ヒトの帝国にて、皇帝の寵姫シルフィーラと接触した、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノと相沢優の報告は、あるひとつの結論を導いた。 トリの王国の女王オディールは、ヴァイエン侯爵が《迷鳥》にこころ奪われたことを嘆くあまり、《迷鳥》を憎み、糾弾していた。しかし、無意識のうちに、《迷鳥》という神秘的な存在に憧憬も生まれていたのだ。 もしも―― もしも、わらわが《迷鳥》であったなら。 ヴァイエン候に保護された双子の片割れが、シルフィーラではなく、わらわであったなら。 ずっとあのかたのそばに、いられたかも知れぬものを。 それは女王として抱いてはならぬ禁忌ゆえ、オディール自身さえも気づかぬままに抑圧してきた感情だった。 だが、世界計の欠片が、その封印を解いてしまった。女王の想いは、歪み、ねじれて、《迷卵》を呼び覚ます。 そして、春のヴァイエン侯爵領に、眠ったままであった《迷卵》が、次々に孵化することとなったのだ。 ……今もまた。 緊迫した表情の無名の司書が、ロック・ラカンを呼び止める。「ロックさん。オディール女王が行方不明です」「何だと」「単身、ヒトの帝国に行ったものと思われますが、その足取りは掴めません。ただ……」「ただ、何だ?」「ヒトの帝国内に《迷宮》がいくつも発生しています。もしかしたら」「その原因が、オディール陛下かも知れぬと? よもや、女王が《迷鳥》に変貌したとは言うまいな?」「それはまだ、何とも言えません。今のところ、『導きの書』は、どの《迷宮》の中にも女王はいない可能性を示唆していますので」「だが、現地へ行けば、何らかの手がかりは掴めるでしょうね」 ラファエル・フロイトが進み出る。ロックはじろりと、彼を睨んだ。「候は無関係であろう。それがしが行こう。女王陛下を守護するのが、それがしのつとめ」「いや、私も行かなければ」「おれも行くよ」 シオン・ユングが走りよってくる。「全員、お願いいたします。むしろ、あなたがただけでは人手が足りませんので、他にも――」 司書は冷静に、図書館ホールを見回した。 * それは帝都メディオラーヌムの一角、夏日にきらめくヴェルダ河の傍らに出現した。 ――《迷宮》。 《迷鳥》によって呼び起こされ、つくりだされ、禍(わざわい)を撒くそれは、強い日差しなどものともせずに遊ぶ子どもらの歓声すら聞こえてきそうな位置に、ひっそりとたたずみ訪問者を待っている。 外側からは、何の変哲もない――《迷宮》にその表現が相応しいかどうかはさておき――石造りに見える《迷宮》へと脚を踏み入れてみると、内部は薄暗い森の様相を呈していた。 人工物と思って踏み込んだら、中は、背の高い針葉樹によって陽光を遮られた、うすら寒い印象の森なのだ。 森はシンと静まり返り、動くものはない。 この森が、生命活動を行っている『木』というものの集合体なのか、判別はつかない。本当にここが《迷宮》なのか、判断に迷いかけたところで、森の木々が絶妙に重なり合い、一定方向にしか進めないことがわかる。 それでは、やはり、ここもまた《迷宮》なのだ。 広大に見える森はまやかしで、《迷鳥》に連なるだけの迷い道にすぎないのだ。 太古の昔、潤沢なエネルギーを受けて野放図に天を目指したかに見えるこれらの木々も、森の――《迷宮》の中央、中心に座す《迷鳥》に至るための、道具立てのひとつにすぎないのだ。「ここにいるのは金糸雀だ。片翼の、かなしい声で啼く金糸雀」 前回と同じく、ガイド役を買って出た神楽・プリギエーラが、その不思議な光沢のある眼差しで森の奥を見つめて言う。「敵は? 前回は、炎と闇があって、モンスターが襲ってきたっていうけど」 誰かが問うと、巫子は耳を澄ませるようなしぐさをした。「敵はいる。モンスターも皆無ではないだろう。だが……大きな問題は、それではない」 神楽の眼は、どこか遠くを見つめて、何かを受け取っているかのようだ。 蛋白石のような双眸に、森の影が映り込む。(ああ) 不意に、誰かのため息が聞こえたような気がした。 ハッと振り返れば、木々の傍らをいくつもの人影が行き過ぎ、現れ、消えてゆく。 実体ではない。 薄暗い森の中だとて、ロストナンバーたちの足元には影がある。 しかし、彼らにはそれがない。 何より、彼らは、身体の半分が透けていた。「!?」 幽霊、という言葉を飲み込む。 夏に怪談とはいっそ相応しいのではないか、そんな声も上がる。 しかし、この世界の出身ではないはずなのに、なぜか、自分の見知った――そして、すでに喪われている――人の姿をあちこちで目にするようになり、軽口を叩くことすら出来なくなった。 おそらく、この《迷宮》は、踏み込んだものの心から、もはやこの世にはない、誰かにとって大切な、忘れることのできない人々の記憶を映し出すのだ。 それは自動的で、誰かが「苦しめ」と悪意を持ってなすことではない。 きっと、誰よりも苦しみ、哀しんでいるのは《迷鳥》なのだ。 なぜかそれが、ひんやりとした空気から伝わってくるから、《迷鳥》を責める声はない。 時折、思い出したように姿を現す、決して強すぎはしないモンスターを退治しながら森を進む。 どこかから、歌声が聞こえてくる。 悲壮な、悲痛な、狂おしいほどの嘆きと、今なお消えることなく――否、薄れることなく己の中に在る、深い深い愛をうたう、斬りつけるように胸へと迫る歌声だった。「泣いているのか、《迷鳥》」 誰かのつぶやきには、共感の悼みがこもる。 木々の傍らを影が横切った、そんな気がして立ち止まり、見やる。と、そこには、背の高い、鋭い目つきの青年が佇んでいる。 影がないから、彼もまた《迷鳥》によって誰かの記憶から呼びさまされた霊魂だろう。腰に剣を佩いているところからして、武人だろうか。