「――あった!」 薄暗い書庫の片隅で、レヴィ・エルウッドが声を上げた。 「テオ兄さん、見つけたよ!」 装丁のはげかけた、分厚い書物を手に、せわしなくページを繰っていたテオドール・アンスランは、弾かれたように顔を上げ、相棒の傍らへと足早に歩み寄る。 「ほら、これ」 少年の差し出す書物もまた、長い月日にさらされてずいぶんくたびれていたが、中を見るのに支障はない。文字と、絵とを交互に見、これまでの情報とつなぎ合わせて、テオドールは深くうなずいた。 「“プレナ・ノーチェの慈悲”……この植物に、間違いない」 「プレナ・ノーチェって、薬草学の発展に尽力した学者さんだったっけ」 「ああ、五百年ほど前の偉人で、列聖もされているな。彼女によって見出され整理された有効な植物は、千数百種類にものぼると言われている」 「うん、すごいね……偉大な先達だ。じゃあ、解毒薬を?」 「ああ、成分さえ判れば対処は決して難しくない。俺はプラントに必要な材料を探しに行ってくる、お前は精製の準備を頼む」 「判った、気をつけて。クジェさんを襲った何かの特定も出来ていないし」 「そうだな、肝に銘じるよ」 別の棚からすり鉢やハカリ、漏斗を探し出し、てきぱきと準備を始めるレヴィを頼もしく見やってのち、テオドールは踵を返した。薄暗い施設内を、周囲に気を配りながらも足早に進んでいく。 「ことは一刻を争う……急がないと」 テオドールの、精悍でありながらも理知によって律された秀麗な面は厳しく引き締められ、この薄暗がりであってもまぶしく光を放つ黄金の双眸には、それでもなすべきことをなすのだという強固な意志が輝いている。 ――無論、まさか、こんなことになるとは思っていなかったという思いがあるのも事実だったが。 * * * 山間の寒村は、しんと静まり返っていた。 家々が立ち並ぶ通りには、人っ子ひとり見当たらない。 「巫女セリアの隠居先というのはここか……ずいぶん、ものさびしいところだな」 「……セリアさん、竜のこと、ご存じだといいね」 「ああ」 光の神を信仰する神殿の巫女であったセリアが、今もって謎だらけの竜についての手掛かりを持っているかもしれないという情報を得て、テオドールは相棒のレヴィとともにこの村を訪れていた。 「父の悲願……」 父バルタザール・アンスランが目撃し、冒険者生命をかけて追い求めた、正体不明の竜。誰もが、信憑性すら疑い嘲笑う中で、雲をつかむような途方もない噂話をかき分けて、ようやく手にした情報だ。 「果たしてみせる」 強い意志を込めてつぶやく。 「さて、ではまず村長に挨拶を……」 それらしき建物を求めてぐるりとこうべを巡らせた先で、金の視線が民家のひとつへ行き着く。そこには、憔悴した表情の男がいて、震える手で薪にかけられた縄をほどこうとしている。 テオドールはレヴィと顔を見合わせて頷き合い、男に声をかけた。 「あの、すみません」 男はしばらく、うつむいたままだったが、ややあってのろのろと顔を上げ、ふたりを見る。 ――身体の具合が悪いのだ、と、ひと目見て判った。 顔色が悪く、呼吸が不規則だ。 白目の部分、皮膚の感じ、爪の状態からして、かなり症状は重い。 しかし、さすがに、初対面でそれを口にするのもはばかられ、 「リウミエラ神殿から還俗された元巫女、セリアさんのお住まいをご存じありませんか」 当初の目的について尋ねると、男は震える……というよりも、痙攣しているといったほうが正しいような手を掲げ、定まらない指先でひとつの建物を指示した。 「セリア様なら、施療院だ。お医者の先生といっしょに、重病人の看病、を、しておられるよ。今はお忙しい、から、お客人に会われるかどうかは。いや、それよりも、あんたがた、早めにここを出たほうがいい、……ッ」 どういうことなのか尋ねるより先に、男の咽喉がげぶっ、と音を立てる。激しく咳き込み、身体をふらつかせる男をテオドールは支えた。 「……大丈夫ですか。あなたも、相当具合が悪いようにお見受けしますが。僕たちに出来ることがあれば、言ってください」 病の種類、原因を探ろうとするように、男の状態・容体を見極めながら、レヴィが静かに、やわらかく問う。男は弱々しい笑みを浮かべて首を横に振り、ありがとう、とかすれた声で言った。 