その扉を押し開けば、邪魔にならない程度に流れる音楽と鼻先を掠める珈琲の香りが出迎えてくれる。静かで落ち着いた空気を好み、ムジカ・アンジェロはもう何度となくこの喫茶店を利用していた。 中に入って扉から手を離せば、ゆったりした速度で静かに閉まっていく。ムジカが纏ってきた空気をひゅうと追い出して空間は閉じられ、流れる曲が少しだけ大きくなる。 扉をほんの一枚隔てただけなのに、まるで隔離されたように別の時間が流れる空間。けれど今日はそこに軽い違和感を覚えて、ムジカは視線だけで店内を見回した。 本来であれば波紋も立たず謐として湛えられているはずの曲が、誰かの感情に弾かれて少しだけ波打っている。誰が原因なのかと突き止める前に、見知った顔を見つけて足を向けた。 「早かったんだな」 いい心がけだと口の端を持ち上げると、先にテーブルについていた由良久秀はふんと鼻先で笑って相手にしない。ムジカは向かいの席に腰掛けて、テーブルに何枚か出されていた写真から目についた一枚を取り上げた。 「これはまた、雰囲気のある教会だな」 どこで撮ったんだと写真を眺めながら問いかけると、ちらりと確認した由良はすぐそこだと窓を顎先で示した。 「この近くに教会のチェンバーが?」 「ああ。庭先の花が手入れされてる割に、人気のないところだった」 素っ気ない返事に何度か頷きつつ写真を戻し、他にはと促すと用意されていた封筒を押しつけられる。テーブルに出ていたのは別口らしく、纏めて片付けようとされるのでそれは含まないのかと問いかける。 「別に、あんたが気に入ったなら使えばいいが」 「気に入っていないのか」 「……あんたは未完成の曲を誰かに聞かせたいと思うか?」 軽く顔を顰めるようにして聞き返され、彼の手元にある写真を一瞥する。何が足りないのかと問いかけたところで、明確な答えが返るとは思わない。ただ本人にとって未完であると感じるのなら、それが全てだ。 黙って封筒の写真を取り出すと、由良はさっさと手元の写真を片付けた。 必要な写真を何枚かピックアップし、呼び出した用件を粗方片付けてしまうとムジカは冷めかけた紅茶に口をつけて一つ息を吐いた。 「退屈だ」 「……は?」 いきなりを言い出すのだとばかりにきつく語尾を上げた由良に、退屈だと丁寧に発音して繰り返す。由良は僅かに額を引き攣らせ、ゆっくりと息を吐いてから嫌そうに口を開いた。 「聞き取れなくて聞き返したんじゃない、あんたの正気を疑っただけだ」 「それは失礼、聞き取れなかったかと」 にこりと笑って言ってのけると由良は不快げに目を据わらせたが、気にも留めずに隣の椅子で転がっているザウエルを見下ろす。平和を示すようにころころ、ころころ、気儘に楽しそうに転がっている様に大きな溜め息をついた。 「事件が欲しい」 暇だ、退屈だとテーブルを指先でつつくが、由良は相手にしていられないとばかりに水を飲んでいる。 「事件がないと退屈して死んでしまう」 「勝手に死ね」 「こんな時こそ、その嗅覚を発揮したらどうだ」 「何の話だ」 「死体の一つ二つ、すぐにも見つけられるだろう?」 「人を探知機扱いするなっ」 噛みついた由良の目は、いっそこいつを死体にしてやろうかとでも言いたげだったが、実行されない殺意に興味はない。ましてやこの状況で自分が被害者となれば犯人も動機も最初から知れている、退屈に殺されるのとあまり変わりはない。 「これだけ人がいるんだ、どこかで事件が起きていても不思議はないはずだ」 「探したいなら一人でやれ」 仕事の話が終わったなら帰ると由良が席を立ちかけた時、ひたすら椅子の上でころころしていたザウエルがぽとんと落ちた。そのままくるくると転がって別の席に向かうのを眺めていたのは、どうやら今あれがザウエル的一大ブームらしく、本人が納得して楽しんでいる様子だったからだ。 「おい、何かでかいのが転がってんぞ」 「あれは何が楽しいんだろうな」 「は。よかったじゃないか、でかい謎ができて」 子供みたいな駄々を捏ねてないでそれを解けばどうだと笑う由良に返事をするのも忘れて、ザウエルが転がっていった先をじっと眺める。 こつんと椅子の足に当たって止まり、何があったのかと足元を見た男性がそこでまだゆらゆらと揺れているザウエルを拾い上げた。しばらく持ったままのザウエルを眺めていた相手が振り返り、目が合った。 「このセクタンは、君の?」 「ああ。迷惑をかけた」 「お気になさらず。……とても可愛らしい」 埃を払うようにザウエルを撫でた男性は、近寄っていったムジカの手にザウエルを返して薄っすらと笑った。途端、今まで凪いでいた空気が、さわ、と揺れた気がした。 ここに来た時に感じた、僅かな違和感。穏やかな水面に波を立てる小さな異物、それがこの男だと確信しながらムジカは踵を返した。 