洗い立てのシーツが風にはためく。朝の風が石鹸の匂いを運んでくる。 白磁の頬を冷えた風に撫でられ、ハクアは深い森の色した瞳を瞬かせる。雪色した伸ばしっ放しの長い髪が風に踊るのを片手で掴み、緩くまとめる。高くなり始めた青空に両手を掲げて伸びをする。 収穫の時を知らせる畑の作物の脇に置かれたベンチに腰を下ろす。昇り始めの太陽の温かな熱が、洗濯の水で冷え切った手に心地良かった。 掌を持ち上げ、降り注ぐ陽の光にかざす。 村はずれの森で異父妹と共に行き倒れ、森の側の教会の神父に助けられ、随分経った。神父が起居する教会脇の小屋で心ならずも介抱され、眼を覚ました時には傷だらけだった手や腕。長い逃亡生活の末に衰弱し、思うように動くことすら叶わなくなっていた身体。 傷は癒えた。体力は戻った。 陽を浴びて温かくなる掌を、膝の上に落とす。己の手の力を確かめて、掌を拳にする。 もう、いつでも此処を出て行ける。 家族を同胞を、故郷を奪い、一族を搾取し続けようとする忌まわしい教会に属する場所。教会は、おそらく今この時も、隔離施設から逃亡した自分達を捜し続けている。 教会に見つかれば、ただでは済まない。 逃げ続けていた自分も、妹も、――教会を裏切る形で自分達を匿い続けている、あの変な神父も。 「にぃ?」 虹色に煌く朝露の畑の中、幼い少女が立ち上がる。小さな腕いっぱいに摘み立ての柔らかな色の花を抱え、畑の作物を踏まぬように畝を回りこんでベンチの側に駆けて来る。 「ハクアにぃ」 太陽に金色に透ける栗色の髪を躍らせ、明るい新緑の色に輝く眼を笑ませ、妹のオウカが花と共に膝へしがみ付く。此処に居る間に、神父の作る温かな食事を続けている間に、血色よくふっくらと柔らかくなった頬を兄の膝に押し付ける。花の束をベンチに放り、小さな両手両足をいっぱいに使って兄の膝の上によじ登る。 のぼれた、と得意げに笑って、兄の薄い胸に抱きつく。 「御飯にするぞー」 住まいの窓から、神父の声がする。 「はーい」 オウカがくすくすと笑いながら返事をする。返事しないの?、と妹に見仰がれ、ハクアはちらりと笑う。 「今行く」 神父に答えつつ、花束を片手に取る。もう片手で妹を抱き上げる。 傷を癒し、旅の疲れを癒すうちに落ちた筋力も体力も最早戻った。身体は元のように動く。もういつでも此処を出て行くことは出来る。 それなのに、動けない。 (理由は分かっている) 「にぃ、にぃ」 抱き上げられて嬉しいのか、オウカが全身で胸に抱きつき、声を上げて笑う。 逃亡の旅の中で、オウカがこんなにも笑うことはなかった。いつもどこか強張った表情をしていた。 (否、) 俺が、させてしまっていた。 「冷めるぞ」 神父の柔らかな陽の色の髪が窓から覗く。青空の色した眼が、陽だまりに佇む兄妹を映して眩しげに細くなる。 「ギルー」 兄の肩に抱きついたまま、オウカが神父に向けて手を振る。 妹がこんなにも笑えるようになったのは、こんなにも幸せそうに笑うようになったのは、―― (……ギルの、お陰だ) それは分かっている。 そうして、だからこそ此処から出て行くことが出来ずにいることも、 (よく分かっている) 花と一緒に妹を両腕で抱え直し、神父のもとへ足を進める。出入り口の小さな扉を潜り、温かな食事の匂いが溢れる部屋に入る。 「よしオウカ、手を洗えー、うがいしろー」 兄の腕から世話になっている神父の腕に受け渡され、オウカはくすぐったそうに笑う。神父がオウカの摘んできた花を食事の載ったテーブルの花瓶に挿している間に、小さなキッチンの水場で兄妹揃って手を洗う。 「今日は村祭りがあってな」 焼きたてのパンをそれぞれの皿に取り分けながら、ギルが思い出したように言う。 「おまつり?」 兄の差し出したタオルを握り締め、オウカが眼を輝かせる。 「そう、お祭り」 「って、なに?」 眼を輝かせたまま、首を傾げる妹の頭を、ハクアはそっと撫でる。生まれてからずっと教会の隔離施設に閉ざされ続け、教会を脱け出して後は過酷な逃亡の旅を続けてきた妹は、祭りがどんなものであるのかを知らない。 