揺れる柳の枝の下を通る。鯉の泳ぐ石の水路を右手、千本格子の町家を左手、水のせせらぎを耳に、時折鯉と共に跳ねる清水の飛沫を足元に、石畳の緩やかな坂を登ること暫く。 杉玉の吊るされた造り酒屋の斜向かい、紺地に白で舞い飛ぶ蝶を抜いた暖簾の商家がある。暖簾の端には、小さく『軋ミ屋』の文字。 竹の犬矢来が巡らされた玄関の脇には、円筒の花瓶が置かれ、紫陽花に似た白く細かな花をみっしりと咲かせた水無月の枝が飾られている。 暖簾の奥、大きく開かれた格子戸を潜れば、 「あっ、いらっしゃいですー!」 暖簾と同じ紺地に白蝶の前掛けの少女が元気よく迎えてくれる。肩まで伸びた黒髪の右側だけを結わえ、つり眼気味のくりくりした瞳を嬉しそうに輝かせ、 「今日はどんな紙が欲しいです?」 物怖じせずに笑う。 黒髪の少女を囲うように、板敷きの店舗である店の間には様々な色の様々な紙が置かれ、展示されている。 桜色から紅牡丹色まで、卵色から杏色まで、色濃くなる何丈とある巻紙、蝶や花や葉の絵柄を漉き込んだ葉書、灰白や象牙色した和紙の束、露草や空や水底を切り取ったような折り紙、金銀を散らした鉄黒の色紙。珊瑚に山吹、竜胆に若竹、黒檀、桔梗。色とりどりの、様々な質の、紙の森。 『軋ミ屋』は、紙を商っている。 店主は、と問うと、少女は結うた髪をぴょこんと跳ねさせ首を横に振る。 「奇兵衛さんは留守です」 そんなら待たせてもらうよ、と勝手知ったる他人の家とばかりに上がり込む。 「えっ、あ、ええと! そっちはプライベートルームなのです!」 止める間もなく、和装の客に目の前を横切られ、店主の留守を預かる仁科あかりは跳ねるように客を追って振り返る。 制止の声が聞こえないかのように、和装の客は店の間の脇の細長い土間を摺り抜け、家の片側を奥の間まで貫く通り庭をすたすたと歩いて行ってしまう。 「わ、わっ、待って待って!」 制服のスカートに絡む前掛けを捌ききれずにもたつき、慌てて客を引き止めようと駆け出しかけて、 「只今戻りましたよ」 当の店主の声にくるりと踵でターンする。 藍の着物に紺青の羽織を纏い、『軋ミ屋』店主が暖簾を分ける。 「お帰りなさい、奇兵衛さん」 結うた髪をぴょんと揺らし、あかりは奇兵衛に笑みを向ける。そうしてまたくるり、踵で回る。 「ごめんなさい、今お客さんがっ」 連れ戻します、と奥に掛けて行こうとする黒髪の少女の細い背中を、奇兵衛は掌で軽く叩いて止める。 「構いませんよ」 髷を結った灰色の鬢を撫で、奇兵衛は暗紫の眼を柔らかな笑みに細める。 「もうちょいとの間、店を頼みますね」 言い置いて、こなれた仕種で着物の裾を捌き、奥の間へ侵入した客を追う。 奥に向かう羽織の背中を見送りながら、あかりはふと思う。そう言えば、さっきのお客さん、足音してたっけ? 「お疲れさま。少しお休みなさい」 そう言いながら奥から戻った奇兵衛の手には、人形に切り抜いた白い紙が摘ままれていた。人形を羽織の袖に仕舞いこみ、奇兵衛はあかりを店のの奥、四畳ほどの畳敷きの間に招く。 「さっきのお客さんは?」 「帰られましたよ」 さらりと微笑んで応える奇兵衛の顔をあかりは見上げる。見仰いでくる子供の黒い眼を真直ぐ見返し、奇兵衛は笑みを深くする。 「そうなの、……です?」 あかりは思わず眼を逸らす。バイト先の店長さんにこんなこと思っちゃうのは失礼かもだけど、奇兵衛さんはちょっと、ほんのちょっとだけだけど、怖い。いつもにこにこ、誰にでもにこにこ、愛想はいいんだけど。 こんなこと思っちゃうのはごめんなさいなんだけど。 どうしてかな、ともう一度奇兵衛の顔を見仰ぐことにチャレンジしてみて、心の中までもを見透かすような紫色の眼と眼がばっちり合ってしまった。なんだかぎくりとして、やっぱり眼を逸らしてしまう。 この人怖いと思っちゃったこと、見破られちゃったかな……? 前掛けを両手で掴んだり離したりするあかりを、奇兵衛はおいでおいでと手招きする。その顔には、やっぱりいつもと変わらない笑顔。 