由良はムジカが戻るのを待ち、さっさと席を離れようとする。 「じゃあ俺はそろそろ帰る、」 「まぁいいから座ってくれ」 ザウエルをテーブルに置きながらその手で由良の腕を捕まえたムジカは、無理やり元いた椅子に座らせてにこりと笑った。 「せっかくの事件だ、もう少し付き合ってくれてもいいだろう?」 「生憎だが、俺はあんたほど暇じゃない。セクタンが転がる理由の追求なんざ興味はない」 「それはおれも……まぁ、興味がないというと嘘だが。それよりもっと興味深い事件だ」 今ザウエルを拾った男性を視線だけで示して、ムジカは口許を緩める。 「どうやら彼は、人を殺してきたようだ」 しかもほんの数時間前に。 決して相手に聞こえないように声には出さず続けたムジカに、由良は大きな溜め息をつく。 「見ず知らずの人間を、いきなり犯人に仕立てるな」 何だその悪趣味な遊びはと由良が呆れた顔をしたが、ムジカは平気な顔で続ける。 「彼が殺したのは恋人、親友、或いは家族。好意を寄せているか、逆らえない相手だ」 「どうしてそんなことが分かる」 おざなりに反応する由良に、ムジカは軽く肩を竦めて答える。 「彼は家を出てからここに来るまでに、一度ジャケットを脱いでいる」 聞いて由良は胡散臭そうな顔をしたが、ちらりと男性に視線を走らせる。ムジカが根拠としたジャケットの皺を見つけたようだが、どうだかと反論してくる。 「膝も靴の先も汚れてる、タイもない。元よりずぼらで、身形に気を使わないだけかもしれないだろ」 「ジャケットの袖口にしろシャツの襟にしろ、他に草臥れた様子はないのに? 第一そんな男は、毎日爪を鑢で研いで整えたりしない」 却下だとムジカが切り捨てると由良はむすっとした顔をするが男性の手元を確認したのだろう、それについての反論はされない。 「左袖口、シャツのボタンが一つ取れている。家を出る時に気づいていたなら着替えているはずだ、ジャケットを脱いだ時に引っかけたんだろう。山茶花の咲く庭で、土いじりでも手伝わされたか」 「土いじりはともかく、どうして山茶花だ」 胡散臭そうに尋ねる由良に、ムジカは軽い仕種だけでザウエルを示した。背中にぴとりと張りついた赤い花弁に、由良の眉が嫌そうに寄る。 「あの客が運んできた物とも限らないだろ」 言いながらも強く主張されないのは、ザウエルから剥がしたそれが香るほどに鮮やかだから。少なくともムジカがここに来る前から、あの席は他に客を迎えていない。誰かに踏まれた様子もなく、この店に山茶花は飾られていない。 ちっと小さく舌打ちした由良の前から、ザウエルがころんと転がって離れた。 「自分の意思で山茶花の手入れをするなら、もっとラフな格好ですればいい。出かける途中、あるいは目的地で手伝いを頼まれた。服が汚れると断らなかったのは、逆らえない相手、若しくは点数を稼ぎたい相手だからだ」 「それを殺したって?」 「殺意は以前からあったかもしれないが、衝動的に、だろうな。でなければあまりに多くの痕跡を残しすぎている。計画的に行動するなら、少なくとも絞め殺した跡が消えるまで他人と接触するのは避けたほうがいい」 ザウエルを返す時、男性の手には細く赤い跡があった。あの服装からしてネクタイがないのは不自然だ、凶器はジャケットを脱いだ時に一緒に外したそれと見ていいだろう。 「土いじりじゃなく、庭先で荷物を纏めてただけかもしれないだろ? 何度も紐を縛ってりゃ嫌でも手に跡は残る」 どこか投げ槍な反論に、ムジカは自分の袖を視線で指し示す。男性が着るシャツの左袖口には、僅かに血がついている。 「絞められながら抵抗して爪を立てるのは、十分考えられる話だ」 「枝に引っかけて怪我をすることもあるんじゃないか」 「相手が無事なら、手伝わせたのに手当てもせず帰すと?」 「そんなに大層な怪我じゃないんだろう」 「そうだな、ただシャツに血が滲む程度だ」 ころころとテーブルの上を転がっているザウエルが落ちないように止めながら肩を竦めると、由良が渋面を作る。 「他に反論は?」 「……暇な探偵に関わると碌な目に遭わない」 事件だろうと違おうと知ったことかと由良が立ち上がると、計ったように男性も席を立った。ムジカもザウエルをテーブルから下ろして後に続き、胡乱げな顔をする由良ににこりと笑う。 「何をする気だ」 「ひょっとしたら現場に戻るかもしれないだろう」 「それよりこのまま逃げる確率のほうが高いんじゃないか」 呆れたように突っ込まれ、その時は引き止めて尋ねればいいと肩を竦める。何を聞く気だと目を眇める仕種だけで問われたそれに、決まっていると胸を張るようにして答える。 「今日あんたは人を殺したか、だ」 「──時々信じ難い馬鹿を真顔で抜かすな、あんた」 相手にしていられないとばかりに頭を振られるので、大半の人間にとってはそうだろうなと何度となく頷く。 