メアリベルの雷雲色した瞳が仰ぐお空は薄蒼。 メアリベルの鮮血色した髪が触れる頬は真白。 赤毛を飾ってふわり揺れるリボンはベルベット。紺色のスカートの裾はひらり、エナメルの靴がぴかり。 これから誰かとお茶かと世界図書館から迎えに来た一人は問うた。 これから誰かの葬送かと世界図書館から迎えに来た一人が問うた。 世界図書館の司書だと言う赤茶色のわんこに渡されたパスケースを、どこまでも晴れ渡った零世界の空に翳して、メアリベルは不穏な空の色した瞳を笑みの形に細くする。薄紅の小さな口を幼い笑みで緩ませる。 わんこはメアリベルのトラベルギアだと言う可愛くて恐ろしい斧を、不思議の力でパスケースの内に仕舞ってしまったけれど。 元々持っていた手斧よりちょっぴり重たいけれど、あれはあれで素敵な斧。 あの斧はいつでもメアリベルの思うがままに取り出せるのかな? 「わんわんと 犬はいいます」 笑み刻んだ唇で、メアリベルは口ずさむ。 あのわんこはわんわんとは言わなかった。斧で首をちょん切ったら、もしかしたらわんわんって言うかしら? 「それとも、小さなワンちゃんブルー・ベル? メアリ・ベルとちょっと似てるね、ミスタ・ハンプ」 パスケースを持たない方の小さな手と手を仲良く繋いでいるのは、お澄まし顔の卵の紳士。メアリベルの忠実な下僕ハンプティ・ダンプティは顔とも身体とも取れる卵から伸びた細い手をメアリベルに引き摺られ、ぶらぶら揺れる。 メアリベルは華奢な首をちょこんと傾げる。 ブルー・ベルにしては少し大きいかなあ。あのわんこも地下室のビールの樽に頭を突っ込んで沈んだりするのかな。 「なんにもない ワン」 メアリベルはぴょんと跳ねる。ちょっと遅れてミスタ・ハンプもぴょん。ミスタ・ハンプの細い足がぐきりと折れて着地に失敗する。重たい頭が石畳に激突する。白い殻が割れる。透明な白身と血の混じった橙の黄身がどろりと道に零れだす。 中身をぶちまけ、だらんとするミスタ・ハンプを引き摺って、メアリ・ベルはご機嫌で歩く。お天気は晴れ、永遠の晴れ、することのないメアリベルは初めての街を楽しくお散歩。 石畳の街路を弾む足取りで行けば、ミスタ・ハンプが砕け散る。粉々になった白い殻がバラバラと道に散らばる。 赤いお屋根に青いお屋根、赤い煉瓦に白い壁。メアリベルと同じに頭がひとつに手足が四本の人、頭が白いライオンの人、猫の人。背中に翼を持った人。真白の人に真っ赤の人。ターミナルには知らない人がたくさん。知らない場所がたーくさん。 石畳の道の真中に、銀色の線路が延びている。道より一段高くなった場所で、知らない人達が皆で何かを待っている。 「ねえ、何をしているの?」 一番端に立っていた、蝙蝠傘を杖代わりに突くお爺さんに訊いてみる。 「トラムを待っているんだよ、小さなレディ」 「トラム? トラムってなあに?」 唄うように言う少女に、老爺は眼鏡の奥の眼を笑ませる。 「ターミナルの色んなところに連れて行ってくれる乗り物だよ」 ほら来た、と言うお爺さんの声に合わせ、ちん、ちん、と可愛い警笛の音が街の向こうから聞こえてくる。四角い乗り物がやってくる。 「ありがとう、ミスタ」 老紳士にエスコートされ、メアリベルはトラムに乗り込む。いつの間にか、誰にも知られない間に元の形に戻ったミスタ・ハンプが静々と後に続く。 メアリベルを乗せてトラムが動き出す。 「動いた動いた! ミスタ・ハンプ、動いたよ!」 メアリベルはミスタ・ハンプと一緒に窓際にかじりつく。景色が揺れながら流れて行く。メアリベルは動いていないのに、知らない処から知らない処へ連れられて行く。 青空市場の前でトラムを降りる。だってとっても賑やかで楽しそう。 荷車いっぱいに積み上げられた林檎に檸檬、葡萄にオレンジ。切り立てお肉に釣りたてお魚。生き埋めのお花、ちょん切られたお花に葉っぱ。 