小糠雨が梢の葉に積もる。 昇り始めの満月を斑に覆う雨雲から、細雨より先んじて風が吹き降りる。晩夏の湿気含んだ風が、葉にこびり付いた霧状の雨を雫と成して払い落とす。 夕闇を滑り落ちた雫が、樹下を通りがかった男の首筋を撫でた。 男の丸めた背中がぎくりと伸びる。疲れ切って隈の浮いた眼が恐怖に近く開く。息さえ詰めて、引き摺っていた足を止める。ゆっくりと、恐々と頭上を仰ぐ。 気紛れな風が降る。梢から雨雫を振り落とす。 黄昏の色帯びた雲間から、陽の欠片が僅かに溢れる。最後の夕陽に照らされ、己がうなじを撫でたものの正体を確かめて、男は安堵の息を洩らす。樹を仰ぐ男の顔を肩を、雨粒が打つ。 半ば崩れたブロック塀越し、長年放置されて育ちに育った木蓮の樹が伸び放題の枝を覗かせている。重なり合った大振りな葉が風に揺れ、男の額に水滴を落とす。 眉間や頬に付いた冷たい雫を掌で拭い、男は外灯の明りが等間隔に並ぶ道へと視線を投げる。夕暮れの道の両側には、家の軒が連なる。 周囲の家の窓に灯る明りに、換気扇から溢れ出す夕餉の匂いに、風呂場から聞こえる子供の笑い声に、男は疲れた吐息を洩らす。 遠くから響く電車の音に、何処かの庭の犬の鳴き声に、道を何本と挟んだ道路を走る車の音に、男は身を硬くする。周囲に視線を彷徨わせる。 黄昏の住宅街の道に、人気は無い。 男が足を止めた家に、人気は無い。 所々崩れたブロック塀には緑色の苔がへばりついている。赤錆びた門扉には『売家』の看板が針金で結わえられている。手入れする者の居ない庭から溢れ出した雑草が、門扉の隙間から濃緑色の腕を方々に伸ばしている。 「……こんなみみっちい家」 自嘲にも似た引き攣った笑みが疲弊した顔に浮かぶ。 「何十年経っても売れねえよ、親父」 黒く隈の浮いた眼が歪む。 黄昏に暗く染まる半袖シャツの腕を伸ばし、危うく軋む小さな門扉を引き開ける。雨に濡れた雑草から夏草の残り香が立ち昇る。 玄関に至る白い飛び石には、枯れて腐った紫陽花の花群が萎びた死体の首のように幾つも幾つも垂れ落ちている。 男は僅かにたじろぐも、大きな息を吐くと同時、飛び石に落ちた紫陽花の頭を靴底で踏みにじる。玄関に進む。湿気った木格子の引き戸に手を掛ける。鍵が掛かっている。 けれど幼い頃この家に住んでいた男は、古い引き戸の何処から棒切れを突っ込んで、どう動かせば鍵が外れるのかを知っている。 鍵をこじ開け、廃屋となった生家に入る。 三和土で靴を脱ごうとして、止める。馬鹿らしいと吐き捨て、土足で板敷きの廊下に上がり込む。 人ひとり通れるほどの板敷きの廊下は、男が踏み出すごとに軋んだ。 突き当たりには台所。 左手には風呂場と便所の扉。 右手にはささくれた木枠の磨り硝子の障子。 閉ざされた硝子障子の向こうは、黄昏の光が細く差し込む廊下よりも暗い。 建てつけの悪い硝子障子を引き開ける。 男はちらりと首を捻る。庭の荒れ具合から、ろくに管理もされていまいと踏んで勝手に侵入したが、室内は案外荒れていない。 畳敷きの居間から続く縁側の雨戸は閉め切られているが、空気には澱みも黴臭さも感じられない。日焼けの跡が残る畳も、腐っているようには見えない。六畳の部屋の隅には雨漏りを受け止めるバケツさえ置かれている。 ぱん、とバケツの底を水滴が叩く。 びく、と男の肩が震える。 震えたことに舌打ちして、男は六畳間に踏み込む。近所の子供が入り込んで悪戯しているのだと思い込む。 ほとんど空のバケツを覗き込み、次の間に続く襖を開ける。 「こんな箪笥、あったっけか」 思わず呟きを零す。台所の脇に当たる四畳間の壁には、古びた廃屋に似つかわしくない洒落た箪笥が、けれど何十年も前からそこに置かれていたもののように妙にしっくりと納まって佇んでいた。 台所と四畳間を遮る硝子障子の摺り硝子越し、夕闇が流れ込む。箪笥に近付き、薔薇の透かし彫りが施された抽斗に触れる。子供が悪戯するのだろうか、抽斗が半開きになっている。 艶やかに磨きこまれた天板に、獣の短い毛が数本落ちている。野良猫がどこからか入り込むのか。 