誰にでもにこにこ、誰にでも変わらない笑顔ってことは、誰でも同じってことなのかな? どうでもいいその他大勢と同じ、ってことなのかな? 『軋ミ屋』にバイトに入るようになって結構経ってると思うけど、わたしもやっぱりその他大勢ってことなのかな? (だとしたら) だとしたら、寂しいなあ。 そう思って、あれれ、と首を傾げる。奇兵衛さんに出会った頃はこのおじさんなんか怖い、ばっかりだったのになあ。 強張った顔をしたかと思えば難しい顔をして、しょんぼり肩を落としたかと思えば不思議そうに首を傾げて。僅かの間にくるくると表情を変える少女を横目に眺めつつ、奇兵衛は畳の間に上がる。手慣れた動作でお茶を入れ、戸棚に仕舞っておいたお茶請け用の蕪の浅漬けを取り出す。 「仁科さん」 おいで、ともう一度呼べば、少女は今度は素直に店の間よりも一段高い店の奥の畳に上がってくる。ちゃぶ台に乗せた湯呑みと漬物の皿の前に正座し、ありがとう、いただきます、と両手を合わせる。 「若い娘さんには甘いものの方が良かったかな」 向かいに座し、端正な仕種で茶を喫する奇兵衛に、あかりは首をぶんぶんと横に振る。添えられた箸を手に取り、漬物の皿に伸ばす。 「この蕪、前にわたしが差し入れた蕪です?」 蓮華の色にも似た赤紫の蕪。薄く切られたひとひらを口に運ぶ。奇兵衛はにこやかに頷く。 「確かご友人が育てられたとか」 「ですです! かっちー、樹海に畑作ったんだって! 時々ワームに襲われたりもしてるけど、心強いボディガードが付いていてくれるから全然大丈夫なんだって」 大好きな親友に話題が及ぶと、あかりはいつも以上に饒舌になる。 「野菜もね、たまに変なものも採れるけど、大体は美味しいんだ! かっちー、野菜を育てるの、すっごくすっごく上手なんだよ」 嬉しそうに話しながらお茶を飲み、漬物を口に運ぶあかりを眺め、奇兵衛はゆっくりと湯呑みに口を付ける。 「これ、奇兵衛さんが漬けたのです?」 「長い事ひとりだからねえ、家事炊事、一通りは出来ますよ」 奇兵衛が住まいとしている『首攫イ邸』を、あかりは何度も訪ねている。なんだか怖い名前のお邸だけれど、あそこには親しい友達のバーミヤンこと橡が住んでいるのだ。風に揺れる柳の枝を怖がったりするバーミヤンが住んでいるのだから、名前に反してきっと全然怖くなんかないお邸なんだろう。 その『首攫イ邸』はいつ訪ねても綺麗に掃除され、整理整頓されていた。掃除しているのは奇兵衛さんなのかな、バーミヤンなのかな? それとも二人で掃除しているのかな? (あれ、でも、二人揃ってるとこ、見たことないや) 「はい、ごちそうさま」 奇兵衛が丁寧に両手を合わせる。この人は仕種がいちいち綺麗な人だ。真似をしてみよう、と両手を合わせて眼を伏せて、うまく真似っこできてるかな、とちらりと眼を上げて。 くすりと微笑む奇兵衛の眼と眼が合った。柔らかく緩む目尻と唇が妙に艶っぽくて、あかりは思わず頬を赤らめる。 「ごっ、ごちそうさま! です!」 「お粗末さま」 流れる仕種で茶器と空の皿を片付け、店の間に入ろうとする奇兵衛の背をあかりは追いかける。 「紙を、買いたいです」 制服のポケットからパスホルダーを、パスホルダーの中から0世界通貨であるナレッジキューブを取り出す。ナレッジキューブと一緒に、フォックスフォームのモーリンがぽふんと板間に転がり落ちる。パスホルダーの中で転寝をしていたらしいあかりのセクタンは、寝惚け眼でもぞもぞと身動ぎし、ふかふかの尻尾をクッション代わりに二度寝しようとして、 「はいはい、今日はどちらが良いかな?」 振り返って眼を細める奇兵衛の声に飛び起きた。大きなとんがり耳をぴんと立て、濡れた黒い鼻と透明な髭をひこひこ揺らし、大慌てで周囲を見回す。 「おや、モーリンさんかい」 奇兵衛に声を掛けられ、毛を逆立ててぴょんと跳ねる。あかりの足に縋りつきよじ登り、パスホルダーにダイブする。 「わわ、モーリンっ?」 焦るあかりにも構わず、モーリンはパスホルダーの中に籠もって出てこなくなる。 「嫌われてしまったかな」 さして気にも留めずに奇兵衛は微笑む。 