昏い、平衡感覚を失いそうな何も視えない闇の中を、只、歩いた。 耳障りな合唱が蟲の翅音のように幾つも重なって。うじゃうじゃと白い腕を伸ばして近付く様子が、背筋に伝わる。 尚臆する事なく闇を歩む琥珀の双眸に、突然現世にあるまじき光が映る。 眼の前に、悪霊が居る。神無は地を蹴ると同時、八双に諸手を引く。 切っ先が悪霊の喉元に届く刹那、眼の前には――神無の顔があった。 何度も鏡で見慣れた細い首にずぶりと刃先が食い込んで裂き、貫く感触を、実に心地良さそうに、愉しそうに、眼の前の神無は艶然と笑う。 「そん、な」 ――どうして。 神無は手を離して刮目し、息が止まり、後退った。 追い付いた亡者に後ろ髪を引っ張られ、肩を掴まれ、腕を、脚を、腰を、這いずるように無数の白い手が絡んで縋る。クルシイと。シニタクナイと。 『神無』 翅音の如き声に混じり、耳に馴染んだ甘美な響きが眼の前から聞こえた。 いつしか眼の前の顔はどこかで見た、大好きな――の顔になっていた。 神無は――の首を貫いたのだ。 「そんな、」 どうして。 『神無』 神無の震える悲鳴の間を縫うように、――は娘の名を繰り返した。 忌まわしい名を口にする度夥しい血を吐き、止め処なく血涙を流した。 ドウシテ。 耳元で亡者が囁いた。 『どうして』 眼の前で――が云った。 ――どうして。 神無は悪寒で眼が醒めた。 蒸し暑くて、それなのに身体は雨に打たれたように冷え切っていて。 寝汗に濡れたシャツが肌に張り付いて不快だった。 窓を振り向けば、外は未だ暗い。 夢を、思い出す。 刀身を伝って両手に伝わる、あの生々しい感触が蘇る。 あれは誰の、 「うっ」 猛烈な吐き気。 神無は堪らずに口を押さえてベッドを飛び出した。 神無は独りになってからも、以前と同様に退魔師業を続けた。 彼女にとって、今や瞳に映る総てのものが色褪せていて、退屈で、億劫で、孤独で、無価値で。無味な世界は神無の思考能力と感情を、心を乾かした。 空虚であるが故に波風たたぬ心の持ち主は、淡々と作業的に霊を排除した。 彼らの無念に耳を傾ける事も無く――。 洗面台に両手を突いて息を整える。 蛇口から止め処なく流れ出ては渦巻く水をぼんやりと眺めた。 このところ何も食べていなかったから少し不思議だなと、上辺で思った。 ――どうして。 顔を上げれば虚ろな面の女がこちらを見ていた。 神無が左頬の泣き黒子にそうっと触れると彼女は右頬に触れて、 口元を艶やかに歪めた。 それは幻視か、悪霊の仕業か――己の本性なのか。 神無は鏡から目を背けて、浴室へ向かった。 程無く、次の依頼が舞い込んできた。 廃村の民家に棲み着いた、人の精気を奪う悪霊を退治するというものだった。 木戸を開けた途端、塞ぎ込んで沈殿した空気がふわり、外へ逃れる。 肩を撫でて切り揃えた髪の毛先が舞い上がる。 ――居る。 微かな、死の、匂い。 神無は鞘を握る親指を開き、鍔を押す。鯉口から僅かに抜けたはばきが鳴って、手錠の鎖が後に続いた。そして神無の靴音が踏み込む。 次いで背後で木材がぶつかり合う音がした。 ――閉じ込められた。 帰り道を鎖す、霊の常套手段。 暫く様子を窺っていると、部屋の中央に、うっすらと影が染み出して。 浮かんだ。 暗くてもはっきり判る。男がこちらに背を向け、胡坐をかいて頭を垂れている。時折その肩が揺れて、ばし、ぱちん、と平手で木床を叩くような音がした。 そして、 『――お客さんか』 男は腰を下ろしたまま悠然と振り向く。 神無は抜刀して諸手上段より振り下ろし、絞る。それで総て終わる筈だった。 だが、 「……!」 やれやれと肩を竦める男の姿は朧に保たれたまま。手応えも無い。 神無は刃を返し斬り上げてみた。刀身は男を素通りして切先が天上に触れた。 退魔の験力が通用しない。 ――どうして。 腕組みをして様子を窺っていた男が、気は済んだかと暢気に訊ねてきた。 神無は何も答えず、一旦距離を置こうと後退る。 『とりあえず刀を振り回すのは止して欲しいな』 構え直したばかりの神無は、何だか訳が判らなくなった。 