こちらをじっと見つめているのは、メンバーに関係者がいるからか? と、皆がお互いを気にしていると、「……空鏡」 神楽が、呆然と――そうとしか言いようのない声だった――誰かの名を呼んだ。それが、いつも神楽の影に潜んでいる異貌の竜と同じ音を持っていたことに、気づいたものはいただろうか。 普段から飄々として、内面に踏み込ませることのない巫子の、褐色の頬を、ツ、と雫がひとつ、つたっていった。 意外さのあまり押し黙る人々など気にもしていない様子で、巫女は青年の霊をじっと見つめている。その唇には、笑みさえ浮かんでいた。 ややあって、「……そうか、かなしいのか。なら、そうだな」 普段通り、淡々と、神楽は言葉を継ぐ。「殺そう」 あまりにも普通に、当然のことのように。 もはや命なき青年は、何かを伝えようとでもするかのように、森の奥、《迷宮》の中心を指さして、静かに唇を引き結び、佇んでいる。「もはや迷いを解くことすら出来ないほど哀しいのなら、喪った哀しみを消すことが出来ないのなら、この手で、最期を」 謳うように――事実、この巫子の紡ぐ声は、いつでも歌のように美しいのだ――言って歩き出した神楽を追いかけ、事情の説明を求めるものの、「金糸雀はつがいを喪った。哀しみのあまり《迷鳥》へと変貌して、せめてもう一度と願っていくつもの魂を呼び起こし、けれど自分は逢えぬまま、《迷宮》の底で哀しんでいる」 神楽の眼は、どこか遠い過去を見ている。「私には金糸雀の気持ちが判る。――楽にしてやらなくては」 何やら事情のありそうな背を、やれやれとばかりに追おうとしたところで、彼らもまた気づく。 年経た巨木の傍らに、苔むした岩の影に、昏い草むらの隅に。 あの時喪った、懐かしい姿が見えること、そして彼らが、何かを伝えたそうに、自分たちを見ていることに。「あ……」 伸ばした手が触れることはない。 それは結局、己が記憶の中の、美化された映像にすぎないのかもしれない。 しかし、影は伝えている。 確かに、きみを/あなたを/おまえを想っている、と。 哀しみとともに、苦悩とともに。 ――だからこそ、彼らは進むしかないのだ。 己と同じ哀しみを抱え、苦しみ続ける《迷鳥》を、その螺旋から解放するために。 薄暗い森は、ひんやりとした嘆きをたたえて、旅人たちが進みゆくのを、ただ見守っている。!お願い!オリジナルワールドシナリオ群『夏の迷宮』は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。
1.Lament ものがなしい歌声が、森の――迷宮の奥から響いてくる。 哀惜と、悲嘆と、狂おしい絶望と、そして「今でも愛している」という声なき声が、そこには含まれている。 「愛していた、では生温い、か……」 アマリリス・リーゼンブルグは、森の奥を見つめ、つぶやく。 その、宝石めいた青の双眸には、ゆるやかな悼みが揺蕩っている。 「辛いのか。苦しいのか。――金糸雀」 彼女が依頼を受けたのは、自分と同様の、翼持つ存在に興味があったのと、ここが、以前世話になったラファエルたちの故郷だからだ。 「片翼を喪った……か」 ひとつだけの翼では飛べない、とは言わない。 ひとりで――片方だけの翼でも、バランスを取り、体勢を整えれば、空舞うことも不可能ではないだろう。そうやって、今も飛んでいる誰かが、どこかにいるはずだ。 「だが、すべてのものが、飛べるわけではない」 アマリリスもまた、かつて、片翼を喪った。 ずいぶんと遠い昔のことだ。 あの時は、世界の終わりさえ感じたほどだった。 「“私は望まれ”た。だからここにいる。――けれど」 金糸雀の悲嘆を理解できる。 その選択を否定はできないし、しようとも思わない。 彼女とて、運命と選択が交わらなければ、同じ道をたどっていたかもしれないのだ。 「女性が哭いているのなら、ぜひその涙を拭って差し上げたいが――」 それは自分の役目ではない、とも思うのだ。 だから、彼女は進む。 そう決めている。 「伴侶を失うのはつらいね。今も金糸雀は苦しいんだろうね……」 蓮見沢 理比古の、光の加減で銀にも見える眼もまた、悼みを孕んで森の奥を――《迷宮》の終点を見ている。 「君もそう思うか」 アマリリスに問われ、理比古は頷いた。 「得られた歓びが大きければこそ、喪失感がもたらす穴は大きいんだろうなって」 「……そう、だな」 首肯するアマリリスの眼は、金糸雀への気遣いのほかに、彼女自身、過去に喪ってきた大切な何かへの悼み、そして何にも勝る強い想いと愛を孕み、輝いているようだった。 「愛とは、莫大なエネルギーなのだな、と思う」 「本当に。それを得られた人たちは、たいへんなものを背負うことになるのと同時に、他に代えがたい幸いを見つけるっていうことなんだろうと思うよ。まあ……俺には、今のところ特定のパートナーはいないし、願望もないんだけどね。――早く結婚しろってうるさく言われてはいるけど」 「それはそれで、なかなか難儀だ」 「そうだね。俺は、今の『家族』といられるだけでいいんだけどな」 だからこそ、つがいを喪った金糸雀の嘆きを、真実の意味で理解することはできないのかもしれないと思いつつ、 「伴侶を持たない俺に、金糸雀の気持ちは判らないのかもしれないけど……でも」 美しく、悲壮に、どこまで澄み通って響く歌声に耳を傾けながら、理比古は穏やかに透徹した眼差しを森の奥へと向ける。 「それでも、苦しい心を、苦しいままにしておきたくない。解き放たれて自由になって、どこかでもう一度巡り会ってほしいって思うんだ」 世界は決して、金糸雀に、永遠に苦しみ涙せよとは言っていないはずだから。 《迷宮》の奥、《迷鳥》のもとを目指し、時おり思い出したように現れる、異形のモンスターを倒しながら進む。 