ざぁ、ざぁ。ざぁああ。 しつこく木霊するその音に安寧を求めて深い闇底に沈むテオドール・アンスランの意識は無理やりにも浮遊を促される。 もっと眠っていたいという心を優しく掬いあげるように脳裏に浮かんだのは懐かしい父の声。 鋼の如く光り輝き身、力強き咆哮は、空を、大地を、震わせる―― 鋼の竜の声――! テオドールはぱちりと目を開けた。起き上がろうとして全身が鉛のように重く、骨が軋むのに口からは苦痛の声が漏れた。 力をいれようにも手足がふやけて言うことを聞かず、自分がしょっぱい水のなかにいるのだと気が付いた。 目を細めると、骨を砕いたような白いさらさらの砂が目に眩しいほどに輝いて、白泡を生む波の満ち引きが身体を洗い、妖精たちのささやきのような潮騒。 ここは 自分は ずきりっと、こめかみにひどい痛みが走り、思わず顔を歪めた。 「レヴィのやつ、は……」 照りつける太陽の鋭い光の刃に身体が射抜かれて水分不足に意識が朦朧としはじめる。 視界が霞むなかで影を見た。 「ひと、が、いる?」 瞼は重く、閉ざされた。 ――強い心を持て。何があっても悔やまぬように。どんなことにも負けぬように、 父の大きく、ごつごつした手が自分の頭を撫でて、いつも穏やかに笑みを浮かべていたが、夢物語としてねだった鉄の竜のことを語らうときはどこか悲しげだった。 幼心にも何かあるのだと理解しながら、いつか自分は冒険者になって竜を探すのだと心に決意した。だから自分は…… 薄闇に目が慣れると木造の天井を捕えたのに慌てて飛び起ききて、脇腹に鈍い痛みを覚えて思わず唸っているといきなり肩を掴まれた。ぎょっとして首だけ振り返ると長い黒髪に浅黒い肌の女が、不安げにテオドールを見つめていた。 「ここは」 彼女は不思議そうに小首を傾げた。 「ここはどこだ」 女はきょとんとした顔のまま口を開く。その唇から洩れた言葉にテオドールは眉間に皺を寄せた。 冒険者としていろんな国の言葉を聞き、学んできたが女の口から紡がれる言葉ははじめて聞くものだった。 テオドールはそれでもしつこく言葉を重ねた。 ここがどこなのか あなたはなにものなのか、 しかし、女は不思議そうな顔をするだけで何を言われているかも理解出来てないようだ。それはテオドールも同じで彼女が何かしゃべってもまったく理解できなかった。 こんなとき読書家で、知恵者のレヴィがいてくれたなら……そうは思って、すぐに不安が頭をもたげた。レヴィはどこだ? ここに来る前のことは……ひどい頭痛にテオドールは呻くのに女はやんわりと横になるように促した。 「っ、わるい」 弱弱しく呟いて頭をさげると女は笑った。言葉はわからなくとも、表情と仕草でテオドールが感謝していると理解したようだ。 今度は夢も見ないほどの深い眠りへのなかへと落ちた。 ★ ★ ★ 潮騒にまじって人の声を聞いたテオドールは思わず振り返った。彼らの言葉はまったくわからないが何かあったらしいと察して駆けだしていた。 この地に流れ着いてすでに三日が経った。一日目はまるで動けなかったが、彼らが飲ませてくれた緑色の液体……ねばねばした強烈な吐き気を催すそれをなんとか飲んだ翌日には身体が軽くなり、動けるようになった。自分の知らない知識にテオドールは驚きつつも感謝し、そのあと改めてこの島のことを女に尋ねたがやはり言葉が通じなかった。 落胆するテオドールに女は白髪の厳めしい老人を連れてきてくれた。やはり言葉は通じないが、手振りや表情である程度はコミュニケーションをとりながら、老人はテオドールの持つ地図に自分の持つ地図を惜しげもなく見せてくれた。 その地図を見てテオドールはまたもや驚いた。それは自分の知る地図と異なっていたからだ。 