おかあさん。 子どもは叫ぶ。 おかあさん、きこえないの。 洗練された邸宅の、子ども部屋の片隅に座り込み、ひとりの女がぼんやりと天井を見つめている。真っ赤に充血したまま乾く暇もない眼は、悲嘆と虚ろを宿して微動だにしない。 おかあさん。 子どもはなおも叫び、呼ぶ。 しかし、彼女の、力なく投げ出された四肢が、指が、眼や表情が、その言葉によって動くことはなかった。 おかあさん! 子どもは地団駄を踏む。 もどかしげに白い喉元をかきむしり、丁寧に整えられた髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。――女が、子どもを『送り出す』とき、きれいに清めて飾りをつけてくれた髪だ。 しかし、子どもの声が彼女に伝わることはない。 子どもの手が、彼女に届くことはない。 おかあさん。 それでも、子どもは呼び続けるのだ。 そうしなければならない理由が、子どもにはある。 その、ただ一心で、子どもはそこに留まっていた。 おかあさん。 女はそれには答えず――応えられず、新しい涙を流し、子どもの名を呼ぶのだ。「アイメイ……どうして」 この数日でずいぶんやつれてしまってはいたものの、その翳すら彼女を引き立てる仕掛けにしかすぎないと誰もが思う程度には、女は美しかった。彼女が五歳の子どもの母親であることを疑うものがいるほど、ほっそりとたおやかで、どこか少女めいた無邪気さのある、清らかな女だ。 その彼女を見つめる目があることに、そこに危険が存在することに、子どもは気づいていた。 おかあさん、あぶないよ! あいつがくるよ! だからこそ、子どもは『声』を上げ続ける。 ――どこかで何かが倒れる大きな音。 陶器やガラスが砕ける騒々しい物音に、女が弾かれたように顔を上げる。「アイメイ」 子どもの名を呼び、立ち上がると、彼女はふらふらと部屋を出て行った。 子どもの姿も、そのころには消えている。 寒々しい哀しみの空気だけが、そこには残った。 * * *「子どもの魂を救ってやってほしい」 贖ノ森火城は、そう話を切り出した。 彼の『導きの書』によると、リューシャン街区上層部、セレブリティと称される人々が多く住まう洗練された地区でその事件は起きたそうだ。 その一角の、ひときわ大きな屋敷には、大きな商売をいくつも手がける若き成功者、近隣でも並ぶもののない大富豪、ネンスオという男が妻と娘とともに住んでいる。 ――否、住んでいた、というべきか。 なぜなら、今年で五歳になったばかりの娘、アイメイは、何ものかによって誘拐され、殺害されたのだ。「娘の事件に関しては、おかしな部分も多い。身代金の要求がなかったり、犯人がやけに内部事情に詳しい様子だったり、子どもを殺害したあとも、不審な人物が屋敷周辺で目撃されていたりするらしい」 ただし、本題はそこではない。 悲劇的なそれは、インヤンガイでは決して稀なことではないのだ。 たとえ、当人たちにとって世界の終わりのような事件であったとしても。「娘が、暴霊化しているようなんだ。屋敷のあちこちで、怪奇現象を引き起こしている」 例えば、大きなシャンデリアが下がるメインホールで。 例えば、臙脂の絨毯が敷かれた階段で。 例えば、たくさんの陶器や銀器が仕舞い込まれた大きな食器棚の近くで。 他にも庭や、小窓のそばや、暖炉や浴室や、多様な薬剤のしまわれた小部屋や、ネンスオの趣味という各地の酒類を収集した蔵など、アイメイの暴霊は、あちこちで見られ、決まってものを倒したり壊したりといった行動を取るのだという。 しかし、不思議と、怪我人が出ることはなく、また、食堂や子ども部屋、応接室などには、暴霊が顕れることはないのだという。――子どもにとって、たくさんの思い出が残っている場所であるはずなのに。「ネンスオの妻は、名をスウミンと言うんだが、ひどく心を痛めている。