ハクアの事情を知る神父も、その辺りを察したのだろう。 「じゃあ、一緒に行くか」 そう言って神父が屈託なく笑えば、オウカは、 「行く! ぜったい行く!」 両腕を振り回し、全身で飛び跳ねて喜んだ。 「ハクアにぃも、いっしょに行く!」 喜びを分け与えようとするかのように、憮然と立つ兄の両手を取る。 「いや、俺は、……」 小さな村とは言え、祭りともなれば大勢の人が集まる。村の子供達に混ざってしまえばそうは目立たぬオウカはともかく、己は。 オウカの喜びに水を注したくなくて、困って立ち尽くすハクアの傍らに神父が立つ。白雪色の髪の下、戸惑って揺れる深い森の色の眼をひょいと覗き込み、悪戯を思いついた少年のような笑みを浮かべる。 「祭りに参加する神父サマの付き人になれ、ハクア」 伸び放題の白雪の髪はまとめて結わえ、帽子の中へ。翠玉の眼は神父から借り受けた眼鏡の下へ。 「眼、悪いのか」 「いや、カッコつける時用」 付き人になれ、と言われた時と同じに怪訝な顔をするハクアに、ギルは何処か人をくったような、からかうような笑みを浮かべる。 これも神父から借り受けた、シンプルなシャツに上着を羽織り、胴回りがどうにも緩いズボンをベルトで絞る。 「……もうちょい太らせとけば良かったか」 大真面目に呟くギルを、薄い硝子板の眼鏡越しにちらりと見遣る。 「にぃ、カッコいいねえ!」 ギルが何処からか手に入れて来た薄荷色のワンピースの裾をひらひらと翻し、オウカが上機嫌にハクアの足元をくるくると跳ね回る。 「オウカは、オウカは?」 「オウカもカッコいいぞ」 装いを変えた兄妹と違い、いつも通りに着崩した神父服のままのギルがオウカの身体を横抱きにさらい上げる。ついでに肩車に乗せる。 「よし、行くか!」 「いっしょにいく!」 神父の金髪の頭に両腕でしがみ付き、オウカがはしゃいだ声を上げる。 礼拝堂脇の神父の家を出る。森に沿って敷かれた石の道をしばらく歩くうち、この村に居ついて初めて耳にする賑やかな音楽が透明な風に乗って聞こえ始める。 「祭りの時だけ、旅芸人達が来るんだ」 心を躍らせる笛や弦楽器や太鼓の楽に合わせ鼻歌を歌いながら、神父はひょいと跳ねてみせる。肩の上でオウカがきゃあと笑う。 小川に渡された木の橋を越え、村に入る。 太鼓の音が腹に響く。笛の音が空高く昇る。幾つもの弦楽器の音が村の通りを舞い踊る。 煉瓦の家々の屋根伝いに掛けられた色とりどりの旗が風になびく。旗の間に結いつけられた数百の鈴がしゃらしゃらと鳴る。 「ギルー!」 「オウカー!」 花や紅葉の入った籠を手に手に持って、鈴の付いた色鮮やかな衣装を纏った子供達が駆けて来る。神父が何日かに一度礼拝堂で行う識字教室に顔を出しているオウカは、最近は村の子供達とよく遊ぶ。 ギルの肩からオウカが下り、村の子供達と一緒になって石畳の道を駆け回る。収穫の時期を祝う役目担うて、道行く人々に花や紅葉を振り撒く子供達から花を分けて貰い、見守る兄や神父の足元に花を散りばめる。 「実りを、どうぞ」 祭りの決まり文句なのだろう、手首に鈴の環を付けた娘がハクアに小さな包みを差し伸ばす。気がつけば、子供達の他にも何人かの村の娘たちに取り囲まれている。いつもより着飾った風の娘達の、陽に焼けた頬は祭りの熱にか薄紅に上気している。 「……ありがとう」 異端者として恐れられたことはあっても、こうして親しげに物を貰うことなど無かった。戸惑いながら、けれど受け取らないのも妙に思われるだろう、と娘の手から包みを受け取る。 村の娘達は華やかに笑み交わし、神父にも包みを渡す。若鹿のような跳ねる足取りで、道行く村の男達にも包みを渡しつつ軽やかに駆けて行く。 「開けてみろ」 神父に言われて包みを開けば、木の実を混ぜ込んだ素朴な焼き菓子が数枚と、紅い砂糖菓子が一つ。 「お、いいな、祭りの締めのダンスのお誘いだ」 焼き菓子だけしか入っていなかった包みを見せながら、ギルは心底羨ましそうに言う。 「ダンス?」 