ここ何日かしとしとと続いた長雨がすっきりと止み、ブルーインブルーのやや南に位置するこの港街・アヴァロッタは久しぶりにからりと晴れやかな陽気に包まれていた。この雨が止めば、季節は少しずつ秋へ向かうのだという。午前の日差しはまだ鋭さを持って海を照らすが、東から吹く風はどこか凛とした涼しさを運ぶ。今日は名残の夏を惜しむ日だ。船着き場はそんなドルチ・フェステ……年に一度の花祭りを楽しみに待つ人々で静かに賑わっている。
「乗り遅れはねえな、出航すんぞ!」
「あいよお!」
ターミナルからやってきた三十四人のロストナンバー、彼ら彼女らの為に貸切られた臨時便の舵を取る船乗り・ギルバートが、乗客と他の船乗り全員の顔を見回して出航の合図を高らかに告げた。ここからディルリ島へは約三時間の船旅だ。……ん、三十四人? たしかにターミナルで集まったのは三十四人だが、その前にこの祭りを知らせて皆に声を掛けたレイラも加えると三十五人になるはずなのだ。
「乗り遅れたとか、人数が多すぎて乗れなかったとか、そんなオチじゃないでやんすよ」
気合いで潜水し海に身を潜めていた二十体の旧校舎のアイドル・ススムくんがミニ海坊主さながらに水面から顔を出し、あれよあれよという間に十九体が即席の筏となる。船の後ろに勝手にロープをくくりつけ、残る一体がちんまり体育座りをしてススムくんの席が出来上がり。……なるほど。
「わっちらはいざという時の救命ボート代わりでやんす、何なら体をバラして浮き具にもなるでやんす。ささ、わっちらに構わずどうぞ船を出して欲しいでやんす」
何かツッコまざるをえない雰囲気を無視して、船はゆるゆると出港する。
◆
さざなみの彼方、水平線の向こうまでも想いを届けるシュシュの花。咲き初めの頃合いと思われる今日のつぼみたちは、日が落ちて満月が上るのを静かに、波音を聞きながら待っている。そのせいだろうか、島に着く前からでも分かる花の香は今はすこし控えめのようだ。
その代わり、今日は島を賑わすお客を喜ぶかのように、島全体が賑やかしい雰囲気に包まれている。屋台からの美味しそうな匂い、職人たちの呼び込みの声、それらがこれから訪れる夜の静けさを覆い隠すようだ。これは島に足を踏み入れた皆々も自然と顔がほころぶというもの。
「ここは料理と工芸品の島だそうですね。お土産を買って、新しいレシピを覚えて……ふふっ。新しい事を記憶出来るのはとても楽しいです」
初めて見る祭りの光景をきょろきょろと見回すジューンはお土産探しに夢中。
「女性の方々にはシュシュ製品がよさそうですね、子供たちにはからくりの玩具とキャンディにしましょう」
乾燥ハーブの瓶詰めやシュシュの糸で織られたストールに布細工、喉がすうっとするハーブの飴玉、水を入れて仕掛けが動く玩具を買って、いつの間にか大荷物だ。帰りを迎えてくれる人たちの笑顔を思い、ジューンも笑う。
サクラは大判のスケッチブックを抱え、目に留まった人の服装や見慣れない紋様をスケッチしたり、意匠や色パターンの参考になるかと様々な工芸品を買っている。
「ハーブはたくさんありますが、カレーみたいな匂いはしませんね」
鼻をすんと鳴らせば、甘いシュシュの香りに混じって屋台通りからの美味しそうな匂いが食欲を刺激する。
「これ、スパイシーな感じがします。すみません、これ一瓶いただけますか」
ミルボトルに入ったハーブとスパイスのミックスは、あの人へのお土産。
「ねーねー律さんあれ食べたい! 買って買ってー!」
「しょうがないなハルちゃんはもー! お兄さんに何でも言いなさい」
「ずーるーいー、オレにも奢ってくれよーんねえってばー」
ちゃっかり律の肩に乗っかって屋台通りに鼻をくんくんさせるハルシュタットに律はしじゅうデレデレ。後ろでブーイングまじりにまとわりつくルイスを華麗にスルー……ではなく。
