何者になりたいのか。 そう問われたら、何と答えるべきだろう。 多くの者が首を捻り、悩むかも知れない。 迷いなくこれと決まった答えを出せる者の方が、きっと少ない筈だ。 「ごっそさん、また来るわー」 「ありがとうございました!」 カラリと乾いたベルの音が響く。 午後をまわり、店へ食事を摂りにくる客の足も疎らになってきていた。 代わりにぽつりぽつりと顔を見せるのは、仕事を求めてやってくる冒険者たちだ。 マスターはカウンターの向こうでペンを握り締めながら、何やら難しそうな顔をして口ひげを捻っている。 「レヴィ、もう休憩入っていいぞ」 「はい」 レヴィ・エルウッドは魔法学校からの紹介を受けて、この冒険者仕事斡旋所で手伝いをしながらの下宿生活を始めていた。 この地には成人後の三年ほどを社会勉強の旅にあてる風習がある。その間を冒険者として過ごし、一生涯の職とする者も多いのだ。 だからこそ、仕事斡旋という職業もまた成り立っているのだろう。 新人向けのものから玄人向けのものまで、ありとあらゆる類の仕事の情報が日々舞い込んでくる。 依頼主が仕事を持ち込み、斡旋業者が提供し、冒険者が仕事を選んで旅に出る。 下宿生活を始めて三ヶ月。この風景も既に彼の目には馴染んできていた。 レヴィは幼少時に魔法使いとしての素質を見出されて以来、日々修練に励んで来た。 ――三年。 それが修練の日々から解放されようやく手にすることのできた自由であり、その日々の果てに彼は己の一生涯を捧げる職と出会わなければならない。 風習だからと漫然とした日々を送るつもりなど無かった。 折角与えられた猶予だ。 実体験を通してより多くのものを知り、学びたい。 彼はそう考えていた。 レヴィがカウンターを出ると、折良く黒髪の男が階段を軋ませ降りてくる。 精悍な顔つきに、鮮やかな黄金色の瞳。 テオドール・アンスラン。ほんの数日前までレヴィの実地訓練をみてくれていた人物だ。 レヴィの下宿先であり、自らの宿泊先でもあるこの店の主と懇意にしていた彼は、店主直々にレヴィの実地訓練を頼まれ、快諾してくれた。 その訓練期間も終了し、彼は近々冒険者として自らの旅を再開する予定だった。 「アンスランさん、お出かけですか?」 「あぁ、少し散歩に出てくる」 「僕も一緒に行ってもいいですか?」 「構わないが……別に面白い場所に行く訳でもないぞ」 「そんな期待はしてないですよ」 僅かに苦笑を零したレヴィに、マスターは僅かに口の端を引き上げカウンターを指で叩く。 「持っていきな。仲良くな」 「ありがとうございます」 示された紙袋を受け取って、レヴィは青年の後に続いて店を出た。 紙袋の中を覗いて、レヴィは小さな笑みを零した。 紙袋に押し込まれた大きなサンドウィッチは、あの店自慢の一品だ。 それも二切れ、まるで二人揃って出るのを察していたかのような気使いだった。 分厚く切ったパンに大きなハムを一切れとスクランブルエッグ、それにありったけの野菜をぶち込んである。このボリュームを赤字覚悟のワンコインで出すのが、あのマスターの拘りらしかった。 最近では見た目のインパクトも相俟って、名物料理にもなっていた。この界隈一親切な親父の盛大なお節介料理――デカくて安くてクソ不味いサンドウィッチ、と。 「マスターからです、どうぞ」 「あぁ、ありがとう」 差し出した大きなサンドウィッチを、微かな笑みを零してテオドールは受け取った。 シャクリと一口、野菜を噛み切る軽快な音が響く。 「それで、どうかしたのか」 「え、何がですか?」 「何か話があるからついて来たんだろう?」 首を傾げたレヴィをテオドールが一瞥する。 レヴィは幾度か目を瞬いて、敵わないとばかりに微笑を零した。 「ちょっと訊きたいことがあって」 「訊きたいこと?」 薄暗い地下洞は人々の声も反響しやすい。 中心街まで歩けば反響音を気にするほどの静けさは無いが、少し外れたこの辺りでは、発した音が幾重にも重なり響いてゆく。 ひそひそと話すような声が、耳の奥にすぅっと染みていく。一歩あるく度、幾つもの足音が折り重なるように響いて、レヴィはまるで絶えず誰かに後をつけられているように感じた。 と、とんっと軽やかな足音を響かせて、レヴィはほんの少し小高くなった縁石の上を歩き出す。 その傍らを豊かな地下水が流れてゆく。心地好い水音は絶えず耳に響いて渡る。美しい地下水は時折小岩にぶつかっては跳ね、地面に黒い斑をつけていた。 「アンスランさんは、もうすぐまた旅に出るんですよね」 「そうだな」 「前に訊いた時、魔法生物の研究が旅の目的だといっていましたよね。そのお話を、もう少し詳しく聴きたくて」 「あぁ……そうか」 テオドールが何かを考え込むようにふと足を止めると、レヴィもまたつられるように足を止めた。 足を止めたままじっと見詰めてくるテオドールに、レヴィは小首を傾げる。 「アンスランさん?」 不思議そうに瞳を瞬けば、彼はふと何かを決したように頷いてみせた。 