同時に、目の端を悲痛な色がかすめる。 「俺はいい、まだ大丈夫だ……だが、女房と娘が」 「それは、まさか、村全体が、ということですか? だからこんなに静まり返っている?」 「……早く、ここから出たほうがいい。あんたがたにも、こんなことが起きないうちに、早く」 テオドールに支えられ、呼吸を荒らげながら、うわ言のように男が繰り返す。 テオドールはレヴィと顔を見合わせ、再度頷き合った。 「施療院の場所を教えてくれ。俺たちは冒険者だ、薬草学や、薬品の精製には心得がある。何か力になれるかもしれない」 * * * それは奇病というしかなかった。 原因が特定できないのだと、治療方法も判らないのだと、まだ若い医者は言った。眼の下にくまをつくり、憔悴した表情だったが、彼自身は罹患してはいない。 「こんな病が、これまでこの土地に現れたことはなかった」 最初に、身体のふらつきがあらわれる。 それから手足が、やがて全身が痙攣を始め、意識の混濁が始まる。 あとはもう、昏睡状態に陥り、意識の戻らないまま衰弱してゆくだけだ。 その症状が、村長一家をはじめ、実に三分の二もの人々へ広がっているのだという。 ありとあらゆる、思いつく限りの治療を試みたが駄目だったんです、と、悔しげに言い、 「発端は、おそらくクジェという男です」 医者は、もっとも症状が重く、危篤状態だという男の名を挙げた。 「彼は、流れの冒険者でした。冒険者崩れ、といったほうがいいかもしれない」 二ヶ月ほど前、ふらりとこの村を訪れた彼は、陽気さ口のうまさであっという間に村に溶け込んだ。そして、村人から聞き出した遺跡、昔から「足を踏み入れると祟られる」と人々が恐れ、決して近づこうとしなかったそこに目をつけたのだ。 「あそこは儲かる、俺もあんたらも生活が楽になって万々歳だ、そう言って彼は出かけて行きました。それが、十日ほど前のことです」 「……結果は?」 「宝物が見つかってめでたしめでたし、だったらよかったんですが。次の日の昼ごろ、深手を負って戻り、その直後に発症しました。その数日後、村人数人が同じ症状を訴え始め、あとは」 深いため息をつき、医者は薬湯を口に含む。 レヴィが煎じた、疲労回復の効果を持つものだ。 「伝染病……でしょうか?」 「可能性は高いな。その、遺跡で何かを拾ってきた、か」 考え込むふたりに、医者が苦しげな表情をする。 「僕もセリア様も、そのほかのまだ発症していない村人も、いつどうなるか判りません。空気感染する病であれば、今さら言っても手遅れなのかもしれませんが、あなたがたはどうか、」 「――遺跡に行ってみよう」 「えっ」 「そうですね、僕も、それが一番確実だと思います」 テオドールが言い出すことを最初から理解していたと言わんばかりにレヴィが微笑み、壁に立てかけた三叉の槍、トライデントを手に取った。テオドールもかすかに笑みを浮かべ、短剣を確かめる。 「ま、待ってください、あそこには」 「クジェさんに深手を負わせた何かがいる?」 「ええ。彼は、迂闊で軽率なところもありましたが、冒険者としての腕は確かでした。我々は、彼の持つ腕っぷしや知識、技術に助けられてもいたんです。その彼が、あんなふうに、なすすべもなくやられたということは」 「……俺たちは、確かに、いまだ修行中の身だ。だから、大船に乗ったつもりで任せてくれ、とは言えないが」 「だけど、このまま手をこまねいて見ていることは、僕にもテオ兄さんにも、出来ません。見なかったふりをすることも」 ここにいれば、罹患の可能性があることは否定できない。 それは命をおびやかすかもしれず、果たさねばならぬ目的を持つ身として、ここで死ぬわけにはいかないという思いも確かにある。 しかし、 「我が身惜しさに、何もせずここを去れば、きっと後悔する」 「その後悔は、間違いなく、僕たちに陰を落とすでしょう。後悔に濁った魂のままで生きることは、僕たちには出来ない……だから、行きます。心配しないで、これでも冒険者のはしくれですから」 穏やかにレヴィが微笑むように、テオドールにもまた恐れはないのだ。 それも、目的へ至るひとつの階段だと、これを超えてこそつかめるものもあるのだと、無意識に理解しているからなのかもしれない。 * * * 「……だいたい、判ってきたな」 井戸のない区域の村人たちが生活用水として使っている河の上流にそれはあった。 武骨な石造りの、灰色の建物だ。 内部は広大といって過言ではなく、研究施設と、プラントと称されるいくつもの薬草園によって構成されている。施設は老朽化し崩壊が起きている部分もあったものの、変化のない環境がよかったのか、設備や器具そのものは数百年前のものとは思えない良好さを保っていた。 「プレナ・ノーチェと同じか、それより少しあとの時代、か? そういえば、あの辺りは文化的知的探究が著しく進んだ時代でもある」 プラントごとに少しずつ違う条件で生育する植物の大半が、この近辺では自生しない薬草や毒草であるのを鑑みれば、ここで人為的な栽培が行われていたことは明白だ。植物は、人の手を離れて五百年が経過してもなお、力強く、活き活きと生い茂っている。 そう、ここは、いにしえの薬草研究所だったのだ。 何らかの事情で研究者が去り、ここがどういう目的で建てられたかを知るものも絶えて、ただ、劇薬をも扱う研究内容から――良薬の材料が時に劇毒となることは、薬草学をたしなむものならば誰でも知っている――、その恐ろしさだけが流布され「近づくと祟られる」という伝承となって村には伝わっていた。 クジェはその伝承の中から真実を嗅ぎ分け、一山当てようといった軽い気持ちで踏み込んだのだろう。 「彼がもくろんだのは、現代に伝わらない有用植物や精製技術の入手か」 いくつものプラントを足早に行過ぎながらテオドールはつぶやく。 おそらく、それが正しくなされていたなら、彼のもくろみは村人たちにとっても吉報となったはずだ。 「ああ……あれか」 やがて、テオドールの眼に、釣鐘草に似た、瑠璃色の可憐な花々の咲き誇るプラントが飛び込んでくる。 「野生のものより色が濃いし、葉が大きい……薬効成分を高めるための交配が行われた結果か」 “プレナ・ノーチェの慈悲”は、そもそも強い作用を持つ薬草だ。 その薬効を最大限に引き出すには、花びらや葉、根からとれる有効物質を、何万倍にも薄めなければならないとされている。 的確に処理された“プレナ・ノーチェの慈悲”は、他の薬草との組み合わせによって鎮痛剤になったり、また弱った内臓に力を与え、衰弱した肉体に活力を取り戻させる素晴らしい薬になったりするはずだ。 「だが、単体で、しかも濃いままで使えば」 強すぎる成分は、人体には毒でしかない。 「土に沁み込んだ成分が水に溶け込み、それが下流へ……と、考えるのが妥当だな。だが、急にそれが起きたのは、」 言いかけたところで、水門が解放されているのが目に入った。 周辺の草が乱れていることから、ごく最近、誰かが踏み入ったのだと判る。 「なるほど」 水には、“プレナ・ノーチェの慈悲”の、烈しすぎる薬効成分が流入しているに違いない。そして、その水は、村の生活用水たるあの河へと注いでいるはずだ。 「……あの医者や、セリアさんの居宅は、井戸のある区画だった」 水の一滴もこぼれぬよう、水門を硬く閉ざす。 要するに、原因不明の奇病の顛末がこれだった。 あとは、河がその清い流れでもって、強すぎる薬効成分を薄めながら、一刻も早くすべてを押し流してくれることを祈るしかないが、村人たちの病に関しては、原因さえ判れば対処は出来る。 何より、ここはそのための施設なのだから。 「おそらく、いっしょに栽培しているはず……」 推論をもとにプラントを移動すると、目的のものはすぐに見つかった。 それは、桔梗に似た形状の、純白をした可憐な花だ。 「あった……アマネセル。これだ」 必要な分を摘み取りながら、テオドールは微笑む。 「“真夜中の慈悲”の痛手を癒す薬草が“夜明け”とは。聖女の名づけは美しいな」 これで皆が助かる、と、昂揚した気持ちで、レヴィの待つ書庫へと急ぐ。 ――その背後で、何ものかがずるりと蠢き、テオドールのあとを追ったが、足早に進む彼は、残念ながらそのことには気づかなかった。 * * * 襲撃は唐突だった。 解毒薬をつくり終えたあと、村人たちの弱った身体を癒すために、“プレナ・ノーチェの慈悲”を正しく配合して滋養強壮の薬を精製し、では帰ろうという段階になってそいつは姿を現した。 