フェンスのネットを掴む指先に赤い血が滲んでいる。 誰の血だろう、と塗装の剥げて錆びたフェンスから片手を離す。まあ誰の血でもいいや、汚いなあ。 生温くこびり付く血を払おうと、手を振り回す。ビルの遥か下から吹き上げてくる強い風に掌を殴られて、指先がひりひりと痛んだ。もう一度、自分の手を眺める。指先にも掌にも、無数の傷。擦り傷と刺し傷で裂けた皮膚から血が溢れ出している。 ひとつきり、息を吐き捨てる。 「……汚い」 視線を上げる。フェンスの先に備え付けられた有刺鉄線が、青空を透かして見える。 どうやって乗り越えたのか、記憶が無い。けれど確かに身体はビルの屋上の縁にある。有刺鉄線を握り締めた手が、引っ掛けた頬や背中が、踏み越えた足がひりひりと痛む。 痛む自分の身体が鬱陶しい。煩わしい。 心に渦巻く苛立ちさえも忌々しい。掌を拳にする。フェンスを打つ。 風に煽られ、空っぽの軽い身体がふらついた。足元が滑る。視界いっぱいに青空が広がる。血を大量に流失した後のような浮遊感が胃を掴む。 ――大体三秒ってとこ? ふと。耳の奥で男の声がした。 けれど脳裏を過ぎったのはあの男ではなく、母の瞳。 「やめて」 頭を庇えばお腹と背中を蹴られた。脛を野球のバットで撲たれて蹲って、後はもう頭も手もところ構わず蹴りまくられた。庇い損ねた顔を靴先が突く。鼻の奥に生暖かい血の臭いが広がる。口の中に流れ込んでくるしょっぱくて鉄臭い血の味が嫌で咳き込む。唾液まじりの血が口から飛び出す。 「うわ、きったねぇ」 公園の砂の上に落ちた血の雫がズック靴で踏み潰される。赤い血を避けて、みんなの足が大袈裟に飛び退く。 背中やお腹を踏みつける足がなくなったのに安心する。砂利を食べてしまった口を泥まみれの手で拭いながら、そうっと顔を持ち上げる。 「やっべぇ、イジンの母ちゃんが来た」 みんなの内のひとりが笑いながら言う。楽しそうな笑い声をあげて、みんなは蜘蛛の子を散らすように公園の外に走って行く。行ってしまう。 待って、の一言も言えなくて、のろのろと起き上がる。泥土だらけで血塗れの身体はどこもかしこも痛くて、みんなを追いかけることも出来ずに座り込む。血の滲む膝を抱えて、そうすると額から栗色の髪の毛が垂れた。みんなとは違う色の髪。 髪を引っ張る。みんなと違う髪の色を映す、みんなと違う色した眼に拳を押し付ける。鉄の色だとみんなは言う。なんでおれらと違う色してんだよ、イコク語しゃべってみろよ、喋れないのかよツマンネーの。 みんなと一緒に遊びたいのに、笑いあいたいのに、みんなから掛けられる言葉は怖い言葉ばっかりで、でもどうしてみんながボクを悪く言うのかわからなくて、 ――どうして? その一言さえも言葉に出来ずにいるうちに、自分の気持ちをみんなにうまく伝えられずに黙りこんでしまううちに、いつもいつも、殴られて蹴られた。 みんなの言葉が怖かった。わけも分からずみんなから拒絶され続けるのが恐ろしかった。 外国語を喋れと強要されるのも怖かった。だってその言葉はあの男が喋る言葉で、あの男はおかあさんを泣かせてばかりいるから。世界一怖い顔した、世界で一番恐ろしい男の喋る言葉を、ボクも喋らなくちゃだめなのかな。そうしなきゃみんなの輪の中に入れてもらえないのかな。 「……ごめんね」 冷たい掌が頬に触れる。泥の沁みる眼を上げれば、母の悲しい眼があった。血の色した夕陽を受けているのに蒼白い頬が辛そうで手を伸ばす。頬に触れる掌よりも冷たい母の頬に触れる。どうしていつもそんな悲しい眼をするの? おかあさんも、どこか痛い? 母にさえも上手く話しかけられなかった。笑ってほしいのに。おばあちゃんみたいにボクに笑いかけてほしいのに。 小さく震える母の胸に抱かれて、泥と血の臭いに混じる母の匂いに安心して、やっと一言だけ、言えた。 「がんばるから」 がんばれば。 ほめられれば。 そうすればきっとおかあさんは笑ってくれる。がんばってたくさん話せるようになろう。