「あ、ルイス。おまえ財布落としそうだから預かるね」
「はいよー」
律はルイスの財布を手に入れた。律の財力があがった。ルイスはぼーっとしている。
「さあハルちゃん何でも買ってあげよう」
「わーい律さん大好き! えーっとね、すいませーん! ナタガレイの姿揚げとー、オオバンザメのすり身団子スープとー、あっそっちの焼きハマガキもください!」
いいの? と一瞬浮かんだ疑問を即座に打ち消してハルシュタットは次から次へと屋台の食べ物を勝手に(しかも高いやつから)注文し始める。
「(ルイスさんのお財布だけど、まいっか。だって律さんがなんでも食べていいって言ったんだもんね)」
てへぺろーっ★と効果音がつきそうな百万ドルのスマイルで律にすりすりと額をこすりつけるハルシュタット、あざとい。
「あーもう可愛いな!」
「ぶふぉ、何でオレ!?」
支払いが自分の財布からとは露知らず、律に奢って(奢って……?)もらったナタガレイの姿揚げを器用に前足で食べるルイスの脇腹に律のパンチが綺麗にキマる。猫可愛さおそるべし。
「ブルーインブルーで工芸品って言われると気にならないか? 俺はなるね!」
別にオーパーツ的なものではないのだが、それでも! と健は意気込んで工芸品の店を見て回る。そのついでにちゃっかり、シュシュの花製品をチェックするのも忘れない。
「俺はKIRIN脱却したいんだご利益が欲しいんだ~神様仏様人魚姫さま~~!」
宛先の無い思いと叫びは、大海原にむなしくこだまする。
「まァ、アイツにゃこれでいいか」
屋台で買った串揚げと麦酒のジョッキを手に土産物の露店を冷やかすジャックが、とある品物の前で足を止める。
「シュシュの花ねェ。おいオッサン、この膝掛け一枚頼むわ」
「はいよ」
無機質な墓石に囲まれる生活では、心もだがきっと体も冷えるだろう。そっけないながらも礼を言われるところを思い、ジャックは麦酒をぐいと飲み干した。
「お父さん、ここは色んな匂いがしますね」
「あぁ、いいとこだろ。何か欲しい物あるか?」
祭りにはしゃぐ気持ちをいつものおとなしい風貌に隠しきれず、鰍の手を引いて人混みの間を縫うように歩く真遠歌の姿があった。その一歩後ろには歪がついて、鰍は慣れた様子で手を引かれ真遠歌を見守るように続く。
「ぼっちゃん、イカ焼きどうだい! 取れたてのキサキイカだよ」
「いい匂い。……お、お父さん」
「ん? あぁ。大将、イカ焼き一つ」
「あ、あの、三人で分けたいので、切っていただけますか」
「はいよぉ、毎度」
イカ焼きの匂いに立ち止まり、真遠歌が鰍の袖をくいと引く。察した鰍が注文を済ませる声に続いて、こわごわと添えられたお願いに屋台の店主は愛想よく応えた。
「兄さんも」
「ああ、ありがとう」
夏の終わり、照りつける日差しはまだ弱くないがどこか優しい。潮の匂い、花の香、波と人のざわめき。この世界はいつも賑やかだ。真遠歌に分けてもらったイカ焼きをつまみながら、歪は祭りの空気を記憶にとどめるように吸い込む。今まで知らなかった、明るくて楽しく騒々しい昼の世界。まだ慣れないが、好きといえる。
家族の休日はまだ、始まったばかりだ。美味しくて、楽しくて、賑やかな一日を、もっと三人で楽しもう。
「塩きゃらめるぱるふぇ……ほほう」
「失礼、塩キャラメルパルフェを一つとと冷たい豆茶を二ついただけるかな」
「はぁい」
こちらも家族連れ……にはあまり見えない二人が楽しげに甘味の屋台を物色している。業塵は甘い香りに誘われるままメニューの端から端まで一つずつ注文させてはぺろりと平らげ、イェンスは多少懐の寒さが気になるものの、これくらいは想定の範囲内のようで。
「業塵、ほら。あれも美味しそうだよ」