お肉を挽いてすり潰して油で揚げるお店、魚の鱗を掻き削って頭を叩き切って火で炙るお店。 たくさんの笑顔の人がたくさんの死体を売り買いしている。明るい音楽、明るい笑い声。 笑い声に誘われて市場を歩く。活け作りの花が飾られた煉瓦壁の前で、黒づくめの老人がシルクハットをひらひらと振っている。メアリベルが首を傾げて見ている内に、シルクハットの中から真っ白な鳩が飛び出す。キラキラした紙吹雪が噴き出す。 「すごいすごい!」 真っ白の頬に笑み貼り付けて、メアリベルは両手を鳴らす。主に従い、ミスタ・ハンプも両手を鳴らす。 可愛い淑女の喝采を浴びて、老手品師は大仰な礼をする。 メアリベルは青空市場の空をぐるぐると舞う鳩を見上げる。弓を絞ったら鳩に当たるかしら? それとも手品師のお爺さんに当たっちゃうかしら? 老手品師とそっくり同じ礼をして、メアリベルは散歩の続き。 白い石畳の眩しい青空市場の真中には人魚の銅像が飾られている。ぴかぴかの動かぬ人魚、陸の上で乾上がるばかりの人魚の前では、シルクハットを被った少年が高らかにトランペットを吹き鳴らす。揃いのハットの青年が華やかにアコーディオンを弾き奏でる。 心浮き立つメロディに、メアリベルはにこにこする。エナメルの靴がリズムを刻みだす、小さな掌が拍子をとる。それでも足りずにあどけない声が歌い出す。それでもそれでも足りずにミスタ・ハンプの両手を取って踊りだす。くるくる、くるくる。 「なかなか素敵な処ねミスタ・ハンプ! ターミナルが好きになれそう!」 楽しく歌い踊るメアリベルにつられて、どこからか赤鼻ピエロが現れる。おどけた仕種でメアリベルに一礼。お嬢さん、お手をどうぞ。 メアリベルが差し出した手に、赤鼻ピエロは真っ赤な風船を繋いだ糸を握らせる。明日には萎む風船が宙に浮かぶ。 「ありがとうミスタ、大事にするわね」 メアリベルは満開の花のような笑みを顔に浮かべる。幼い少女のようにぴょんぴょんと跳ねる。ミスタ・ハンプが危うげにぐらぐらする。 赤鼻ピエロが手を振り振り人込みに紛れて消える。 明日に萎んでしまうなら、今ここで割れてしまうも同じかしら。違うのかしら。 「メアリと一緒に来る?」 メアリベルがエナメルの靴を鳴らすたび、赤い風船がぽよんと跳ねる。右手にミスタ・ハンプ、左手に真っ赤な風船持って、メアリベルは初めての零世界をとことこお散歩。 人と人の間を抜けて、人と人でないものの前を横切って、煉瓦の道も雑草の生えた土の道も通り過ぎる。視界の端にいつも踊る真っ赤な風船。路地で赤い風船をエナメルの靴で踏んでみる。いち、にい、さん、し。 さん、し、で風船は割れる。ぱん。ミスタ・ハンプがびっくり仰天、転んで割れる。路地に中身をどろどろ零す。 割れて千切れた空っぽの風船と、砕けて死んだミスタ・ハンプを置き去りに、メアリベルは路地を通り抜ける。 路地を抜けても空は晴れ。真っ青の晴れ。 おめかしした猫の婦人がしゃらしゃら歩く。 「どこに行くの、ミス?」 「此処は画廊街。肖像画を描いてもらいますの」 透明のお髭を震わせ、口紅ひいた唇の端から凶器のような鋭い牙を覗かせて猫の婦人は笑う。メアリベルも笑う。歌うように言う。 「肖像画? 素敵ね、ミス。そうすれば、きっと誰もミスのお顔を忘れないわ!」 メアリベルがスカートの端を摘まんでお辞儀すれば、猫の婦人もお辞儀する。 メアリベルは画廊街をダンスの足取りで歩く。モザイク模様の道の両側には、筆の看板、額縁の看板、針と糸の看板、素敵なお店がたくさん並ぶ。お洒落した人がたくさん行き交う。 「皆忘れられたくないのね、ミスタ・ハンプ!」 メアリベルが名前を呼べば、メアリベルの忠実な下僕のミスタ・ハンプは現れる。何度割れても何度中身を地面にぶちまけて死んでも、メアリベルが彼を覚えている限り、ミスタ・ハンプは現れる。 