窓の外はどこまでもつづく虚無の空間「ディラックの空」。 ロストレイルは今日も幾多の世界群の間を走行している。 世界司書が指ししめす予言にもとづき、今日はヴォロス、明日はブルーインブルー……。大勢のコンダクターが暮らす壱番世界には定期便も運行される。冒険旅行の依頼がなくとも、私費で旅するものもいるようだ。「本日は、ロストレイルにご乗車いただき、ありがとうございます」 車内販売のワゴンが通路を行く。 乗り合わせた乗客たちは、しばしの旅の時間を、思い思いの方法で過ごしているようだった。●ご案内このソロシナリオでは「ロストレイル車中の場面」が描写されます。便宜上、0世界のシナリオとなっていますが、舞台はディラックの空を走行中のロストレイル車内です。冒険旅行の行き帰りなど、走行中のロストレイル内のワンシーンをお楽しみ下さい。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・ロストレイル車内でどんなふうに過ごすかなどを書いて下さい。どこへ行く途中・行った帰りなのか、考えてみるのもいいかもしれません。!注意!このソロシナリオでは、ディラックの落とし子に遭遇するなど、ロストレイルの走行に支障をきたすような特殊な事件は起こりません。
ロストレイルはディラックの空を駆けていた。 ヘルウェンディ・ブルックリンは視線だけを窓の後方に向けるが、もう壱番世界のNYは見えない。それで改めてボックス席に座り直し、ディラックの空を見つめた。 ――あいつと暮らすなんて、本気で言っているのか! 父の声が聞こえて、ヘルウェンディは眼を閉じる。 ヘルウェンディは、LAで生まれた。母と共にNYに移住し、父と腹違いの妹と住んでいた。過去形なのは、つい先ほど家族に別れを告げて来たからである。 ヘルウェンディには、二人の父親がいる。 一人は血を分けた、実の父親。 一人は愛をくれた、後の父親。 死んだと思っていた実の父親は、死んだのではなく<覚醒>し、ロストナンバーとなっていた。自分……ヘルウェンディと同じく。 ヘルウェンディは0世界で実父と再会し、たくさんのことを考えた。 自分の事、両親の事、妹の事、実父の事、そして自分はどうしたいのか……。 ヘルウェンディはもう一人でものを考え、決められる年齢だ。 今回、彼女がNYへ帰省したのは、両親とそれについて話し合うため――いいや、それは正しくない。ヘルウェンディは、先述の通り、別れを告げに行ったのである。 ヘルウェンディの実父は、マフィアのボスだった。ロストナンバーになった彼は、少なくとも母の元へは戻らなかった。そうして死亡したものと思わせておいたせいで組織の後継と利権とを巡る抗争が勃発し、飛び火。ヘルウェンディは狙われるようになった。 平穏に暮らす両親と妹を巻き込むことを恐れた彼女は、家を出る事にした。マフィアの隠し子として苛められた経験が、そうさせたのかもしれない。 でも、それを終わらせるときが来たのだ。 もう逃げないと決めた。 そして考えに考え、全てを打ち明ける事にしたのだった。 実の父親と再会した事。 もうNYの家には帰らない事。 そして、あいつ――実父と一緒に暮らす事。 「あいつと暮らすなんて、本気で言っているのか!」 父はいつも温厚に微笑ませている顔を真っ赤にして、激怒していた。母は絶句して、ただヘルウェンディを見返していた。 「もちろん、本気で言っているわ」 「ヘル」 「もう決めたの」 父は口を開けたり閉めたりしている。真っ赤にした顔を青ざめさせ、怒りたいのか泣きたいのかわからない顔をしている。それでも視線だけは反らさなかった。 ヘルウェンディもまた視線を反らさなかった。ただゆっくりと口を開く。 「ねぇ、パパ、ママ。私たちは、親と子なのよ」 あいつと私、似てないけど、そっくりなのよ。 ……二人には、妹が居る。娘が居るでしょう。 わかってる、もちろん私も二人の娘よ。 でも、あいつには誰もいないの。 私がこの家に帰ったら、あいつは本当にひとりぼっちになってしまう。 それでいつか、どこかで、誰も知らないところで、きっと野垂れ死ぬわ。 それを当然だって思うかもしれない。報い、って思うかも。 私だって、別にあいつのことが大好きなわけじゃない。むしろ嫌いよ。 本ッ当に最低な男だとも思う。 でもね、パパ、ママ。 私、あいつと家族になりたいの。 話し合いという名の説得は、夜明けまで侃々諤々と続いた。 父も、ヘルウェンディも、一歩も譲らなかった。 母は、泣いていた。妹は……よく、わかっていないようだった。まだ小さいのだ。 そうしてとにかく話し合い続け、それでもヘルウェンディの意志が固い事を認めると、とうとう二人は根負けしたように小さく頷いた。 ――こうと決めたら、絶対に譲らない……誰に似たのかしらね。 母は真っ赤に腫らした眼で微笑んだ。ヘルウェンディはただ悪戯っぽく笑った。 別れのハグをして、キスをした。それは本当に、今生の別となるだろう。 それが解っていたからだろうか、ハグしたその時、父は、耳元で謝った。 それはうんと昔――母と父が付き合い始めた頃。父はあいつと会い、そして手切れ金を渡したのだと言う。二度と母とヘルウェンディに関わるな、と。 正義感なんかじゃない。母とヘルウェンディを取られてしまいそうで、怖かったのだと……だから、ヘルウェンディが本当に彼の元へ行く事を決意したことを聞いて、激昂してしまったと。 そう告白した二人目の父親を、ヘルウェンディは強く強く抱きしめた。 「パパ、ママ。今まで育ててくれてありがとう。……愛してくれて、ありがとう」 そうして笑顔で別れ。 ヘルウェンディは、ロストレイルへと乗り込んだ。 ロストレイルは走る。ヘルウェンディは眼を開けた。 二人目の父の事を、怒る気にはならなかった。だってヘルウェンディは、もう大人なのだから。大人になり切れない男の気持ちを分かってあげて、許してやらなければならない。 そう思って、ふと笑みがこぼれた。 ――どうして私の父親は、二人そろって手がかかるのかしら。 細い指に光る指輪を撫で、そして最愛の人をまぶたに浮かべた。 ヘルウェンディはきっと大丈夫だろう。見守り支えてくれる人が居ると、彼女は知っている。へこたれそうになっても、きっと負けない。 彼女には、養父譲りの正義感と、実父譲りの大胆さと、二人の父親から譲り受けた心の強さがある。母から譲り受けた、大きな情愛がある。 だから確信する。 私たちは家族になれる、と。 帰ったら、料理を作ろう。 あいつと、愛する人のために、シチューを作ろう。 零した滴で、しょっぱくならないようにだけ、注意しなくちゃね。 ヘルウェンディは、両親と妹と、家族揃って撮った最初で最後の写真を見つめる。 そしてそっと口付けた。 ――元気でね、みんな。約束通り、手紙を書くわ。 人はひとりでも、家族はいつもひとつだから。 それだけは揺るぎない、真実だと思うから。 「さぁ、あの大ッ嫌いな分からず屋に、解らせてやるわよ」 ヘルウェンディ・ブルックリンがどういう娘か、きっちり教えてあげるわ。 ロストレイルはディラックの空を抜け、0世界のターミナルへと降りてゆく。
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