大銀杏の樹の下、降り積もる黄金の葉の上、墨染めの衣纏うた比丘尼が此方を仰ぐ。いつまでも老いぬ白い頬に柔らかな笑みが浮かぶ。 「律儀なこと」 「約定をまもっているに過ぎぬ」 木枯らしが哂う。大銀杏の幹に半ば寄り掛かり、辛うじて体裁を保つ破れ寺の軒に掛けられた深翠の風鈴が笑う。大銀杏に身を寄せる百の卒塔婆と百の墓石が風に揺すられ喚く。 「御下がりの干柿をお持ちなさい」 比丘尼は黒々とした眸を和ませ、童の頭を撫でるように言う。真白と紅斑の椿花が落ちる境内の央、白い手で手招きする。 「いらぬ」 「奥方が喜ばれましょう」 尼の言葉に、先に娶った妻の姿が脳裏を掠める。狩りの行きがけに、冷えるだろうと兎の襟巻きを首に巻いて寄越した。お気をつけて、と微笑んで手を振っていた。 鉢金の狭い視界の端、己が立つ大銀杏の太枝のその下、ひらひらと白い手が揺れる。 「……なれば」 背の翼に凍風を抱き、己が重さを風に委ね大銀杏より下りる。羽ばたきの風に、緩やかな昼陽を集めた銀杏が黄金の鳥群の如く舞う。軒下に時節問わず吊るされた玉鋼の風鈴が明朗な声で笑う。 人とも妖ともつかず、物の怪を恐れず、己が領域であろう寺社に天狗を招き入れる尼より干柿を手渡される。白く粉を吹いて乾いた果実に鼻を近付け、遠退ける。袂に仕舞う。 屍埋めた印である卒塔婆と墓石に囲われ、比丘尼が静かに笑む。 「その鉢金」 墨染めの衣を北風に靡かせ、細い指が持ち上がる。 「そなたのものではなかろう」 娘じみて滑らかな尼の指が示すは、額から鼻梁にかけてを覆う二重鉢金。天敵である金行の妖が役する幻術に惑わされぬ為のもの。そうして、――そうして、あの時のあの声を忘れぬ為のもの。 「死者の念を感じますれば」 鉢金の奥に潜めた眼を透かし見るかのように、比丘尼は闇色の眼を細める。 「さて、干柿の対価に語って聞かせてくれませぬか」 寺社のぐるりに人の気配はしない。退屈でもしているのか、それとも、死者に囲われて暮らす尼は死者の想いに興が湧くのか。 袂に仕舞いこんでしまった干柿を見下ろす。 境内に風鈴の音が響き渡る。 『偶には吾らを語らせてくれまいか』 物言わぬ死物と化すを拒み、主と己が身を風鈴と変えし金行の女妖の声を、聞いた気がした。 冬風に冷える鉢金に触れる。彼のものはまさか語らせろとは言うまいが―― 墨染めの山色に紛れ、灰茶の野兎が駆ける。 枯れた木々を避け草を分け、凍てつく風の速さで、温かな熱と柔らかく甘い骨肉持つ生き物が縦横に跳ねる。 雛の頃に親より貰い受けた簡易な鉢金の縁がこめかみに冷たく触る。必要なものと知っては居れど、視界を必要以上に塞ぐそれが空腹に苛まれる今は酷く煩わしい。 翼を窄める。裸木の梢に衣の袖を引かれるも構わず、空から降る。遁走する兎を肢の爪に掴もうとするも、掴んだは枯れ草のみ。 もう幾度も、獲物を捕えきれずに土塊ばかりを掴んでいた。 唇が歪む。急峻な獣道を一心に駆け上る兎の小さな姿を追い、眼に力を籠める。樹の根絡む大地を蹴り、翼を広げる。空に翔る。 裸木晒す奥山も、山の端に広がる芒野も、凍り付くほどに白き飛沫撒く川も、全て他者の縄張りだった。独り立ち直後で総てが覚束ぬ若鳥であろうと、否、若鳥であるが故に、入れば追われた。奪おうとすれば手酷く痛めつけられた。 視界の端、捕食者が己を見失うたと思うたか、立ち止まり鼻先を持ち上げる兎の姿が見えた。 腹を空かせていた。為に気が急いていた。 再度翼を畳む。次こそ獲物を捕えようと急降下する。冬の山肌を覆って灰色に重なる梢の先が剥き出しの頬や手を掻く。身を翻そうとした兎の胴を、己が鉤爪が掴む。兎が鳴く。狩りの漸くの成功に、安堵の息が零れて、 ――頭上に佇むものの気配に気付いた。息が凍る。身が固まる。獲物を深追いし過ぎた事に気付いた。他者の縄張りに入り込んでいた事に気付いた。 それでも、腹が減っていた。獲物を肢に掴んだまま、翼を広げてその場を離れようとして、目前に縄張り主に音も無く立たれた。 鷲の嘴模した鉢金付けた、壮年の天狗。