みんなと同じ言葉も、あの男と同じ言葉も。 気持ちを上手く言えないのなら、別の言葉で隠してしまおう。別の気持ちで覆ってしまおう。そうだ、笑えばいい。みんなに笑ってほしいから、笑いかけてほしいから、ボクが笑おう。 笑え。 がんばれ。 そうやって自分に呪いを掛けるように言い聞かせてがんばってがんばって、みんなに褒められるような『いい学校』に入った。 ――その結果、 「吹っ飛べウジムシ共!」 大学の講堂屋上から火炎瓶を機動隊に投げ捨てていた。 強化プラスチックの盾に油と炎がぶち撒けられる。権威の象徴に見える隊員服に火がつく。地上に蠢く機動隊員の大人たちの群に怒号と悲鳴が満ちる。 背後に歓声が沸く。警棒と安全帽の群がシュプレヒコールを挙げる。革命だの自己改革だの英雄だの、派手で過激な言葉が明るい青空に飛び交う。 地上からは大人たちの怒号まじりの説得の声。 パイプ椅子や会議机を積み上げて閉鎖した屋上には学生の喚声と罵声。 レンガ造りの講堂が書割のように見えた。みんなしてとんでもなく詰まらない、袋小路のような演劇を演じているように思えた。 同じ騒動に呑まれてうっかり同じ色に染まっただけの奴らが、同胞だの我らの誇りだの言いながら親しげに肩を叩く。背中を叩く。 こいつらは嘘吐きだ。 こんなことになるまでは皆と違う色した髪や眼の僕を蔑視していた奴ら。此方側に付かなければ敵対勢力とみなし粛清する、と脅しを掛けて来た奴ら。 されるがままに歓声を浴び、求められるがままに求められる言葉を口から吐き出す。帝国主義の豚共に死の鉄槌を。 悪酔いしそうな喧騒から逃れる。貯水タンクの陰に蹲る。地上に向けて唾を吐きかける『同胞』たちの背中を眺める。 吐き気がした。あいつらみんな馬鹿だと思った。 こんな狭いところに閉じ籠もって声高に叫んだところで何になる。大人に不満をぶちまけて攻撃したところで何が変えられる。 ぜんぶ、きらいだ。 唇だけで呟く。呟きを見咎められるのが怖くて抱えた膝に顔を埋めて、……仲間外れになるのが怖くて、その場しのぎの言動でこんなところでこんなことをしている自分自身も含めて、 ぜんぶ、嫌い。 「――大体三秒、ってとこ?」 耳元で、くすり、と場違いに暢気な笑い声がした。 「なに?」 眼を上げる。この騒動を煽り立てた首謀者の一人が隣にしゃがみ込んでいる。 「ここから身を投げて、地面に叩き付けられるまでの時間」 「それが、なに?」 「飛び降りそうな顔、してた」 男は小さく首を傾げて立ち上がる。腕を掴まれ、引き上げられる。振り払うのも面倒で従えば、矢鱈と親しげに耳元に口を寄せてきた。 「もうすぐ突入が始まる。逃げるぞ」 曲りなりにも同胞と呼び合ってきた奴らを捨てると言うのか。思わず眼を剥く。 「辛気臭い面ばかりしてるかと思ったけど、ちっとはマシな顔も出来るのな」 肩を組まれ、無理矢理に歩かされる。 どうして僕だけ、と訊こうとして、やめる。『敵対勢力』の姿した僕は、担ぎ上げ利用するのに都合がいいのだろう。 男は澄んだ真摯な眼で僕を見る。 「世界を変えないか」 こんな間違った世界なんて、自分の国なんて潰してしまえばいい。潰して、僕たちで新しく作り直せばいい。 そう信じた。 信じさせてくれた男がいた。 その男が、目前で血だるまにされてゆく。 砕けた窓から雪が降り込む。男の破けた皮膚から溢れる血の熱に触れ、男を囲んで殴る蹴るする仲間の男達の熱狂に触れ、雪は室内に入り込む端から溶けてゆく。横倒しになって動かない男の傍に血の色した水溜りが出来る。 「裏切者」 男の血塗れの頭を踏みつけ、一人が罵る。裏切者裏切者、その言葉を免罪符の如く掲げて、仲間が男を、ついさっきまでは先導者だと仰いでいた男を嬲り殺しにかかる。 先導者だったはずの彼が裏切者と呼ばれた理由を覚えてはいない。ほんの些細な理由だったように思う。ほんの少し、仲間と意見を違えた。それだけだったように、思う。 