扉を破壊しながら最初に入り込んできたのは触手めいた動きを見せる無数のツタ。同じく触手めいた動きでざわめく根が脚の代わりを果たしている。それから、ぎしぎしと音を立てる葉と、瑠璃色の釣鐘草めいた青い花。花の中央に、きょろきょろと動く大きな赤眼がついている。 身の丈はテオドールの二倍ほど。 ツタをすべて伸ばせば、直径はテオドール三人分にもなるだろう。 そいつがキシャアアアアアと軋むような咆哮を上げ、ツタを振り回すのを見てふたりは表情を厳しくした。恐ろしい音を立ててしなったツタが、壁や机を木端のように吹き飛ばすのを目にしたからだ。 「……クジェさんは、こいつにやられたのか。ここの番人? いや、まさかな」 書庫を破壊させるわけにはいかない、と、素早く建物の外へ飛び出して、存外俊敏な動きで追い縋ってくるそいつと向かい合う。 「聴いたことがあるよ。エヘクトル、植物の精髄に邪気が取りついて生まれる魔のものだ。同じ花を咲かせてる……気をつけて、テオ兄さん。あいつは、“プレナ・ノーチェの慈悲”より強い、同じ成分を持ってる」 レヴィが発する警告へ、テオドールは小さくうなずいた。 「処刑人とはまた、物騒な」 「そうだね……あまり可愛らしい名前というわけにはいかないだろうけど。――僕が補佐を。兄さんは、いつもどおりに」 「ああ、判った」 応えると同時に対の短剣を抜き放ち、テオドールは飛び出している。 ビョウと空気を裂いて襲いかかるツタをたくみにかわし、または斬り払いながらエヘクトルの間合いに踏み込んで、ツタの一部、巨大な葉、根の一部を次々と斬り落としていく。 レヴィが魔法で生み出した炎が、拳くらいの火球となっていくつも飛来し、テオドールを襲おうとしたツタを焼き尽くす。それは彼を護るのと同時に、エヘクトルの隙ともなった。蠢く胴体――茎、というべきか――を蹴り飛ばすと、植物にあるまじきぐんにゃりとした感触があって、これは魔物なのだと再認識する。 「言うまでもないとは思うけど、弱点は目だよ。あそこに邪気を溜め込んでいるから、目をつぶされると姿を保っていられなくなるんだって」 「……了解」 怒ったのか、残ったツタをすべて槍のように尖らせこちらを威嚇するエヘクトルへ、 「テオ兄さん、行って!」 解き放たれた、まぶしい白の火球が一斉に襲いかかる。 ぎおおおおおお、と気味の悪い咆哮を上げ、ツタで叩き落とそうと狂乱するエヘクトル、その目前へとテオドールは飛び込んだ。 きゅっ、きゅぼっ。 レヴィの火球がエヘクトルのツタを、葉を蒸発させる。 ぶるぶると震える花の真ん中で、不気味な血色をした単眼が光を反射する。 「ただ生まれただけのお前に、本来罪はないのかもしれないが。見てしまった以上、放っておくわけにはいかない」 テオドールはそれを見据え、ばねのように膝をたわめて跳躍した。 暴れ蠢くツタを足場にして更に跳び、もろ手に構えた短剣を、力いっぱい深紅の巨眼に突き立てる。落下のエネルギーも加わって、双剣はエヘクトルの単眼へずぶずぶと突き刺さり、 「……すまない」 低い言葉とともに、突き破った。 ぎっ、と、さびた金属がこすれ合うような音がして、エヘクトルの全身がびくりと震え、次の瞬間、そのからだは霧散した。ぼふっ、と、埃のような何かが舞い上がり、あとには何も残らない。 「ッ、と」 あまりに急な消滅で、バランスを崩しつつテオドールが着地すると、 「終わった、かな。お疲れ、兄さん」 「ああ、レヴィも」 レヴィが建物を見上げる。 「……ここはどうするべきなんだろうね」 「そうだな……それも含めて、医師と巫女と村長に話をしよう、すべてが落ち着いたら」 植物自体に罪はない。 今までのように共存できるならば、とテオドールは思う。 「うん。まずは村の人たちを治さなきゃね」 精製した薬を手に、ふたりは遺跡をあとにする。 誰かが、事情も知らぬまま迷い込むことのないよう、しっかりと門を閉ざして。 ――すべての村人が完全に回復したのは、ふたりが薬を持ち帰ってからわずか三日後のことである。
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