「しゅしゅふれぇばぁのみるくあいす、黒蜜がけとな?」
イェンスが隣の屋台で売られているアイスクリームを指さしたのは、自分も食べてみたいと思ったからでもあるのだが。
「……業塵、僕は二つ買ったはずなんだが」
「何のことやら」
二つのアイスを業塵に持たせお会計を済ませている間、一つはきれいに持ち手のワッフルまでなくなっていたのはちょっぴり寂しいイェンスであった。
「まぁ、もう一つ買おうか」
本当に困らせるようなことはしないと知っているからこその穏やかな笑顔が、どうか今日も崩れませんように。
「……穏やかで良い場所だな」
店主に勧められた蒸留酒をちびりちびりとやりながら、十三は見晴らしのいい広場で人の往来を眺め目を細める。ブルーインブルー。ここは酒も食事も美味いし、何より人々が陽気で穏やかで、それが十三の目にはとても魅力的に映る。ここに住んでみたいと思う一方で、今まで自らの置かれてきた環境を思い、細めた目は少し、伏しがちになる。
「業が深いというべきなのだろうな……」
鉄火場でしか生きられない、前のめりに、誰かを守りながら。そうやって生きてきた、節くれだった手をぎゅっと握る。酒は変わらず旨かったし、海から吹く風も変わらず心地よい。ここはきっと、そういう世界なのだろう。
「あれ、絵奈?」
「優さん! お一人なんですか? 何だか意外です」
「絵奈だって一人みたいじゃないか、お互い様」
楽しげな雰囲気につられ一人ふらりと来てみたが、予想していたよりも多いカップルの幸せそうな雰囲気にあてられ、屋台の人混みを抜けて工芸品の露店が並ぶエリアをうろうろとしていた優……を見つけた絵奈のストレートな一言、これには優も思わず苦笑い。
「私? 私はそういうのとは無縁ですから。優さんこそがんばってください!」
お祭りの空気を吸って、ここに来た皆の幸せを分けてもらえば充分だと笑う絵奈。雑踏を離れたせいか、ここは絵奈の声も波の音もはっきりと、だがうるさくなく聞こえる。
「(……この海のどこかで、綾が頑張ってるんだよな)」
振り返らずに行ってしまった、もう会うことは無いひと。彼女の願いがいつか叶いますように。そんな思いも、シュシュの花香は届けてくれるだろうか。
「優さん?」
「あ、ごめん。何でもない」
優がどこか、ここではないけれどきっとこの海のどこか、そんな遠いところを見たような気がした。だが絵奈は変わらずに笑い、優とばったり会う前に買った白い小さな布の袋で出来たお守りを手渡す。片隅にシュシュの花をかたどった刺繍が施され、中にはシュシュの種が入っているらしい。
「優さんは真っ当な幸せをつかめる方なんですから、そんな達観した顔しないでください。……幸せになってくださいね」
「え、あ、ありがとう……!」
絶対ですよ、と半ば押し付けるように優が握らされたお守りからは、ほのかに甘い花の香がする。絵奈はこの花と、この香りの意味を知らずに買ったのだろうけれど。
「……頑張ってみるよ」
「はい!」
お守りのお礼にと、優がさっき遠ざかった屋台の通りを指さす。幸せの種は、もしかしたら案外近くに蒔かれているのかもしれない。
「人魚姫……きっと最後まで前を向いて、気持ちを伝えようとしていたのでしょうね」
シュシュの花香を吸い込み、オゾはひとり露店を眺めて歩く。今こうしてディルリ島に住まう人々の暮らしを助け、一方で恋をする者の守り神のような存在になっている、伝承の中の人魚姫に思いを馳せるのは、人魚姫やその化身であるシュシュの花が、故郷に残してきたアシリレラの笑顔と重なるからだろうか。いつも明るく笑っていて、すこし勝ち気で、何でもよく喋るひとだった。