《迷鳥》に攻撃の意思がないからなのか、いかなる獣にも鳥にも昆虫にも魚にも植物にも似ておらず、それでいてそのすべての特徴を備えたかのようなモンスターたちは、春に現れた《迷宮》に比べると、どこか遠慮がちであるようにすら思えた。 まるでそれは、望みは別の場所にあるのだとでも言うような。 「……死者が彷徨う森、みてーなもんか。ずいぶん、呼び出したもんだ……」 モンスターの一体を倒したのち、榊は、森をぐるりと見渡して息を吐く。 「存在が変質して身を滅ぼすほどの……喪失の痛みと嘆き、か」 それはいったい、どれほどの痛みだったのだろう、と 故郷でも、感情を制御しきれず、呑みこまれてしまった何ものかが、まったく別のモノになることは稀にあったと聞く。榊が実物を見る機会はそうなかったが、身食いのその痛みを想像することすら出来ない、とは口が裂けても言わない。 榊自身、何度確かめてもどこにも不具合がないと判るのに、身体を真っ二つに裂かれて、自分を構成する大切な要素をごっそりともぎ取られたような感覚を知っているし、覚えてもいるからだ。感情の幅が狭く、ヒトの持つ心の機微というものを理解しづらい榊が、であるから、その衝撃の激しさはいうまでもないだろう。 「……あん時だって、どこも、悪くなんてなかったのにな」 ぽつりとつぶやき、過去に思いを馳せ、それからまた前を向く。 他の面子と同様、榊もまた理解している。 金糸雀の選択を誰も否定することはできない。 そして、今や、金糸雀を救い、《迷宮》を鎮めるに、彼らが出来ることなどたかが知れている。 知れているが、そうするしかないのだ。 「喪失感、か……」 口に咥えた符を破り、光る茨を生み出してモンスターを絡め取り、浄化しつつ、メルヒオールもまた独白する。 彼がこの依頼を受けた理由が、まさしくそれだった。 つがいをなくし、その喪失感から逃れられず、ただ自らの消滅ばかりを望む金糸雀の、苦しい胸の内が彼には理解できる。 メル、メルヒオールと呼ぶ声が脳裏に聞こえた気がして、苦笑する。 「なくしたくてなくすやつなんか、いない」 言葉には実感がこもった。 離別は唐突で、残酷だ。 誰を責めることもできない流れがそこにはある。 だからこそ、金糸雀を憐れだと思う。 自分が喪ってきたものと照らし合わせ、我が身に当てはめるごと、メルヒオールの中には悲哀が募る。 それと同時に、 「この、フライジングという世界で死んだ魂がどこへ行くのかは、俺には判らないが」 《迷宮》の奥で哀しみ続ける金糸雀を思いつつつぶやく。 「ここで嘆き続けているだけでは、会えないままなんじゃないのか。――哀しみから解き放たれたなら、片翼でも飛び立って、つがいを探しにいけるんじゃないのか。それとも……」 「それとも、逢わせてやれればいいのか」 メルヒオールの言葉を継いだのはアキ・ニエメラだ。 「……そうだな。それが叶うなら」 「この《迷宮》にはあまりにたくさんの感情がある。魂に道があるのかどうかは判らねぇけど、そいつが混線したせいで会えずにいるんなら、どうにかして道をつなげてやれねぇかな」 思案するアキ自身は、実を言うと、恋愛というものとはあまり縁がない。 明日をも知れぬ強化兵士という立場であるから、そもそも、結婚の経験もなければ願望もなく、誰かと激しい恋に落ちたこともない。そんなものは、ごく一部の選ばれた人間に――といっても、それは何も、上流階級の、という意味ではない――だけ許される、貴い何かだと思っている。 戦場を渡り歩き、さまざまな部隊で戦ってきたアキにとっての愛は、その大半が友愛や親愛で出来ている。 自分に恋愛を理解することは難しいのかもしれないと思いつつ、深く深く愛する相手を喪った金糸雀の悲嘆の重さは想像に難くない。 「楽にしてやろう。もう嘆かなくていいように。来世があるなら、そこで再会して幸せになれるように」 それだけ愛しいつがいと出会えた金糸雀を羨ましくも思う。 彼らの絆に敬意を表し、苦しませぬよう送ろうとも思う。 アキの足取りは確かで、力強い。 その傍らを言葉少なに歩きつつ、一二 千志はじっと森の奥を見つめていた。 いつも不機嫌そうとも捉えられる――しかし注意深いものが見ればただ聡明で繊細な人物なのだということが判る――、物憂げな双眸には、沈鬱な光が宿っている。 ――喪う哀しみがどれほどのものかなら、痛いほど理解できる。 眠りたい、解放されたいと願う想いもまた。 もしも、何もかもを諦め、放り出してでも眠ることが許されるなら。 かつての自分であれば、それを選んでいたかもしれない。 前を向き生きると決めた今ですら、その誘惑の強さが判るから、千志は金糸雀を否定しない。弱い心だと嗤えない。 むしろ、金糸雀が眠ることを――終焉を望むなら、せめて、と思う。 ゆえに、彼の影は鋭さを増し、ひっそりと襲い来るモンスターたちを、次々に亡きものへと変えてゆく。 (もう、苦しまなくていいんだ……そのために犯すべき罪があるのなら、俺が) 千志の覚悟なら、もう決まっている。 背負って生きると誓ったのだ。 贖罪には遠くとも、誰かを救うために生きる、と。 (だから、もう) 自らも痛みを抱えつつ、千志の眼差しはただ静かで、強い。 「比翼の鳥、か……」 ヴィンセント・コールの脳裏をよぎったのは、彼がさまざまなものを捧げて悔いぬ作家の男と、今は亡きその妻の姿だった。 否、妻を喪った作家の姿を思い描いたからこそ、《迷鳥》を止めてやりたいと思ったのかもしれない。 ヴィンセントは、トラベルギアの獅子でモンスターを攪乱し、吹雪で防御しながら進んでいた。襲ってくるモンスターは拍子抜けするほど少なく、また、その攻撃は積極的とは言い難かった。 「……悼んでいるのですか、君たちも」 真実は判らない。 《迷宮》が生み出したモンスターに心があるのかは知らない。 しかし、ヴィンセントはそう感じた。 「なら……送りましょう。誠を持って、苦しませないように」 痛みは千差万別だ。 