鉢金の奥、警戒の色宿した琥珀の眼がある。針葉樹のような髭の生えた厳つい顎に力が籠もる。不機嫌な唇から白い息が吐き出される。 飛び立つこともかなわず立ち尽くせば、縄張り主は無造作に屈み込んだ。肢に捕えた獲物を無言のまま奪われた。抗議を上げようとして、一睨みに黙らされる。 声を喉に詰まらせながら、縄張り主の挙動を探る。 兎を片手、縄張り主は鉢金越しの琥珀の眼で此方を暫し凝視し、ふと、口許をほんの僅か緩めた。敵意も殺意も感じさせず、緩く握ったごつい拳を伸ばしてくる。避ける気も起こさせぬ軽い拳骨を額にくれて、縄張り主はそれきり此方に興味を失ったらしかった。一瞥も寄越さず、兎を片手に提げ、悠然と翼を広げる。 山の何処かの巣に帰る縄張り主の背を見送る。追い出されぬことに首を傾げる。 空になった足元を見下ろす。奪われてしまったものは仕方がない。元より他者の縄張りで狩りをしたが悪い。獲物を奪われただけで済んだのはむしろ僥倖か。 翼を二度三度と羽ばたかせる。まだ、動く。 頼れるは我が身ひとつ。もう一度、獲物を狩らねばならぬ。食い繋がねばならぬ。生きているからには、生きるより他はない。 空腹を抱えて飛ぶ。梢より高く羽ばたき、見渡しても、縄張り主の姿は最早見えぬ。此方を見張る気配も感じられぬ。 不思議だった。けれど疑念は枯葉押し退け巣より窺い出てきた兎を視野に捉えた途端、消し飛んだ。縄張り主が戻るより先にあの兎を狩ってしまえば良い。素早く縄張りを離れてしまえば無闇に追うては来まい。 そう己に言い聞かせ、他者の縄張りを侵す咎を感じながらも必死に兎を追うた。食わねば早晩己が死する。 それでも、兎一羽仕留める為だけに数度の降下を必要とした。漸くに兎を捕らえ、疲弊した翼で彼の者の縄張りを離れようとして、 「へたくそ」 低く声が降って来た。山肌に深く根を張る樫の梢に腰掛け、縄張り主が片膝に頬杖付いて此方を見下ろしている。 今度こそ攻撃されると覚悟して、されなかった。 二羽目の兎は己が腹に収まった。追い出されぬのを不審に思いながら、壮年の天狗が縄張りとする居る山に留まった。 獲物を見つけるは然程難くなかったが、捕えるには苦労した。 風を翼に捕らえ、山の空に昇る。北の山に暗雲が湧いている。雪の気配纏うた風が己が飛ぶ山に雪崩れ込んで来る。耳の傍で風が踊る。合わぬ鉢金が耳元で煩く鳴る。音に気を取られ、翼に抱いた風に逃げられる。平衡を崩しかけて立て直す。尾羽を傾け、身体の向きを変える。 山の中腹の老いた巨木の天辺、巌の如く立ちて動かぬ縄張り主の姿を見止める。先は気紛れで見逃されたが、今日こそは追い出されるかと身構えるも、縄張り主は褐色の羽を雪風に揺らして動かぬ。 追われるまで此処に留まり獲物を狩ろうと腹を据える。 山腹より清冽な水が湧き出し滝をつくり、様々の植生が穏かな山肌に繁り、様々の獣が駆ける。山神でもある天狗が縄張り主の故か、豊かな山だった。 降り積もった枯葉を蹴立て、兎が駆ける。仕留めるべき初撃にしくじったのだろう狐が駆ける。右に左に跳躍し狐から逃れようとする兎、兎の動きにやや遅れながらも追い縋る狐。あれではすぐに獲物を見失う。 兎の動きを梢越しに確かめ、空を翔る。兎の体熱と息遣い、掻き分けられる草の起こす風、視界に頼らず定めた獲物を追う。 狐よりも先に兎を捕らえんと風を巻いて降って、けれど捕らえたは空の草叢。兎には逃げられる。土抉る肢爪を避け、狐が一心不乱に兎を追い、兎が飛び込んだ丈高い草叢に飛び込む。 瞬間、褐色の翼が視界を過ぎった。狐の悲鳴が耳を突く。 草叢を分ければ、縄張り主が仏頂面で立っていた。片方の肢には兎、もう片方には狐を捕らえている。 「先を読め」 縄張り主は抑揚無く呟き、肢に牙を立てようとする狐の腹を裂く。懸命に逃れようとする兎に素早く手を伸ばし頸を掴む。兎を無造作に縊り、此方の足元へ投げて寄越す。 「食え」 疑念を口にするよりも、腹を満たすことを優先させた。 獲物を捕らえては奪われた。