気がつけば、柄にもなくシュシュゆかりの品を探している自分に気づき、こっそり苦笑い。知り合いに見つかったら気恥ずかしいなと思いつつ、花弁の形を浮き彫りにした木のコースターを二枚、包んでもらう。
「おっぱい大きくなりそうなヤツってあるんスかねぇ」
「いっときの食物摂取よりも大胸筋を鍛えれば善いのでは」
迷子にならないようミチルにぎゅっと手を握られ通りを歩く、のを嫌がるかと思えばそういう素振りはあまり見せないルサンチマンは、ミチルの割と真剣な問いかけをあっさりと蹴ってみせた。ルサンチマンとミチルはおっぱいという一点において、持つ者と持たざる者の関係である。
「筋肉は有り余ってるんで先達のご意見をお伺いしたいッス!」
「……脂肪、でしょうか」
「いいッスね! そんじゃあ揚げ物を攻めるッス」
……隙あらば、その首を掻く気でいた。だが、ルサンチマンがそうしようと想った相手、ミチルはまるで無防備に彼女の手を取り、屈託なく笑う。すっかり毒気を抜かれてしまったこともそうだし、こうして二人で来ているこの島の空気や、祭りの賑やかさ、そんなものが、邪魔だとか、無駄だとか、そんな風に思えないことに、ルサンチマンは少し驚き、それから戸惑いを覚える。
「うんまーー! ほらほら、熱いうちに食べなきゃ駄目ッスよ」
「え? あ、はい」
揚げたてのフリット……脂が乗った白身の魚にさくさくふんわりとした歯ごたえの衣、そして近海の海水から作った粗塩とこの島のハーブ。ミチルに勧められるまま一口かぶりつけば、確かに。
「……美味ですね」
「おっ、いいリアクション!」
まだまだ楽しむことは山とある、そう言いたげな満面の笑みを返し、ミチルはルサンチマンの手を取って、歩く早さはルサンチマンに合わせて人混みの中をゆく。
「あ、おれ買い物があるんだ」
「いいよいいよー、ハルちゃんの為なら何でも買っちゃうよー」
「ん、いいの。ありがとう律さん」
屋台の食べ物をおそらく全種類制覇したハルシュタットが次に目を向けたのは、この島の名産であるシュシュの花を使った商品を扱う露店。律がすかさず(ルイスの)財布を出すが、ハルシュタットは笑顔でやんわりと断り並べられた品物を見つめる。
「シュシュのポプリが欲しいんだけど、持ち運べるのってどれかな?」
「そうですね、小さな紳士様にはこちらの布袋に入ったものは如何でしょう」
「うん、それください。ありがとう」
首飾りにポプリをくくりつけて貰うと、蜜のように甘やかだが撫でるような優しさの香りがハルシュタットを包む。
「(忘れないよ、おれの愛したひとたちみんな)」
目を閉じれば、今も鮮やかに浮かぶ彼女たちの姿。シュシュの香りに褪せない記憶のかけらを、そっと閉じ込めて。
「じゃあ今触ってる七分袖のシャツにするか」
「うん」
人魚の髪……シュシュの綿毛から出来た糸を使う機織りの屋台を見つけた真遠歌が、織られた反物の手触りと香りを気に入ったようで、この布を使った服が欲しいと鰍にねだる。歪は特に何が欲しいとは言わなかったが、鰍は勿論歪にも買ってやるつもりで財布を開いた。
「おそろいですね、ありがとうお父さん」
「ああ、今日は欲しいもの何でも買ってやるぞ」
「わあ、いいですねえ。お父さん?」
「……へ? 何だ、レイラか」
鰍が親子三人で買い物をする光景を見つけたレイラがひょっこりと顔を出す。聞き慣れない肩書にくすくすと笑うレイラに、鰍も呆れたように笑顔を返して。
「お前だって娘みたいなもんだぞ。……で、ギルバートはいいのかよ」
「そこはお父さんに心配されなくても大丈夫です、ギルとは後で約束してるの!」
臨時便を貸しきる為にアヴァロッタまで行って声をかけたところで一生分の勇気を使ったんですからね、と胸を張るレイラに鰍は一安心。
「そうか、じゃああとはしっかりやれよ」
「はぁい。じゃあまた帰りの船で待ってますね。二人もお祭り、楽しんでくださいね」
