女は排水溝に流れ着いた髪の毛のように黒い髪を振り乱し、ベッドの上に横たわっていた。白い肌には、赤と青と紫の点が斑に散っている。 それを無表情に見下ろすブラックスーツの男がいた。すらりとした長い手足と、氷のように鋭利な顔立ちと、やはり氷のように冷たい青灰色の瞳を持った男だ。男の髪もまた黒かったが、彼はその短髪を軽く撫で付けている。彼が一歩踏み出すと、一房だけ零れた髪がわずかに揺れた。 男は白い肌を露にした女を見下ろし、青灰色の瞳だけを動かしてベッドサイドを見た。そこには斑色の鉄棒が、ベッドランプのオレンジ色を反射して鈍く光りながら転がっている。男は口元だけ歪めて笑うように吐き捨てた。 「面白くありませんね」 ◆ 「本当に面白くないねぇ」 イェンス・カルヴィネンは眼鏡のブリッヂを押し上げながら、フォックスフォームのセクタン・ガウェインに話しかける。ガウェインは眠たいのか──セクタンに“眠い”という欲求があるかは不明だが──大きな耳を垂れてイェンスの頬に凭れている。 その微笑ましい様子を感じて、イェンスはくすりと微笑む。 それから、手に持った本を見つめた。装丁は極々シンプルな皮革で、タイトルや作者名すら書かれていない。 なぜその本を手に取ったのかは、わからない。ただそこにあったから、という至極単純な理由だったかもしれないし、見覚えの無い本に興味を覚えたような気がしたからかもしれないし、まるで呼ばれたような気がしたからかもしれない。 ところで、今日は自分の厳しく有能なエージェントが原稿を取りに来る予定だったはずだが、まだ来ないのだろうか? 彼が予定時刻より遥かに早くやって来ることはあっても、遅刻をして来るはずがない。 そうは思ったが「まあいいか」と、イェンスは本のページを捲った。 ◆ ヴィンセント・コールは、ほとんど電球の切れた煉瓦通りを、革靴を鳴らして足早に歩いていた。分厚い雲に空を覆われた闇夜である。左右には十階以上あるビルが聳えているが、灯りはひとつも点いておらず、まるで廃墟だ。 細い路地をひとつ、またひとつと通り過ぎるたびに路地へと視線を向ければ、ひとつふたつと支えを失ったマネキンのように人間が転がっている。 ──趣味の悪い演出ですね。 ヴィンセントは硬い視線でそれらを見やって、更に通りを進んで行く。 この街はおかしい。どこもかしこも死の臭いがする。いいや、死の臭いしかしない、と言っても過言ではない。そして、その全てが理不尽で無意味で残酷だ。 革靴の音が止まる。その先に、影のような人影が唐突に現れた。全身を漆黒に包んだ、まさしく影のような何か。体格からして男のように思えるが、その体は骸骨のように痩せ細っている。 その時、すぐ近くの切れかけた街灯が強く明滅した。瞬間、長く伸びた不気味な影と、骸骨の手に鋭利なナイフが握られているのを見る。 ヴィンセントは嘆息し、トラベルギアのユーウェインを構えた。 「私はただのエージェントなのですよ」 すらりと剣先を上げれば、ユーウェインの纏う冷気が白く宙に舞い上がる。 ──余計な仕事を増やさないでいただきたい。 ◆ その本は奇妙なことに、筆跡の違う文字がチャプター毎に二つ並んでいた。そして今、三つ目の筆跡で白紙のページに文字が浮かび上がってゆく。その様子を眺めながら、男は我知らず口端を僅かに持ち上げる。 ──これは、少し面白い。 使い込まれたインク壷にペン先を浸し、男はページにインクを落としてく。 微かな衣擦れと紙を引っ掻く音が、部屋に満ちていった。 ◆ 命が終わることをどう思う? 誰かが問いかけた言葉に、自分はどう答えたのだったろうか。もしや答えず、黙っていたかもしれぬ。そして問いかけた言葉は、そのまま続けてゆく。 命は必ず終わるものであり、故に生まれ落ちた瞬間、産声と言う名の悲嘆の叫びを上げるのだ。命は必ず終わるのだ。命は、必ず、終わるのだ。 それは笑っていたか、泣いていたか、それとも大笑いしていたのか。 命が終わること、しかも唐突に終わることは百も承知している。承知しているが、人間は考えないようにする生き物だ。そうでなければ、とてもこの「生」を生き抜いてはいけない。人間は未来を考える生き物だからだ。“今”だけではなく、“時間”を持つ生き物だからだ。 誰かが言った、命の言葉。それは儚く美しいものではない。 世界はくだらない大事と、切実な小事でできている。 切実な小事のために、くだらない大事は見過され、そうして世界は壊れてゆく。 そう、今まさに。 一変の慈悲も、逆転の好機も無く、抗いようの無い力で蠅のように潰されるように。 ◆ それは巨大な津波のようにも思えた。 突如として地面が大きく波打ち、左右に聳えたビルが捩れ唸り声を上げたかと思うと、甲高い悲鳴を上げて窓ガラスが降り注ぐ。煉瓦通りが罅割れ、下水管から汚水が噴き出した。ヴィンセントと格闘していた骸骨の黒い影が、その罅割れの中に落ちてゆく。 「ミスタ・マーカス……!」 ヴィンセントは地上になんとか踏みとどまり、転げるようにしながら瓦礫と窓ガラスとを避け続ける。鋭利なガラス片が、怜悧なヴィンセントの頬を傷付けて行く。彼は構うこと無く、彼にしては珍しく必死な様子で、ただただ踊るように、罅割れに落ちないようにステップを踏み続けた。多少の見苦しさなどおかまい無しに。 彼は何としても戻らねばならない。