──闇の住人の領域“八百万廟”。 高度な魔道と科学が発達したこの領域は、数多の美醜と善悪、予定調和と奇跡、矛盾を孕む領域。その入り口“賢者の脳髄市”に、ホテル『Le point du chemin』はあった。 客層は人類、亜人、闇の住人。生者死者を問わず、領域内外の客に利用される。 由緒正しいそのホテルは、どんな客であっても丁重に出迎える。 最初の扉を開いて── ◆ 「一◯四九、クリア」 「一◯四◯、クリア」 「チーム・ヘイト、オールクリア」 「了解」 ガガ、と無線の閉じる音がする。それを聞きながら、サヴォは「なんでこんな旧式無線なんだ」と不満に思っていた。服も武器も魔法式迷彩を採用した最新式、だのに何故無線だけがこんな旧式なのか、不思議でならない。 チームリーダーのアヴァルが無言で廊下の先を指し、手を振る。同じチームの二人イェンヴィとヴェラが動き、サヴォはその後ろを慌てて追う。 「集中しろ、サヴォ」 廊下の角まで来た所で、アヴァルに後頭部を小突かれた。 「リーダー、なんで無線だけこんな旧式なんスか」 「またそれか。ここは特殊なホテルだからと何度も説明しただろう」 「だって、こんなデカいヤマなのに」 「だからこそ、だ」 何度目になるかわからないやり取りに、二人は肩を竦めた。 ホテル『Le point du chemin』──多種多様な客が利用するこのホテルに、彼らの“獲物”は宿泊していた。 「サイボーグから人形まで居るってゆーんスから、余計に最新式がいいじゃないスか」 「バカが。こういうところが最新式に対応してない訳がないだろう。最高格の魂だぞ」 魂には“格”が存在する。 その格が高ければ高いほど、その魂に備わる“力”は強いという。例えばそれは、世界を支配し得るほどの。 「とにかく、もう作戦実行中なんだ。いつまでもグダグダ言ってると、階段からたたき落とすぞ」 ヒデェ、とサヴォが嘆く。それを無視して、アヴァルは階段を示して手を振った。 サヴォはため息を吐いて二人に続く。 ──最新式のテロ装備に対応していない訳が無いホテルに、無線だけ旧式にするなんてどんな意味があるってんだ。 そう、口の中だけで呟き。 ドンッ 「……っ!?」 急に足元が覚束無くなり、サヴォは息を呑んだ。 まさか今のが聞こえたのか。だとしたら、とんだ地獄耳だ。作戦実行中とか言いながら、本当に突き落とすとはなんて上司だ。動けなくなったら呪ってやる。ああ、呑気にオシャベリしやがって、ホテルの客どもめ! そこまで思考して、サヴォは目の前の光景に再度息を呑んだ。 なぜ、ホテルの客が「真下」に見えている? 瞬間、体中に重力を感じた。無意識に足を蹴るが何の手応えも無く空を切る。耳に客の笑い声が、目前に床が近付く。いいや、サヴォが落ちている。 客たちの中に、大きな赤い花が二つ咲いていた。 ──ああ! 誰も気づかない。最新の魔法式迷彩を纏った彼らに。例え、その臓物をぶちまけようとも。 二度目の衝撃と共にサヴォの意識は深紅の中に落ちた。 ◆ ドアマンはその客の姿を認め、濃紺の瞳を細めて微笑んだ。 「ようこそ、 ホテル“Le point du chemin”へ 。お待ちしておりました」 深々と腰を折り、頭を上げて再度目を合わせると、流れるような洗練された所作で扉を開く。 「どうもありがとう」 客はにっこりと微笑んで、エントランスへと足を進める。その先に、シックなドレスに身を包んだ妙齢の女性が頭を下げて待っていた。ゆっくりと頭を上げ、客の琥珀の瞳を真っ直ぐに見つめる。 「“本日はごゆるりとお過ごしくださいませ”」 ◆ 「おい、サヴォ!」 声に、サヴォはハッと顔を上げた。 廊下の角にイェンヴィとヴェラの背中が見えて、慌てて駆け出す。 「集中しろ、サヴォ」 後ろから頭を小突かれて、サヴォは小さく唸る。心臓が飛び出しそうなほど脈打っている。顳かみを冷たい汗が伝って、体が震えた。 「緊張してるのか? デカいヤマだからな」 からかうようなアヴァルの声。