交している中、ただ一人黙したまま問題の谷の方角を確認している姿があった。コタロ・ムラタナだ。 緋穂の頼みに根負けして依頼を受諾した彼は、ロストレイル車中の会話にも軽く名乗る程度しか加わらず、ずっと何かを考えるように窓の外を見ていた。 彼の胸中に複雑な思いが渦巻いていることなど、誰が気づいていただろうか。 そんな彼が、黙ったままスタスタと歩き出したことに最初に気がついたのはジャックだった。 「おい、おまえ! 待て!」 声を掛けたがしかし、コタロは足を緩めない。彼の心には今、ひとつの目的とひとつの嫌悪しか無いのだから。 「チッ……嫌な予感がするから俺はあいつを追いかけるゼ。そっちは任せた。なるべく早く合流してくれ」 「わかったわ」 一人と樹菓に言い置き、ジャックは開いてしまったコタロとの距離を瞬間移動で詰める。 「さあ、行きましょう?」 一人は樹菓を促し、近隣住民の住居を目指した。 *-*-* 運良く数分歩いたところで近隣住民らしき姿を見つけることが出来た一人と樹菓は、迷わずに声を掛けた。そして住居の場所を聞いてみれば、吹雪の谷に意外と近いところにその村はあった。 「こんな近くに村があったら、万が一竜刻が暴走したら……」 「巻き込まれちゃう可能性もあるわね。巻き込まれずに済んでも、雪崩に襲われる可能性は高いわ」 「……」 樹菓の言葉に冷静に言葉を返す一人。だがそうはさせないからという思いが二人の心の中にはある。 「急ぎましょう」 二人は足早に村へと入り、目的の情報収集をはじめる。 まずは伝承となっている二人の話を知っているかを聞き込み、伝承に詳しい古老に行き着くことが出来た。前町長の奥方が今も存命で、町の中では一番の長寿だというのだ。 庭の木の下に置かれた椅子でまどろんでいた奥方に申し訳ないと思いつつも声をかける。その睡眠を妨げてでも急がなければならないのだ。 「お休みの所申し訳ありません」 樹菓がそう優しく声をかけると、奥方はゆっくりと瞳を開け、ユリアンとソフィーヤの伝承について聞きに来たと一人が告げれば、目を細めてその伝承を語ってくれた。内容は緋穂が語ったものはほとんど同じだった。 「その伝承、一般的に伝わっているものの別パターンや、ユリアンが何か遺したとか、そういう異伝的なことを知りたいの」 「若いのに伝承に興味があるとは感心じゃのう」 奥方は細めた目のまま何度か頷いて。最近の子供は嫌がって話を聞いてくれないと嘆いた。村内からも吹雪を嫌悪する声が上がっているのだという。吹雪さえなければ、あの山に入って食料を確保できるのにということだとか。何年かに一度、凶作の年にはそんな声が上がるのだとか。 「そうですか……それで、あの、ユリアンさんの」 「ああ、そうじゃったな。わしがババ様のババ様ババ様から伝えられて聞いた話では、ユリアンとソフィーヤが逢瀬に使っていた山小屋があったそうじゃ。さすがに今は建物はもうないがの、建物のあった場所の床下の土の中に何かをしまったという日記が見つかっておるのじゃよ。日記自体が見つかった時にはもうだいぶ時代が過ぎていてな、その山小屋のあった場所がわからなくなってしまったのじゃ」 樹菓の控えめな催促に、奥方は流れるように語ってくれた。今は殆ど語り聞かせる相手がいなくて寂しいのかもしれない。 「その日記ってどこにあるのかしら?」 「さあのぅ……だいぶ前の話じゃからのう」 さすがに日記自体の在り処はわからないという。だが。 「ソフィーヤさんならきっと、山小屋の場所を覚えてますよね?」 「ええ、たぶんね」 こそっと囁き合い、二人は奥方に向き直った。そして膝をつくようにして本題とも言える内容にはいる。 「お願いがあります。私達があの吹雪を止めてみせますから、ひとつ私達の願いを聞いてはもらえませんか?」 いつもの口調をやめて敬語で語りかける一人の姿は真摯なもので、奥方は目を見張って言葉の続きを待った。 