血に酔って興奮する男達を制止することもせず、倒れた男の息が細くなっていくのを眺める。こうして『裏切者』を殺すのは何人目だっけ? 光失った男の虚ろな眼が、立ち竦む僕を映す。 茶色の髪、薄暗がりに銀色に鈍く光って見える眼、この国の人間よりもずっと白い皮膚、細長い手足。 自分達が潰そうとしている自分の国の、皆とは違う姿の僕。 『仲間』の僅かな差異も許さず、『仲間』だった人間を裏切者と呼ぶ『仲間』達。仲間内に閉じ篭り、自分達とは違うものを侮蔑し嘲笑し、挙句刃を向ける。 ――イコク語しゃべってみろよ 耳の奥に蘇る、幼い日に聞いた言葉。自分達と同じでないことを理由に幼い暴力を振るった、昔の『友達』。 (どいつもこいつもバカだ) 誰も彼も、尤もらしい大義を翳してただ己の暴力を愉しんでいるだけだ。 (誰も自分の思いなんかわかっちゃくれない) (こんなウジムシ共) 皆、必要ない。 だから人も故国も、全て捨てた。 銃を手にした。爆弾を手にした。熱を孕む密林を駆け、引鉄を落とした。何度も何度も何度も。この手で間違ったものを皆殺しにすれば、それで世界が変わると思った。 そう信じて、何度も死に目に遭いながら殺して殺して殺しまくった。湿気った樹の根を齧り、泥と血の混じった水を啜り、樹上から降ってきて血を吸う蛭を焼いて潰した。虫を潰す様に敵の命を奪った。侵攻途上の村を襲い、無関係な人々を殺した。食べ物を奪い、武器を奪い、村の人間を兵士として補充した。 作戦が残虐化して行く事に心が微塵も動かなくなっていた。心は死んで、都合よく身体が動いた。 殺して殺して殺して、殺すのに理由なんてどうでもよくなっていた。 火が燃えている。 人が燃えている。 村が燃えている。 沈みかけの太陽が眩しく輝いている。 火で、陽で、血で、炎に焼かれて膨れ上がった人の屍で、大地が赤く染まってゆく。村をひとつ焼いて、何百人と殺して、それでも殺し足りなくて、銃声がどこからか聞こえる。どこからも聞こえる。 周りは死体で埋まっている。血の臭いが喉の奥に流れ込んで気持ちが悪くて、何故だか昔を思い出した。あの時もこうすれば良かったのかな、――ねえ、おかあさん。 燃え盛る炎熱に瞬きをして、こちらを見る子供の瞳に気付いた。何だ 、まだ生きているモノがあるのか。 無造作に銃口を向ける。 親の死体に縋り、子供が見仰いでくる。言葉を失い、何もかもに怯え、それでも何かにしがみ付こうとする、無垢な子供の瞳。 子供を撃ち殺すための銃口が震えた。震える手を押さえようとした手にも震えが移る。息をする間に身体中に広がる。 「どうして……?」 思わず呟いた途端、気付いた。 今自分が殺そうとしている子供は、昔の自分と同じ目をしている。 言葉もなく、子供が見る。誰を? 何を? (僕を、見ている) 僕は、何をしている? 気付いた。血塗れの手に。殺した人々の命を負う自身の背に。 刹那、脳漿が揮散して全身の骨が砕けるような痛みに、重みに、眼前が、心が、白く爆ぜた。身体中の血が逆流する。『吹っ飛べウジムシ共!』『ぜんぶ、きらいだ』『がんばるから』『やめて』――言葉が、記憶が、渦を巻いて押し寄せる。 そうして最後に、 『――大体三秒、ってとこ?』 あの日聞いた男の声が耳朶を打つ。 青空を抱こうと伸ばした血塗れの手がフェンスを掴む。空を突き刺す有刺鉄線が軋んで揺れる。ずっと下の地面から駆け上ってくる風に背中を押される。フェンスに額を押し付けられる。 知らずに止めていた息を吐き出して、まだ呼吸出来ることに絶望する。網にしがみ付く指先を、命に縋りつく自分自身を嫌悪する。 落下に対する本能的な恐怖に強張る指先を強引に開く。緑色のフェンスに血の赤がこびり付いている。 「汚い」 己が血濡れた掌を罵る。痛みにも構わず、フェンスを掴む。身体中に渦巻く苛立ちを叩きつけて揺する。 「……たった三秒なのに」 死の縁に立ち竦んで、己を呪い続ける。 終
このライターへメールを送る