すべてのものが乗り越えられるわけではない。 ヴィンセントには、哀しみ続けることで、《迷鳥》が《迷宮》に囚われているように思う。今はまだ、ただ嘆くだけの《迷鳥》だが、放置しては悪化し歪むかも知れない、とも。 「つがいは、きっと望まないでしょう。解放し、逝くべき場所へ」 ひときわ高く、悲壮に、歌が紡がれる。 胸をえぐるようなそれは、それぞれに、『あの日』の記憶を連れてくる。 先を行く神楽が一瞬立ち止まり、わずかに、何かをこらえるような表情をした。 「おい、大丈夫か」 榊が声をかける。 彼の視線は、神楽の少し前で、まるで導くように佇む、背の高い男へと注がれている。 「あの兄ちゃん、あんたの相棒か」 榊の問いに、神楽は一瞬、瞑目し、 「幼馴染だ」 そう、静かに言って、すぐにまた歩きだした。 2.Apparition 進むほどに森は深くなった。 嘆きの歌もまた、強さ悲壮さを増す。 気づけば、ひとりになっていた。 それなりに近しい場所を歩いていたはずが、いつの間にかたったひとり、薄暗く肌寒い森を歩いている。 理由を考えるよりも、『あのひと』が現れ、納得するほうが、早かった。 ――そう、出会うためだったのだ、と。 「アメリア……」 アマリリスはうっとりというのが相応しい、愛しげな表情で、彼女の幻を見つめていた。 懐かしい、いとおしい、そしてあの日と変わりない、女王の姿に心が揺れる。 「ああ、そうだ」 アメリアは微笑んでいる。 「現れるなら君しかいない、そう思っていた。当然のことではあるけれど」 あの日のままの、闊達で飾らない、気品と思いやりのある華やかな笑顔だ。 その笑顔を見るだけで、アマリリスは満たされ、力をもらい、希望をもらった。決して平坦ではなかった道のりの中、彼女の、あの力強い笑みが、アマリリスを立たせ、進ませた。 彼女への愛で、アマリリスは出来ていた。 否、今もなお、出来ている。 「いつまでも、君といっしょにいたかった――……」 恋愛感情ではない。 それでも、言葉はどこか甘い。 「叶わない願いではあったけれど、確かにそう、祈っていた」 別れの苦しみは世界の終焉。 己の心も死ぬのだろう、そう思ったこともあった。 けれど、アマリリスは、アメリアのいない世界で生きている。 アメリアは、アマリリスの死など望みはしなかった。 ただ、生きていてほしい、幸せでいてほしいと願ってくれた。 「君が望んでくれたから、私は生きられる。これからも生きるだろう、君との思い出を胸に、背を伸ばして」 アマリリスの生きかたが、在りかたが好きだとアメリアは言った。 あなたが立つところ、それがあなたの故郷だとも。 アメリアの言葉を、アマリリスは祈りと――祝福と感じる。 彼女の言葉があるから、どこにいても、どう生きても、自分は自分なのだと思える。 「判っている……ありがとう。今でもずっと、誰よりも愛しているよ」 アメリアの白い指先が、《迷宮》の奥を指し示す。 麗しい双眸に悼みがにじむ。 「ああ。救おう……せめて、安らかな眠りを」 華やかに、やわらかく微笑む彼女に、微笑みを返す。 そして、唇を引き結び、背筋を伸ばして、アマリリスは歩き出した。 ――あの果てに、《迷鳥》が待っている。 出会うとしたら彼らだろうと思っていた。 そして、事実、そうだった。 背の高い、大柄な、厳格さと気品とを併せ持つ壮年の男たち。 理比古にとっては、半分だけ血のつながった兄弟だ。 ――彼らが生きている間、ついには、兄弟であると認めてはもらえなかったけれど。 「ッ、」 彼らが霊魂、亡霊、幻であるから、という意味ではなく、ただ怖かった。 彼らの視界に入ることすら苦しくて、身体がすくんだ。 「……にいさん」 弱々しく呼びかけ、見上げる。 兄たちは、身じろぎもせず、理比古を見つめている。 以前の自分なら、おそらく見つめられただけで怯えていた。次の瞬間には床に引きずり倒され、殴られ、罵倒されるのではないか、と。 けれど、今、罵られ殴られるだけだとはどうしても思えず、理比古は在りし日そのままの兄たちと向き合った。 「あなたたちは……本当は、俺のことをどう思っていたんですか」 答えが返るとも思えなかったが、恐る恐る話しかける。 「俺は、本当は……あなたたちにとって、何だったんでしょうか」 ひどく虐げられ、心身に傷を与えられた。 しかし、愛情の反対は無関心でもあるのだ。 彼らが理比古のことを何とも思っていなかったら、あの関係はなかったはずなのだ。 そう思えばこそ、知りたいとの願いが湧き上がる。 彼らは、理比古に、どんな感情を抱いていたのだろうか、と。 妾と蔑まれた女の息子だから、そう思っていたけれど、そう言えば自分は義兄たちの思いについて本当に知ろうとしたことはなかったかもしれない、と、今さらのように思う。 「にいさん」 再度呼ぶと、兄たちの幻は、ゆっくりと手を伸ばす仕草をした。 なぜか恐怖を覚えず、流れに任せていたら、ふたりは理比古の頭をなでる仕草をし、詫びるように目を伏せてから、森の一角を指差し、そしてゆっくりと消えていった。 理比古の眼が見開かれる。 「――!」 理比古はそれを、自分の願望が見せただけの幻ではないと信じる。 「今でも判らない、けれど。やっぱり俺は、あなたたちが大好きです」 笑みは、泣き笑いの色を含んだ。 魂の底に湛えられた絶望のすべてが消え去ったわけではないが、理比古は確かに吹っ切りつつあるし、透徹しつつある。すべてを許し、受け入れ、前へ進もうとしている。護りたい、愛したい、与えられる想いに返したいと願って生きている。 「ありがとう。このまま、いきます」 幻でも、願望でも、構わない。 生きて果たすことがある。 邂逅は、そっと理比古の背を押してくれる。 言葉は、自然と過去のものに戻っていた。 「……やはり、汝か」 榊の前に現れたのは、彼の予測通り、神を斬るために鍛えられた“朧月”の、最後の使い手たる男だった。 