「あのおかしな吹雪が竜刻の影響であることはご存知かと思います。私たちはその竜刻を止めに来ました」 「信じられないかも知れませんが、あの吹雪の中でソフィーヤさんはずっと、竜刻に生かされているのです」 「……! なんとっ!?」 一人と樹菓の言葉に奥方は椅子から転がり落ちそうになった。それを二人は両側から支えて。 「私達は彼女も救いたいと考えています。けれども私たちは旅から旅の身、時代に取り残された彼女にそんな生活は酷と考えます。ですから、彼女が今の時代を知り、自立できるようになるまででいいんです。彼女をこの村に置いてもらえませんか?」 必死で言い募る一人。ずっと支えてやれないことは重々承知だ。その上で彼女を活かしたいと考えることは無責任かもしれない。でも、けれども……彼女が少しでも生きる意志を持ってくれたのなら何とかしてやりたいから。そのための下準備は整えておきたい。 「にわかには信じられぬ話じゃが……吹雪が止まるというならわしらには願ってもない話。山の恵を頂く事が出来れば、娘っ子一人くらい養えるじゃろう……よし」 奥方は椅子から立ち上がり、一人と樹菓を見て。 「村長と村の者にはわしから話そう。これでも村長の母親じゃからな」 「! ありがとうございます……!」 「ただし」 奥方は喜びに瞳を輝かせた樹菓を一旦制して言葉を続ける。 「本当に吹雪を止められたらの話じゃ。わかったな?」 「勿論です。ありがとうございます」 立ち上がり、一人も樹菓も深々と頭を下げた。 早々に谷に向かい、このことを伝えなくては。 二人は自分達が根回しをしている間、谷で何が起こっているのか全く知らなかった――。 *-*-* 「……」 「……、……」 コタロは黙々と歩く。後ろからついてきているジャックがなにか言いたそうにしているのをわかっていながら(実際色々声を掛けられたが答えなかったら、彼は黙ってしまった。きっと睨まれているに違いない)、コタロは一心に吹雪の谷を目指す。 (……『ちゃんと』眠らせる? ……どうやって? 彼女の恋人は既に死に、蘇りはしないのに) 緋穂の熱意に根負けしたものの、彼女の言葉の矛盾に不快感が隠せなくて。だがこれは緋穂に対する不快感でも、ソフィーヤに対する不快感でもない。 ユリアン――名を呼ぶのも厭なほど、彼に対する不快感が募っておさまろうとしない。 (……安易な約束をし、無駄な希望を抱かせた挙句勝手に死んだ男……) 来ると言っておきながら結局来ず、中途半端な幻を遣わせ……彼女に悲劇を自覚させた。 (……これを男の勝手と言わずしてなんと呼ぶ) コタロの心中はユリアンへの嫌悪感に満ちている。溢れんほどの嫌悪感と憤り。 それは――図らずも似ているから。似すぎているから吐き捨てたいほど厭で厭で厭で――。 自然に身についた習慣で立てないようにしていた足音が、雪踏をみしめる音に変わる。露出している顔に触れる空気が一段と冷え込み、雪がちらついてくる。後ろからついてくる足音はジャックのものだろう。 『目的』を持ったコタロは揺らがない、振り返らない。目的に向かって歩むのみ。 この嫌悪感を払拭し、すべてを終わらせる方法をコタロは自分なりに見出していた。心中複雑でないはずはない。けれどもこれも任務だと思えば冷徹にもなれる。 吹雪が、酷くなってきた。 ジャックが自分を警戒しているのがわかる。当然だろう、何も話さずに単独行動をしてきたのだから。 彼ら三人はソフィーヤを生かすつもりらしい。だが、コタロだけは違った。だから、コタロは何も話さずに目的遂行のためにひとり、谷に向かう。 降り積もった雪に足を取られぬよう、吹雪に視界を奪われぬよう、進む、進む、進む。 足元の雪はだんだんと厚くなり、しばらく行くと壁にぶち当たった。否、竜刻の影響なのか、吹雪が壁のように立ちふさがっているのだ。 「こりゃあ覚悟して入らないとまずそうだナ……ってオイ!!」 