森は鬱然たる暗緑。モノクロオムの半壊を包み晦ます為。 蔓延る葛と罅の別も覚束ぬ囲いの淵に溜まる水は、底に敷かれた――処々を野草に押し上げられちぐはぐで互いを削り合って鱗染みた様相を呈している――石畳の冷たい色と、廃墟の真上に堆積した枝葉が雲行きに囚われず上空の光を遮っている所為で、澄み渡っているのに酷く暗くて、まるで薄墨みたいだ。 だが、灰色の泉に赤い靄がかかる。誰が絵の具を落とす無粋を働いた。 折角の彩度に乏しい世界に鮮やかな血液は異端、故に事の外馴染んでしまう。 彼の胸を刺して浸し、廃墟に置き去って、人知れず北叟笑む魂胆か。傑作の完成を。 森は鬱然たる暗緑。仮令赤くとも温もりとは無縁の、かばねを隠す為――。 「…………」 ふと、我に返る。視線を前に遣ると、煙草を咥えた神経質そうな己の姿――片手にブックレットを持つ――が映っており、その向こうには延々と走り続けて未だ果ての窺えぬ山間の道が何処までも続いていた。 うんざりだ――由良久秀が紫煙混じりの溜息をひとつこぼせば、フロントガラスに居る自身の隣でハンドルを握った男が車載スピーカーから流れる歌と同じ声で「いいと思わないか?」と笑い掛けてくる。 「別に」 取り敢えず即答した。彼――ムジカ・アンジェロの主語を欠いた問いが不愉快なほど長い山道を指しているのか、狭い車内に満ち足りている自身が手掛けた楽曲の事を言っているのか、或いは――由良の手元で開かれた当該アルバムのブックレットの話をしているのか。次々と埒も無い可能性を思い浮かべたのは、全部その後の事だ。尤も、この男の事だからどうせ―― 「なんだ、自分の仕事が気に入らないのか」 ムジカがサングラス越しに此方の手元を一瞥して、くっとまた笑う。仕事は兎も角、自分の予想が当たっていた事が気に入らないのは確かだ。由良は煙草を乱暴に揉み消してから、より皺の深まった眉間もそのままに再度視線を落とした。 それは先日発売された――今もカーオーディオで再生している――“Musica Angelo”の新作CDのブックレット。ジャケット及び歌詞の合間を繋ぐ写真は、他ならぬ由良が撮影したものだ。 ――気に入らない筈が無い。 アルバムのテーマと楽曲のひとつひとつをモティーフに、間違いの無い仕事をしたつもりだ。特に――見開きのうそ寒い情景――緑の森と廃墟が入り混じる場所で、ナイフで刺された死体と思しき『誰か』が暗い水に浸されている。丁度手前でうねる樹木の枝が『誰か』の顔に重なる構図となっており、被写体が何者なのか知る事は出来ない。 「それなんて傑作だと思うけどね」 「いいから前だけ見て運転しろ。あんたと心中するのは御免だ」 その『誰か』が白々しい事を平然と言ってのけるのが気に喰わず、余所見の所為にして写真そのものに対し言及するのを避けた。 由良としても覚醒以前、死体を模した被写体の撮影会に参加した事があり――それで無くとも死体は撮り慣れていたから――そうした経験も手伝って、良い仕事が出来た自負はある。 しかしながら――死体風の被写体となる事を持ち掛けたのは由良の方だが、当のムジカたるや俄然乗り気で、逆に此方が呆れたのは記憶に新しい。この友人が、こうした趣向に難色を示すとはハナから思わなかったが、一方で彼は音楽活動を通して自身の姿が露出する事を厭うてもいる。 「……良かったのか」 顔が隠れているとは言え軽はずみなんじゃないのか――自ら誘った事を棚に上げて、そんな事を思った。自分なら持ち掛けられても確実に断っている、時に迂闊とも取れるムジカの振る舞い、何事も受容する姿勢が引っ掛かった。 「だから、いいと言っているだろう」 言外に留めた箇所が通じたのか、先程からの話題が伸びているだけなのか判然としない、曖昧な断定が然も可笑しそうに返された。 由良は特に質そうとはせず、尚流れ続ける曲と同等に間延びした山道にいい加減苛立ちを覚え、「未だ着かないのか」と八つ当たり気味に話題を変えた。 「もうそろそろかな」 ムジカは悪びれもせず、市街地を出てから悠に三時間は経ている運転を苦にする事も無く、山間で森の茂みが薄くなっている辺りを「あれだ」と指差した。 「ふん」 今、彼等――正確にはムジカ一人だが――は、と或る資産家に招かれて、山奥の別荘へと車を走らせている最中だ。 