和装の、闊達な雰囲気をした四十路ごろの男だ。 壊滅した集落で見出し、折れぬ魂に惹かれて拾った。 三十年ばかりともに在り、生きるすべと刀の扱いを教えた。 当代一と呼ばれる術師に成長した彼は、懐の深い、器の大きな男に育った。気まぐれにヒトの姿を取り、彼やその家族、仲間と関わりながら、榊はヒトのもろもろを学んだ。愛着というものをわずかながた知ったのも、あの頃であったかもしれない。 「久しいな」 榊が最期に彼を見たのは、人の許容量を超える神気に蝕まれて狂い、一族を惨殺したあとの姿だった。だから、唇に笑みさえ浮かんだそのさまを、榊はひどく懐かしく思う。 「懐かしい……か」 人間の感情は難しいし、必要だとも思わない。 そんなふうに、彼に言った日のことまでが懐かしく思い出される。 「我にも、そのような思いがあるのか」 “朧月”不在の、最悪のタイミングで男は狂い、彼が戻った時には仲間も家人も、その場にいたすべてのものを殺し尽くしたあとだった。 彼の息子だけが、唯一、外出していて難を逃れた。 息子まで斬る前に、榊が彼を斬ったからだ。 神気に呑まれて狂えば、殺す以外に止めることも救うこともできない。 だから斬った。 ――その後、帰宅した息子に、一族の仇と付け狙われることになったが、後悔はしていない。 「汝は……」 ふと気づき、声をかける。 「我が記憶から喚び出された幻ではないな」 幻が笑った。 証拠などないが、それを真実と榊は信じる。 “朧月”を榊にしたこの男は、今も彼を案じて、そして姿を現したのだろう。 「汝には幾度も驚かされる」 唇をかすかな笑みがかすめた。 ほとんど無意識のことだったので、榊自身は気づいていない。 神気に呑まれて狂ったものが、その場にとどまり続け、外へ出て大量虐殺に走らなかったことはほぼ奇跡に近い。 「それこそ、汝の強さか」 独白すると、男の幻は榊に向かって頭を下げた。 そこに感謝と詫び、双方を感じ、榊は首をかしげる。 「……?」 言葉はなかったが、微苦笑とともに口が少し動いた。 それで、自分を止めてくれたことへの礼、自分を斬らせてしまったことと、すべてを被って口を噤んでくれたことへの謝罪だと知れた。 そして、 「痛そうな顔をした? 我が、か」 男を斬るとき、榊は痛みをこらえる表情をしたのだと言う。 人の感情に疎い、彼が。 「――後悔は、しておらぬ」 命を奪うかたちで男を止めたことも、罪をすべて自分がかぶり、追われる身となったことも。 「汝の息子は壮健だ、未だ汝には及ばぬが。――案ずるな」 男が森の奥を指差す。 榊は頷いた。 「汝と会わせてくれた礼は、せねばな」 嘆き苦しむ《迷鳥》に最期の安らぎを。 榊は、そのために、再び歩きはじめる。 メルヒオールもまた、確信を持ってその人と出会っていた。 大切だなんて、口が裂けても言わないし言えないが、忘れられない、強烈な印象を残した相手で、すでに喪われた人物と言えば、思い当たるのはひとりしかいなかった。 「やっぱり、あんたか」 小柄な老婆が、そこでは笑っている。 小さな身体に似合わぬ豪快な笑みは、あのころと何も変わらない。 まっすぐにこちらを見据えてくる眼が、強靭にして理知的な光を宿していることもまた、あのころと変わっていない。 「変わってないな、婆さん。……って、当然か」 まだ学生だった頃のメルヒオールを散々こき使ってくれた婆さんだ。 名前を教えてくれなかったので、婆さんとかババアとか呼んでいたが、実際には、彼が通っていた魔法学校の、れっきとした教師である。 ひょんなことから出会い、力仕事を押し付けられ、散々こき使われ、『紙』を使った魔法を教わり、学び身に着ける面白さを教わり、――そして、生涯をかけて研究するに足る知の遺産を与えられた。 一般的に言えば恩師なのだろうが、メルヒオールに彼女を先生と呼ぶつもりなどありはしない。素直に先生と呼べるような関係ではなかったのだ。 「どうせ、あんたのことだから、だから女難避けのお守りを持っておけって言ったのに! とかなんとか、言うんだろ」 先手を打って言ってみたら、老婆は憎たらしい笑顔を見せた。 「ああ、ああ、そうだよ、確かにそうかもな!」 思わずむきになり、それから息をひとつ吐く。 「……あんたの中では、俺はまだ、頼りない生徒のままなんだろうな」 (別に悪いことじゃないよ。 人間、出発点はみぃんなそこさ) 婆さんの、はきはきとした声が聞こえた気がして口の端を持ち上げる。 「確かに」 (まあ、いい加減大人におなりよって思わなくもないけどねぇ? 図体ばっかり大きくなってちゃ世話ないよ) 「婆さんもたまにはいいこと言うと思ったらこれだ!」 憎まれ口に頭を掻き毟りたくなるが、実を言うと、それさえ懐かしい。 あの頃しばしば感じた苛立ちはなく、ただ、そこには、緩やかな悼みと友愛だけがある。 メルヒオールの心は、この場でだけは、あの学生のころに戻っていた。 婆さんから頂戴するお小言も、小馬鹿にしたような眼差しも、あしらうような物言いも、そのくせ妙に真摯で妥協を許さない立ち姿も。 「あんたが俺の心から生まれた幻なのか、それとも生徒を案じて出てきた本物なのか、俺には判らないが」 メルヒオールが彼女の遺産を引き継ぎ、研究を受け継ぐに至った道のりの、すべての理由だったし、口が裂けても言わないが、メルヒオールは、だからこそあれらを継ぐと決めたのだ。 婆さんが婆さんでなかったら、きっと今、メルヒオールはこうしていなかった。奇妙な巡り会い、交流とも呼べぬ――呼びたくない、が正しい――交流が、メルヒオールを『今』に導いた。 それが、この憎たらしい老婆のおかげだなんて、悔しいから絶対に言わないが。 「……どうせ、さりげない一言で、また人の心を抉るんだろう」 そう、まるで、メルヒオールの迷いを見抜くように。 