男に敵意はみられない。それどころか、神無の粗暴とも云える振る舞いに呆れる様は何年も付き合いのある友人の態度のようですらある。 何であれ、攻手は通じず退路も断たれた今、神無に為す術は無い。 『そう固くならなくていい』 退魔師の面から足元までをしげしげと値踏みするように見てから、男は云った。 『一晩付き合ってくれたら帰す』 「一晩……?」 無表情で一歩退く神無に、男は、に――と白い歯を見せた。 静かな寂かな襤褸屋敷、何かがすうっと擦れては、ぱたりぱたり、時にぴしゃりと響く。合間に男女の幽かな呼気と、呻きと喘ぎと溜飲と、そして――、 「……<勝負>」 控え目で著しく抑揚の失せた、掛け声と、 『カッ、”猪鹿蝶”か』 落胆交じりの悲鳴が、淡々と白けた場に打刻している。 男の提案で、今、二人は花札に興じていた。 現在は神無が優勢である。 男は引きが弱く、間が悪く、何にもまして勘が鈍い。更に、場札で取れるものが無い場合、何故か極めて高確率で神無が狙っている札を捨てる。 弱い――上辺の心に浮かんだ時、神無は軽い眩暈を覚えた。 きっと拒食のせい、結論付けて尚も勝負を続けるが、四本目を終えたところで、急に視界が傾き、激しい脱力感に襲われた。まるで精気が抜かれたような――、 ――精気? 少しぼやけた視界を真向かいに坐る男に合わせる。悪びれた様子も無い笑顔。 ――精気を奪う悪霊。 こいつの仕業。迂闊。安易に誘いに乗り、まんまと術中に嵌まった。 こんな事だから独りきりになってしまう。 ――どうして。 『どうしたお嬢さん。来た時から具合が悪そうだとは思ってたが』 「……え?」 いつから? いつから――そう云えばいつから自分はこうなのだろう。 そう云えばこの男の声、聞き覚えがある。誰? 幾許かの思考は、頭に血を巡らせる。 いつからか、もうずっと頭にたちこめた霞が、少しだけ晴れた気がした。 勝ち続けたのに精気を奪われた。 花札の弱い男。 つまり、 ――勝てば精気を奪われる。 負けるが勝ち。これはきっと、そういう戦い。 神無は床に突いた手を握り締め、崩した膝を揃え、居ずまいを正した。 「続けるわ」 心做しか声に弾みがつく。 『そう来ないとな。夜は長いんだ』 男は、美しい対戦相手のテンを切る様を、嬉しそうに眺めた。 神無は手札と場札の一致を徹底的に無視する事に腐心した。止むを得ず揃っても役から極力離れ、一方で男の獲得した札からは役を想定して、男を勝利へと導こうとした。 それでも、男は、手強かった。 先に述べたように、男は対戦相手に好都合な札ばかり捨てるのである。 結果、今回も不本意な事に神無は”三光”を揃える羽目になった。粘る事も出来るが、更にこちらが役を作ってしまったら面倒だ。やむを得ない。 「<勝負>……――うっ!」 息が辛くて汗ばんでいるのに寒い。昨夜を思い出させた。 『楽にしたらどうだ。息があがってるぞ』 元凶たる男が、神無を気遣う。本当に心配そうな真摯な色で。 だがそれにやり返す気も起きぬ程、身体の不調は心をも蝕む。 「……平気」 神無は刀を引き抜いて床に刺すと、柄頭にもたれて我が身を支えた。 じゃらりと励ますように鎖が鳴る。 男はそれに気付き、しげしげと手首を眺めて『なあ』と訊いて来た。 『なんだって手錠なんかしてるんだ?』 ――どうして? 罪を己に突きつける為。……罪? 罪ってなんだっただろう。 何故だかはっきりしない。男の顔と同じように。 「……覚えてない」 『ふうん、まあいいけどな。菖蒲に八つ橋ならぬ――菖蒲に手錠ってとこか』 男は風刺とも賛辞ともつかぬ言葉で、神無を花札になぞらえた。 神無は反応に困り、目を瞬かせた。 外の様子は藍色に白色が混じる。 十二本目。と云っても、既に三周目の十二本目である。 あれから一周目は神無が全勝し、二周目も勝ち越した。併し、徐々に男の癖が見えて来た神無は、その経験を最大限活用し、今回はどうにか一進一退の攻防を繰り広げ、得点が拮抗した状態で十二本目を迎える事ができた。 長い夜も、この勝負も、終わろうとしていた。 