二者分の狩りを余儀なくされた。 兎や野鼠に始まり、狐に鹿。小物は縄張り主に丸ごと奪われたが、鹿のような大物は半身を残し寄越した。 今思えば、相当の修練になってはいた。 縄張り主は感情の発露も言葉も少なではあったが、猪を一撃に仕留めるがかなう頃には、幾らか言葉を交わす様になっていた。 「なぜ」 息絶えて尚時折大きく身動ぎする、生命力旺盛な猪の腿を肢の爪で裂きながら、何故縄張りより追わぬのかと問うた。頭上の空を薄紅に染めて満開に咲く花樹から雪の如く花弁が舞い降る。獲物の肉に落ちる花が煩わしかった。手で払いのける。 「お前から奪えば労が無い」 引き裂いた猪肉を食らい、髭に付く血を拭い、縄張り主は唇を笑みのかたちに歪ませる。 「おまえの方が上手だろう」 「古傷が痛む」 言われて見れば、縄張り主の片肢には幾重にも重ねて固く布が巻かれていた。 「この態では子の庇護も叶わぬ」 不機嫌に呟く。縄張り主は妻帯もせず独りであるらしかった。 「お前、名は」 薄紅の花弁を褐色の翼で起こす風に躍らせ、縄張り主が問う。生温い風に惑うた花弁が、脇を流れる川の流れに落ちる。 「玖郎。おまえは」 問われるがままに応じて返せば、縄張り主は鉢金に覆われた眼を空塞ぐ満開の花へと上げた。思いついたかのように髭に覆われた口を動かす。 「さくら」 「そうか、さくらか」 肯えば、縄張り主は楽しげにくつりと喉鳴らして笑った。 「そうだ、さくらだ」 猪の骨を川原に吐き出し、さくらは碧い水の流れに踏み込む。肢や手や翼に付着した獲物の血を流すべく水浴びを始める。 「さくらはもういいのか」 「己の腹は満ちた。食え」 半ば以上残る猪肉に手を掛けようとして。 ちりん、と鈴音を聞いた。 さくらが今までに無く鋭く鳴いた。 反射的に翼を広げ、足場の悪い川原を強く蹴る。飛ぶ。 そうして、さくらが白い獣に飛び掛られる瞬間を見た。白狐の幻纏うた妖の放つ金気に総毛立つ。天敵の気配に強張りかける身を、 「逃げろ」 捕食者に襲い掛かられながらも叫ぶさくらの声に突かれた。さくらの元より、さくらの起こした突風が噴き上がる。翼を押され、己が護身の為にさくらを後にその場から飛び去る。 ――様子見に戻ったのは、川が黄昏の朱に染まる頃。 翼と喉を食い千切られ、胴と胸を抉られ、半身を紅の水に浸して、さくらは死んでいた。さくらと猪の残骸に烏が群れ、馳走にありつけた歓喜の歌を唄っていた。 血と水に濡れたさくらの目玉を狙うのか、一羽がさくらの鉢金を邪魔そうに突いていた。鉢金を外してやれば、烏は嬉しげに一声鳴いて、柔らかな眼の周りの肉を啄み始めた。 羽が水を吸い飛べなかったか。 傷が障ったか。 それは最早分からぬ。 「なぜ」 問うても最早答えは返って来ぬ。 何故おれを逃した。 何故それを望んだ。 さくらにとっておれは都合よき存在だろうが、そも己の命が潰えては意味がない。 己が命を以てしてまで、何を望んだ。 わからない。 「なぜだ、さくら」 ――さくらの鉢金と縄張りを貰い受け、さくらが己には叶わぬと言っていた妻帯を叶えた。近く子も生まれる。 「いまだ答えは出ず、識るすべもない。だが、その問いを忘れてはならぬ気がする」 視界のほとんどを隠す鉢金の暗闇に瞼を閉ざす。 己が心に留まらなくなれば、さくらはこの世の何処からも消える気がする。記憶は、死者が現し世に留まる最後のかたちだ。 「これは」 鉢金に触れる。さくらの死後、幾度となく金行の幻を遮り、己の身を護りしもの。 「おれに忘却を許さぬものとしてあればよい」 決して忘れてはならぬ。 決して忘れはせぬ。 鉢金から指を離す。物語は仕舞いだと唇を引き結ぶ。 「律儀なこと」 苔生すままの墓石と卒塔婆に囲まれ、比丘尼はどこか嬉しげに微笑んだ。干し柿をもうひとつ如何、と白い手を差し伸ばしてくる。 「これで足りる。それはおまえが食うとよい」 言い残し、空に翼を広げる。 終
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