躊躇いまでも撃ち抜くように。 (――好きなら好きって、ちゃんとお言いよ。 あとは、やるべきことをしっかり片づけておいで) 「うるさい、余計なお世話だ!」 やはりむきになり、地団駄を踏んでから、メルヒオールは深々とため息をつく。 「判ってる。まずは……あいつを、助ける」 《迷宮》の奥で悲嘆の歌を歌い続ける金糸雀を、解き放つ。 碌でもない、再びの邂逅ではあれ、メルヒオールの心は、確かにこのひと時を喜んでいたから。 「受けた恩は、返す」 律儀だねぇと笑う老婆の声を聴きつつ、メルヒオールは奥を目指す。 歌は、まだ、ものがなしげに続いている。 3.Longing 「はは……懐かしいツラばっかだな」 自然と笑みがこぼれていた。 「しかしまあ、むさ苦しいツラが、揃いも揃ったもんだぜ」 目の前では、かつて肩を並べて戦い、そして喪ってきた仲間たちが、明るい笑顔を見せ、佇んでいる。調子よく口笛を吹くものがいれば、手を振っている者もいる。腹を抱えて笑っているやつもいるし、肩をすくめているやつもいる。 彼らが何を言いたいか、言葉などなくとも判って、アキは鼻を鳴らした。 「うるせえな、俺だって意外だよ」 悼みがないわけではない。 別れを寂しく思わなかったわけでも、哀しまなかったわけでもない。 先天的能力者で、精神制御もほとんど受けていなかったアキは、飄々と戦場を渡り歩いてきたから、一般の兵士にも軍人にも強化兵士にも友人が多いのだ。明日をも知れぬ戦場で出会った彼らは、生い立ちも性格も様々だったが、結局のところ気のいい連中で、アキはひと時なり、そこで憩いや安らぎを得た。 『殺すからには、殺される覚悟もまた必要だ』との思いから、仲間の死を哀しみはしても誰かを憎んだことはない。自分が死ぬとしても、「誰も憎まなくていい」と言うだろう。 兵士の誰かが笑っている。 (――あのアキ・ニエメラが主夫業だなんてな!) テレパスに、声なき声が届く。 アキは笑って頷いた。 「俺だって驚いたさ。でもまあ、悪くねぇ気持ちだからいいんだ」 覚醒して、同郷の相棒と再会した。 相棒が自己と向き合うのを支えつつ、自分もまた彼の強さに支えられて変わった。人はそれを弱くなったというかもしれないが、アキはこの変化を貴び、喜ぶ。これまで、我が身を凌駕するほど大切な存在など、アキにはいなかった。そのことで非情になり切れなくなったことを弱さと誰かが言うにせよ、他者を思うことで柔軟さを増した精神は、アキを違う方向から強くするはずだ。 (幸せにやれよ!) 仲間たちが囃し立てる。 手を打ち、口笛を吹き、笑う彼らに肩をすくめてみせる。 「そうだな、お前らの分まで」 生きた彼らと会うことはもう、出来ない。 しかし、優秀なテレパスであるからというだけではなく、アキには彼らが『ここにいる』ことが判る。記憶が生み出した幻か、呼び出された本物か、その差異は大きな問題ではない。 「……会えて、嬉しかったよ」 ぽつりと真情を吐露すれば、仲間たちは一様に穏やかな笑みをみせ、そして森の一角を指差した。 「判ってる。あいつにも、その喜びを。せめて、最期に」 アキは、精神感応の力を最大限に開放し、『ソレ』を探す。 レーダーよりも精確に研ぎ澄まされた彼の感覚に、『ソレ』と、同じものを探しているらしい理比古の意識が引っかかってきたのは、ほぼ同時だった。 「……仲直り、しそこなっちゃったね」 青年は、かつて彼らがまだ親友であったころと同じ笑顔で、千志の前に佇んでいた。 どこか少年らしさの残る、明朗快活な、見るものに力を与えるような笑みだ。 千志自身、あの笑顔にどれだけ力づけられたか判らない笑みだ。 ――今は、胸を締め付けられ切り裂かれるような痛みをもたらすばかりだとしても。 「元(ハジメ)……」 現れるなら彼だろう、彼しかいないだろうと思っていた。 千志の根本。 千志が、もがき苦しみながらも選びつつある道の、いつ辿り着けるとも知れぬ終着点で、おそらく最後に待っているであろう、贖いの源だ。 「昔は、喧嘩するといつも、千志のほうから折れてきたっけ」 懐かしげに話す彼は、あのころのまま、昔と同じ、明るく人懐っこい幼馴染の親友そのものだった。 あまりのリアルさに、本当をいうと彼はまだ生きていて、自分たちが殺し合いを演じ、片割れは裏切り者の烙印を押され、もう片方は命を落としたなんて何かの冗談だったのではないか、と錯覚してしまいそうになる。 ――そうであればどれだけよかっただろうか、と、意識の片隅の、冷静にすべてを見通す己が、安易な逃避を許してはくれないけれど。 何も言えず、ただ見つめ続ける千志に、親友は困ったような笑みをみせた。 「落ち着いて話ができてたら……少しは違ったのかな」 望んで殺し合ったわけではなかった。 ただ、それぞれに思うところがあり、信念があり、望みがあって、その結果ぶつかった、それだけだった。 「……そう、かもな」 低く返し、自嘲気味に笑む。 自分のよく知る彼ならば、あとになってみれば確かに、こんな風に話すかもしれない。 しかし、あの時、実際の彼は、「裏切り者」という言葉だけ残して死んでいった。あの時の、憎悪と憤り、絶望にまみれた言葉と表情、憤怒ゆえの涙を孕んで自分を睨む双眸を、千志は今でもはっきりと思い出すことができる。 だから、これは、自分の願望でしかないのだろう。 こうあってほしかった、こうであればどれだけよかっただろうか、という、感傷でしかないのだろう。 「あんな終わりかたで、信じられないかもしれないけど……僕はまだ、君を親友だと思ってる。大事な、幼馴染だって」 「……そうか」 もし本当にそうであってくれたならどんなによかったか。 「それだけ、信じてほしい」 記憶の中の親友は、穏やかな眼差しでそう続ける。 千志は唇を引き結んだ。 握り締めた拳は、力が入りすぎて痛いほどだ。 