娘が死んだことで夫婦仲に亀裂が入ってしまったのもあるんだろう、すっかり参っているようだ」 もともと、好き合っていっしょになり、働きに働いて今の財をなしたふたりだ。今でも愛しあう気持ちに変わりなどなく、互いに支えあいたいという願いがあるはずなのに、愛する娘の不可解な死と、その娘が暴霊化してしまったという動揺が、ふたりの距離を広げてしまっているのだろうか。「……他に、何か理由があるのかもしれないが、さすがにそこまでは拾えていない」 愛というものに憧憬めいたものでも持っているのか、疑いのない眼で火城は言い、「それだけではなく、『導きの書』に、このスウミンが次に狙われるという予言が現れた。喪った子が暴霊化し、自らも命を狙われるなど、あまりにも憐れだ。暴霊を鎮め、彼女を救ってやってくれ」 そして彼は、チケットを六枚、取り出した。「現地の探偵に話を通してある。詳しくは、そこで訊いてくれ」 そういって、彼は、ロストナンバーたちを送り出すのだった。 * * * 許可を得て屋敷に踏み込むと、男の怒鳴り声が聞こえた。 すわいさかいかと駆けつければ、三人の男たちが、少女のような雰囲気の美しい女を傍らに激しい議論をかわしている。 否、激昂しているのは大柄で強面の男だけで、クールな見目の男前は冷ややかに女を見ているだけだったし、やさしいやわらかい雰囲気の美青年は女を気遣うように寄り添っている。 その構図から、どれがネンスオでほかのふたりが何者なのかをはかることは難しかったが、強面の男が、「だから俺は言ったんだ! ネンスオ、これはお前の責任だぞ!」 男前に向かって忌々しげに吐き捨て、「……ツンス、少し静かに出来ないか。スンミンの気持ちを考えてくれ」「やかましい、口先だけの軟弱男は黙れ、ユワン!」 見るのも嫌だといった風情で美青年を罵倒したところでだいたいの関係が把握できた。「ツンスは武道家でネンスオの幼馴染、ユワンはネンスオの仕事のパートナー。皆、スンミンとも十年来の付き合いで、親密な間柄の人々だ」 探偵のシュエランの補足も、それに沿うものだ。 しかし、ツンスは探偵の言葉を聞くや嫌悪に顔をしかめた。「親密? やめろ、吐き気がする。俺をそいつといっしょにするな」 ツンスの眼は、鋭くユワンを睨み据えている。ユワンは堪えた様子もなく、華やかに微笑んでスウミンの背を撫でた。「僕はツンスに嫌われているみたいだ。哀しいことだけど、仕方ないね。それに、たとえどんなになっても、僕の、きみへの想いは変わらないよ、スウミン」 ユワンの言葉に、ツンスが眉を跳ね上げる。ネンスオは何も言わず、シュエランが、ロストナンバーだけに聞こえるような小声で補足をしてくれる。「――ネンスオとユワンは、仕事上のパートナーで、親友であるのと同時に、同じ女性の愛を競い合った中でもあるんだそうだ。ツンスも、スウミンには憧れていたみたいだな」 スウミンがネンスオと結婚してからも、ユワンの彼女への想いは変わらず、あまりの熱烈な――有体に言えば露骨な――信奉者ぶりに、周囲がふたりの仲を疑うような悶着もあったという。 ネンスオがスウミンに対して冷ややかなのはそのせいだろうか。 妻と親友が自分を裏切っている、と。 しかし、男はきれいな無表情を保っており、その内面を読み取ることは難しい。彼は、淡々と懐中時計を確かめると、無言のまま踵を返そうとした。「ネンスオ、どこに行く!」 ツンスの咎めるような問いに、返るのはやはり、温度のない言葉だ。「――大事な取引がある。俺が前から手掛けているものだ、俺が行かなくては」「取引!? アイメイが死んでまだ一週間も経っていないんだぞ! スウミンのそばにいてやれ、せめて!」「お前とユワンがいるだろう」「俺とあいつじゃ、お前の代わりにはなれないんだよ!」 冷静すぎるネンスオに、ツンスがまた激昂し、ユワンはどこか嬉しげに微笑んで頷く。「いいよ、ネンスオ。僕がスウミンを慰める。