立ち止まって吹雪の壁を見上げたジャックの言葉も耳に通さず、コタロはためらうことなく吹雪の中へ身をを投じた。素早く視線を走らせ、吊り橋と下に降りる横道とやらの位置を確認する。そして、横道を慎重に降り、ソフィーヤの姿を確認できるところまで進む。 視界は悪い。だが不思議にも谷に降り立ってしまえば上ほどは吹雪いていなかった。谷の中はソフィーヤにとっての『あの日』を描いているのだろう。 (……あれか) 崖の壁に寄りかかるようにして横座りで眠っている女性。こんな場所には似合わないその姿。 それを見つけたコタロはボウガンを構え――まず、狙うは足。 (……恋人の父親の手先だとでも思ってくれれば……僥倖だ) シュンッ!! シュンッ!! 冷たい空気と降りしきる雪を切り裂いて、ボウガンから魔法の矢が飛ぶ。 「きゃああっ!?」 悲鳴が、聞こえた。手応えはあった。チラリと向けた視線で彼女が足を抑えているのを確認した。だが、手足を狙って動けなくさせてからペンダントを奪い、竜刻を封印してから殺害するという目論見はそこで阻止された。 「おい、コタロ! 何考えてやがる!」 ぐいっと力強く腕を引かれたかと思うと、一瞬にして風景が変わった。目の前に吹雪の壁がある。ということは崖の上だ。 「……どういうつもりか説明しやがれ」 ジャックが鋭い眼光でコタロを睨みつけ、掴んだ腕をギリギリと締め付けている。 「ちょっと! なにがあったの!?」 「喧嘩は駄目ですよ!」 そこへ防寒具を着込んだ一人と樹菓が追いついてきた。二人にしてみれば、追いついたら二人が不穏な雰囲気で、なにがなんだかわからないだろう。 「コイツがソフィーヤの足を攻撃しやがったンだよ」 「「!」」 二人が息を呑み、コタロを見つめる。ジャックが瞬間移動でコタロを連れださなければ、彼は自分の定めた任務を遂行していただろう。冷徹に。 コタロは視線を逸らしたまま、どちらかと言えばソフィーヤを生かす考え寄りの三人に、聞こえるか聞こえないかの声で呟く。 「……彼女に事実を知らせても……辛苦を長引かせるだけだ……。それとも……いつか来る幸せとやらを……夢見させて……延命させるのか……?」 コタロの心のなかを荒らしているのは、表現しがたい感情。傍から見れは冷静な判断力を欠いているのは明らかだというのに、本人はそれに気がついていない。けれども。 「……それこそ彼らへの冒涜……その程度で忘れられるような感情ならば……最初から諦めているはずだ……」 その一言は的を射ていて、三人は反論の言葉を見つけられなかった。 ソフィーヤとユリアンは、なぜ命をかけようとした? 命をかけられるほどの想いがあったからではないか。 コタロはユリアンに嫌悪を抱いている。けれども二人が育んできた想いまで否定しようというのではない。 彼が嫌悪を抱くのにも理由がある。あまりにも似ているのだ――過去の己と。 中途半端な情報のみを与え、そのくせ明確な言葉を口にせず、相手を残し姿を消した。 嘗ての友が死を選んだとは思わない。けれどあの時の己の行動は彼女を苦しめた。或いは今も苦しめているだろう。 自分の身勝手さ、それ故相手へもたらした苦しみは想像に難くない。だからこそ、コタロはユリアンが勝手にしか見えない。 (それに翻弄されるくらいなら) ただの悲劇で――。 決して口には出さない。けれども心の内で暴れる想いが、己の過去と重ねられた光景が、コタロから判断力を奪う。 勿論、そんな事他の三人にわかるはずもなく。今のコタロはどう映っただろうか。 ただの冷淡な人物に映っているだろうか――否。 理由はわからずとも何らかの原因で冷静さを欠いてしまっていることと、二人の想いを大切に思っていることは伝わったはずだ。だから。 「それでも俺は、助けたいと思う」 ジャックとて、今まで色々なものを背負ってきただろう。色々と決断を下さねばならぬ辛い場面にも遭遇しただろう。それでも、何とか自分の出来る手段で彼女を助けたいと思っている。 