「……ああ」 あの時放たれた現実の言葉と、自分の願望で覆い尽くされ美化された記憶、どちらが真実かなんて判りきっている。 判り切っているのだ。 それでも、その言葉を信じられたらと思う、信じたいと願う、自分の浅ましさが苦しい。 もはや償いすら出来ず、何度謝っても言葉が届くわけでもなく、自分が死ねば彼や、今までに殺めた同胞たちが蘇るわけでもなく。千志の抱く理想の礎として積み重ねられた屍たちに、いかなる行為も無意味だ。 それが真実だと知っている。 だからこそ、いつもの夢と同じように、裏切り者と罵ってくれたほうがいくらかましだった、千志はそう、思わずにはいられない。 「どうせ、千志のことだから、これは自分の願望がみせている幻で、本当の僕は今もずっと千志のことを恨んで憎んでる、って思ってるんだろうけど」 親友の幻が溜息交じりに笑う。 「僕が何を言っても、今の君には自己の正当化としか受け取れないだろうから、いいよ……悩めば。納得するまで悩んで苦しんで、のた打ち回って、血を吐きながら掴んだものが、きっと君の答えになるんだ」 千志は眉根を寄せる。 願望に――すなわち自分自身に慰められても、どうにもならない。 「願わくは、君が、自縄自縛の螺旋階段を抜け出して、次の段階へ往けるように」 僕はそこで待っているよ。 苦笑と友愛まじりにそう言って、幻は森の奥を指差した。 千志は頷き、歩きはじめる。 ――今はまず、片翼の鳥を楽にしてやらねばならない。 ヴィンセントは、目の前に佇む男をじっと見つめていた。 「やはり……貴方か。クリストファー・コール」 厳しい顔つきの、しかし理知的な眼差しの、年老いた男は、ヴィンセントが代理人をつとめる作家の、先代エージェントだった。 ヴィンセントにとっては叔父にあたる。幼い頃に両親を亡くしたヴィンセントにとって、親代わりでもある人物だ。 作家を発掘した叔父と、方針で対立してぎくしゃくした。 決別というほど激しくはないフェードアウトがあって、会わないまま叔父の死を知った。余生を過ごした別の州の施設で、静かな最期を迎えたとのことだった。 あの時の喪失感、自分の中から何かが欠落したような感覚を、ヴィンセントは今でもはっきりと覚えている。 他の誰でもない、叔父だからこそだった。 「何度も連絡しようと思いました。でも……躊躇って、出来なかった」 今さらと思いつつ、ぽつぽつと昔語りをする。 ――胸のうちを話すことも、訊くこともできなかった。 「今なら、何となく判ります。貴方の、あの頑固な方針は、彼の心も護ろうとしてのことだったのではないか、と」 方針が違っただけで、断じて嫌いになったわけではない。 自分のしてきた仕事には自信を持っているから後悔もしない。 叔父の仕事にも敬意を抱いている。 けれど、ヴィンセントが方針を変えたことで、恨まれ軽蔑されていたのではないか、その思いは今もぬぐえずにいる。別れたあと、怒りをぶつけられも、非難もされなかったから、かえってそう思うのだ。もはや叔父にとって自分は、声をかけるだけの価値もない人間だったのではないか、と。 「クリストファー。叔父さん。偉大なる前任者。今も比較される壁」 思いつくまま言葉を重ねる。 ずっと追いかけていた背中だ。認められたい相手だ。 そんな彼だからこそ、今も吹っ切れずにいる。 あの時ああしていれば、こうしていればという思考が無意味と知ってなお、分岐点までもう一度戻れればどうなっていただろうかという、益体もない妄想が尽きない。 「愚かだと、今さらだと、笑ってください。――それでも」 好意をストレートに表現できる性質ではない。 そうであれば、もう少し違ったのかもしれないとも思うが、変えられるものでもない。 「それでも、叔父さん、貴方を」 その先は言葉にならず、思わずうつむいたヴィンセントが、ふ、と息を吐いた時、 (馬鹿だな) 懐かしい声が聞こえた気がした。 ハッと顔を上げれば、叔父はその厳しい面に、許すような、励ますような微苦笑を浮かべていた。 「……叔父さん」 それは、父の顔だった。 (これからも、頼んだぞ) そこに含まれた万感を、捉えきれぬほどヴィンセントは鈍くない。 否、そうでなければエージェントなどつとまらない。 「……はい。肝に、銘じます」 声が震えなかったかどうか、自信はない。 願望が生み出した、ただ自己を正当化するための幻なのかもしれないとは思う。 けれど、もう、それでも構わないとも思うのだ。 「貴方の仕事を、なかったことにはしない。貴方が築き上げたものの価値を、更なる高みへと押し上げてみせる」 彼から継いだ仕事はヴィンセントにとっての誇りでもある。 ならば、このまま往くしかないだろう。 「ありがとう……貴方に、もう一度会えて、よかった」 それだけは率直な気持ちを言葉にしたら、叔父はかすかに笑った。 そして、森の奥を指し示す。 「ええ……もちろん」 ヴィンセントは力強くうなずいた。 そして、歩き出す。 身食いの哀しみに震え続ける、小さな金糸雀を救うために。 4.Farewell 片翼の金糸雀は、金色がかった鮮やかな黄色の羽を持っていた。 愛らしい小鳥だ。 しかし、そのつぶらな双眸からは、とめどなく雫があふれ、零れ落ち続けている。それは滴るごと、血の赤を孕んでゆく。 咽喉も裂けよと……いっそ血を吐き、砕けてしまえとでも言わんばかりに、金糸雀は悲壮な愛の歌を紡ぎ続ける。 愛している、愛している、今でもずっと、と。 「……辛いのだな。苦しくて狂おしくて、たまらないのだな」 アマリリスが悼む眼をする。 誰かを、己よりも深く強く想えることは幸福だ。 しかしそれが、時に、己を壊すほどの苦痛を孕むのだ。 アマリリスは、せめてこの金糸雀を、片翼と会わせてやりたいと思った。 たとえ幻であっても、せめて、と。 メルヒオールもヴィンセントも、千志も榊も、それを否定はすまい。 