――しまった。後手に回った。 このところ、蓮見沢コンツェルン傘下の企業の株主総会が目白押しで、蓮見沢理比古はいうに及ばず、秘書をつとめる虚空もまた、対応に忙殺されていた。 ゆえに、『鉄仮面の囚人』こと、ルイス・エルトダウン捜索に自警団が奔走していること、近いうちに各ファミリーへの尋問と、『ネモの湖畔』への立ち入り調査が行われるであろうことを知ったのは、すべてが動き出したあとだったのだ。 ロバートは、『ネモの湖畔』への立ち入りは避けてほしいと申し出た。 父と義母が無関係であるのは保証するから、と。 だが、彼のことばは信用されなかった。 俺たちとしたことが、何という失態だろう。 彼の痛みを、彼の苦悩を、わかっていたはずではなかったか。 紆余曲折を経て、ロストナンバーたちを信じようと決意したはずの彼が。 真っ先に自警団設立に賛同し、見返りを求めずに資金提供を申し出た彼が。 理事会脱退後は、その義務もないのに「いちロストナンバー」として援助は継続すると断言した彼が、自警団の信頼に値しないなど、あり得ないことだと。 彼のことばを信じてほしいと、言い損ねた。『ネモの湖畔』への立ち入りは見合わせてほしいと、進言するタイミングを逸してしまった。 今、ロバートはターミナルにいないようだ。 トラベラーズノートを開いた理比古は青ざめる。「――虚空。どうしよう。ロバートさんと連絡が取れない」「何だと?」「アーサー・アレン・アクロイド氏は夏季休暇中ということらしくて、ロンドン本社にいないのは知ってたけど。今どこにいるんですか、って聞いても返信がないんだ」 虚空もまたノートを開く。文字を乗せてみる。 ほどなくして―― ――すぐ戻る。僕のことは、しばらく放っておいてくれたまえ。 そんなそっけない返しがあった。 * *「存じません」 赤の城を訪ね、ロバートの居所の心当たりを聞いたものの、レディ・カリスの返答は剣もほろろだった。「自警団の信用を得られなかったのは、ご本人の不徳の結果です。『すぐ戻る』と仰る以上はそうなのでしょうし、放っておいてくれと言うのですから放置しておけばよろしい。調査に支障が出るような無責任なことはなさらないでしょうから」「……そうか。あんたはロバートを信じているんだな」「そんな大仰なものでなく、適切に考えればそういう結論になる、というだけのことです。ロバート卿は理事会脱退後も、個人として自警団のスポンサーであり続けています。捜査報告書の提出を求めるでもなく、自警団運営に今現在も要しているはずの、経費の使用内容やその明細の提出を求めるでもなく。ファミリーはもとより、ご自身やお父さまお義母さまも調査対象となるその費用さえ、ロバート卿がご負担くださっているという矛盾が生じていようとも」「『ネモの湖畔』には触れないでほしいというのは、自警団への『懇願』に近かったんじゃないかなって、俺は思ってます。プライバシーに関することなので、はっきり言えなかったのが裏目に出たのかも知れないけど」 理比古は痛みに耐えかねるように目を伏せる。「個人的な感情はどうあれ、ロバート卿は『ふたりはルイス卿とは無関係である。自分が保証する』と明言しました。それを信じず、あのチェンバーの調査に踏み切ることとなったのは自警団の判断ではありますが、彼らだけの責任でもないでしょう? 広く協力者も募られていましたし、発言の場はすべてのロストナンバーに開放されていました。にも関わらず、ロバート卿を信じてまかせてみよう、『ネモの湖畔』には触れないでおこう、という意志表明は、誰ひとりとしてしなかったではありませんか」「ロバートさんは……、傷ついたんじゃないでしょうか?」「ご自身の傷であれば、ご自身でなんとかなさるでしょう。ロバート卿が懸念しているのは、あのチェンバーの安寧もありますが、それ以上に」『鉄仮面の囚人』が潜伏している可能性を否定されてもなお、閉ざされたあの場所を調査したいと望んだ自警団のかたがたが、その結果、負うであろう傷のことです。 ひとは、隠されれば、知りたくなる。踏み込んでしまえば、真実を求める自身のこころの残酷さに向き合うことになってしまう。「『正義』はつねに諸刃の剣です。彼らに無用な傷を与えたくなくて、ロバート卿はあのような申し立てをしたのだと思いますが、それを却下した自警団にも彼らなりの覚悟があるのでしょうから、私はもう、何も申しません」「俺はただ」 理比古は、絞り出すように声を放つ。