レヴィ・エルウッドはテオドール・アンスランに隠し事をしていた。 「ガキ一人かよ」 レヴィの目の前で大柄な男が鼻を鳴らす。煙草、酒、人いきれ……。薄暗い酒場は快適とは言い難い。隅のテーブルでは一本の煙管に数人の男たちが群がっている。ゆらゆらと忍び寄る煙にレヴィは慌てて息を止めた。この臭いは麻薬の類だ。 「この前一緒だった兄さんはどうした」 「外せない依頼があって」 嘘ではない。もっとも、レヴィがここに来ることはテオドールには伝えていないが。 「俺の話は優先度が低いってことかね」 「こちらの用も外せないので僕が遣わされました」 レヴィはおずおずと頭を下げた。 「僕で不満なのは分かります。当然のことです。でも、あなたならと……。何とかお願いできませんか」 男は答えない。それでもレヴィはこうべを垂れ続ける。 やがて、酒臭い鼻息が降ってきた。 「頭下げりゃどうにかなると思ってんのか」 男が手を振り上げる気配がある。レヴィがぎゅっと目を閉じた瞬間、襟首を掴み上げられた。 「外出るぞ」 「え」 顔を上げる。男は腕一本でレヴィを吊り上げ、にやりと笑った。 「ここは刺激が強すぎんだろ」 「……はい」 レヴィは無邪気に相好を崩した。 テオドールとレヴィの旅は続いていた。鋼の竜は未だ姿を現しておらず、遭遇例も数えるほどしかない。実在するわけがないと一笑されても二人は歩みを止めようとしなかった。鋼の竜を追い続ける父の背を見て育ったテオドールと、テオドールに共鳴して旅立ちを選んだレヴィなのだ。 だが、レヴィはちょっぴり複雑な心持ちでいた。鋼の竜を求める一方、この旅がずっと続けば良いとも感じる。テオドールとの日々は冒険という枠を超えたものをレヴィにもたらしてくれている。 「学者さんとは遠縁なんですよね?」 酒場の裏でレヴィは男に尋ねた。 「ああ。俺のじいさんの親戚だ」 「“天の長城”を聞いたことがありますか?」 「むかーし、少しだけな。面白そうだと思って彫ったのよ」 男はまくった腕をレヴィの前に突き出した。酒場から漏れる明かりに竜の刺青が浮かび上がる。やけに角張った姿で、生き物というより人工物のように見えた。 「竜の目撃例が少ないのは自然の生物ではないからではないか」、「稀少な被造物、例えば古代の魔法生物の類では」……。テオドールの言葉がレヴィの脳裏をよぎる。 「お前らが探してる物と同じかどうかは分からんぞ。『非常に長大、生き物のように自然な動き』とか言ってたかな」 「長大で、生き物のように……」 レヴィの胸が複雑な速度で高鳴り始めた。 「実在すると思いますか?」 「さてね。俺はただ面白そうだと思っただけだ。いるわけないって周りの連中は言ってたが」 男はじろじろとレヴィを睨め回す。上の空のレヴィは男の視線に気付かない。 「これ、じいさんちの地図。何か手掛かりになるか?」 「はい」 差し出された紙片に嬉々として手を伸ばす。だが、手が届く寸前で地図はひょいと逃げて行った。 「礼は?」 男は頭の上で地図をひらひらとさせている。レヴィは目を揺らした。情報料ならレヴィのへそくりから支払い済みだ。 「別料金だよ」 酒場から漏れる明かりが男の顔をちろちろと舐めている。 「す、すみません。今は持ち合わせが……」 「ふん。お前さん、歳いくつだ」 「十五です」 「ちとトウが立ってるか」 酒臭い息がレヴィの顔面にかかる。ヤニにまみれた犬歯が覗いている。 「お前さんみてえなのは需要があるんだ。知り合いにそっちの宿を経営してる奴がいてな」 乱暴に顎を持ち上げられる。武骨な指が頬に食い込んで、痛い。レヴィは歯を食いしばって耐えた。 「あの……そういうのはちょっと」 「んじゃタダでせしめようってのかよ。ちいと都合良すぎやしねえか?」 「おっしゃる通りです」 凛とした声が割り込み、レヴィははっと息を呑んだ。 曇った窓から漏れる明かり。濁ったどら声、換気扇の排気。全てを背負ってテオドールが立っている。 「こちらがお礼です。遅くなって申し訳ありません」 テオドールが革袋を差し出す。ちゃりちゃりと鳴る貨幣の音に男は頬を緩めた。 「ありがとよ。もらうもんもらえりゃそれでいいんだ」 地図をテオドールに渡し、男は酒場に戻って行った。 