何気なく掌で猫の毛を払い落としていて、ふと気付いた。夕暮れの小雨に濡れたシャツの懐に、何か冷たいものがある。違和感に気付いてしまえば、確かめるしかない。冷たい指先を懐に潜り込ませる。 薄い布越しの左胸に、しん、と貼り付いていたのは、掌に小さく納まる白い石。長く雨や陽に曝され、真白く色の抜けた―― 黄昏に翳る男の顔が、不意に恐怖で歪む。 己の顔が歪んだことに気付かぬ振りをして、男は白い小石を半開きの抽斗に放り込む。己の目に触れぬよう、意識に触れぬよう、固く蓋をする。抽斗を閉じる。 箪笥から顔を逸らし、四畳間を出る。猫の爪痕が端に残る襖を隙間なく閉ざし、四畳間と六畳間に壁を作る。 たん、とバケツに水滴が落ちる。 薄暗がりで、男は腹の底から疲れ切った息を吐き出す。足を踏み出すのも億劫になる。膝をつく。畳に体を倒す。乾いた畳に頬を押し付ける。古びた畳の、僅かに泥の混じった臭いを胸に満たす。床下から聞こえる虫の声を頭蓋に満たす。 眠りに引きずり込まれる。 虫の声がしない。 人の声がする。 暗がりに男は眼を見開く。身動ぎもせずに耳を澄ます。 襖の向こうの四畳間から、ひそやかな話し声がする。 息を詰める。衣擦れの音さえ立てぬように身を起こす。己の身を横たえていた畳だけが生暖かかった。六畳間には深夜の冷たい闇が満ちていた。 廊下に流れる月の光だけを頼りに畳を這う。低く、何者かが喋っている。 寝ている間に別の誰かが入り込んだのか、そう思おうとする。 襖の僅かな隙間に眼をつける。 雨戸に閉ざされていない分だけ、四畳間は明るかった。闇を四角く切り取って、擦り切れた畳に月明かりが落ちている。 白い月光の内に、見知らぬ和装の者が端座している。 月光を浴びて、栗色した短髪の縁が、纏うた檜皮色の着物の背が、金茶に透けている。 「そこをお通しくださいませ」 和装の者と相対する闇が声を発した。発声するを得手としないような、切れ切れの声。男のものとも女のものともつかぬ声。 男は月光から闇に眼を移す。光に慣れた眼で闇に眼を凝らして、闇の中、ぼうと白く浮かぶ二つのまなこを見た。ひ、と声が洩れる。闇に浮かぶ眼が恐ろしい速度で襖を見遣る。男は総身を汗に濡らす。 逃げようにも、体は己が身でなくなったかの如く、指先ひとつ動かせぬ。 「だめだよ」 和装の者がからりと応える。月の光集めて琥珀の色した瞳が、どこまでも穏かに闇を見詰める。 襖を挟んで身を凍らせる男に気付いたか気付かなかったか、闇の眼は俯くように瞬いた。 「そこをお通しくださいませ」 月光の中に背を伸ばす和装の者と同じく正座で差し向かい、闇の中の得体の知れぬ影は繰り返す。 「だめだよ」 闇の中の影が申し入れる度、和装の者は感情交えぬ声音で応じる。おそらく幾度となく繰り返したであろう問答。けれど影にも和装の者にも焦りは無い。怒りは無い。影はただ訥訥と通せと言い、和装の者はからりと無機質に、あっけらかんと、通さぬと応える。 得体の知れぬ影が黙り込む。 和装の者も黙り込む。 部屋に流れ込んでいた月の光が吹き消されるように消え、正座で向き合う二人の姿を闇が呑む。どこか張り詰めた沈黙が二人の間に落ちる。 「女が逃げて参りました」 影は唐突に語りだす。 「男が追うて参りました」 闇の中に唯一光帯びるふたつの眼は、静かに和装の者を見据えている。襖隔てて、男は冷や汗に身を凍らせ僅かも動けぬ。 「許してと女が叫び、別れてやるものかと男が怒鳴り。男は女を殴打いたします。何度も何度も、何度も。おまえが悪いのだと泣きながら喚いて」 あそこには誰も居なかったはずだ、と男は戦慄く。 「女が逃げて参りました」 道を外れ、僅かに轍の残るだけの林道をよろめき逃げる女の背を、獣のように追うた。女の頭から流れ出た血が細いうなじを滑り、背を濡らす。 黄昏に、逃げていく女を追うた。 「男が追うて参りました」 林道の果てには崩れかけた石階段があった。半ば朽ちた木の鳥居があった。女の背を濡らす血の紅と、鳥居の朱と、黄昏の茜と。記憶にある杜は全てが赤い。 