「どうすれば皆が幸せになれるんだろうと、思って」「その答は、なかなか難しいわ」 カリスの表情が、少し和らいだ。「たぶん、誰にも答えられない。……だけど『まず自分が幸せになる方法』ならひとつだけあって、それは覚醒前からヘンリーが身につけていた。残念ながら受け継いだファミリーはアリッサだけだったけれど。それでも赤の王事件を経て、ロバート卿も気づいたはずよ」「どういうことだ?」 考え込んでいた虚空が顔を上げる。「直接、聞いてみればいいでしょう。どうせロバート卿は壱番世界のどこかにいるんでしょうから、蓮見沢コンツェルンの調査網なら見つかるのではなくて?」「でも……、ロバートさんは、ひとりでいたいんじゃないですか?」「そう思うのなら、そっとしておいてあげればいいし、踏み込んで傷をえぐることになっても関わりたいと思うのなら、そうすればいい。自警団のメンバーが、それぞれの選択をしたのと同様に」 * * かくして。 アーサー・アレン・アクロイドの足取りは、迅速に洗い出された。 トルコ共和国の世界遺産「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群」のうえを、一台のヘリが飛ぶ。「妖精の煙突」と呼ばれる奇岩群の間を抜け、ヘリが降り立ったのは、カイマクルの地下都市遺跡のほど近くだった。 ギョレメ谷には30以上もの岩窟教会があり、鮮やかなフレスコ画が今も残されている。 それはキリスト像であったり、聖母マリア(マリス・ステラ)であったり、象徴的な意匠のみであったり、さまざまだ。 理比古と虚空は、調査結果をもとに各教会を訪ねてみたが、ロバートは発見できなかった。「……地下都市かな?」「たぶん」「やっぱり、教会かな?」「だろうな」 * * 迫害を畏れ、キリスト教徒たちは、岩をくり抜き、地下を掘り、街をつくった。 カイマクルの地下都市の内部は、無数の部屋が迷路のように複雑に繋がっており、全体の構造は未だに把握されていない。 現時点では、地下5階まであること、数千人が暮らせる広さであったことが判明しているくらいだ。地下都市では家畜が飼育されていたらしいこと、食料の貯蔵庫や食堂、ワイン製造所、そして教会のあとが見受けられる。 冷やりとした地下通路へ、ふたりは分け入っていく。 狭く暗い道を抜け、高い天井の広場に出ることを繰り返しながら、地下へ地下へと進む。 なにしろこの旧い街は、判明しているだけでも地下65mまで続いているようなのだ。 やがて―― 空気取りの孔から、低音の歌声が、かすかに聞こえてきた。 Salve regina, mater misericordiae: vita, dulcedo, et spes nostra, salve. 幸いなるかな、女王の慈悲 われらのいとなみ、われらのいのち、われらの希望 サルヴェ・レジーナ――聖母マリアへの聖歌のひとつであるようだが、歌い手の音程はぶれて不安定で、なかなかに聞き取りにくい。 壁への反響も相まって、一種独特な効果を醸し出してはいるが。 歌声のみなもとは、さらに地下にあるようだ。 ふたりはいっそう歩を進める。 Ad te clamamus, exules, filii Hevae. Ad te suspiramus, gementes et flentes, in hac lacrimarum valle. 旅路よりあなたに叫ぶ、追放されしイヴの子ら 嘆きながらため息をつきながら 涙の谷で、あなたを慕う そしてふたりは、地下都市の教会あとに佇む、ロバート・エルトダウンを見つけたのだった。 * *「こんにちは、ロバートさん」「よう、ロバート」「……!?」 理比古と虚空のすがたをみとめ、ロバートは明らかに動揺していた。「なぜ……、きみたちがここに」「偶然だね。ちょうどカッパドキア観光がしたかったんだ」 理比古は穏やかに笑っている。「アヤにそう言われちゃ、仕方ないよなぁ?」 腕組みをした虚空もまた、いつもの彼だ。「それにしてもロバート。あんた、歌、すげぇ下手だな」「だめだよ虚空。そんなはっきり」「……放っておいてくれたまえ」 あいにく、音楽の才には恵まれなくてね。 苦笑を浮かべたロバートは、すでに「食えない」元ファミリーの――情のふかさを偽悪で隠した表情に戻っている。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>虚空(cudz6872)蓮見沢 理比古(cuup5491)ロバート・エルトダウン(crpw7774)=========