テオドールとレヴィだけが残される。 「気をつけろ」 レヴィの頭に軽い拳骨が降ってきた。 「俺はおまえの純真さが好きだ。だが、無防備になってはいけない」 「ごめんなさい」 理知的な説諭にレヴィはしょげ返るしかない。だが、すぐに首を傾げた。 「依頼はいいの?」 「急いで済ませてきた」 テオドールは肩をすくめて微笑んだ。 「最近ずっとそわそわしていたろう。もしかしてと思ってな」 「……そっか」 レヴィは苦い微笑を返した。テオドールは全てお見通しだったのだ。 魔法生物学の権威である学者に辿り着いたのは一年前のこと。 鋼の竜の手掛かりになるかも知れないと考えた二人は学者の足跡を追った。学者は七十年ほど前に死亡したが、天の長城なるものに研究人生を捧げていたという。しかし現存する論文は少なく、手詰まりになりかけたところで刺青の男の噂――悪評も多く含む――を聞きつけた。 テオドールは慎重に逡巡した。学者の縁戚である根拠は本人の弁だけだし、思慮なく情報に飛びつけば足元をすくわれてしまう。しかしレヴィが素早く動いてみせた。たまたま良い結果になっただけにしろ、レヴィの決断がなければ何も得られなかっただろう。 「そろそろかな」 レヴィは先に立ち、丈の高い下草をトライデントで掻き分けている。テオドールは頼もしさと共にレヴィの背を見守っていた。レヴィの肩幅はまだ狭いが、身長は着実に伸び続けている。 「あ……そっか」 レヴィが不意に独りごち、振り返った。 「テオ兄さんが酒場に来てくれた時、覚えがあるなあって思ったんだ。どうしてなのかやっと分かった」 「前にもあんなことがあったか?」 「ううん」 軽やかにかぶりを振る。柔らかな巻き毛が弾んでいる。 「テオ兄さんのお父さんの話。昔、一人で遺跡に入った時に助けに来てくれたって言ってたでしょ」 テオドールは不意を突かれたように目を見開いた。 「その時の状況に似てるかもなあって」 「……そうか」 目を細める。金色の双眸が陽光を弾き、静かに煌めく。 刺青の男の祖父宅を訪ねたところ、祖父は既に亡くなっていた。代わりに、祖父と親しくしていた近所の人間からいくつかの情報を得られた。そこから先は人から人へと渡り歩くしかない。二人は蜘蛛の糸を手繰るように地道に、慎重に手掛かりを辿った。細い糸は学者の住居跡へと繋がっていた。 「獣道すらできてないね」 レヴィはぶきっちょな手つきで道を切り開いていく。調査の過程で、テオドールの知り合いの学者に行き当たった。テオドールが手紙をしたためると、かつて調査団の一員として住居跡に入ったとの返信があった。 『会った時に伝えられれば良かった』 知り合いは手紙の中で詫びていた。だが、遠方に住む彼と最後に会ったのは天の長城の学者を知る前である。テオドールは近々旧交を温めることを約して礼状を書いた。 「調査ではめぼしい物は出てこなかったんだっけ」 レヴィは眉宇を曇らせる。テオドールは肯きつつ歩を進めた。 「宝物は簡単には見つからないものだ」 「うん」 レヴィは破顔した。 道は急な斜面へと変わる。頭上の梢が濃くなり、地面がうっすら暗くなった。額の汗を拭うレヴィの口元が緩む。木陰の涼が心地良いのだ。テオドールは足元を確かめるために視線を落としたが、すぐに顔を上げた。降り注ぐ木漏れ日が二人を導いてくれる。 やがて、緑の香りに土の匂いが混じった。 土の壁が聳えていた。地崩れの跡だ。一部は掘り返され、門の形に組んだ角材で補強されている。顔を近付けた途端に湿気と岩石の匂いが這い出してきた。聞いた通り、洞窟になっているらしい。 「奥に家がある」 真っ先に覗き込んだレヴィが興奮を抑えて告げた。 「他に何か見えるか」 「えっと……岩盤が少し崩れてるみたい。屋根が埋まりかけてる」 「よし」 テオドールはぽんとレヴィの肩を叩いた。 「行こう」 「はい」 洞窟の幅は大人一人が通れる程度だ。崩れた天井は低く、二人とも四つん這いにならねばならない。レヴィに前を任せ、テオドールは暗がりの奥へと這い進んだ。掌に岩盤の固さと冷たさを感じる。学者はここに隠れ住んでいたのだろうか。人目を避けたかったのだろうか? 何故だろう。 父の姿が脳裏に浮かぶ。理知的な父が垣間見せたあの悔しさ。 