ここに来る前……自分はレヴィと遺跡に潜り、霧に包まれ……そこからぷっつりと記憶が途絶えているが遺跡などではよくある賊避けの遠距離転移の罠にひっかかったのか。 ここが未踏の地ならはせ地図も合わず、言葉もわからないのも納得できる。しかし、ずいぶんと遠くまで飛ばされたものだと頭を抱えた。 レヴィも…… 遺跡で最後まで一緒にいた彼のことを思うと心配でたまらなかったがテオドールに出来ることは無事であるようにと祈ること、そしてはやく彼を探すためにも自分の体の調子を整え、この島の現状を知ることだ。 自由に使わせてもらっている小屋はテオドール一人で、助けてくれた女が食事を運んでくれるが自由に動くことが許されていたのに動けるようになると早速歩くことにした。じっとしていたら身体がなまって、本物の病人になってしまう。 島はテオドールの足で一日かければまわることのできる小さなものだった。 数軒の家と金色の稲穂と多くの植物。――温暖な気候と豊かな水のおかげで小さな島は完全に島は自足自給が成り立っていた。 試しに浜辺を歩いたが青い海原しか見えず、他の島を肉眼で捕えることはほぼ不可能だ。老人の見せてくれた地図にはこの周辺には他の島があるようだが、長距離ゆうに交流はない様子だ。島にある舟はどれも木造の小さなもので他の島に渡るには心もとなく、今後どうするべきかテオドールは対策を必死に頭のなかでたてていた。 騒がしい場所に辿りつくと島人たちの間を縫って前に出たテオドールはぎょっとした。 砂浜と同じくらい白い肌をした、黒い衣服の 「レヴィ!」 その顔を見間違うはずはなかった。 テオドールはぐったりとしたレヴィ・エルウッドを抱え上げる。想像よりもずっと重く、全身から熱が失われているのに顔から血の気が引いた。 「しっかりしろ、……助けてくれ!」 声を荒らげるテオドールの肩を、助けてくれた女が勇気づけるように微笑んでいた。 すぐにテオドールが今使わせてもらっている、小屋にレヴィは運ばれた。 大きな緑の葉の上に眠るレヴィにテオドールはずっと付き添っていた。その華奢な白い手は海水に濡れ、死人のように冷たく、一見呼吸をしてない様に見えてテオドールを不安にさせた。 島人たちはテオドールが驚くほど慣れた様子でレヴィの手当を施していった。 そもそも島は自給自足、海での怪我や災害などすべて自分たちでなんとかしているので、こういう事態にどうすればいいのか心得があったのだ。 テオドールは何もできず、ただ祈った。 たった一度の人生を悔いなく生きたい、と優しい声音で、力強く告げたのはレヴィ。 テオドールの父の話を決して馬鹿にせず、信じて、苦楽を共にした大切な仲間。 いつの間に眠ったのか気が付くと部屋は窓から差し込む茜色に染まっていた。 看病していた島人たちは手振りと表情でレヴィは大丈夫だと教えてくれると帰って行ったのに家にはテオドールとレヴィの二人きりだった。 テオドールはレヴィにのろのろと這い寄った。顔色は発見したときよりも落ち着いている。一命はとりとめた様子に安堵に涙が出そうになるのをぐっと拳を握りしめて耐えた。 水に薄めたような紅色になにもかも赤く染まり、海のなかに太陽が沈もうとしている。 しゅぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお その音にテオドールは息を飲む。 いまのは。 テオドールは窓からそれを探そうと空を見つめ、一筋の光の線が見た。 「あれは」 息を飲んで、食い入るように見つめるなか父の言葉が、セリアの言葉が頭の中に浮かびあがる。 もしかしたらと昂奮に胸が高鳴り、騒いだ。 「レヴィ! 起きてくれ!」 テオドールは叫んで、眠っているレヴィの肩を優しく揺さぶった。レヴィは薄眼を開けたのに先ほど見たものを告げようとして迷いが生じた。