「嘘を見抜く自信がなければ、しないほうがいい」 馬鹿正直に答えてくれる相手は少ないだろうしなと口の端を持ち上げると、由良はこれ以上ないほど顔を顰めて嫌味たらしく大きな溜め息をついた。 結局アンジェロに引き摺られるような形で喫茶店で見かけた男性を追いかける羽目になった久秀は、面倒臭い帰りたいと心中でぼやきながら仕方なく歩を進めていたが。ふと周りの景色に見覚えがあって辺りを窺い、つい先日訪れたばかりの場所に向かっているのに気がついた。 アンジェロは由良の様子に気づいているようだが特にどうとも言わず、ただ男性の後を追いかける。やがて辿り着いた先で、ああ、と小さく声を上げた。 「さっきの写真、ここで撮ったのか」 さすが探知機と面白そうに語尾を上げられ、眉根を寄せる。 撮った時はまだ咲いていなかった山茶花が、どこか寒々しい教会の庭先をひっそりと彩っている。あの辺りを念入りに探せば、男性の落としたボタンが見つかるのか。 最初は退屈したアンジェロが、適当に誰かを犯人に見立てる悪趣味な遊びを開始したのだとしか思わなかった。偶々居合わせた喫茶店で、偶々セクタンが転がっていった先に、偶々本物の殺人犯がいるなんて誰が信じるだろう。 けれど面白そうに並べられた言葉のどれも、一頻り逆らってはみたが自分の説にこそ無理があるように感じた。絶対的に殺人犯だと断言はできないが、否定できるだけの論拠もない。アンジェロの主張が正しいのではないか、とちらりとでも思ってしまったなら負けだろう。 面白くないと顔を顰めはするが、実際に山茶花の咲く場所に戻った男性の行方は気にかかる。 「地下に向かうみたいだな」 「単なる墓参りじゃないのか」 「死体を隠すなら死体の中、か」 「笑えない」 軽口を叩きながらも気づかれないよう男性の後を追い、地下墓地の奥まった場所で壁に向かって立つ姿を遠く覗う。男性は壁に向かって、やあと親しげに声をかけている。 「僕はもう行くよ」 どう見てもその先には壁しかないが、彼はまるでそこに愛しい相手がいるかのように目を細めて続ける。 「さっきのことは気にしてないよ、君が無礼なのはいつもの話だ。僕も少し大人気なかったよ、何もあんなに怒ることはなかった」 君の気紛れはいつもの話なのにねと苦笑し、相手の頬を撫でるようにそっと壁を撫でている。傍から見ていればぞっとしない光景だが、男性は大真面目に見える。 「少し、僕も頭を冷やしてこようと思う。その間に、君もきっと反省してくれると信じてるよ」 信じてるよと目線を落としながら小さく繰り返した男性は、滲むように笑みを広げた。 「君はここでずっと僕を待っててくれ。大丈夫だよ、僕は必ず君の元に帰るから。反省して……、うん。また、君が恋しくなったら戻ってくるよ」 だから今は少しお別れだねと、寂しそうにした男性はもう一度そっと壁を撫でて踵を返した。咄嗟に隠れた久秀たちは、名残を惜しむように何度も振り返りながら男性が出て行くのを見送る。 まさか本気でやってたのかと男性が上がっていった階段を睨むように見上げている間に、アンジェロの姿が隣にない。どこにと捜すまでもなくさっきまで男性が立っていた場所にいるアンジェロは、ギアを取り出して躊躇なく壁を撃った。 「何やってんだ!」 気づいて戻ってきたらどうする気だと急いでそちらに足を向けるとアンジェロは、つ、と優雅な仕種で壁を指した。 「壊せ」 「は!?」 「早く」 埃っぽい地面も気にせず転がろうとするセクタンを諌めるように取り上げながら、アンジェロが涼しい顔で命じる。どうして俺がと噛みいたが、ギアの適正だとすっかり動く気をなくして眺めるだけのアンジェロに逆らっても無駄だろう。さっさと帰るためにと大仰に溜め息をつきながらギアを取り出し、黙々と壁を掘っていく。 これで何もなかったら笑ってやると心中に毒づくが、空洞に行き当たった感触に斧を引くとぼかりと大きな穴が開いた。その奥に、鎖で吊るされている女性。 ご丁寧に凶器のネクタイを首に巻きつけたままだらりと首を落としている女性を離れた場所から眺め、アンジェロは軽く眉を上げた。 「恋人か親友か家族……、どれも当て嵌まりそうだな」 だからこその犯行かと探るように呟いたアンジェロを、胡散臭いものでも見るように振り返る。目が合うと、これで写真も完全を成すだろうと含むように笑ったアンジェロは吊るされた女性を指した。 「医者を呼んでやるといい。彼女、まだ息があるようだ」 退屈顔の探偵は、解き終わった事件には興味がないらしい。逃れたげにくにょくょしているセクタンを見下ろし、また暇になるなとぽつりと溢した。
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