「うん、ありがとう。えーと……お姉さん?」
そんなようなものです、と笑って真遠歌と歪に手を振り、レイラは買い出しの続きに出て行った。
「あ、レイラさん」
「ソアさん! こんにちは、来ていただけて嬉しいです」
露店には料理だけではなく、取れたての野菜や果物も勿論並んでいる。ブルーインブルーの青果に興味津々でオレンジやかぼちゃを手に取るソアだったが、レイラの姿を見つけ小走りに駆け寄る。
「あの……このお祭りって、恋のお祭りなんですよね?」
「そうですねえ、そういう言い伝えから始まったお祭りです。どうかしたんですか?」
「いえ、その……レイラさんも、恋とか、されてるのかなって」
「……はい」
面と向かって聞かれると思わなかった質問に少しだけ戸惑ったが、レイラの答えに迷いはなかった。その様子を見たソアは、手をきゅっと握りしめ、次の問いを口にする。
「……ちょっと、自分でもよくわからないんです」
「?」
困っていたところを助けてくれた人があったのだと、ソアは語った。それ以来、辛いときや怖いとき、誰かに助けて欲しいと思うたび、ソアの頭にはその人が浮かぶのだと。
「でもそれって、恋なのか、ただその人に頼りたいだけなのか……自分の気持ちなのに、わからないんです」
「そっか……ソアさんが笑いたいなって思うときに、その人を思い出すんですね」
「!」
辛いことを乗り越えて、怖い思いを振りきって、笑いたい。そんなときに、その人を思う。それってとっても特別な存在ですよね、と、あえて『恋』とは言わず、レイラはソアの瞳を覗き込む。
「そんな特別な人にも、シュシュの花は気持ちを届けてくれると思いますよ」
一輪どうぞと、市場で買った昨日咲いたというシュシュの花を差し出すと、ソアはそれを受け取ってはにかむように笑ってみせた。
「……そうだと、いいなぁ」
◆
思う存分はしゃいだ昼の終わりは早い。気がつけば太陽は水平線の向こうに沈み、気の早い星々が宵闇に染まり始めた空でちらちらと輝き出す。満月の光を待っていたように、少しずつ少しずつ花開くシュシュ。花畑に散らばった白いつぼみが一面の花の色に染まる風景は、見る者を魅了する。
「お月様なのですー、お花見なのですー。お花見といえば、あとはお団子だそうなのですー」
仄白く神秘的な光をたたえる満月、花もいいが月も楽しむならば月見団子は欠かせまい。ゼロが用意した月見……謎団子が月の光を浴びてあやしくつややかにきらめいた。
「皆様おひとつどうぞなのですー」
「あっ、どうも、ありがとうございます」
花は摘めないが香りや景色を堪能しつつ、ゼロは恥じらいにどこかぎこちなく距離を置くカップル未満を見つけては謎団子を振る舞う。完全栄養食品、栄養価が完全に保障された食品であるそれは、つまり『ゆうべはおたのしみでしたね』に繋がる栄養もまたそなえているはず……。
そこまで知ってか知らずか、謎団子を受け取った在利はシャニアとの話題に詰まってそれをえいと一息に食べる。……が、言おうとしている言葉はなかなか出てこず、シャニアに断ってひとり席を立ち、心を落ち着けようと所在なくうろうろ。
「ちょっと、在利! しっかりしなさいよ、さっきから落ち着きないんだから」
「ティ、ティアさん……はいぃ……」
通りがかったティリクティアが思わず喝を入れるほどの弱気ぶりである。だがそれが後押しになってか、在利はシュシュの花を一輪摘んでシャニアの元へ。
「(まぁ、在利君が何を言おうとしてるか分かんないわけじゃないけど)」
今日のシャニアはいつもに比べればだいぶん物静かだった。こちらから水を向けて話させるより、在利から言ってくれたほうがいい言葉というのがあるせいだろうか。
「あっあの、シャニアさんっ」