それは約束の為に。そして、“彼”の為に。また、自分自身の為に。 この無慈悲で無意味な所行によって、自分が今ここで死ぬことはあってはならない。 足場を探して顔を上げた時、視線の先に黒い靄のようなものが現れた。 刃物のような冷たい瞳の、一瞬の瞑目。その瞳が開かれた時、そこにある意志は大きく固められた。 ◆ イェンスはページを捲る手を止めた。 何かがおかしい。この本の展開はとにかく行き当たりばったりのようにメチャクチャであるし、何より登場人物の言動がまるで意味を成していないように思える。 それはある程度読み進めるとページが空白になっており、手を加えるとその続きが描かれていくというレスポンスがあるせいかもしれない。そのレスポンスは面白いと言えば、まあ面白いが、これを『物語』と呼べるかと言われれば、決してそう呼ぶことはできないだろう。 目の奥に鈍痛を感じながら、イェンスはページを捲る。そこに綴られたテキストを読んだ瞬間、彼は音を立てて立ち上がった。肩で昼寝をしていたガウェインが、びっくりと耳と尻尾とを立ててきょろきょろする。 左手でガウェインを軽く撫でながら、イェンスは瞠目した。 ──これは『物語』などではない。『罠』だ! 人を陥れる為の、ただの罠。イェンスは拳を握った。 イェンスは作家である。ハッピーエンドの健全な児童文学を好み、また『イェンス』の著作もそうしたものだ。別名義の作品もあり、そちらの作風はまるで違うが、それでも彼の著作であることに変わることはなく、しかし例え理不尽で残酷な描写があったとしても、それは決して意味のないことではない。それらは全て、あくまで『物語』である。 物語を綴る者として、物語を罠に利用することは、許し難い。 そして、とイェンスは思う。遅い。いくらなんでも遅過ぎる、その来訪。 イェンスはガウェインを一撫でし、深く椅子に腰掛け、そしてペンを握った。 「さぁ行こう。グィネヴィア、よろしく頼むよ」 ◆ 命が終わることをどう思う? そう問いかけた言葉に、その人がどう答えたのかは、もう思い出せない。 ただ一つだけ間違いのないことは、命は必ず終わるということである。 命は必ず終わる。 それは揺るがし難い真実であり、すべてのものに等しくあるものである。 命が終わることは、終わるのを見届けることは、時に悲しく、時に辛いものだ。 だが、命は必ず終わるからこそ、命を輝けるものにできる。 終わることを知っているからこそ、人生は楽しくありたいと願うのだ。 人はそうして努力をするし、だからこそ自らの「生」にこだわる。 命は終わるからこそ、美しい。 だが、それは全てをやり遂げてからのこと。 今はまだ、その時ではない。 ◆ ヴィンセントは息苦しさに喘いでいた。目の前に現れた黒い靄、それが彼を覆い尽くそうとしている。それは彼から呼吸を奪い、思考を奪い、四肢の動きを奪ってゆく。奪われながら、しかしヴィンセントの瞳から、強い光が失われることは無い。 そしてその瞳の光は、確かにパートナーへと届いた。 黒い靄の中から、黒い帯のようなものが現れる。いいやそれは、髪の毛だ。絹のようにしなやかで美しい、絹のようになめらかな女性の長い黒髪だ。それは黒い靄を引き裂き、揺れる大地を制し、分厚く積もった曇天を貫く。 ヴィンセントは咳き込みながら、ふうわりとした感触が頬を触るのを感じて、顔を上げる。 分厚い雲を引き裂いた向こうに、力強く輝く満月。その中から、しなやかな女性の白い腕が現れる。 「……やっと来ましたね、ミスタ・イェンス・カルヴィネン」 ◆ 塵の積もった机を見て、ヴィンセントは「やれやれ」と首に手をやった。 「お陰で偉い目に遭いましたよ、ミスタ・イェンス」 「僕のせいかい? 心外だなぁ」 そう笑うイェンスの額には、汗が浮かんでいる。彼にとって、この“本”を破壊するのにどれだけの気力を必要としたかが伺い知れる。 「けれど、貴方のお陰で助かりもしました。礼を言います」 青灰色の鋭い瞳を和らげて言うヴィンセントに、イェンスもにこりと微笑んで「うん」と頷く。 ──彼を失わずに済んでよかった。 イェンスは心の底から、そう思う。 妻を亡くしてから辛うじて理性を保ってこられたのは、ヴィンセントが居たからだ。皮肉屋で辛口で押しも強く脅迫めいた原稿の徴収を行う彼だが、ユーモアと優しさも持ち合わせていることを、イェンスは知っている。 そしてヴィンセントもまた、そう思う。 何があっても支え、彼を第一に考える、それはあの約束があるからかもしれないが、それを守るのはやはり、ヴィンセントにとってイェンスは特別な存在であるからに他ならない。 人はそれを、共依存と呼ぶだろうか。それでも構わない。 彼は、大切な存在なのだ。 それは、揺るぎない事実。 「そういえば、ミスタ・イェンス。最後はどうにも、『イェンス』とも『マーカス』とも違う作風だったように感じました。新しく開拓でもしましたか?」 「そうかい? ……さて、どうだろう」 イェンスは苦笑する。 「もう、塵になってしまったしね」 そう呟いて、イェンスは窓を開けた。風が吹き抜け、さらさらと机の上の塵をさらって行く。それを見届けて、イェンスはヴィンセントを振り返った。 「何にせよ、これからも宜しく」
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