「ダンスが終わったら恋人になってくれませんか、ってな」 祭りだからな、とギルは朗らかに笑う。 「男共が揃ってそわそわしてるだろ?」 ハクアは、包みをくれた娘の上気した頬を思い出す。 「にぃ?」 村の子供達と別れ、オウカが手に触れてくる。紅葉のような小さな両手を片手で包み、貰いものの焼き菓子を妹の口に入れてやる。 陽の光を浴びて、オウカが笑う。ギルがオウカの頭をごしごしと撫でる。――ただそれだけのことが、ひどく幸福に思えた。胸が詰まるほど愛しく思えた。 だからこそ、思う。 (いつまでもここにはいられない) 異端者として追われる自分がここに居ることが知られれば、こんな当たり前の、こんなささいな幸福さえ壊してしまう。 それがとても、恐ろしかった。 恐ろしいと思えるほどに、ここが愛おしかった。 「そんな真剣に悩むな」 眼を伏せるハクアの背中を、ギルが掌でばしばしと叩く。祭り祭り、と呪文のように唱え、ハズレ包みの焼き菓子のひとつを自分に、ひとつをオウカに、最後のひとつをハクアの口に突っ込む。 「折角の祭りだ、楽しめ」 オウカに手を引かれ、旗の集まる先、村の中央に位置する広場に向かう。 賑やかな音楽が近くなる。着飾った娘達が、花籠提げた子供達が、軽やかに駆けて行く。道に花が零れて溢れる。通りすがりの娘達に焼き菓子入りの包みを次々と手渡され押し付けられ、ハクアの片手と上着のポケットはいっぱいになった。 困り切って眉間に皺を寄せるハクアをギルが笑い、笑われたハクアは余計に眉間の皺を深くする。 「にぃ! おまつり!」 広場には夜に焚かれる巨大な篝が組まれ、その周囲には村の青年達が用意した様々の屋台が並ぶ。果実を漬け込んだ甘い酒、ふんわり焼き上げた卵とクリームたっぷりのケーキ、肉と野菜がとろとろになるまで煮込まれたスープ、蜜を絡めた木の実のパイ。いつもより少し贅沢な食べ物が饗される。 旅の一座が奏でる音楽や歌に耳を傾け、オウカやギルと共に祭りの食事を楽しみ、村人達の他愛無い会話の輪の内へ神父に押し込まれ、―― 陽が暮れる。篝火が灯され、白銀の月の下、娘達が目当ての男達の手を引いてくるくると踊る。眩い火の光に、舞い踊る幾つもの人影が重なるのを、ハクアはオウカを両腕に抱いて眺める。 人々の中心には、神父が立つ。 中天の月を目指して昇るように燃える篝火を背に、実りへの感謝を、神への祈りを、朗々と謳い上げる。祭りの締めを飾る神父を、オウカは炎を映してきらきらと輝く眼で見詰める。 「すごいね、カッコいいね、ギル」 腕の中で跳ねるように身体を揺らし、オウカが拍手して笑う。 「……ああ、そうだな」 ハクアは明々と燃える炎を、祭りを楽しむ人々を、人々の央に立つ神父を、ただ見守る。 「あっち、いく」 兄の肩に一度ぎゅっと抱きついてから、オウカが腕の中から脱け出す。行っていい?、と見仰いでくる妹に、兄はそっと頷く。 「行っておいで」 オウカはきゃあきゃあとはしゃぎながら、光の内に駆けて行く。 腕の中、健やかな寝息を立ててオウカが眠っている。 「流石に疲れたよな」 幼子を起こさぬよう、ギルが囁く。夜更けの静かな月が、三人分の蒼い影を石畳に落としている。 「充分に楽しめただろう」 「ハクアは?」 「……俺も」 「そうか、良かった」 祭りは終わり、帰路を辿るハクア達を包むのは月光ばかり。 ふと、オウカが眼を開いた。ハクアとギルを交互に眺めて瞬き、ごしごしと寝惚け眼を擦り、 「わあっ」 空を見上げて声をあげる。 オウカの声につられ、ギルが、ハクアが空を仰ぐ。 月ばかりだと思っていた空には、月の光にも負けぬほどの満天の星。 降り注ぐ星の光を集めようとするかのように、オウカが空に向けて両腕をいっぱいに伸ばす。 オウカの腕を追おうと手を伸ばし掛けて、ハクアは止める。代わりにオウカの小さな身体を支えて抱く。腕の中にある温もりを、胸の中に宿った温かな幸福を、この瞬間を忘れぬように。せめて、――せめて、忘れず歩いて行けるように。 ハクアは淡く、微笑む。 終
このライターへメールを送る