なんでもその人物はムジカの熱心なファンだとかで、今日は彼を囲んでちょっとした演奏会を開こうという趣旨らしい。その為、別荘には、他にも資産家の個人的な友人や、著名な音楽家が招かれているのだと言う。 ――資産家だかなんだか知らんが。 辺鄙な場所に居を構えるタイプに碌な奴は居ない――由良は内心で吐き捨てた。 「本当に良く来てくれた」 果たして合間見えた件の資産家は、年の頃は五十路にもなろうかという、しかし――偏見を交えて語るのなら――食が細いのか、金持ちにしては酷く痩せた人物だった。本当に心待ちにしていたとばかり二人の来訪を自ら門外へと出迎え、両手を広げて歓迎する所作が、今時珍しい典雅な様なのが些か鼻につく。 「処で此方の方は?」 「友人で写真家の由良久秀――あなたなら名前くらいはご存知かな」 「……! そうか君が! いや、そうかそうか。会えて嬉しいよ」 「どうも」 ムジカの紹介に得心がいったらしい主は眼を見開かんばかりに驚き、次いで由良を見る目がムジカへ向けられたそれと同様の、独特の輝きを放つものへと変じた。 「彼のファンの間でも君の事は噂になっていてね」 「噂?」 由良は目の前の人物が面倒な手合いだと早々に判じ、最低限の言葉のみ返す事に決めた。元より愛想を振り撒くような性質でも無いが。 「ムジカ・アンジェロの別名だと思われている事も少なくないようだが、本当のファンならそれはあり得ないと直ぐに気付くべきだ。私のようにね」 由良は主の饒舌振りに早速辟易してやっかむ視線をムジカに向けてから――無論笑顔で受け流されたが――一方でその認識自体はほんの僅かに認めた。 ――判ってはいる訳か。 「天性の詩人――詩聖と言ってもいい、そんな彼が音楽と写真の二束の草鞋を履くとは到底考えられないし、第一片手間で撮ったにしては出来過ぎた写真だ。直ぐに気付いたよ、彼の音楽性を良く理解している才能の仕事だと」 主は歌舞劇の主役の如く芝居がかった大仰な仕草で朗々と唄うように主張した。 「しかし、君達の事を友人達にも紹介――いや、自慢したい処なのだが……生憎皆の到着が遅れていてね。この分だと演奏会は晩餐の後になりそうなんだ」 此処に来て、ムジカは珍しく少しだけ意外そうに小首を傾げた。「どうする?」とでも言いたげに視線を投げ掛けてきたが、由良は「俺が知るか」とばかり明後日の方向を見た。少なくとも今直ぐ帰してはくれないのだろうから。 「そこで――どうだろう。日が暮れるまで散策にでも出掛けてみては」 なんでも辺り一帯の山は全てこの資産家の土地らしく、幾ら歩き回ろうと何をしようと、誰に咎められる訳でもないらしい。 「景色の良さは保障しよう。ああ、あまり遠くには行かない方がいい。私有地と言っても殆ど手付かずだから遭難しかねないー―いや、失礼だったかな?」 「なら、それで。彼も写真家だ、景色が良ければ退屈しないだろうから」 肩を竦める主にすかさずムジカが答える。由良は沈黙を以って同意とした。 勝手に方針を決められたのは気に入らないが、一時でもこの主から離れられるのならば異論は無い。それに――確かに此処からざっと遠景を眺めるだけでも、面白い写真が撮れそうなロケーションである事は容易に窺えた。 虚構の住人は実を渇望して翳から白い手を伸ばす。 簡単な事――手慰みの修練を死に餌と垂らし、手繰り寄せて掴まえた橙色の草を引き摺って――なのに忘れられた愚者の祈り家を見初めた夢を、今――命懸けで思い出している――正しい道筋を歩んでいながら、何故思い出せない。 何処だ、私を満たす水は。「あの」冷たい目だけが知っている筈なのに。 耳に――否、頭にこびり付くとでも言えばいいのか。 偶に彼の音楽を聴くと大体そうだ。此処には音源も無ければ当人だって居やしないのに、未だ近くで鳴り響いている気がしてくる。気色たらしいようでいて、やけに馴染むのは――この場所が、まるで即しているからなのか。 そうだ。あつらえ向きなのかも知れない――この森は。 流石手付かずなだけあり、人為的な法則性は無縁の草木は生えたまま恒久的に時を刻んで来た事が窺える。幸い別荘から然して離れてもいないこの辺りは緩やかな丘陵であったが、それで尚しばしば踵を滑らせ爪先を意想外に弾かれる。 