しかし、アマリリスが、《迷宮》と自分の持つ力を利用して、金糸雀の伴侶を、よりリアルにつくりだそうとするよりも、 「見つけたよ!」 息を弾ませた、理比古の声が響くほうが早かった。 彼は、アキとともに、森の奥、《迷宮》の最深部へと駆け込んできて、繊細なガラス細工を持ち運ぶように重ねていた掌をそっと開いた。 「!」 皆が息を飲む。 なぜなら、そこからは、鮮やかな朱色の翼を持つ、片翼の金糸雀が、ふわりと羽ばたいたからだ。 半分透き通った姿から、それがもはや命のない幻であることは確かだ。 しかし、それを目にして、金糸雀の歌は、停まった。 黄の金糸雀のもとへ、朱の金糸雀が、少し不器用な飛びかたで舞い降りる。 そして確かに、やわらかい声で囀った。 「会わせてあげたいって思ったんだ。つがいも、会いたいと思ってるだろうって」 アキが見つけてくれたんだよ、と理比古が言えば、 「呼ばれているのが判るのに、居場所が見つけられなくて、困ってたみてぇだ。お役に立てば何よりだよ」 精神感応に特化した強化兵士は、よかったな、と笑った。 小鳥たちは鳴き交わし、寄り添いながら、羽ばたこうとしている。 ヴィンセントがトラベルギアを揮い、枝葉を払った。 「もう、飛べますね。さあ……見上げて。恐れないで、どうか」 沈鬱な森の底に、とたん、明るい光が差し込んだ。 振り仰げば、胸に痛いほど鮮やかな空が広がり、それは人々の眼を射るほどだ。 ――《迷宮》の底である。 本物の空ではないし、陽光でもない。 しかし、今の金糸雀たちに、それは、うつつ以上の真実となっただろう。 「なら」 千志が静かに言う。 「――……送ろう」 千志の影が、アマリリスの『彼岸花』が、榊のギアが、――そして、理比古の浄化炎が。どこか優しく、やわらかい風合いさえ放ちながら、寄り添う金糸雀たちを包み込み、貫く。 パッ、と、黄と朱の羽が散る。 「大丈夫……すぐに逢えるよ。怖くない」 死は充足で、救いでもあるだろう。 理比古はそれを否定しない。 きっと、この場に集った誰もが否定しないはずだ。 「輪廻がここにもあるのなら、どうか次の世では幸せに」 メルヒオールが口に咥えた紙を破ると、それは光る花びらとなって金糸雀たちの周囲を舞った。 (ありがとう) どこかから、声が聞こえたような気がした。 それはとても安らいでいて、穏やかだったから、誰もが安堵の息を漏らした。 「じゃあな」 メルヒオールのそれには、《迷鳥》へ向けただけではない、万感の思いがこもっている。 きっと、また、どこかで会えるだろう。 次はもう、離れ離れにはならず、幸せに生きられるだろう。 そうあればいい、そうありますように、と、誰ともなく祈る。 「……」 そんな中、千志は、舞い散り、消えてゆく羽を、じっと見つめていた。 右頬にある、片翼の刺青にそっと触れる。 もう片方の翼は、かつて、親友の手の甲にあった。 離れていても同じ夢に向かってともに羽ばたく。そう、誓った証だった。 今やその誓いは遠く、いつ果たされるとも知れない。 しかし、 「片翼でも、たったひとりでも、俺はもう一度羽ばたいてみせる。……だからおまえは俺の代わりに眠ればいい。せめて、安らかに」 もう迷わない、惑わないと決めたのだ。 ――《迷宮》がゆっくりと消えてゆく。 どこか愉しげな――幸せそうな、囀りとともに。 そして彼らは、気づけば、未だ強い太陽の照りつける、ヴェルダ河のほとりに立っていた。 「終わった……ようだな」 アマリリスがこうべを垂れ、旅立った《迷鳥》とその伴侶に祈りをささげている。 (君が頑固なのは知ってるから、僕は気長に待つよ。君がいつか、気づいてくれるのを) 千志は、もはや《迷宮》は消滅し、その影響力も消え去ったはずなのに、親友の声を聴いたような気がして思わず振り返っていた。 そこには、滔々とゆく河の流れと、水の煌めきがあるだけで、誰もいなかった。しかし、千志はなぜか、親友が、かつてと違わぬ明るい顔で笑ったような、そんな気がしたのだった。 皆が、報告のために撤収の準備を始める中、神楽はじっと、そこに佇んだままだった。 ヴィンセントはそっと歩み寄り、 「……雨露が顔に」 そう言って、神楽へとハンカチを差し出した。 「神楽、大丈夫?」 同じく、理比古もまた、気遣いの言葉を向ける。 神楽はかすかに笑い、頷いた。 「……ありがとう、問題ない」 頬には、まだ、光る筋の痕があったが、ヴィンセントも理比古も、それを口にはしなかった。 「名を残すほど、貴方の心を震わせるかたなのですか」 「物心つく前からいっしょにいたから……それは、もちろん」 「空鏡さん? 神楽の連れてる竜といっしょの名前?」 理比古が、神楽の足元を見つめつつ言えば、ゆるい微苦笑が唇へのぼる。 「もともと、私の護衛のようなことをしていた。十年ほど前かな、私を庇って死んだ。どうにも、私が心配で仕方なかったらしく、太古の世より在る何かと契約して、こうして戻った。とはいえ、もはやこれは、ソラアキであって、空鏡ではないんだが」 ぽつぽつと語る声が聞こえたのか、「呼んだ?」とでもいうようなタイミングで、小首をかしげるように、七ツ目の異貌竜が、神楽の影からせり上がる。それが、かつてヒトであったなどとは、到底思えない。 「大丈夫?」 理比古がもう一度問うと、 「……ああ」 誰もがいたみを抱えている、それだけのことなのだと頷き、 「さて、無名の司書に報告に行こう。女王は、見つかったのかな……?」 神楽はトラベラーズ・ノートを開いた。 アキが、迎えが近いことを知らせる。 ――痛みはいつも、ここにあるだろう。 けれど、少なくとも、哀しい声で歌う金糸雀は救われた。 今はそれだけでいい、そう思い、帰途に着く。
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