「なぁに?」
誰も居ない桟橋に腰掛けて月を眺めていたシャニアが、在利の呼び声に振り向いた。
「(い、今だ、シャニアさんの髪に花をっ)」
夜目にも明るい橙色の髪を、白い花びらがそっと彩る。さらりと揺れた髪の手触りは、昼間に屋台で触った人魚の髪……織り糸よりも、ずっと繊細で、やわらかだった。
「(シャニアさんの髪、触っちゃった……!)」
「あら、シュシュの花?」
言い伝えの内容や、ブルーインブルーの男女がこの花を贈る慣習について、知ったままとぼけたように在利の瞳を覗き込むシャニア。力関係は完全にシャニアの勝ち、なのだが。
「そ、その。えっと……女性は身につけて、男性は贈り物って聞いて、そのぉ」
「うんうん、それで?」
「(……ダメだ、やっぱり勇気出ない)」
頑張らないと、と思っていたはずなのに、この大胆で蠱惑的な瞳を見てしまうと言葉に詰まる。いや、口にしたい言葉が多すぎて、だけどどれもふさわしくない気がしてしまう。その瞳を、物言いたげな笑顔を、ずっと見つめていたい。けど。
「ふふ、可愛いんだからもう」
「!? しゃっ、シャニアさん!?」
不意に伸ばされる手。よけられなかった。いや、よけようなんて思わなかった。シャニアの手が、在利の肩に。そのまま肩を寄せ合うふたり。
「いい香りよね、シュシュの花」
「はっ、はい……」
今はこれが、精一杯。
「ねえ、ねえってば! 何か無いワケ?」
「何かって何だよ、めんどくせーな」
「だからぁ! に、似合うかどうかとか、あるでしょ!」
サシャの店、サティ・ディルで仕立ててもらった新しいワンピースを着てきたヘルウェンディは父のファルファレロと親子デート。……というには、ファルファレロのほうは面倒くささ全開のようである、どうやらヘルウェンディに無理やり引っ張られて来たらしい。
「あ? 服かよ。……色気のイの字もねー癖にミニスカ穿いてた頃よりはマシなんじゃねーか」
「それ褒めてんのかけなしてんのかどっちよ!」
しゃがみこんでシュシュの花を摘むヘルウェンディの淡い空色のワンピース、裾が夜風に揺れる。真面目に服を見るのも馬鹿らしいといった雰囲気で、ファルファレロも適当にシュシュの花を摘んでいる。
「こういうとこは彼氏と来いよ」
「いいじゃない、あたしが誰と来ようとあたしの勝手なの。誰からも誘われないんだから、たまには誘ってあげなきゃ可哀想でしょ」
「うるせーな、誰に似やがったその減らず口」
ぽん、と何かが投げられてヘルウェンディの頭に乗せられる感覚。見れば、不器用に編まれた花の冠が。
「……な、何よコレ」
「それでも被ってりゃちっとはおとなしくなるだろ。いらねーなら捨てろ」
思わず、ヘルウェンディがくるりと背を向ける。いらないなんて、言うはずない。思いがけずもらった嬉しい嬉しいプレゼント、だけどにっこり笑って喜ぶにはまだ少しだけ、素直さが足りない。
「やだ、へったくそね。あ、後で直しといてあげるわ」
シュシュの花は、思いを、祈りを届ける香りを持つという。月明かりの下、ルンは花畑のそばで花を一輪摘んで、それを二つに割いた。
「……? シュシュ、食べられる違ったか?」
花弁の三枚は、海へ投げ入れ。もう三枚をぱくりと口に運ぶ。さらりとした歯ざわり、それからうっとりするほどの芳香。だが、ルンが香りを嗅いで思い描く味とはうらはらに、ただそれだけだった。少し青っぽい、野菜ではなく植物を食べているような感覚。すん、と鼻を鳴らし、この夜に満ちた花香を吸い込む。
「花は、祈りだ。ルンは試されて、失敗した。みんなに、もう届かない。……だから」
だから、祈る。自分の居ない世界で、せめて皆々が健やかであるようにと。祈りは、何者にも許される行いだ。
「この花、祈り。人魚の祈り……」