「許して、許して」 許すものかと女を撲った。うずくまる背を踏みにじった。 「女は命を奪われました」 髪を血紅に染め、動かなくなった女の傍らに立ち尽くした。 落とした眼に苔生した石畳が写った。空を仰げば陽の名残は疾うに去り、杜の梢重なる空には夜闇が満ちている。 みしり。何かが軋む音がした。音した方に視線向ければ、朽ちた社があった。社を囲うて、呪い掛けられたように黒ずんだ絵馬が散らばっている。 『ずっと一緒に居られますように』 『いいひとがみつかりますように』 絵馬に籠められた願いを眼で追うていて、ふと、我に返った。 足元に転がる女の死体を見下ろす。 死んでいる。 殺した。殺してしまった。 「男は去ってゆきました」 怖くなった。ただただ、怖くなった。 「女は男と別たれ、残されました」 その朽ちた社を再び訪れたのが、昨日。 女はあの後息を吹き返したのかもしれない。一人で何処かに逃げたのかもしれない。愛しい女を殺した上に逃げ出した己の罪は、無かったことになるかもしれない。 そう思って、そう願って、崩れかけた石階段を一人登った。 「男が再び参りました」 女の姿は無かった。ただ、ひともとの木があった。 女は生きていたのだ、一人で逃げたのだ、と息を吐いて空を仰いで、 ――生長した樹に持ち上げられ、梢に絡まる頭蓋骨を見た。 虚ろの眼窩から枝生やし、歯の隙間から葉を覗かせ、それだけ朽ちぬ長い黒髪に枝を絡ませ、女はそこに居た。 みしり。蠢いたは樹か女の骨か。頭上の樹から白く輝く砂が降る。 それが風雨に曝され微塵に砕けた女の骨だと気付いて、 「男は再び逃げました」 逃げて、逃げて逃げて、辿り着いたのは己がもので無くなった己が生家。 幼い頃に男が寝床としていた四畳間に端座し、影は続ける。 「別たれたものは元に戻さねばなりませぬ」 雲が切れ、窓から月明かりが降り落ちる。月の光に姿現した和装の者は、先と変わらず揃えた膝に手を置いて、ただ静かに影の言葉を聞いている。 四畳間には、彼ら以外の姿は無い。 「女の骨も」 影の声に感情は無い。 「男と女も」 女の骨に取り憑いた妖は、闇に眼光らせ己が使命を声にする。 「それを願ったので御座いましょう」 朽ちた縁結びの社に憑き、女の骨に憑いた妖は、女の願いを語る。別れようとして殺され、別れ切れなかった男への未練。男への執着。 「そこをお通しくださいませ」 訥訥と影が云う。 女の願いを叶える為、縁結びの社に憑いた己の役目を果たす為。 「だめだよ」 からりと和装の者が応える。 箪笥に仕舞われた女の骨は動けぬ。箪笥の懐に呑まれた妖は動けぬ。 男は瞬く。 襖から眼を引き剥がす。畳に尻をつく。 廊下に朝の光が満ちている。襖の隙間からも眩い朝陽が流れ出ている。 男は長く止めていた気のする息を吐き出す。体が芯から冷えているのは、床下から這い出す秋の冷気のせいだけか。 襖の隙間から、箪笥が見えた。 血の気が引くように気付く。夜、箪笥を見た覚えがない。 息を殺し、耳を澄ませる。秋虫の声が床下から、荒れた庭から、聞こえてくる。家の外を車の過ぎる音がする。 廃屋は静まり返り、誰がいる気配もない。 泥の散る畳を這い、軋む廊下を転びつつ駆ける。玄関戸を体当たりして開ける。朝露に濡れて横たわる萎びた紫陽花に突っ込む。乾いた喉が引き攣る。 身を起こそうとして、足元に絡まる生温かく柔らかな感触に悲鳴を上げる。乾いて引き攣った喉からは掠れた声しか出なかった。 にゃア。男の足首に長い尾を巻きつかせ、どこから現れたのかも分からぬ猫が哂う。 息荒げ、眼を丸くする男の背後で、玄関戸が、家の内の硝子障子が、襖が、がたがたと震える。閉ざされた内から外へ出ようとして、何ものかが廃屋を軋ませる。 「いかないで」 「置いていかないで」 三度、逃げ出そうとする男の背に声が掛かる。 最早男のものでなくなった生家が鳴る。男は動けない。 にゃア。猫が哂う。 終
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