+++Confession of the crime 歌姫の名はマリー・セヴェール。この世ならざる声に誰もが恋をした―― * * 服が汚れるのもかまわずに、ロバートは冷たい岩盤に腰を下ろす。 「……すまないが、僕はひとり旅の途中でね」 地下都市の壁に、いんいんと声が反響する。 言外に、帰ってくれないか、と、匂わせるロバートに、理比古は屈託なく同じように座り込んだ。 「良かった」 「何が?」 「あなたが無事で」 「……!?」 意表を突かれ、ロバートは目を見張る。 「まさか、そういう心配をされていたとは思わなかった」 「何言ってやがる。いきなり連絡取れなくなったら不安にもなる」 「ひとりになりたいときってあるよね。でも、誰かに、行き先くらいは言っておかなくちゃ」 「……父にだけは、伝えてある」 やや決まり悪げに、ロバートは目を逸らす。 「《ネモの湖畔》への調査が決定したことを連絡するついでに。自警団には同席を依頼されたし、可能ならばそのほうが良いのだろうけど、僕のすがたを見るとマリーが怯えるので、当日は父だけで対応してもらうことになるのでね」 「そうか――おふくろさんが……。だからあんたは同席を断ったのか」 「僕のお願いが、いささか含みのある言い方になってしまったのは、誤解を深める要因でもあり、彼らには申し訳ないとは思う。しかしどうしてもあの場で、マリーのことを話すことはできなかった」 低い声でそう言ってから、ロバートは理比古と虚空を交互に見る。 「そういうわけなので、僕は今、ひとりで自己嫌悪に浸る旅をしている。道連れは求めていない。きみたちは主従水入らずで観光を楽しめばいいだろう」 しかし虚空はどこ吹く風で銀髪を掻きあげた。 「聞こえたか、アヤ? ロバート、今何て言った?」 「『旅は道連れ』って聞こえたよ」 理比古はにこにことロバートに微笑みかける。 「それにしてもトルコ共和国は広いね。蓮見沢の情報網を駆使しても、西トルコ一帯を探すのが精一杯だった。もしロバートさんが東トルコにいたら会えなかったかも」 「……僕としたことが。そういうことなら東トルコのヴァン湖にでも行くんだった」 ロバートはむすっとする。理比古はいっそう、楽しげに笑う。 「ヴァン湖もすてきだね。未確認生物が棲んでるって評判だ」 「詳しいな、アヤ」 「ヴァン湖近くには『ヴァン猫』っていう希少な種類の猫がいるんだよ。真っ白で毛足の長い猫で、どの猫も両目の色が違うんだって」 「……『トルコの生きた文化遺産』ヴァン猫は、猫としては非常に異色なことに水を怖がらず、泳ぎが得意らしい」 「へえ。オッドアイで水と親和性の高い猫ね。実はツーリストじゃないのか?」 「いや、正真正銘の壱番世界の猫だ。……おっと」 つられて旅の蘊蓄を展開してしまい、ロバートは口ごもる。 「旅行って楽しいよね。友達と一緒なら、なおさら。ところでロバートさん、疲れてない?」 「……? それはまあ、少しは」 「はい、これ」 理比古は、ロクム、あるいはターキッシュ・ディライトと呼ばれる、ひとくちサイズの菓子を持参していた。砂糖にでんぷんとナッツ類を加えて作る、トルコの菓子である。 「いや、結構。その地の食文化を尊重したいのはやまやまだが、トルコの菓子はあまりにも甘くて」 「おすすめはこれ。チョコレートコーティングのロクムなんだよ」 ひらすら固辞するロバートの口に、理比古はロクムを放り込んだ。 「……!」 「美味しい?」 「………………甘い。甘過ぎる」 ロバートは、ごほごほと咳き込んだ。 「水……」 「ほらよ」 すかさず虚空が、ペットポトルを差し出す。 「食べられることって、幸せだよね。好きなひとたちと食べることは、その倍以上の幸せだと思う」 理比古は微笑んで、自分も楽しげに口にする。 「甘いものは脳と心に栄養をくれるから、行き詰ったら食べるようにしてるんだ」 「まったくだ。もっともだ。本当にアヤのいうとおりだ」 虚空は大仰に頷く。とりあえずアヤが食べたいだけだろ、なーんてことは、わかっちゃいるが言わない。 