「まさか」と言い返しながら、サヴォは言い知れぬ不安を感じていた。 何か……何かがおかしい気がする。 アヴァルとサヴォのやり取りに苦笑しながら、二人もどこか落ち着かない様子でアヴァルを見やる。アヴァルはそれに気づかない振りをして、廊下の角から顔を出し……手を制止の形にして上げた。 三人に緊張が走る。 コツコツと革靴の音がする。このホテルの床は大理石だ、革靴の音は良く通る。 息を殺す四人。 サヴォは耳の奥に潮騒の音を聞いた。……大丈夫、最新の魔法式迷彩服を来ているのだ、並大抵の者では気づくはずが無い。 やがて足音は目の前で止まり、その姿が四人の目にはっきりと映る。 それは、ドアマンのように見えた。 青い瞳が一瞬光り──目が合う。 ──バカな! 瞬間、サヴォの視界が真っ赤に染まった。ドアマンの腕がゆっくりと横に薙いだと思うと同時に、アヴァルの首が消し飛んだのだ。 「ぅわぁああああああああああっ!?」 サヴォは叫んだ。腕に構えていた呪詛弾を込めた魔動ライフルをメチャクチャに撃ちまくる。火花と銃撃音と鉄錆の匂いが充満する。 「サヴォ! もういい!!」 イェンヴィがサヴォのライフルを天井に向け羽交い締めにする。歯の根が合わない。呼吸音が異常に大きく聞こえる。 目の前の煙が晴れて行く。廊下の壁には、肉片と銃痕と体液とが張り付いていた。足元には、アヴァルの首の無い体が転がっている。 「行こう。他のチームと合流しないと」 ヴェラの震える声になんとか頷き、足を踏み出した、その時。 「おい、どうし」 イェンヴィの声が止まる。ヴェラの息を呑む音がする。 壁に張り付いた肉片が、うぞうぞと動き出す。それはウジ虫のように壁を這い、まるで粘土細工でも捏ねるかのように人の形に集約していく。ぐじゅぐじゅと捏ねられた肉塊は飛び散った体液をじゅぐじゅぐと呑み込む。 それが収まると内側から皮を破るかのように、つい先ほどアヴァルの首を消し飛ばしたドアマンが姿を現した。黒を基調とした制服を纏い、シルクハットの下から青い瞳がまるで笑みでも浮かべているかのように覗く。 「ばけもの」 誰かが呟く声を、サヴォは自分の体を見上げながら聞いた。 ◆ 総支配人に導かれながら、客はホテルの内装をしげしげと眺めた。豪勢でありながら気取った様子を微塵も見せないそれは、細心の配慮をなされている為だ。 「なかなか凝った造りをしているのね。……信用していない訳ではないけれど、セキュリティはどうなっているの?」 「もちろん、最新式を採用しておりますよ。警備面においても、万全を期しております。それに、当ホテルの従業員は優秀ですから、どうぞご安心ください」 そう、と客は微笑む。 ◆ ガガ、と無線の閉じる音がする。チームリーダーのアヴァルが無言で廊下の先を指し、手を振る。同じチームのイェンヴィとヴェラが先に動き、アヴァルが示した廊下に辿り着いた時、ふいに姿を消した。 「おい?」 廊下の角へ着いたら、リーダーであるアヴァルが来るのを待つのが通常だ。サヴォは慌てて二人を追いかける。 「待て、」 廊下の角に足を踏み入れた瞬間、アヴァルの声が途切れ、サヴォの視界がぐにゃりと歪む。鉄錆の臭いが鼻を突いて、思わず片膝を着くと、その床は真っ黒な闇だ。顔を上げると、そこはただただ闇の広がる廊下だった。その、先に。 闇の中。病的に白い肌がくっきりと浮かび上がる。纏うは、黒を基調とした制服。ドアマン。大柄な彼が真っ直ぐに腕を伸ばした先、白い手袋を嵌めたその手に、何かがぶら下がっている。 サヴォの全身が震えた。 その真っ白な手袋が掴んでいたのは、イェンヴィの首。ドアマンの足元に、首を引き抜かれた胴体が壊れた人形のように転がっている。 ヴェラは、と視線を彷徨わせると、精霊誘導式RPGの駆動音が聞こえた。ヴェラ。 だが、その音に気づいたのはドアマンも同じで。 青い瞳が軌跡を描いて光る。 ──あ。 思った時には、精霊誘導式RPGがヴェラの腕の中で暴発した。ヴェラの長い髪がぐしゃぐしゃに丸めた糸くずのように跳ねて落ちた。 サヴォは瞬きも呼吸も忘れて呆然とした。 