イラスト/ minne(imzv3289)
ヴォロスの<駅>は霧深い谷に敷設されている。じっと目を凝らせば、濃密な霧の向こうに大きな遺跡群が垣間見えるだろう。過去に採掘し尽くされた場所だというが、冒険者の性なのか、テオドール・アンスランは興味を示した。 「少し見てきてもいいだろうか」 「ああ。気を付けて」 ロストレイルの発車まではまだ間がある。テオドールの申し出を同行者たちは快諾した。 霧の中を軽快に進む。地を蹴り、岩を足がかりにして、あっという間に遺跡へと到着した。乳色の霧の中、巨人のように林立する過去の遺物に感嘆の息が漏れた。 (凄いな。かつて何があったのか) 遺跡はいつだって寡黙だ。その身に抱く数多の物語を能弁に語ることはない。 ――テオドール。 スクリーンのような霧の中で、誰かに名前を呼ばれた気がした。 「テオドール」 柔らかなバリトンにうっすらと目を開くと、父の腕に抱かれていた。寝室で親を待つ間にうとうととしてしまったようだ。宿屋を切り盛りする両親は交代でテオドールを寝かしつけてくれる。父母のどちらが来てくれるのか、幼いテオドールは毎晩楽しみにしていた。 「遅くなって済まなかった。もう眠ろうか?」 岩のような手が三歳のテオドールの頭を撫でる。テオドールは小さく、しかし頑なにかぶりを振った。就寝前に父が聞かせてくれる物語も楽しみのひとつなのだ。 「無理をするな。話はいつでもできる」 「今日の話は今日がいい」 「そうだな」 深紅の瞳で大らかに笑い、父は軽々とテオドールを抱き上げた。 家業のかたわらで父が何をしているのか、幼いながらにうっすらと知ってはいた。父は学者の家系だという。寡黙で理性的な父が書物に向かう姿は息を呑むような威厳すら纏っていたし、豊富な知識と深い洞察に裏打ちされた物語はいつだって魅力的だった。しかし筋肉で盛り上がった肩や樽のような胸は学術や研究といった分野には似つかわしくないように思えた。 「今日の話はとっておきだぞ」 テオドールを抱いた腕をゆりかごのようにゆったりと揺らし、父は深く息を吸い込んだ。 「その身は鋼の如く光り輝き、気高く力強き咆哮は、空を大地を震わせる――」 丸太のような腕の中でテオドールは身震いした。詩でも吟ずるように朗々とした声、遠くを見つめる深紅の瞳。何より、父の声で紡がれる未知の単語にひどく惹きつけられた。 「鋼の竜だ。知っているか」 「ううん」 テオドールは期待と共に素直に首を横に振った。 「……そうだよな」 だが、父はほんの少し苦しそうに眉尻を下げるのだ。 「誰も知らない、聞いたこともない。伝説や伝承の中でさえも……な。実在するわけがないと言う人もいる」 「でも父さんは知ってるの?」 「見たんだよ。この目で」 「ふうん?」 テオドールは金色の瞳をぱちくりとさせ、その後でひたむきに微笑んだ。 「じゃあ、いるんでしょ?」 父が嘘をつくわけがない。父が見たと言うのなら実在するに決まっている。 父は答えない。唇の端にわずかな苦渋を滲ませ、右手でそっとテオドールの頭を撫でるばかりだ。テオドールは父の左手を見つめながらもう一度首を傾げた。 どういうわけだろう。大きな左手はきつく握り締められたままかすかに震えている。決して感情的にならない父であるのに。 しかしテオドールは三歳の子供にすぎなかった。鋼の竜という未知の物語を求める気持ちがまさった。 「もっと聞かせて」 父の右腕に手をかけ、身を乗り出して続きをせがむ。小さな指に、古く大きな傷跡が触れた。 「竜ははがねみたいなの? はがねなのに飛ぶの? すごく重いのに?」 「ああ。空を軽々と翔けるんだ。その身を躍らせ、蒸気の如く熱い吐息と共に」 無邪気に目を輝かせる息子に、父はわずかに表情を緩ませた。 「だが、誰もその存在を知らない。見たのは父さんだけだ」 「じゃあ、やっぱりいるんだよ」 「そういうわけにはいかない。父さんだけが見たのなら単なる幻や見間違いで片付けられる。ある物の実在を証明するには客観的な根拠が必要だ」 「きゃっかん?」 