「良かったなアヤ。ロバートもこんなに喜んでるぞ」 「……虚空」 ロバートは胸を押さえながら、うらめしげに虚空を見た。 「何度でも言うが、きみは理比古に甘過ぎる」 「ははは。それを言うならあんたにだって激甘だ。ほら、行くぞ」 虚空はばしんと、ロバートの背を叩く。 「どこへ?」 「カッパドキア観光に決まってんだろうが。もう地下都市は堪能したろ? ビジネスパーソンが時間を無駄につぶすのは罪悪じゃねぇのか?」 見ろ、この完璧なツアー内容、と、虚空はスケジュール表を突きつけた。 「ギョレメ野外博物館で岩窟教会をひととおり見て鳩の谷からウチヒサールへ移動しつつパジャパーの奇岩のパノラマを堪能してヘリでパムッカレに飛んでヒエラポリスの遺跡温泉に浸かってローズバレーを熱気球のうえから俯瞰する!」 * * 「こりゃあ……」 立ち寄った岩窟教会の聖母子像は、無惨に傷つけられていた。 それは、キリストを信じるもの以外の手によるものだ。 「こんな酷いことをしてしまうくらい、つらいことがあったのかな」 理比古が涙ぐむ。 「しったことか」 虚空の視線は厳しい。最愛の神ともいえる理比古の涙を見てさえも。 「そんなもん、ひとさまの神を貶める理由にはならねぇよ。てめぇの傷くらい、てめぇで舐めて治せってんだ」 ロバートは、静謐な視線を聖母子に向けている。その両手は、胸の前で組み合わされていて―― 「カリスさんは、ロバートさんのことを心配してたみたいだったよ」 そっと理比古は言い、虚空も苦笑まじりに肩を竦める。 「ヘンリーは、幸せになれる方法を身につけていると言ってたな」 「……罪をゆるし、相手を信じる、ということだろうね」 ロバートは聖母像から目を離さない。 「僕はまだまだ未熟で、彼の境地には辿り着けないけれど」 「カリスにはトルコ伝統コスメのローズウォーターでも買ってってやるんだな」 「エヴァか……。あの闊達なおてんば姫も、すっかり立派なレディになってしまって」 彼女を護りたいと思ったこともあったけれど。まさか僕が護ってもらう立場になろうとは思わなかったよ。 呟くロバートに、理比古が無邪気に問う。 「カリスさんて、ロバートさんが最初に好きになったひとなんだよね?」 「……いや。正確には違う。たしかに、結婚を申し込もうと思った女性は彼女だけだが……」 ロバートは、理比古と虚空から少し離れる。 そして、聖母像を見上げた。 「話相手になってくださいますか? サンタ・マリア」 どうせ、ひとり旅のひとり言だ。 同行者がいるわけでもない。 そう前置きをして。 * * 「僕は15のとき、父に連れられ、初めてオペラ座に行きました。そして、ひとりの歌姫に逢ったのです」 理比古と虚空は、はっとして、息を呑む。 「演目は、オペラ『ハムレット』。彼女の役はオフィーリアでした。大げさに言うならば、その歌声を聞いた瞬間、雷に打たれたように感じました。身体が震えて、拍手さえもままならなかった。奇しくもバイエルン王国のルートヴィヒ2世が、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』を初めて観劇したのがやはり15歳で、彼もそのとき、同様の状態であったそうですが」 思春期の少年には、どちらも、魔性の《毒》であったのかも知れません。 ルートヴィヒ2世はワーグナーの音楽の虜となりました。18で即位してすぐ、王としての彼が行ったことは、困窮して債権者から逃げ回っていたワーグナーを探し当て、援助することでした。 王は、神ともあがめる《音楽家》を手に入れた。 しかしそれは、王が《音楽家》の奴隷に堕ちたことを意味することでもありました。 ……失礼。余談が過ぎました。 やがて、この歌姫は、ある音楽家の《妻》となり、男の子を生みました。 天使のように愛らしい男の子です。 つまり僕は失恋したのですが、不思議と悔しくはなかった。 なぜなら、その音楽家とは僕の父であり、その子は僕の弟だからです。 彼女と「家族」になることができて、僕はうれしかった。 もっとも、天才肌の彼女は感情もつねに不安定で、おだやかな生活など、望むべくもなかったのですが―― * * 「今でも思い出す光景がある」 ロバートは聖母像から視線を外し、誰に聞かせるでもない独白を続ける。 