一体何が起こったのか。 目の前で起きている事は夢なのか現実なのか。 自分たちは何の為にここにいるのか。 そうだ、格の高い魂をホテルから奪い取って── カツン……と革靴の高い音がして、サヴォは目の前の事象に引き戻された。 闇の中に浮かぶ青白い顔。不自然なほど白い手袋。シルクハットの下から覗く、青い瞳。 それが自分の方へと向かって来ているのだと気づいた瞬間、サヴォは駆け出していた。 ◆ ホテルのレストランでは、楽団の生演奏をBGMにディナーが終わり、デザートが出されている所だった。 「当ホテルのディナーはいかがでしたか?」 総支配人が料理長を連れてテーブルへ行くと、客はにっこりと微笑む。 「とっても美味しかったわ。良い思い出になりそう」 「光栄の至りです」 料理長が目尻に皺を寄せて頭を下げる。ワゴンから一つの皿を取り出し、テーブルに置いた。 「こちら、デザートでございます」 客は「まぁ」と目を細めて歓声を上げた。 ◆ 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」 サヴォは暗闇の廊下を駆けていた。自分の激しい息遣いと重たい装備品の音とが、一歩踏み出す毎に不規則に響く。その後ろから、長くゆったりとした革靴の音が追いかけて来ていた。 自分の足音と、革靴の足音。 速度はまるで違うのに、長くゆったりとした革靴の足音を引き離すことができない。 ──くそっくそっ……くそったれめ! 心中で喚きながら、ただ暗闇だけが続く空間をひた走る。魔法式迷彩を装備しているにも関わらず、足音は迷うこと無く自分の後を追いかけて来ていた。激しい息切れのせいで喉が灼けるように熱い。 ──『アレ』さえ手に入れれば、こんなホテルなど一瞬で消し飛ばせるものを! その時、がくりと膝が折れた。踏ん張ろうと咄嗟に足を一歩前へと出すが、重たい装備品がそれを許さず、無様に床へと叩き付けられる。 ──殺される! 恐怖で頭が真っ白になった時、サヴォは追いかけて来ていた革靴の音が途切れていることに気が付いた。視界には相も変わらず暗闇の廊下が続いていたが、自分の息遣いの他、何も聞こえるものがない。ふいに脱力して、サヴォは仰向けに倒れた。 助かったのだろうか。いいや、『アレ』を手に入れるまではこのホテルから出るわけにはいかない。しかし、── 「お客様は神様です」 低い声が響いてサヴォは飛び上がった。視線をあらゆる方向に走らせ、魔動ライフルを震える手で構えた。何も見えない。 「しかし、当ホテルの罪無きお客様に仇成す者を、当ホテルは客と見なしません」 声だけが聞こえる。 瞬きも忘れて暗闇に目を凝らす。 見えない。 何も。 何も。 「どうぞ、お引き取りくださいませ」 一瞬、視界の端に現れた青い光。 直後。 サヴォは悲鳴と共に更なる深淵へと呑み込まれて行った。 ◆ ──闇の住人の領域“八百万廟”。 高度な魔道と科学が発達したこの領域は、数多の美醜と善悪、予定調和と奇跡、矛盾を孕む領域。その入り口“賢者の脳髄市”に、ホテル『Le point du chemin』はあった。 由緒正しいそのホテルは、どんな客であっても丁重に見送る。 最後の扉を開いて── 一人の客がチェックアウトを済ませ、総支配人を従えてフロントから歩いて来る。 ドアマンは微笑み、頭を下げた。 「とても楽しかったわ。どうもありがとう」 客はドアマンと総支配人を交互に見やり、微笑む。 「ご満足いただけたならば、何よりです」 総支配人は笑みを深め、そしてドアマンに視線を送る。ドアマンは小さく頭を下げ、扉を押し開けた。 扉の外に広がる光景は、“賢者の脳髄市”のそれではない。 そこは新たな世界への入り口。 客はぐるりとホテルを見回し──一歩足を踏み出す。旅立つ為に。 新たな世界の神となる為に。 「どうぞ、お気を付けて」 深々と頭を下げ、ドアマンは扉を閉じた。
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