ほかならぬ君と、スウミンのためだ」 甘い蜜のような、この場にはそぐわないほど幸せそうな笑みに、ツンスが舌打ちをした。「ネンスオ、お前はそれでいいのか。アイメイは間違いなくお前の子だ、俺はそう信じてる」「――だからこそだ、判れ」 端的に言い切ると、彼はちらりとスウミンを見やる。その、冷徹な眼差しの中を、何かの感情がよぎったようにも思えたが、それをはっきり掴み取る前に、ネンスオは踵を返して歩み去ってしまった。 落ちた沈黙の中、取り残された人々の耳に、陶器の砕ける甲高い音が届く。 それを聴いた途端、先ほどまでぼんやりしていたスウミンがぱっと立ち上がり、「アイメイ!」 悲壮な声で我が子の名を呼んで、よろめくように駆け出す。 ユワンとツンスがその背を追い、その後ろへ何人かのロストナンバーが続いた。 残ったロストナンバーは、周囲をぐるりと見渡す。「子どもの暴霊と、誘拐殺人犯と、狙われた母親、それにこじれた人間関係? ――ややこしいことになりそうだ」 それでも、まずはやるべきことをやろう、哀しい魂を救おうと、彼らはめいめいに行動を開始するのだった。 ――彼らはまだ、知らない。 子どもをさらい、殺し、母親を失意の底へ叩き落としても飽き足らず、舌なめずりでもするかのように、彼女を狙っている人間の思惑を。(愛しているんだ。だから、この手で。――自分だけのものに) 仄暗いその情念を知るものは、まだ、ここにはいない。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ハクア・クロスフォード(cxxr7037)古部 利政(cxps1852)蓮見沢 理比古(cuup5491)ジューン(cbhx5705)ルイス・ヴォルフ(csxe4272)吉備 サクラ(cnxm1610)========
1.水底の館 靴を鳴らし、部屋を出ていこうとしたネンスオを、 「行かないでください、お願いします、ネンスオさん。貴方はまだ貴方自身を救うことが出来ます! このままじゃ、本当にすべてを失ってしまう……お願いします、貴方にはまだ助けられるものがあるんです!」 吉備 サクラが腕にすがりつくようにして止める。 彼女はすでに泣いていた。自分が泣くのは、ネンスオが心の中で泣いているからだ、とも思っていた。 洟を啜り、しゃくりあげつつ、懸命に訴える。 「判らないけど判ります! 貴方だって哀しかった。自分の娘が殺されて哀しくない親なんていないもの! でも奥様が自分の世界に引き籠ってしまったから、貴方は哀しみを誰とも共有できなくなってしまった。哀しいのに、貴方だってとても哀しいのに! 哀しさを忘れるために他のことに……仕事に打ち込みたくなる気持ちも判ります。でも事件はまだ終わってないんです! このままじゃ貴方は、奥様も友人も仕事もすべて失ってしまいます! 今ならまだ、どんなに辛くても、貴方はそれを止められるはずなんです!」 一気にまくしたてるサクラの言葉に、ネンスオは口を挟むでもなく耳を傾けていたが、ややあって、 「……すまないが」 静かに、首が振られる。 引き止めようとするサクラを、筋張った手がそっと押し返した。 「あいつの前で、同じことは言わないでやってくれないか」 「同じこと?」 「自分の中へ引きこもるなとは、俺には言えない」 哀しみに衰弱したスウミンの前でそれを言えば、結果的に彼女を糾弾しさらに苦しめることになりかねないのだと言外に止められ、サクラは大きく目を見開いてネンスオを見上げる。 彼が、深くスウミンを想っていることが判ったからだ。 「事件は探偵に任せた。スウミンは君たちが護ってくれるのだろう。ならば俺は、俺の仕事を果たすことで報いるしかない」 「ネンスオさん、貴方は……」 「取引には、俺の会社のみならず、取引先の命運もかかっている。俺には、これを成立させてお互いの会社を繁栄させ、社員たちを養うほか、出来ることはない」 冷ややかに見えた眼差しが、哀しみをたたえつつも実は強い意志によって律されていることを、そのときサクラは知った。 