同時に神無の生命も、限界が近付きつつあった。 男が触れてもいない四十八枚の札がふわふわと切られ、均等に撒かれていく様を見ていた神無が、最早出すのも辛いか細い声を絞り出して、云った。 「どうして……こんな事を……?」 『ん』 男は薄に月、薄に雁を重ね、捲った山札から視線を移さずに耳を傾ける。 「貴方は何がしたいの? ……生きている人を、苦しめてまで」 生者をとり殺したければ、こんな回りくどい真似をしなくとも直接的に働き掛ければ事足りる。多くの悪霊は、そうして人々を己が同胞とする。 『お嬢さんこそ、どうして俺なんかの相手をする』 男は相変わらず場を見据えたまま、質問を質問で返した。 『俺を退治するなら、もっと巧い方法があった筈だ』 「それ、は、」 ――どうして? なんだか今しがた考えたのと同じような事を云われ、神無は混乱した。混乱はぎりぎりのところで繋ぎ留めていた判断力を鈍らせる。 小野道風に蛙と柳に燕を獲得し、それにすら気付かぬ程に。 「…………」 『…………』 互いに押し黙り、屋内には暫し札が重なり擦れる音だけが木霊した。 場札が減っては増え、増えては減って、やがて両者の元に十数枚の札が並んだ頃。 男の霊は、ぽつりと、云った。 『別に苦しめたい訳じゃない』 それまでは陽気で気さくな調子だったのに、今は何処か寂しそうに。 『ただ、勝ちたいんだ。一度でいいから』 だけど皆自分に勝とうとする。俺は弱いから負ける。それだけだ――男はそう結び、項垂れた。 当然だ。勝負に臨めば勝ちたくなるのは人の性。 でも、それは霊だって、この男だって同じ――そうだ、彼は、霊は人間と同じなのだ。霊が人を苦しめるのは、自らが苦しんでいるから。 ――だから、私は。 乱れた呼吸が嘘のように落ち着いた。 汗は引き、視界は明瞭で、頭が冴える。 「……貴方の番」 『あ? ああ……』 男は見目にも落ち込んだ様子で、随分控え目な所作で菊に短冊を捨てた。 ――まずい。 神無は眼を見開く。あれが残れば次巡で取らざるを得ない。そして取ったが最後、”青短”が出来てしまう。 一方で神無の手札は只の菊が二枚。 ここで残る一枚――菊に盃(化け札)――が出れば、男は”カス”と”月見で一杯”の役が出来る。 とは云え、山札も残り少ない状況で初めての役をこちらが揃えてしまったら、今の意気消沈した彼のこと、自ら投了しかねない。 それでは駄目。それでは彼を苦しみから解放してあげられない! 神無は己の生還も忘れ、先の問いに対する答えを、大切な事を思い出していた。 問題は、この場においては自分に為す術が無い事。祈り、見守るしかない。 男がそうっと頂上の一枚を角から摘む。 神無の柄を握る手に力がこもる。 男が札を翻し、神無はそれを凝視する。 「……」 『…………!』 「……続ける?」 神無はさっきと同じ問いを、けれどさっきよりも愛想良く、訊いた。 『……はは。はははははっ、もちろん――』 黄色と赤の花弁に寄り添う盃が、彼の手の内で勝利を寿いでいた。 『<勝負>だ!』 直後、神無は、どっと黴臭い床に倒れ込んだ。限界だった。 横になった視界をぼうっと見る。木戸の格子から規則正しい白光が差し込み、同じく格子から忍び込んだ朝靄がふわふわと空気に溶けていくのが鮮明に見える。 彼は、逝けただろうか。確かめようと、覚束ぬ視線を巡らせた。 その時。 ――神無はエライなあ。 横たわる神無の頭に、何かが乗った。 「え?」 それは、手だ。 無骨で大きくて、あたたかな、懐かしい、優しい、誰かの手。 間違えようが無い。間違える筈が無い。この気配を。声を。手を。 「おとうさ――」 振り向こうとして、すぐに無駄だと気付いた。 其処にはもう、誰も居なかった。 神無は、独りだった。 「……~~~~~~~~っ」 涙が、溢れた。 寂しくて、懐かしくて、嬉しくて、悲しくて。そして、やっぱり寂しくて。 声を出して、幼子のように泣きじゃくった。いつまでも。
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