だが、だからこそ撮る為に作られたセットとは異なる、本当の世界――これはちょっとしたロケハンと言う訳だ――前へ、奥へ、境へと、注意しながら、噂に聞いた場所に行く。 立ち込めた薄靄には枝葉の隙間から差し込む真っ白な細い筋が映り込んで、森全体を幻想的とも不気味ともつかぬ独特の様相に仕立て上げて、著しく視界を阻む。それでいて迷う事が無かったのは、目的が明瞭だったからだ。 理由を探していた。そして、それは簡単に見付かった。なにしろ最初から其処にあったのだから。知っていたのだから――。 「……?」 ファインダー越し、他の木からぶら下がる下世話な野葡萄の葉を撮ろうとして、その影に人工物を見つけたのは偶然だった。ともあれ由良はかすかながら森に通る風を認めていた為、常と同様に三度ほどシャッターを下ろしてその絵を収めてから、一眼レフを下ろす。 良く見ると、捻繰れた木々が其処へ通じているように並んでおり、丁度突き当たりに先程の野葡萄がびっしりと張り付いている。近付いてみて、それは薄汚れた白壁なのだと知る。 手付かずなんじゃないのか――しかもこんな場所に。だが、だからこそ――藪を掻き分けて、壁伝いに進むと、草の根に瓦礫の感触があった。間近の樹木が絡みついて太い枝で押しつぶしでもしているのか、だとすれば安普請も甚だしい積み上げられた石の建て屋は、それでいて何処と無く静謐な雰囲気を纏っていた。 友人の新譜、自身の写真を想起する崩折れた廃墟。名状し難い想いが募る。解消する為に、内側を認めんとして回り込むと―― ――あの歌が目の前にあった。 ムジカが青白い顔で水辺に伏す。見目にも化粧臭そうなハンカチ――大方クロロフォルムか何かが染み込んでいる――が、落ち窪んだ石畳に溜まる暗い水に浮かんでいる。 「――っ」 そして手前、壁の途切れ目を経て向こう側、殆ど由良の鼻先三寸の処で、あの、資産家が、 「君か――」 驚いたような喜色を浮かべたような痛々しく見開かれた双眸を此方に向けた。 「!!」 直後、左の太股に無慈悲な異物感と猛烈な苦痛が突き刺さり、由良は鼻筋を歪め片膝を突いた。視界の隅でナイフが身体の一部と化している事を認める、主は「大人しく其処で見て居給え」と優雅に戻した右手の指を立てて命令する。 「今から君の撮った写真が現実になる」 「……」 「しかし、独り占めするには余りにも惜しい、君にも声を掛けて置くべきだったと丁度悔いていた処でね――だから歓迎しよう、同好の志よ」 ――虫酸が走る。 「尤も、結局は私だけのものになる訳だが」 「はっきり言ったらどうだ」 ――どうせ俺も殺す心算だろう。 「察しが良くて助かるよ。彼共々殺すには惜しい逸材だ。だが、だからこそ価値がある――そうは思わないかね?」 「さあな」 「……君になら理解を得られるものと思っていたが」 「勝手に決め付けるな」 「まあいい、これから稀代にして至高の詩人、ムジカ・アンジェロに――死を捧げるのだ」 主は陶然と、そして高らかに宣言する。反吐が出る程純粋な輝きを宿している恍惚とした眼差しは由良の方を向いてはいるものの、見ているのは間違い無く己の内側だ。 「此処で私はあのCDの死の光景を見るのだ」 そして、わざわざ同義の文言を繰り返す。 ――見ろ、やっぱり碌な奴じゃない。 おまけに馬鹿だ――が、隙を見せない。このままでは形勢不利、先ずは時間稼ぎをして機を窺わねば。傷に苛みながら、由良はあの水のように冷たい眼で目の前の愚か者と状況を見極める。 「やけに手際がいいな」 実際、油断していたとは言え、単なる壱番世界人がムジカをやり込め、由良の不意を突くなど、ただ事ではない。曲がりなりにも二人はトラベルギアを所有する旅人なのだ。余程周到で且つ肝が据わっていなければ、こうも鮮やかにいくまい。 「ちょくちょく殺ってるのか」 「流石にお目が高い。――、」 「ッ、……!?」 魔女のそれを想起させる尖ったブーツが、太股に刺さったナイフの柄をぐりぐりと踏み拉く。その度に傷口から由良の全身に電撃の如き苦痛を味わわせた。 「私も若い頃から様々な分野に手を染めては来たが……殺しだけはした事が無くてね。苦労したよ? ここまで慣らすのは。ふむ――そうだな、またと無い機会だ。