「そんなことはっ」 あかりは結うた髪をぱたぱたと揺らして頭を横に振り回す。構わないよと手を軽く振ってみせる奇兵衛にちょっと悲しくなる。 「さ、どれがいい」 店の間の様々の紙を背に、奇兵衛が身体ごと振り返る。色とりどりの紙たちが、風も入ってきていないのにカサリと音立てて震えた気がして、あかりは眼を擦る。 「ええっと、……」 花畑の只中にいるような、色とりどりの紙の森にあかりは踏み込む。 画仙紙、これは書道用の紙。『軋ミ屋』取り扱いの紙は墨の色が綺麗に出るのよ、ってこないだ紙を買いに来た書道家のお姉さんが言っていた。 裏地に油を引いた油紙、これは防水加工されてるってこと。傘張りのおじさんがよく買いに来る。 文様紙、華やかな色と絵がたくさん刷り込まれた紙。千代に更紗に、……後なんだっけ。たくさんたくさん種類があるけど、これを折り紙にするとすっごく綺麗。 紙問屋『軋ミ屋』バイトに入るようになってから勉強して覚えた紙の種類や、商品を買い求めに来店するお客さんの顔を思い浮かべながら、普通の紙を置いている棚や文机の周りを見て回った後、あかりは奇兵衛を振り返る。 「今日は『そうじゃない方』の紙をください」 それじゃあ、と渡されたのは、金銀の蝶が刷り込まれた梔子色の千代紙。 「これはどうやって使うです?」 「折り紙にしてごらん」 にっこりと笑う奇兵衛の後ろ、暖簾が別れてお客が入ってくる。いらっしゃい、と接客する奇兵衛に小さく頭を下げて、あかりは休憩に入らせてもらう。 店の奥のちゃぶ台で、言われた通りに千代紙を折る。鶴に奴に兎、舟に朝顔に兜、思いつく限りに折って、千代紙が尽きたところで気が付いた。 鶴が羽ばたいている。奴が兜を被ろうと頑張っている。兎は耳を揺らして跳ねている。朝顔は咲いたり閉じたり、舟は宙に浮かんだり。 「ひゃあっ?」 思わずあかりは声を上げる。あかりの声に驚いて、折り紙たちが飛び上がる。鶴と兜つきの奴はあかりの背丈よりも高く舞い上がり、兎はちゃぶ台から落ちて畳を跳ね回る。朝顔はくるくる回り、舟は波に呑まれるように引っ繰り返って宙返り。 「わ、だめだめ、待って待ってっ」 ばたばたするとお客さんの邪魔になっちゃう。大慌てで捕まえようと伸ばすあかりの手を摺り抜けて、折り紙たちはてんで好き勝手に動き出す。 「こッ、こら、だめだってば」 店の奥から羽ばたいて逃げ出す鶴を追いかけて、あかりは全身で跳ねる。伸ばした指先な翼を掠められ、鶴は楽しげに震えて笑う。 笑ったところを、 「おやまあ」 お客あしらいを終えた奇兵衛の指先にひょいと掴まれた。掴まれてばたばたもがく鶴の横、素知らぬ風に通り過ぎようとした奴も舟も、奇兵衛は容易く捕まえる。捕まえた折り紙たちを順に指先でぱちんと弾けば、折り紙たちは魂を抜かれた如く動かなくなる。 「ありがとう、……って、あれ?」 動かなくなった鶴から、今度は紙に刷られた金銀の蝶が蛹から返るように姿を現す。ふうわりひらり、店の間を舞い飛び、風に揺れる暖簾の隙間から外へ出ようとする。 くすり、奇兵衛は笑みを零す。蝶と共にゆったりした足取りで店の間から下り、草履を履いて暖簾を潜る。 「蝶々」 奇兵衛の背中を追うて外に出たあかりが見たのは、玄関先に飾られていた水無月の枝を手にする奇兵衛。 淡黄色した花に誘われ、金銀の蝶が奇兵衛の周りを踊る。 奇兵衛が扇を翻すように水無月の枝で蝶を一撫ですれば、蝶はぺたりと花に吸い付いた。奇兵衛は無地になってしまった折り紙の鶴を素早く蝶に近づける。水無月の細かな花ごと、金銀の幻の蝶は元の紙にくっついて戻る。 「魔法みたい」 「そんな大層なものじゃありませんよ」 水無月の花を花瓶に差し直し、奇兵衛は折鶴や奴をあかりの小さな掌に乗せる。ただの折り紙に戻った鶴や奴を、あかりは眼を輝かせて見詰める。 「この花のご先祖はね、糊空木と言うんですが」 「ノリウツギ?」 「ええ。樹液をね、和紙を漉く時の糊にするんですよ」 「だから蝶々が紙に戻ったの?」 「ご名答」 そんなものかなと首を捻るあかりに、店内に戻りながら、奇兵衛は変わらぬ笑みを向ける。 