「ああ……済まない」 父は珍しく饒舌だった。テオドールの知らぬ難解な単語をうっかり使ってしまう程度には。 「要は、大勢の人を納得させなければいけないということだ。手っ取り早いのは多くの人の目に見せること。父さんはあちこちの遺跡を回って鋼の竜を追い求めた――」 武骨な指で右腕の傷跡を辿る。ちりちりと焦げ付くようなこの痛みは決して錯覚ではない筈だ。 文献に埋もれ、未開の遺跡を踏破しても竜の正体は分からなかった。それどころか、手掛かりすら皆無だったのだ。狂人と後ろ指を差されたことすらある。 歯痒かった。口惜しかった。だが、他者の目に映らぬ物は存在しないのと同義なのだ。 「痛そう。つらい?」 「……何?」 見透かされたような言葉にぎょっとする。見れば、テオドールが右腕の傷を撫でさすっているのだった。 「父さん、前は『ぼうけんしゃ』だったんだよね」 「ああ」 「怪我して辞めたの?」 「そうだよ」 現地調査は不可能になったものの、研究は今も続けている。この宿屋で冒険者の仕事を斡旋しているのも竜の情報に耳をそばだてたかったからなのかも知れない。 テオドールはひたと父を見上げた。 「『ぼうけんしゃ』になれば会える? 鋼の竜に」 「……それは」 一瞬、言葉を失った。不可思議な金の瞳に心を覗き込まれているような気さえした。 自らが辿った道が脳裏を駆け巡る。 「――強い心と望みを持て。何があっても悔やまぬように。どんなことにも負けないように」 やがて父は拳を固め、息子の小さな胸をとんと叩いた。 「そして努力するんだ。そうすれば結果はついてくる」 「うん。頑張る!」 テオドールは顔いっぱいで微笑み、眠りに就いた。 「……おやすみ、息子よ」 寝息が深くなり始めた頃合いを確認して父はテオドールの髪に口づけた。あどけない寝顔に、胸がちくりと痛む。息子はいつだって無邪気な笑顔とひたむきな信頼を向けてくれる。 だが、竜に会えると明言することはしない。かといって会えないと断じることもできなかった。父は今も竜の存在を愚直に信じている。それに、困難に立ち向かうという行為自体から得るものがある筈だ。 (……いいや。俺はただ) もしかすると、子を辛い目に遭わせたくないという平凡な親心が混じっていたのかも知れないが。 テオドールはすくすくと成長し、やがて家業の手伝いをするようになった。父母と一緒にくるくると働きながらも鋼の竜と冒険者への憧憬は日々膨らんでいくばかりだった。 「お前はまだ子供だ」 冒険者の心得を説きながら父は苦笑いするばかりだった。 「何事にも時機というものがある。旅立ちの時まで己を磨け」 テオドールは父の言いつけを守って鍛錬に励んだ。だが、斡旋所に訪れる冒険者たちの会話は耳目を惹いてやまなかった。 「ようテオドール、今日も手伝いか? ちっこいのに感心なこった」 「お待たせしました」 テオドールは馴染みの客にいつもの酒を運んだ。赤ら顔の客は「ありがとうよ」とグラスを受け取り、一気に飲み干した。 「おかわり、くれ」 「ペースが速すぎる」 もう少しゆっくり飲めと父が諭す。しかし客は興奮気味に鼻から息を吐き出した。 「呑まずにいられるか。見ろよ」 おぼつかない手つきで胸元をはだける。テオドールはぎょっとした。 着衣の下の胸板にはぐるぐると包帯が巻かれ、あまつさえ血が滲んでいるではないか。 「谷の外れの……ほら、あの霧がかかってる遺跡群でよ。見たこともねえ魔物に襲われてよ」 「あらあら。お酒はおよしになった方が」 母が救急箱を手に飛んでくる。客は母の手当てを受けながらも弁舌を止めようとはしなかった。 「体が長いのなんのって。おまけに鋼みてえに硬くてよ、全然歯が立ちやしねえ。ぐあーっと飛びかかってきやがってこのザマだ。怪我が治ったらぜってえ正体を突き止めてやる」 「どんな姿でしたか?」 知らず、テオドールは身を乗り出していた。 「うん? なんかこう……長くてよ。霧でよく見えなかったんだけどよ」 「テオドール、よしなさい。