強い光を宿す黄金の瞳がどこか嬉しそうな色を湛えているように感じて、レヴィは思わず微笑を零すと、こくりと頷いて返した。 こつりと、低い足音が反響し合う音と音の合間を縫って響いてゆく。 歩き出した彼の後を追って、レヴィもまた軽やかな足音を響かせその後を歩き始めた。 風が荒く削り取られた地下壁を撫でるように駆け、どこかへ吸い込まれていった。 荒ぎ落ちゆく水滴が、飛沫を上げては闇に白い光をおいてゆく。 地上から降り注ぐ光と水は、蒼と白の輝きを放っては静かに、只静かに闇の最中へと落ちていった。 荘厳な景観とは真逆に、地の底に零れ満ちた暗く深い泉はしん、と静まり返っている。 総ての音が始まり、総ての音が終わる場所。 此処は、そう呼ばれる場所だった。 誰にもきかれたくない話なのだ。 先の質問以来、テオドールはただ黙々と歩き続けた。その目的地が此処なのだと理解した瞬間、レヴィはそう悟った。 ――それと同時に、胸の内で歓喜と好奇の感情が首を擡げる。 どんな話なんだろう。 真面目で直向な彼が、懸命に追い続けるモノ――遥か昔に失われた高度な技術、その偉大なる叡智から成る魔法生物。 とくん、と鼓動が高鳴るのをレヴィは感じた。 それは未知への好奇と憧憬に他ならない。 テオドールは適当な岩場に腰を下ろすと、手にしていたサンドウィッチの残りを口に放り込み、淡い光を零す地下の滝をじっと見上げた。 レヴィもまたそれに倣うように傍らに腰を下ろすと、ぼんやりと天を見上げる。 瞳の中に白と蒼の淡い光が散っては闇に呑まれゆく。 レヴィはその滝が時に茜のいろを宿すことを、濁る灰のいろを帯びることを、深い藍のいろを湛えることを知っている。 壁を這い落ちる幾筋もの光は、地上に満ちる幾つものいろを宿しているのだ。 ――竜を捜している。 吹き抜ける風の音が一瞬、止んだ。 レヴィは確かに聞こえたテオドールの言葉に息を止め、ゆっくりと視線を巡らせる。 「竜?」 問うようにそう零すと、彼はただ静かに、けれど確りと頷いてみせた。 「多分、自然の生物ではないと思う」 それは天駆ける鋼の竜。 見る者の記憶を奪い天を往く。 遭遇例もなければ文献にも残されてはいない。 何ひとつ手掛かりはない。 まるで故意に秘匿されたかのような存在。 「恐らくは、稀少な古代の魔法生物か、被造物……」 その存在を証明することこそが、テオドールが冒険者として旅を続ける理由であり、目的であり、元冒険者であり屈強な剣士でもあった父の悲願でもあった。 「父の悲願でもあるけれど、これは俺の幼い頃からの夢なんだ」 怪我の為に引退せざるを得なかった父の意志を継ぎ、テオドールは鋼の竜を追う冒険者となった。 相手は伝説にも語られぬ、この世の真の未知といえる存在だ。 それに執着し研究を続けることは、時に侮蔑の眼差しを受けることもある。 在りもせぬモノに魅入り心囚われた狂人。 父を、自分を、そう蔑む者もいた。 ただの夢物語、徒労だと嗤う者もいた。 無駄だ、やめてしまえと一言に伏す者さえも。 けれど、テオドールは思うのだ。 やりたいことをせずに諦める方が、やって失敗するよりもずっと後悔の念が深い、と。 「俺は、ただ一度の人生を、悔い無く精一杯生きたい」 そう零したテオドールに、レヴィは自然首を頷けていた。 「アンスランさん」 レヴィはテオドールに向き直ると、はっきりと口にした。 「僕もご一緒させていただけませんか」 一瞬、テオドールは大きく瞳を見開いた。何かを言いかけ、けれど口を噤む。 レヴィはひどく真剣な瞳で、真っ直ぐにテオドールを見詰めていた。 「この三ヶ月でアンスランさんから学ぶことは沢山ありました、でも、まだまだ尽きない。知りたいことが沢山あります」 テオドールと出会ってから、レヴィはずっと彼のことを見ていた。 その真摯な生き方に、深い感銘すら受けていた。 その彼が一生涯をかけて追うという、竜。 未知の生物に対する好奇心と、探求心。 「その竜のことも、とても興味深いです。だから、僕も一緒に研究したい」 レヴィの中に湧き溢れた思いは、最早テオドールやその父だけのものではなかった。 存在するのか、しないのか。 本当に存在するのなら、たった一度でも良い、この目で見てみたい。 見付けて、証明したい。 そうして、できることなら彼らを嘲嗤う者たちを見返してやりたいとすら思った。 「困難な研究だぞ」 テオドールは暫しの沈黙の後、ゆっくりとそう口を開いた。 「わかっています」 レヴィはこっくりと、力強く頷いてみせる。 「理解もされない、蔑視されることだってある」 「そのくらい大丈夫です。どんな研究も、最初は誰にも理解なんてされないものじゃないですか?」 ――それに、アンスランさんだって誰かに理解されたいから竜を追っている訳ではないでしょう。 レヴィの言葉に、テオドールはふと吐息を零すように口元を綻ばせた。 その通りだと、強い光を湛えた黄金の瞳がいっている。
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