「私は……冥府で死者を見続けてきた身としては、愛する人と生きる事を望みながら殺されたユリアンさんの前で、ソフィーヤさんに自ら死を選んで戴きたくありません」 生きたい、生きたいと、未練を遺した者達の集う場で生きてきた樹菓は、ユリアンの残した未練の辛さを想像する。 約束を守れなかった辛さ、彼女を守れない辛さ、彼女を一人にする辛さ、自分の死で人々を悲しませる辛さ――だからこれ以上、彼を苦しめたくないと。 「私は、全て話した上で彼女に選ばせるつもりよ」 その中で少し違う意見を述べたのは、一人。 心から解放してやりたいと思う。これが罰だとしたら、度が過ぎる。彼女は十分苦しんだのだから。 けれどもそこから先は別だ。ずっと支えてやることができない以上、無責任に頑張れとはいえない。死を選ぶことが彼女にとって、一番なのだったら……その覚悟はできている。 「私達が助けたい、生きて欲しいと思っても、彼女にその意志がなかったら、竜刻の代わりに今度は私達が彼女を苦しめることになるのよ」 「「!!!」」 一人の静かな言葉が広がりゆく。彼女を一方的に殺すのも、一方的に生かすのも、自分達の我儘でしか無い――言われてみればそのとおり、それはエゴだ。 「……すまない」 最初に謝ったのは意外にもコタロだった。それ以上何も言わないが、一人の言葉に響くものがあったのだろう。 「とりあえずソフィーヤのところに行くか」 「……そうですね」 ジャックも樹菓も思うところがあったのだろう、頷いて。そして四人、滑らないようにゆっくりと坂道を降りていく。 コタロが狙撃した後も筋書き通りの時間を辿ったのだろうか、彼女は何事もなかったかのように寄りかかり、静かに眠っていた。 樹菓がトラベルギアである杖を振るう。するとどうしたことだろう、ソフィーヤを取り巻いていた吹雪が彼女から離れ、別の方向へと流れていくではないか。樹菓のトラベルギア『導きの杖』は人や物やエネルギーの移動方向を誘導・制御できるのである。 「あら……少し吹雪がおさまったみたい」 目を覚ましたソフィーヤの声が聞こえる。樹菓はそっと胸をなでおろした。凍えるソフィーヤを何とかしてあげたかったのだ。それは一人も同じで、彼はセクタンのポッケにカイロを持たせる。 「ポッケちゃん、お願いね」 ポッケは頷くように首を巡らせ、飛び立つ。セクタンを先に生かせるのは彼女を観察する為でもあり、人よりは警戒されないだろうとの思いもあった。 「あら、鳥さん? 寒くはないの? あら、これ、くれるの?」 ポッケの瞳を通して見るソフィーヤは、まだあどけなさを残しているようにも見える。それでもひとりの男性を愛する立派なひとりの女性であるのだ。 「あったかい……鳥さんもいらっしゃい」 カイロに頬を寄せて、ポッケを抱きしめて。ソフィーヤは暖を取りながらユリアンを待つ。と、ジャックが動いた。 「誰!? ユリアン?」 人影を認めて、ソフィーヤが誰何の声を上げる。吹雪の向こうの人影を、じっとみつめる。しかしその表情が安堵に染まることはなく。 「……誰?」 むしろ恐怖と緊張でこわばった。しかしジャックはいつもの調子で彼女に声をかける。 「アンタも幽霊見物か? この橋ァ幽霊が出るって噂だしナ」 「……幽霊? そんな噂知らないわ」 変なことを言うのね、ソフィーヤはふいとジャックから視線を逸らし、ポッケを抱き直した。 「……じゃあ、あれは何だ?」 『ソフィーヤ』 「えっ……」 ジャックが指さした方向を思わず見るソフィーヤ。そこには淡く光った人の姿が……それが誰であるか、彼女自身が一番良く知っているはずだ。 「ユリアン!」 彼女は立ち上がり、駆ける。腕から放り出されたポッケがばさばさと羽音を立てて何とか着地した。ユリアンはソフィーヤを受け止め、そのまま抱きしめる。 「……」 コタロは一人と樹菓の後ろで、苦い気持ちでその光景を見ていた。もう口も手も出さないと納得したものの、やはりどこかにある嫌悪はそう簡単には消えそうにない。 