「テオ兄さん」 レヴィの声で我に返る。暗がりの中、紫水晶のような瞳が気遣わしげに光っている。テオドールは苦笑いを押し殺した。レヴィは本当に目がいい。 「大丈夫だ」 金の瞳で真っ直ぐに前方を見据える。 「行ってくれ」 レヴィはしっかりと肯いた。 家は洞窟と同化するようにして作られていた。武骨な石を積み上げた、簡素な作りだ。洞窟から崩れてきた岩石を慎重に除け、中に入る。 「お邪魔します」 レヴィが呟き、ランタンを灯した。 住居の時間は止まっていた。角張ったテーブル。乾ききって放置された薪。椅子は足を失って倒れ、小さな棚には数冊の書籍が取り残されている。 テオドールは本を手に取った。外気に晒されていなかったおかげで比較的綺麗だ。手袋をはめた指で表紙を開いた時、目がわずかに緊張した。 『山麓の町にて会合。相手にされず』 手書きの文字がしたためられている。 『私が見たものを他の者は見ていない。私自身、あの時以来一度も見ていない』 『他者の目に見えぬものは存在せぬのと同じこと』 『ならば私が見たものは何だったのか?』 テオドールの手が次々とページをめくる。レヴィは部屋を出て屋内の探索を始めた。湿った静寂の中、足音が幾重にも反響する。 『狂人と嘲られても構わない』 『だが、私を助けてくれた冒険者まで否定されるのは――』 ごつっ。鈍い衝撃音が響き、テオドールは顔を上げた。 「ご、ごめんなさい。何ともないから」 慌てたレヴィの声が返ってくる。 「天井の石が落ちてきて。少し緩くなってるみたい」 「気をつけろよ」 「はい」 レヴィの足音が遠ざかっていく。 手記の後半のページは破り取られていた。ごっそり抜け落ち、内容を推測することすらできない。文献の類は調査団が持ち帰ったのか、棚に残されているのは手記のみだった。書斎とおぼしき小部屋にも手記があったが、あちこち破り取られている。 調査団はこれらの手記を有用ではないと判断したのだ。 テオドールは気を取り直すようにひとつ息をついた。目についた数冊の手記をピックアップし、ランタンの前に広げる。 『水を操る大蛇について』 大蛇は未完成の魔法生物で、制御が非常に難しいとある。 『見たことのない男が不可思議な力をもって大蛇を打ち倒した』 別の手記。ページがところどころ破り取られている。 『彼は城に戻って行ったのだ。城は非常に』 続きは破り去られていた。またも肝心な部分に手が届かない。 巻末に少しだけページが残っている。 『私はこれらを封印することにした。日の目を見るその時まで』 『冒険者まで嘲られるのは耐えられぬ』 「レヴィ、来てくれ」 「はい?」 レヴィはすぐに顔を出した。頬や鼻がなぜか埃で汚れている。テオドールがページを差し出すと、レヴィははっと息を呑んだ。 「城は冒険者と一緒に現れた……?」 「ああ。セリアさんのお話を思い出す」 「もしかして」 「まだだ。もう少し」 テオドールは尚も冷静だ。客観的な証拠を探さねばならぬ。父がかつて言っていたように。 手記にもう一度目を走らせる。調査団がページを破いたとも思えない。むしろ、彼らがこれを持ち出さなかったのは肝心な部分が欠けていたからではあるまいか。 『私はこれらを封印することにした』 学者本人がページを破いたとしたら? 「封印……どこかに隠したのかな」 レヴィが首を傾げた。 「やっぱり地下室があるのかも」 「この家にか」 テオドールは顎に手を当てた。この洞窟は崖の中を水平に走る構造であった筈だ。 「でも、さっき石が落ちた時――」 レヴィは躊躇いがちに体の前で両手を組み変えている。 「少しだけど、音が地下に反響した感じがあって。隠し部屋でもあるのかなって思って探したんだけど……」 「おまえは耳もいいな」 テオドールは静かに舌を巻いた。 案の定、廊下の壁に隠し扉が仕込まれていた。 扉の向こうは真っ暗だ。念のためランタンを差し入れると、螺旋階段が浮かび上がる。二人は慎重に下りていった。歩調に合わせて明かりが震え、濃く長い影が壁の上に伸びる。 「はあ……」 埃とカビの臭いの中でレヴィが感嘆した。 書庫だろうか。木製の棚に革の本がみっちり詰め込まれている。手に取ると、破いた手記が丁寧に綴じられていた。