特別に由良君にもお見せしよう」 主は懐に手を伸ばすと骨と皮ばかりの長細い指先で三枚程のスナップを取り出し、垂れ幕でも下ろすように由良の面前へひらりと振り下ろした。 「……そう、か」 痛みに捩れかけた身を必死で堪える最中、由良の頭の中ではムジカがこんな奴の手に落ちた事への合点がいっていた。 写真はどれも水――懼らく其処の窪みに溜まっている――に浸された刺殺体。ナイフが刺ささる胸部には、他にも同様の裂傷が幾つもある。 「いや、稚拙な手口を見られるのは恥ずかしいものだ。しかし誰にでも初めてと言うのはある」 大方ムジカにもこの写真を見せたのだろう。彼の好奇心を擽るには好い餌だ。 ――どいつもこいつも。 「っ、確かに」 「ん?」 「見れたもんじゃないな。せめて光源ぐらい意識したらどうだ」 「ほう、」 「ぐあ……! ~~~~っ」 無慈悲で陰湿な魔女の靴は柄を思い切り蹴飛ばした。それでもナイフは抜けずに傷口を広げ、由良は仰け反る。胸を掻き毟りたい衝動に駆られたが、尚堪える。 「光栄だよ。君に指導を受けられるとは」 だが、脂汗が出る程の激痛に見舞われていても廻り出した思考は留まらない。 ――馬鹿ばかりだ。 生意気なしたり顔を寄越すこの末生りに、不甲斐無い友人に――あるいは己に――内心で毒づきながら、そして痛みと並行して堪え続けていた情動を解き放つ瞬間を、シャッターチャンスと全く同じに、ただ待った。 まるで直後、その時が訪れるのを既知していたかのように――。 「さて、彼が目覚める前に始めるとしようか。演奏会を、」 主は波打った長髪を棚引かせて鷹揚に踵を返した。 途端、由良の呼気が機械的に整う、己に穿たれすっかり肉に食い込んだ筈の刃を力任せに引き抜く、血がしとどに噴き出すも然程の苦痛は無く、故に右足で踏み出す慣性の邪魔もせず、銀の刃を主の背目掛け振り翳す――間際、 「あんたか」 「!」 奥から友人の声がした――おれの目の前で殺すのか――そう、聞こえた。それでも由良はナイフを止めない、左足がシダを踏み潰すのと切っ先が奴の背中を刺すのは、殆ど同じだった。 二つの鋭利な傷が、二つの血飛沫を暗緑の森に放つ――。 「うぅ――う? あ……あああああああああああ!」 「……!」 左背面部、しかし斜めに刺し込まれたナイフから手を離す。ぼたぼたと落ちる血液の前で再度片膝を突く。主は無様な悲鳴と共に、水辺に倒れた。当然だ、急所が逸れたとは言え、背中を支える筋繊維の要所が断裂してしまったのだから。 「いいいぎいい、いいいい……」 ソレは必死にもがきながら背中に届かぬ手を廻そうとして、その度激痛にのた打ち回っていた。先刻までの朗々とした饒舌な資産家ぶりとは似ても似つかない、実に耳障りな鳴き声の生き物だ――だから由良はナイフをぞんざいに引き抜いて、先程すかした仕草で写真を取り出した右手の甲に、ナイフを突き立てた。 「いぇえええええ!?」 骨を断って手を貫通したナイフは地面――厳密には石畳の隙間――に、並みの膂力の者が引き抜くのは不可能と思えるほど深々と噛み込まれて、生き物を固定した。 「立てるか」 「ああ……なんとかね」 尚も雑音を戦慄かせるソレを尻目に、由良はムジカの腕を引っ張り上げた。 迂闊な友人は立ち上がったものの、未だ朦朧とするのか、足元をもたつかせて由良の身に無遠慮な肩を預ける。その衝撃が太股に少なからず衝撃を与え、由良は殊更不愉快げな面持ちとなる。支えるのを辞すと、彼はまた倒れた。 「全くなんてザマだ」 由良はムジカの襟首を鷲掴みにして、引き摺るまま歩き出す。ムジカは答える元気も無いのか、けれど藩笑いを浮かべて応えた。 「嗚呼!? ちょ、待って、待って下さい! 助けてえっ置いてかないでえ!」 後ろから甲高い人間の言葉に似た耳障りな歌声が木霊した。僅かに首を廻して一瞥すると、其処には中年の女の姿をした何かが這い蹲ったまま、此方に左手を伸ばして助けを求めている、ようにも見えた。 ――冴えない絵だ。 「……何か言ったかい」 何処か夢見心地にムジカが訊ねても、由良は無視して歩き続けていたが、やがて―― 「――最低の演奏会だ」 憮然として、それだけ言った。 (了)
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