ユリアンの影が薄くなっていく――。 「消えさせません……!」 樹菓が飛び出し、ギアを振るう。その力でユリアンをソフィーアに向かわせ続ける。消えさせはしない! 「ユリアン、は……」 薄くなっていったユリアンの姿。今は樹菓の力でとどまっているが、本人が実体で現れたのだったらその身体が薄くなるわけはなく。足音も気配もせずに現れるはずはなく。温もりを感じられぬその抱擁が、否が応にもソフィーヤに現実を理解させる。 「お気づきの通り、ユリアンさんは亡くなられました」 「!」 びくっ。樹菓の静かな言葉にソフィーヤの肩が震える。 「ですが今、ユリアンさんは死してなおあなたを思い、おいでになったのです。そんな方があなたの死を望まれるでしょうか?」 「なんで、私の考えたこと、が……」 ソフィーヤは呆然と樹菓を見て、そしてユリアンを見て。彼が悲しそうな顔をしているのはなぜだろうと考える。彼女の質問には答えず、樹菓は続けた。 「あなたが今までお待ちになっていた様に、ユリアンさんも、きっとあなたを待っていて下さいますよ。いかがですか、ユリアンさん?」 おそらく魂だけのような存在になったであろうユリアン。それに話しかける樹菓の姿は、まさに冥府の役人そのものだ。 (実際には、ヴォロスで亡くなった方の魂が何処に行くのか、寡聞にして私は存じ上げません。ですが、いつか何らかの形で再びお会いになれると、信じたいのです) 樹菓の気持ちに応えるように、時間をくれた彼女の気持ちに応えるように、ユリアンは悲しげな表情のまま頷いた。けれどもソフィーヤは……。 「ユリアンが悲しそうなのは、私のせいなのね……、……でも、私、ユリアンがいないのに生きているなんて……」 「死ぬンじゃねェ!俺たちァユリアンの代わりにアンタを助けに来たンだヨ」 「話を聞いて。その後でしたいようにして」 力が抜けたように雪の上に座り込むソフィーヤ。身体はそのまま川へ向かって傾いでしまいそうだ。 ぐいっ。引き止めたのはジャックと一人の手。 「助けに来たって……ユリアンを生き返らせるなんて無理でしょう?」 瞳にこぼれんばかりの涙をためたソフィーヤの言葉。諦めて、そしてすべてを拒絶しようとしている彼女を説得することはできるのか。 絶望にも似た小さな気持ちが心の中を駆ける。けれども諦めない。 「よく聞けヨ。ペンダントつけてたよナ?」 「え、ええ……」 ジャックの問いにソフィーヤが震える手でペンダントを取り出すと、その中心にすえられた竜刻が光を帯びている。暴走の前兆だ。 「その石はただの石じゃねェ。竜刻だ。その竜刻の所為でアンタは生きたまま死ぬ1日を何十年も繰返してる。そのアンタにユリアンが会いに来るのは愛してるからだけじゃねェ、生きてほしいからだ! 後追いして欲しくて来る男なンざ居ねェンだヨ!」 「!!」 ジャックの必死の訴えは語気こそ荒いが怒っているわけではない。心からソフィーヤを案じているからだ。それは傍から見ていても伝わるのだから、言葉をかけられている彼女に伝わらぬはずはない。 「もう誰も貴女達を追わないの」 一人が優しい言葉でゆっくりと話す。既に国はないこと、沢山の時間が経ってしまっていること、望むなら、現代で世話をしてくれる人がいること。 「無目的にただ生きろとは申しません。ユリアンさんとの思い出を物語にしてはいかがでしょう?」 「物語だなんて……」 「お二人の悲恋は今も伝えられている様子。そこでならきっと、あなたにしか書けない物語があります」 戸惑うソフィーヤに、樹菓はひとつの生き方を提案する。あくまでもこれは選択肢のひとつであり、必ず選ばなくてはいけないものではない。けれども彼女が『生』を選択するひとつのきっかけになってくれれば、と。 「時の過ぎた見知らぬ土地で、貧しく苦しい人生が待っていると思います。それでもどうか、ユリアンさんの分まで生きてください」 「……すまねェ、頼むから生きてくれ」 樹菓の切なる言葉。