「だけど、」 「人間には分というものがある。俺には、探偵の真似ごとをして犯人を暴くことも、呪術師の真似ごとをして娘を鎮めてやることも出来ない。だからこそ、俺は俺の仕事を滞りなく果たす。それだけだ」 もうじき取引の時間だから、と、会釈とともに、靴を鳴らして歩み去るネンスオの、ぴんと伸びた背筋を、サクラはじっと見送っていた。 * * * 重く濡れた水底のようだ、と古部 利政は思った。 しばらくの間ここで探偵をしていた彼にとっては馴染みの、重苦しい感覚だ。人の感情が負に塗りつぶされ、それに足を取られ身動きも出来ない、永遠に出口の見えない螺旋階段のような。 ――実を言うと、彼は、この感覚が嫌いではない。 悪趣味と眉をひそめる向きもあろうが、利政はそんな『悪趣味』な自分を肯定する。 「さて、とりあえずの共通認識として情報を共有しておこうか」 が、しかし、果たすべき仕事と趣味嗜好の話は別物である。 テーブルにさまざまな資料を広げ、ぐるりと一同を見渡す。 ハクア・クロスフォードが小首を傾げるように頷き、目を赤く腫らしたサクラは大きな音とともに洟を啜りあげて同意した。 乳母としてコロニー内で育児に従事していたというジューンだけは、母親であるスウミンへのケアのため、席を外している。精神的にも体力的にも弱っているスウミンに、事件の詳細に関するやり取りを聴かせることは負担にもならないという理由が大半だ。彼女の護衛もジューンが兼ねている。 アイメイの暴霊は、何らかの目的を果たしたからか、今は鳴りを潜めていた。 「暴霊、と火城さんは言ってましたけど……通常の暴霊が引き起こす事件とは少し違いますよね。暴霊って、特定の人間を殺すか、特定の場所に留まって怪奇現象を起こし続けるものじゃないんですか?」 「いや……必ずしもそれだけとは言えないんじゃないか。俺は、ずいぶん前の話だが、ただ彷徨い続けるだけの暴霊を鎮めたことがある」 「ああ、浄焔会(じょうえんえ)に関する事件だっけ? 知り合いから聞いてるわ、それ。……そういや、今回の件、別の暴霊は関係ねぇのかな? なんか、凶悪なのがいるらしいじゃん、この辺」 サクラとハクアにルイス・ヴォルフが言葉を重ね、利政は頷く。 「完全に否定は出来ないね、それも。心得のある人は、そっち関係の横槍が入らないように結界を張っておくべきかもしれない」 「へいへい。ならいっちょ強力なのを仕込んでおきまっさー」 「……俺も、魔よけを施しておこう。ルイスの結界と相互に作用して、お互いを支え合うようなものを」 「心配しなくても、アイメイには影響がないような細かい設定をしとくから」 ルイスは、高い天井を見上げて鼻をふくらませた。 「ったく……しかしまあ、子どもが親を心配して泣いてるのに、その親が何してんだ」 溜息交じり、憤り交じりだ。 「親だって完璧じゃないよ。それに、子どもを喪うなんて、経験として積み上げられていないものに対して、そうそう冷静に対処できる親はいないんじゃないかなあ」 しかし、蓮見沢 理比古の、苦笑のこもった、専門家らしい言葉に、まぁなぁと頷く。 「確かに、子どもが死んじまったのに、何もかも冷静に最善を判断して動ける親って、すげーとは思うけどちょっと違和感あるかも」 「当事者じゃない俺たちには、判断が難しいよね。判った気になることも危険だし……スウミンさんにせよネンスオさんにせよ、まずは彼らの現状を丸ごと受け入れるやりかたを貫きたいな、俺は」 「ネンスオか。あいつ、ホントに仕事に行っちまったのかな?」 「……彼は、真面目で不器用な男なのではないかと思う」 ハクアのぽつりとしたつぶやきに、 「悪辣な気配の持ち主ではない。むしろ、彼の持つ空気は清冽だ。俺は、彼が今回の事件にかかわっているとは思えない」 「私もそう思います」 サクラが、大きな頷きとともに同意する。 