「さて、次は何をして遊びましょうねえ」 鶴亀算など如何です?、と肩越しに言われ、あかりはひええと肩をすくめた。 ねずみ算にからす算、奇兵衛に教わる算術は、なんだかとっても難しい。その上、数が恐ろしく大きくなる。 「けれど解けると嬉しいでしょう?」 「パズルみたい」 パズルみたい、だけど。 ちゃぶ台の前に正座して、数字や数式を書き殴った紙に顎を乗せて頭を抱えるあかりを眺め、奇兵衛は目を細める。昔々にも、こうして子供に算術を教えたことがある。あの子はこの子よりももっとずっと飲み込みも理解も早かったが、 「あ! そっか!」 歯車がかちりと嵌り動き始めるように、すっきりと解を得たときの笑顔は、あの子もこの子も同じ。 「こうだ、こう!」 数式を紙に綴りながら、難しい問題が解けそうなのがあんまり嬉しくて、あかりは鼻歌を混じらせる。英語交じりの流行り歌を何節か口ずさんでいて、ふと奇兵衛の横顔が眼に入った。 いつも通りの柔らかな笑みを浮かべた横顔に、けれどほんのちょっと歪みのようなものを見つけて、あかりはお気に入りの歌を止める。奇兵衛さん、ロックは好きじゃないのかな? 「奇兵衛さん奇兵衛さん」 解答を書き込んだ紙を持って、得意げに寄って来たあかりに応じようと手を差し伸ばして、 「おっと、何だね」 指先に触れた冷たく柔らかな、人の指先とも紙とも違う、妙ちきりんな感覚に、奇兵衛は小さく息を飲んだ。 「えへへ、スライム攻撃!」 渡そうとした紙の下に隠し持っていた、ゼリー状の玩具を披露して、あかりは声を上げて笑う。笑顔ばっかりの奇兵衛さんに首を傾げさせられたよ。イタズラ、成功! どこまでも楽しげに屈託なく笑う少女に、奇兵衛もつられて微笑む。 奇兵衛が算盤を弾く音を背中で聞きながら、あかりは暖簾を仕舞う。今日の『軋ミ屋』はそろそろ看板だ。 「仁科さん」 「はーい」 格子戸を閉めて振り返る。店の奥のちゃぶ台で帳簿に何事か書付け、奇兵衛は珍しく少し口篭もった。 「『首攫イ邸』をね、時々覗いてやっちゃくれませんかねえ」 あそこの御仁は、と帳簿に目線を落とす。 「どうも根を詰め過ぎる気がおありのようで」 「バーミヤン?」 聞き慣れない呼び名に奇兵衛は瞬く。あかりは『首攫イ邸』の主の名を言い直す。 「橡さん、です?」 「バーミヤンとお呼びで。結構結構」 いつもの穏かな笑みよりももっと柔らかな笑みを見た気がして、あかりは眼を丸くする。 奇兵衛さんは、誰も彼もみんなその他大勢って見てる訳じゃないんだ。 難しい算術の問題を解いたときよりも、胸の奥がスッキリしたような気がして、あかりは嬉しくなる。 でも、そんな風に思うバーミヤンを遠巻きに見守ろうとするのはどうしてだろう。どうして自分で助けてあげないんだろう? だって、 「一緒に住んでる奇兵衛さんの方がバーミヤンのこと見られるんじゃないのですか?」 不思議に思って、思ったまま、あかりは問う。 子供の直截な物言いに、奇兵衛は胸を突かれる。 「私は、手助けしていい立場に在りませんから」 丁髷の頭をそっと横に振る。 「頼ってはくれないでしょう」 奇兵衛の言葉に、あかりは結うた髪が揺れるほど大きく首を傾げる。 「何で自分は手助けしていい立場じゃないとか、頼ってもらえないと思うですか?」 「なんで、と申されましても……」 大人ならば、先ほどの言葉でそれとなく察してくれるはずだった。察するに至らないまでも、納得した振りをしてくれるはずだった。それなのに、この子はどうしてこうも真直ぐに問うてくる。どうしてこうも、――傷付くことを恐れない風に突進してくる? 初めて見るように、あかりを見遣る。どこまでも真直ぐに見詰めてくるあかりの黒く大きな瞳としばらく見詰め合うて後、奇兵衛は羽織の首筋を撫でて、息を吐くように笑った。 問うたことへの返事はもらえず、けれど何故だか、初めて本当に笑みを向けてもらえた気がして、あかりは奇兵衛と一緒に笑う。 終
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