「エルトダウン邸の敷地が、新緑で満たされる季節だった。マリーが、生まれたばかりのベンジャミンを抱いていた。見つめる僕に、微笑みを返してくれた。木漏れ日が差し込んで、それは神々しく見えた」 * * 「ロバートさんが、お父さんのこともお義母さんのことも、とても愛していることはわかった。俺は、そんなロバートさんを素敵だと思うよ。……だよね、虚空?」 理比古がそう言ったのは、パムッカレへと移動する、ヘリのうえでのことだった。 「そうだなぁ。俺は、親に必要とされなかった子どもだから」 虚空は腕組みをしたままだ。その表情には、穏やかな憧憬がある。 「聖母像を見てたら、あんたの護りてぇものが判る気がしたよ」 ロバートの背を、虚空はばしばしと、荒っぽく叩いた。 「あんたの気持ちは伝わってると思うよ。親父さんにも、おふくろさんにもな」 +++Never ending journey 「自警団に含みがあるわけじゃねぇ。あいつらはあいつらで、自分の仕事を懸命に果たそうってことなんだろう。あいつらがその正義を貫くように、俺は俺の信念に則って生きる。それだけだ」 虚空は、上空を見据えながら言う。 「他の誰が何を言おうと俺たちはあんたを信じる。必要なら助ける。でなきゃ、友達づらをする資格なんかねぇ」 「信頼の木は、育つのに時間がかかるとも言うよね」 眼下には、地球ならざる光景が広がっている。理比古は目を細めた。 「これが終わりじゃないかもしれないけど、全てでもない。信じるものはひとそれぞれで、誰だってそれに従って生きるしかない。ただ、ロバートさんが自分を責めることがないようにって、願う。あなたを信じ、案じているひとは間違いなくいるよ」 「そうだな。今回みてぇなことはこれからもあるかもしれないし、ないかもしれない。それでも、いつだって、あんたを想っている人間がいるってことは忘れないでくれ」 「……ひとり旅だというのに、どうも落ち着かない」 ロバートはヘリの外を見たままつぶやく。 「ひとり言が多くなって困る」 ――そして。 ごく初期、《ネモの湖畔》でともに暮らしていた、ある家族のエピソードが語られた。 誰に聞かせるでもない、独白として。 * * 「当初は、気難しい父も、客人を受け入れたほうがマリーにも好影響かもしれないと、善意の来訪を拒んだりはしなかった。そのたびに、僕は反発していた。何しろ当時の僕は、これっぽっちもロストナンバーを信用していなかったのでね」 ひとり、とても熱心に訪ねてきた、40代くらいのコンダクターの女性がいた。 彼女はマリーのファンだったそうで、こんなところでお近づきになれてうれしいと言い募り、会話が成り立つはずもないマリーに、一方的に自分の話ばかりをし、なかなか帰ろうとしなかった。 それでもマリーは、ほんの少し、笑顔を見せたりしていたので、僕も渋々ながら、その場に立ち会ったりしていたのだが。 ある日。 彼女は、マリーの体調が思わしくないときに訪ねてきた。 やんわりとお引き取り願おうとしたのに、「大丈夫よ、少しくらい。だってわたしたち友達だもの」と、強引に客間に上がり込み、いつものようにあれこれと話し始めた。 なんともマリーの顔色が悪いので、「帰っていただこうか?」と水を向け、マリーが頷いたとたん―― 機嫌を損ねた来訪者は、聞くに堪えない罵声を浴びせた。 ――何よ、旦那さんがいるくせに、年の近い義理の息子ともよろしくやってるんじゃない。きれいな夢だけ見て、歌だけ歌って、おしあわせでけっこうなことね。 「紳士にあるまじき勢いで、何度横っ面をはり倒したやら」 ――出て行け。二度とマリーに、いや、《ネモの湖畔》に近づくな。 「振り返れば今度はマリーが、怯えた目で僕を見ていてね。そのときかな、もう、ここでは暮らせないと思ったのは」 ――どうもここにいると、非紳士的になってしまう。これ以上静寂を乱してマリーを怯えさせるのもつらいので、出ていこうと思います。 ――他にチェンバーをつくるのかね? ――いいえ、壱番世界に拠点を移そうと思います。今後、僕だけでなく、ロストナンバーたちにも極力《ネモの湖畔》には近づかせないようにします。 ――まるで、折り合いの悪い親子のようだ。 ――実際、折り合いはよろしくないじゃないですか。何か聞かれたら、対外的には「一族の恥だから」と言いますよ。 ――では私は「息子には軽蔑されてしまったので」と言うようにしよう。 ――軽蔑というほどのことはないですが、父さんの善良ぶりにあきれ返りはしました。どうか客人は選んでください。 ――肝に命じよう。……元気で。 ――ええ。父さんも。 * * 人気観光地とあって、《綿の城》パムッカレの人出は多かった。 あちこちで、何度も何度もシャッターが切られている。 「……ところで虚空」 「うん?」 「そろそろ河岸を変えないかね?」 「お、やっとひとり旅設定を返上したな」 「……いや、先ほどから、どうもフラッシュがまぶしくて……」 「みんな、この景観を撮りたいんだね」 楽しげに辺りを見回している理比古は、気づいていない。 観光客たちがこぞってカメラを向けているのは、パムッカレの石灰棚に三人並んでのんびり足湯をしている、金髪と銀髪と黒髪の男性陣であることに……。 * * 「ヒエラポリスの遺跡温泉を貸し切るとは、大胆なことを」 「あんたにだけは、貸し切りを大胆とか言われたくねぇ」 「すごい眺めだね。柱が沈んでいるのが見える」 理比古は身を乗り出し、手を伸ばす。 「足元に気をつけろよ」 「うん……、あ」 言ったそばから理比古は足を滑らせ―― 「危ねぇ!」 ざっぱーーーん! 庇おうとした虚空もろとも、温泉に落ちたのだった。 「お約束を外さないなぁ、きみたちは」 派手に上がった水しぶきのとばっちりを受け、ロバートはため息をつく。 ――と。 その足元に、なにやら、白くやわらかな毛並みが触れた。 「……?」 「にゃーん」 どこから紛れ込んだのか、白い仔猫だ。 「きみは野良かな? トルコの猫は人なつこいね」 ごろごろと喉を鳴らす仔猫を抱き上げて、よくよく見ればその瞳は――琥珀とトルキッシュブルーの、オッドアイ。 「……!?」 驚いた拍子に、ロバートの足もふらつく。 ざっっっぱぁぁーーーん!! 「にゃーーん」 仔猫もまた、温泉に飛び込んだ。 呆然とするロバートの周りを、仔猫はすいすいと泳いでいる。 「まさか……、ヴァン猫? ……いや、そんなはず」 「可愛い猫だね。女の子かな?」 「野郎ばっかの貸し切り温泉に乱入とはな。せっかくだから混浴としゃれこもうか」 「んにゃー」 * * 日本ではこうするんだよ、と、手ぬぐいを頭に乗せ、独特の節回しで、理比古は歌い始めた。 幼いころから謡曲と琵琶歌を習得してきた理比古の、『赤とんぼ』や『ふるさと』が、圧倒的な歌唱力で遺跡温泉に流れる。 「……なるほど。『郷愁を誘う』とは、こういうことか。今どこにいるのかということを忘れてしまうね」 「にゃー」 温泉に浸かったロバートの肩に、仔猫はちょこんと乗っかっている。 「アヤ、オレンジ食うか? ロバートも」 いつの間に用意したのか、綺麗に剥いたオレンジが白い皿に盛られ、ぷかぷかと流れてきた。 * * 気球がゆっくりと、ローズバレーを横断する。 地平線に沈みかけた夕日は、見渡す限りの世界を薔薇色に染め上げていた。 ロバートが、ぽつりと言う。 「自警団の調査が終わり次第、父はマリーを連れ、ターミナルを離れるようだ」 「そうなの? 行き先は……?」 「一箇所に留まることなく、美しい旋律だけを追い、さまざまな異世界を巡るのだと――」 「まさか、もうターミナルには」 「戻ってくることはないだろうね。ただ、父は、『友人』ふたりだけには、エアメールで《招待状》を送りたいと言っていた」 彼らだけは、望みさえすれば、異世界にいる父とマリーの元を訪れることができるだろう。 マリーの歌声を直接、聴くことができるだろう。 「父は、あれでなかなか筆無精でね。よほど気が向かないと、連絡なんてくれないんだよ」 「ロバートさんはどうするの?」 「今までと何も変わらない。『折り合いの悪い親子』の距離感はそのままに、会いたくなったらひとりで会いにいくさ」 僕には音楽の才はないから、父が求める旋律の収集など、できようはずもないけれど。 ――それでも。 「お父さんにとっては、地下都市でのロバートさんの、その……、味わい深い歌声も、貴重な《音楽》だと思うよ」 「そうだな。その『友人』とやらの蓄音機に紛れ込ませてもらえ」 「それだけは御免こうむる!」 異世界群の、どこにいようとも。 きっと、マリーは歌い続ける。 あの美しい歌声だけは変わることなく、極光の色彩を投げかけるだろう。 ――Fin.
このライターへメールを送る