ミスタ・ハンプのまあるい首を抱き締めて、メアリベルはふと気付く。 道の端っこ、地面に敷き布を引いただけのお店を広げる男が居る。敷き布の上には、絵の具で描かれた色んな人の色んな顔。微笑んだり怒っていたり、悲しんでいたり。 「何してるの、ミスタ?」 「似顔絵を描いているんだよ」 敷き布の上に座り込み、スケッチブックに唯ひたすら絵筆を走らせていた絵描きの男が顔を上げる。片方の目が潰れている。 「ふーん」 ふうわりとスカートの裾を膨らませ、メアリベルは絵描き男の前にお淑やかに座りこむ。 「ねえミスタ、メアリを描いてくださらない」 背筋を伸ばして顎を引いて、唇にはそっと静かな微笑み浮かべて。 お澄まし顔のミスタ・ハンプにも負けないお澄まし顔をするメアリベルを、絵描き男は隻眼で見詰める。スケッチブックを捲り、新しい絵筆を取る。 お澄ましメアリベルとミスタ・ハンプは絵描き男がどんな風に絵を描くのか見たくて見たくて堪らない。でも、紳士と淑女は肖像画が描きあがるまでじっと我慢。ちょっとそわそわするけれど、掌を両膝に揃えてじっと我慢。 絵描き男はものの数分でメアリベルを描き上げる。 メアリベルは渡された似顔絵をわくわく受け取る。 「これがメアリ?」 紙の上には真っ赤が踊る。どろりとした夕暮れの朱、腐って潰れた苺の紅、斧に切られた首から溢れる熱い血の赤。真っ赤な真っ赤な怪物。 かろうじて少女のかたちした、恐ろしい殺人鬼。 「へーんなの!」 愛らしい少女の笑い声をあげるメアリベルを、絵描き男の潰れた眼が見る。 「僕は君の真実を描いたんだよ」 「ふーん」 メアリベルは似顔絵を両手に持って掲げ見る。明るい空の光が透けて、紙の上の赤がメアリベルの白い顔に真っ赤に落ちる。 これでメアリは忘れられずに済むかしら。絵描きのミスタはメアリの姿をずっと覚えていてくれるかしら。 「ありがとうミスタ、大事にするわね」 似顔絵を手に、メアリベルはレディの仕種でお辞儀する。 「メアリを、忘れないでね」 覗きこむ者を不安に駆り立てる、嵐の前の色した瞳でにこにこ笑う。絵描き男は無事な方の眼を丸くして何度も頷く。 桃色の唇にご機嫌な笑みを滲ませ、メアリベルは弾む足取り。 ああ楽しい、とっても楽しい! 見るモノ体験するコトどれもこれもとっても新鮮! あれもこれもどれもそれも、向こうにはなかったものばかり! ああ楽しい、とっても楽しい! ――卵男を連れて、殺人鬼は画廊街を去る。 賑やかさから離れて行けば、薄蒼の空の光を繁る木々が全て受け止める、仄暗い墓地に辿り着く。メアリベルはこくりと首を傾げる。ミスタ・ハンプが真似をして、自分の足と足を絡ませる。おっとっと、すってんころりん。ぐしゃりと中身をぶちまける。 動かなくなるミスタ・ハンプを首傾げたまましばらく見下ろし、メアリベルはにっこり笑う。うふふ、ミスタ・ハンプがお墓の前で割れちゃった。 墓地と街を区切る柵を跳び越える。整えられた芝生の墓地には誰もいない。墓石の下、静かに眠る死者ばかり。 「ゆりかごから墓場まで」 呟けば、言葉は全て詩になる。 詩になる自分の声が嬉しくて、メアリベルは花を取り出すようにトラベルギアの斧を取り出す。魔法みたいに現れる斧が嬉しくて楽しくて、斧を両手で振り回す。 「メアリもいつかここで眠るの?」 銀色の刃が空を切る。悲鳴のように風が鳴る。悲鳴の声を音楽に、メアリベルはひとりでダンス。くるくる踊る。 「でもメアリはずっと唄って踊っていたいな!」 墓石の上に飛び乗って、斧は少女の体の後ろに隠して。 メアリベルはレディの仕種でお辞儀をひとつ。 「ずっとずっと、ずーっとずーっと!」 永遠の青空の下、永遠を失って永遠を得た死者の上で、くるくる、くるり。 終
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