お怪我をしているのよ」 母にたしなめられ、テオドールは口をつぐんだ。 疲労に酒が効いたのか、客はすぐにいびきを掻いて寝入ってしまう。仕方なく、母とテオドールが部屋まで運んだ。 「母さん。俺、薪を取りに行ってくるよ。ストックがなくなりそうだっただろう?」 客をベッドに下ろしたテオドールはいつの間にかそう告げていた。 荷造りはすぐに済んだ。旅立ちの時がいつ訪れても良いように、一通りの装備は揃えてあったのだ。テオドール少年はザックを背負い、ブーツの紐をきつく締め上げて谷の遺跡へと向かった。 この辺りはいつも霧が出ている。しかし勇敢なテオドールは恐れない。濃密なスープに似た霧の中を軽やかに進み、あっという間に遺跡へと到着した。 ひたと門柱に掌を当ててみる。無機な感触があるばかりだ。覗き込む通路は暗く、湿っている。 グルルルルウ……。 オオオオオオ……。 咆哮とも唸り声ともつかぬ音が這い寄ってくる。テオドールは唇を引き結んで前進を開始した。 (鋼の竜はきっといる。俺が証明してみせる) 長く、鋼のように硬い体。おまけに見たことのない姿をしていたという。確かめてみる価値はあるのではないか。テオドールは、三歳の頃に見た父の苦渋の理由がおぼろげに分かる歳になっていた。 もう一度遺跡の中を覗いた、その時だ。 ずずず。ずずずずず。 何かを引きずるような、不気味な音。獣のような息遣いが背後に忍び寄る。機敏に振り返ったテオドールの視線の先、緑色の目がぬらりと光った。 「ギギャアアアアア!」 引き返す暇もなかった。地を蹴った巨体がテオドールへと迫る。テオドールは目を狙って短剣を閃かせた。ずぶりとした手ごたえ。金属的な悲鳴が響き渡る。 それでも敵は止まらない。間一髪、第二撃をかわしたテオドールの脇腹に熱が走った。やや遅れて、焼けるような痛みが。耐えきれなくなって、膝をついた。 (父さん。父さん) 視界が曇り始める。霧のせいなのか。 (俺……鋼の竜を……) (テオドール) (父さん……?) 「テオドール!」 オオオオオオ! 霧の中を咆哮が駆け抜ける。我に返ったテオドールは、それがロストレイルの汽笛であることにようやく思い至った。 立っているのはヴォロスの遺跡だ。霧に遺跡、それに竜。つい、父のことを思い出していた。 「馬鹿者」 霧の遺跡群で倒れたあの時、自宅で意識を取り戻したテオドールを父は手荒い平手打ちで歓迎した。 「蛮勇と勇敢は違う。よく覚えておけ」 父は怒っていた。感情を表に出さぬ父が、憤っていた。母は涙ながらにテオドールに抱きついた。テオドールの腹部には包帯が巻き付けられている。父が助けに来てくれたのだと、すとんと理解した。 「父さん。俺――」 「……そう簡単に辿り着けるものではない」 父はその言葉をもって答えとなした。父は全てを知っていたのだ。 「だが」 次の瞬間、父はわずかに頬を緩めた。 「あの魔物はヨロイオオトカゲの新種だそうだ。既に冒険者の一団が遺跡へと向かった。あの体によく傷を付けたものだ」 「それは……体が硬いと聞いたから、目を……」 「ああ。お前はいい冒険者になる。今の気持ちを忘れるな」 次からは気を付けろと付け加え、父はテオドールの髪をくしゃくしゃと掻き回した。 (……父さん) 今もあの痛みが頬に甦る。あの一件で慎重さと冷静さ、そして堅実な足場固めの重要性を学んだ。父の悲願を継いで十五歳で旅立つ頃には精悍な冒険者の姿がそこにあった。 スクリーンのような霧に父の背中が映るような気がする。あの時、意識を失う直前に見たそれにたまらなく安堵した。 「俺は父さんみたいな冒険者になれただろうか」 いらえはない。断続的に汽笛が轟く。出立の時が近い。 テオドールはついと顔を上げ、まっすぐに霧と相対した。 「――なってみせる。きっと」 凛と告げ、背筋を伸ばして踵を返した。 (了)
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