届かないと知っても、祈りを届けたい心は、死なない。ルンは水面にたゆたいやがて沈んでゆく花弁を、いつまでも見つめていた。
「レイラさん」
「あ、那智さん。楽しんでますか?」
買い出しの荷物を帰りの船に預け、これからギルバートと会う約束の場所へ向かおうとするレイラを、那智が呼び止める。那智の手には、ほころびかけの蕾を持ったシュシュの花。
「これを、君にと思って」
「え……」
「勘違いしちゃいけないよ。君の想いが叶いますように、人魚姫はそんな思いを伝えてもいいんじゃないかな」
「……ありがとうございます!」
レイラは差し出されたシュシュの花に戸惑いを見せたが、那智の笑顔には嘘がないように見えて、素直にそれを受け取った。
「今からギルと約束しているの、この花を着けて行ってもいいですか?」
「ああ、勿論。きっと似合うよ」
「ありがとうございます! そうだ、この間注文してくれた機織物。可愛いピンク色の糸を買ったの、戻ったらすぐに作りますね」
「楽しみにしてるよ。さ、行っておいで」
うきうきと駆け出すレイラを見送り、シュシュの残り香に包まれた那智はひっそりと目を細めた。あの蕾は、咲くのだろうか。
「恐らくこれが最後の逢瀬じゃ」
「……」
ハイユはジョヴァンニの物腰柔らかな問いかけに言葉は返さず、ちらりとジョヴァンニの手元に視線をやってそれを返事の代わりとした。ハイユの右手には、ただ一人の主を偲び詰んだ二輪のシュシュ、左手には、夜店で買った蒸留酒の注がれたグラス。
「(……お館様とはちょっと違うけど)」
何か言おうとすると、言葉を控えて待っていてくれる。話せば必ず、目で頷いてくれる。気まぐれで豪快な性格だった主とはあまり似ていないけれど、ふとした時に感じるジョヴァンニの包容力のようなもの、それを思わせる仕草が、ハイユの記憶の扉をこつこつと叩く。
花畑を一望出来るベンチに座る二人は言葉少なだが、どこか満ち足りたような雰囲気を纏っていた。さざなみの音、シュシュの花が風にそよぐ音、それから時折グラスを置く音だけが、ハイユとジョヴァンニの間にあった。
「君は」
「?」
「故郷へ帰るのじゃろう」
「まぁ、そうだねえ」
「それでよい。君は良き伴侶を得、穏やかに歳を重ねて欲しい……きっと君のお館様もそのように願っておられるはずじゃ」
故人の心を代弁する不躾を許してくれたまえ、そう詫びて、ジョヴァンニは自らのグラスを置いた。
「君にいつか、愛し愛される人が見つかるよう。……老いぼれからのささやかな餞じゃ」
ハイユのグラスにシュシュの花弁を一枚。葡萄の果実味をほのかに残した蒸留酒にシュシュの甘く清楚な香りが重なり、ハイユも思わず目を細める。
「コタロさんが家に花を飾ろうって、この前……だから」
コタロがそう撫子に言ったのは、いつのことだろう。今、ひとりシュシュの花を摘む撫子の隣にコタロはいない。そう、今は、そういうことなのだ。
ちょっとしたボタンの掛け違えだと思う、いや思いたい。それすらも分からないままに遠ざかりたくなんて、ない。
「……仲直り、したいんですぅ」
出来れば、この香りが撫子の手に残っているうちに。
「そっちはもういいのか?」
「ええ、しっかり背中を押してきたわ。全く在利ったらうじうじしちゃって情けないんだから!」
勇気を出せない在利に喝を入れて戻ってきたティリクティアを呆れたように眺め、メルヒオールはまだ馴染めない花祭りの空気を吸い直して居心地悪そうに座り直す。
「ほら、行きましょう。折角のお祭りなんだから、楽しまなくちゃ」
「(帰りたい……)」
メルヒオールはティリクティアに引っ張られるようにして花畑に足を踏み入れるが、周りは幸せそうなカップルや片想いに頬を染める若い娘ばかり。正直、自分が思い切り浮いているのがよく分かる。