唇を噛み締めたジャック。それを遠巻きに見守るコタロ。 「最後の判断はあなた自身に任せるわ。貴女が死を選ぶことも覚悟してる。でも、生きてくれたら、とも思うの。私なら、私の分も生きて幸せになってほしい。生きて笑う相手が好きだから」 ソフィーヤはユリアンを見上げる。その拍子に溜まっていた涙がほろりと落ちたけれど、とっさにそれを拭いてあげようとしたユリアンの指はもう、彼女の肌を這うことはできない。悲しそうな表情を、更に強めてユリアンは再び頷いた。 「最期にユリアンが手を取るのではなく抱きしめたのは、そういう想いからじゃないかと思うの。想像だけどね。」 それに、と一人は自分の防寒着を彼女にかけてやり。 「お腹の赤ちゃんのことも考えてあげて」 「「「!?」」」」 「眠くなるのは寒さのせいだけじゃないでしょう?」 「なん、で……」 答えはYESだ。彼女の反応を見れば明らかである。これには想像もしていなかったジャックや樹菓、コタロも驚いて。 「だとしたら早く吹雪を止めねぇとナ」 「……心は決まりましたか?」 樹菓に問われ、ソフィーヤは固く目を閉じ――ゆっくりと開く。 「ユリアン、私……生きてもいい? あなたにそっくりのこの子と一緒に、生きてもいい?」 その問いにNOと答えるものがいるはずもなく。ユリアンは初めて笑顔を見せ……そしてそっと彼女の唇に、触れられないとわかってても唇を落とした。 「愛してるわ。また、逢いましょう?」 ソフィーヤの瞳から再び涙が、溢れる。樹菓はそっと、ギアの力を止めた。ユリアンは微笑み、慈しみの瞳を彼女に向けながら、消えていく。 ぽとり……ペンダントトップを止めていた鎖が外れ、トップが雪へと落ちた。静かに近づいたコタロがそれを拾い、封印のタグを張る。 ――吹雪が、止んだ。 *-*-* ソフィーヤに案内され、逢瀬を重ねていた山小屋のあった場所へと移動する。そこには山小屋はなく、草が茂っていて、建物の影もない。彼女は時の流れを実感したようで、酷く驚き怯えたようだった。 だがこれくらいで驚いていていてはいけないと、自身を奮い立たせることができる。それはユリアンだけではなく、ロストナンバー達の想いがあったからだろう。 手当たり次第掘り返して見つかったのは、古ぼけて錆びついた箱。何とかこじ開けてみれば、かろうじて形が残っている布のようなものが入っている。それは、ふっと撫でた風によってパラパラと形を失っていく。 「……赤ちゃん用の服だったわ」 ユリアンったら、と呟く彼女の瞳にまた涙がたまる。 「中にまだ何かあるゼ」 ジャックがそっと服だったものをどけると、下から出てきたのは――小さな絵姿。黄ばんではいるがこちらは丈夫なキャンパスを使っているからだろう、形を保っている。 「ユリアンさんとソフィーヤさんと……」 「赤ちゃんね」 樹菓と一人の言う通り、椅子に座ったソフィーヤが乳飲み子を抱いていて、その後ろにユリアンが立っている絵姿。彼はどんな思い出これを遺したのだろうか。 子供の誕生をとても楽しみにしていたからか、それとも、自分の命が危ないと肌で感じていたのか――。 今はもう、想像するしかできない。 ジャックに手渡された絵姿を胸に抱き、ソフィーアは泣き笑いを浮かべた。 「よかった……これで赤ちゃんにお父さんの姿を見せてあげられる」 誰も知っている人のいない地で、女手ひとつで子供を産み育てるのは想像よりも大変なことだ。 地位も名誉も財産もない、文字通りゼロからの生活。お嬢様育ちの彼女に務まるかはわからない。 けれども彼女は既に母親の顔をしている。 だからきっと……皆の願いを受けて、何事にも前向きに取り組んで行く事だろう。 たまに辛くなった時は、泣いてもいいから。 どうか、生きて――。 【了】
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