テオドールは次々とページをめくり、レヴィも別の本に手を伸ばした。 「これ、論文じゃないかな」 レヴィの声が弾む。テオドールは肯きつつ手記の精査を始めた。 『冒険者と天の長城について』 破れ目のついた紙が加筆されて貼り付けられている。 『調査団の一員として山奥の遺跡に出向く。古代の魔法生物研究所と目される場所だ』 『地下にて大蛇型魔法生物と遭遇。眠っていたようだが、誤って目覚めさせてしまう。大蛇は暴走じみた力を振るい、遺跡の隔壁が下りた。有事に備えた隔離装置と思われる』 『私は逃げ遅れ、閉じ込められた。死を予期する。大蛇の力は強大で、遺跡がもちこたえられるかどうかも分からぬ』 『突然隔壁が打ち破られた。見たことのない男が入って来て、不可思議かつ並外れた力をもって大蛇を打ち倒した』 『彼は異国の冒険者で、偶然救助を頼まれたのだという。外は暴風雨に見舞われていた。大蛇の魔力の影響か』 『私たちは冒険者に感謝した。しかし彼は別の調査があると言い、礼も受け取らずに去った』 『私は彼の護衛を希望し、後を追った。彼は』 ジジ……。ランタンの芯が燃え、炎が揺れる。 『城に戻って行ったのだ』 テオドールは息を呑んだ。 『城は非常に長大かつ堅牢、生き物のように自在に宙を舞う。金属状の物で覆われ、中に人が入っており、咆哮のような音を発して空へ消えた。これを天の長城と呼ぶことにする』 「似てる……」 レヴィの双眸がランタンを照り返して輝く。テオドールは答えない。 「テオ兄さん。テオ兄さんってば」 レヴィがテオドールの腕を揺さぶった。 「ほら、お父さんの、鋼の竜の。『その身は鋼の如く光り輝き』――」 「……『気高く力強き咆哮は、空を大地を震わせる』」 一語一語噛み締めるように諳んじ、深く長く息を吐いた。次いでゆっくりと頭を垂れる。目を閉じる。呼吸の震えを感じた。 「見たのはあなただけではなかった」 身の内から湧く静かな熱をどう表現すればいいのだろう。 「今、外に連れて行きます」 両腕に手記を抱き、ひざまずく。胸に感じるのは手記の重みばかりではない。 「セリアさんのお話も関係あるのかな」 「可能性はあるだろう。この冒険者というのも特殊能力者かも知れない」 「……そうだね」 レヴィはふいとテオドールの前を離れ、棚から書籍を抜き出し始めた。テオドールもゆっくりと呼吸を整えながら立ち上がる。もう少し。もう少しだ。 「鋼の竜を見つけたらどうするの?」 不意にレヴィが問う。瞳が揺れているのはランタンの炎のせいだろうか。テオドールが視線で促すと、小さな唇がもじもじと開かれた。 「旅、終わっちゃうの?」 「まさか」 テオドールは大らかに笑った。 「何もかもこれからだ。困難な仕事になるぞ」 「だよね」 レヴィは無防備に笑み崩れる。テオドールは改めて書庫を見渡した。床も壁もきちんと石で固められている。固い岩盤を掘り下げてこれだけの空間を作り上げた学者の根気はどれほどだったのか。 ジジ……。ランタンの炎が小さくなる。 不意にどさりと何かが落下した。振り返ると、紙の束だけが虚空を舞っている。 「……レヴィ?」 視線を巡らせた時だった。 視界がぶつりと暗くなる。同時に意識が暗転し、何も分からなくなった。テオドールの姿は掻き消え、後には論文や手記の破片が取り残された。 『目撃地点を繰り返し調べたが――』 ひらひらと、手記の末尾が木の葉のように舞い落ちる。 『今日に至るまで、冒険者も長城も二度と現れなかった。無念である』 ランタンの芯が燃え尽き、暗闇と静寂が戻ってきた。 「あ」 女の盆からグラスが滑り落ちる。床に叩きつけられる寸前で男の手が受け止めた。 「どうした。珍しいな」 「ごめんなさい。あの子のことを思い出していて」 女の視線は窓の外へと飛ぶ。 「元気にしているかしら。最近便りも絶えているけれど」 「ふむ……」 男――テオドールの父は手の中のグラスを磨き直した。 「便りのないのは無事の証と言うしな」 「でも、今どこにいるかくらい」 「どこにいたって大丈夫さ。俺とおまえの息子なんだから」 父は大らかに笑った。 (了)
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