まだ完全に回復してないレヴィに無理を強いるのは心が咎めて黙るテオドールにレヴィもなにか感じているのか文句ひとつ言わず、ふらふらと起き上がった。 真剣な顔でレヴィが頷くのにテオドールも頷き返した。 小屋から出て周囲を探す二人の前に歩み寄る影があった。島人かと思ったが、その姿はまるで違っていた。 「きみたち?」 「言葉が、通じる?」 「やっぱり君たちだね。保護にしきたんだ」 「保護?」 意味が理解できずにテオドールは聞き返した。遺跡の罠にかかった自分たちをわざわざ未開の地まで迎えにくるような物好きがいるだろうか。そもそもこの相手はなにを使ってここまできたのだろうか。 それ以上に、先ほどのあれを確認したいが、ようやく言葉の通じる相手をみすみす逃すことのできない二つの気持ちぶつかりあう。葛藤が表情にも出ていたのか話しかけてきた相手は訝しげに首を傾げた。 「どうかしたの?」 「悪い。先、ここに、何かが走ってことなかったか。咆哮をあげた、……鋼の竜だ」 絞り出すようにテオドールが尋ねると相手はしばらく考えたようだが 「もしかしてロストレイルのこと?」 「知ってるのか!」 思わずテオドールは身を乗り出すのに相手は頷いた。 「だってあれに乗ってきたからね。……あれ、見たの?」 「見たのは父だ。俺は、ずっと、それを追っている」 「……なら説明しながら行こうか? たぶん、君の今知りたいことすべてを教えられるよ」 「わかった」 テオドールはレヴィの冷たい手をとって歩き出した。 ざ、ざ、ざぁあああああああああああ。 柔らかな波の音にまじって相手は淡々とここが異世界であること、覚醒した者を保護し、各世界の問題事を解決する依頼を受けていることを簡潔に口にした。 それはテオドールやレヴィの常識では到底信じれるものではなかったが 「頭上に浮かんでる真理数、君も、俺もないでしょ? それがわかるのは覚醒している証なんだよ」 「それは」 「ほら、あれがロストレイルだよ」 朱と黒が混じりあった薄紫のグラデーションのなかに金色の光が見えた。まるで流れ星のようだが、それは確かに己の意思で走っていた。 金の軌跡を描き、走るその姿は赤い鋼、ときおりあがる力強い咆哮。 「あれが」 呼吸も、瞬くことも忘れて二人はただ魅入った。 「あれが、竜」 父が探し続け、肩ってくれた、幼いテオドールが憧れた無垢な願いが、いま、叶った。 「あったんだ、あったんだ!」 声を震わせてテオドールは叫ぶ。 「嘘じゃなかった、セリアさん」 嗚咽を漏らすテオドールの横でレヴィもまた瞳に涙を浮かべて立ち尽くす。 多くの書物が、 セリアの語ってくれたことが、 大勢の人々が自分たちの夢に協力してくれたおかげで、失ったものも多いが、ようやくここに辿りつく事が出来た。 二人の様子を迎えにきたロストナンバーは黙って見つめていた。 どれくらいそうして泣いていたのかテオドールはのろのろと顔をあげてレヴィを見た。レヴィもまたテオドールを強い気持ちをこめた瞳で見つめる。 夢、は叶った。 けれど、 ここへと辿る道へと導いてくれた父が、セリアが、助けてくれた大勢の人々に、自分たちは何も語れない、教える事が出来ないという現実は歓びと以上の悔しさを二人に与えた。 父に教えたい。 セリアに伝えたい。 支えてくれた人々に感謝をこめて、この真実を伝えたい。伝えなくてはいけない。自分たちは 「帰ろう」 テオドールはレヴィの手をとった。 「必ず、帰るんだ」 「テオ兄さん」 「そして伝えるんだ。鋼の竜のことを」 「うん」 静かに視線を交わした二人は頷きあうと新たな決意をこめて一歩、前へと進みだした。
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