対するティリクティアは楽しげにシュシュの花を摘んではメルヒオールにもそれを勧めている。手の中で出来上がった花束に、何故かセルリーズの顔を思い出して。
「(……恋? セルリーズに?)」
戸惑いが心からの笑顔に変わるには、もう少し。
「で、あなたどうなの。死の魔女と、さっさとらぶらぶになればいいのに」
「だから何でそういう……」
心のなかで消えてくれないセルリーズから気を逸らすように、ティリクティアの話題はメルヒオールと死の魔女へ。メルヒオールは明らかに面倒くさそうな渋い顔を返すだけだが、思うところはなくもないようだ。
「(大体、あの魔女はこんなの喜ぶのか……?)」
こちらはもっと、時間が必要らしい。
「エレニア・アンデルセン、僕の小鳥。健やかに美しい君を、もっと沢山の花で飾りたい」
月が花畑に落ちてきたかと見紛うような、白磁の肌としろがねに輝く髪……イルファーンは楽しげに、時折エレニアへ笑いかけながらシュシュの花を摘む。二人の想いは通い合い成就しているけれど、隣で花を摘む愛しい人を見ると心が安らぐ。来てよかったと、イルファーンは花の首飾りを恭しくエレニアに差し出した。
「受け取っておくれ、愛しの花嫁」
「イルファーン……ありがとう」
エレニアははにかむように笑い、首飾りをそっと首にかける。お返しにと、自分で詰んだシュシュの花を一輪、イルファーンのターバンに挿し飾る。
「(イルファーン、あなたにすべてを捧げます)」
恋も、愛も、胸の中にある想い全てが、この目を通してイルファーンに向かっている。
__花を摘みましょ 愛しい 可愛い シュシュの花
口ずさむ旋律は花香と共に海を渡り、長い旅路の果てにここへ戻ってくる。エレニアの在るところに、イルファーンもまた在るから。
「……今日、ありがとう」
「何言ってんだ、仕事なら来るだろ」
花畑の前に座り、レイラとギルバートは長いこと話し込んでいた。
「あの客って皆お前の友達なのか?」
「うん、今住んでいる街の人達。みんなとっても素敵な人よ」
言葉が交わせる喜びと、花の香りと、誰も邪魔をしない静けさの中。レイラが身につけている人魚の髪のストールと、髪に挿したシュシュの花、それからギルの伸びた髪をくくる髪紐、それらの意味が、ほどけかかった絆を強く結びなおそうとしている。
「髪紐、お前に貰ったんだって言っても、誰も信じねぇんだ。夢でも見たんだって」
「もうすぐ、夢じゃなくなるわ。もう少しだけ、待っててくれる?」
「……ああ、待ってる」
遠くから二人の様子をこっそりと見ていた鰍が、レイラに起きた異変に気づき思わず目をこすった。ブルーインブルーの真理数が、レイラの頭上にうっすらと現れまばたきをしている。
「……もう大丈夫だな」
◆
月が中天にかかる。もうすぐ、祭りは終わりだ。夜の船は少しだけゆるやかに進む、夏の終わりを惜しみながら。
「……あれらの守護も、悪くないかの」
「何か言ったかい?」
「……はて」
甲板からディルリ島が遠ざかるのを眺めながら、今日一日の記憶を辿り業塵は思い出に耽る。鞍沢の頃を思い出す、今日はあのときのように楽しかった。世界も、時代も、そばに在る人も違うが、またこんな日々が続くのなら悪くない。
イェンスもまた島を見送り、帰りがけに詰んだシュシュの花にそっとくちづけを落とす。色褪せぬ妻への愛情を永遠に、彼女がどうか心穏やかで在るように……身勝手な祈りとは知りつつも、イェンスは願いを込めてシュシュの花を海へ投げ入れた。
「三人で、また来たいな」
屋台で買ってもらったおそろいのシャツを握りしめながら、真遠歌ははしゃぎ疲れて眠ってしまった。枕に膝を貸す鰍に並び、歪はふっと笑う。ちいさな願いは、いつか次の約束になるのだろうか。
夏が、もうすぐ終わる。