彼女が先ほどのできごとを話すと、 「では、やはり、彼は信じているのだろう。妻も、友も。だからこそ、哀しみを押し隠してでも自分の仕事を成し遂げようと思っているんだ」 ハクアは、たくさんのものを悼む眼をした。 「仕事に打ち込むことで哀しみを忘れようとしているのではなく、哀しみに溺れるよりまず責任を果たさねばならないと思うような男が、小細工を弄して自分の娘をどうこうするとはとても思えない」 「うん、じゃあ、それも含めてまずは情報の整理をしよう。シュエランに、関連する情報を集めてきてもらったから、確認してほしい」 利政が言うと、テーブル上の資料に視線が集中する。 「まずはアイメイが誘拐され殺された事件の詳細だ。さらわれたのは園からの帰り、門から迎えの車に乗るまでのわずかな隙をついたかたちで消息を絶っている。この時のアリバイは、スウミンを含む全員にない。スウミンは部屋にこもって娘の服を縫っていたというし、ネンスオもユワンも、それぞれ別の場所で、ひとりで仕事をしていたと証言している。ツンスは道場で鍛錬に明け暮れていたそうだけど、これまたひとりだったらしい」 「要するに、アリバイが成立している、犯人という枠から外れる人間はいねぇ、ってことだな?」 「そういうことだね」 「アイメイちゃんの殺害方法と発見された状況はどうですか?」 「殺害されたのは誘拐の翌日、方法は扼殺。発見されたのは殺害翌日、近所の空き地だ。五歳の女の子だから、力も道具も必要はなかっただろうね」 「証拠や遺留品はあった? 他に何か、おかしなことは? ……でもまぁ、今まで捜査が進んでいないことを考えると、特別なものは出てはいないんだろうな」 「鋭いね、蓮見沢さん」 「鋭いとは言わない気がするけどね」 利政の賛辞に理比古が苦笑する。 「ああ、でも」 「なに、古部さん」 「遺体は、どこも乱れていなかったそうだよ。服も髪も、きれいに整えられて、空き地の草むらに横たえてあったとか。傍らには花が供えてあったんだって」 「花が……? それは、なんだか違和感のある話だなあ」 「それから、アイメイが誘拐される少し前から目撃されていた不審人物だけど、この屋敷で働く複数の使用人が目にしているようだね。ただ、これに関しては、犯人そのものじゃなく、犯人に金で雇われた誰かが現場を混乱させるために演じている可能性もあると僕は思っているよ」 「あー、それはオレも思ったわ。なんか、不自然っていうかさ」 ガシガシと頭を掻き回し、ルイスがテーブルに並べられた資料を見比べる。 「金銭の要求はねぇんだよなぁ……なら、金銭に関係ない面での、事件前後の状況変化はどうだ?」 「ネンスオさんとスウミンさんの関係の悪化、ですか?」 「うん、それもだし、ネンスオとユワンの間の溝も広がったんじゃねぇ? オレはそこが怪しいと思うんだよな」 「どういうこと、ルイス?」 「……あの中で損をしていないのは誰だと思う」 「ふむ、言いたいことは判った。損をしていないかどうかはさておき、確かにツンスだけは他の関係者と違って、事件の前と後で変化がないな。しかも、内部事情に精通している、つまるところ近しい人物の犯行であるという犯人像とも一致するか」 ハクアが、ただ事実を述べる口ぶりで言う。ただし、ルイスの意見を肯定している様子ではない。 「僕は、彼に、親友の子どもを殺しながら何食わぬ顔で当の遺族を励ますような芸当ができるとは思わないし、その陰惨さを隠せるとも思えないな」 「古部とおおむね同じ意見だ」 「うーん、そっか……まあ、もう少し調べてみるしかねぇよなぁ。まだ全体像が見えてこねぇってのが正直なところだし。あ、ちなみに、下世話な話なんだけどさ」 「ああ、どうした、ルイス」 「アイメイの、父親って……?」 少々歯切れの悪い物言いに、利政はああ、と頷いた。 「おそらく、ネンスオであることに間違いはないよ。スウミンはそもそも不倫を愉しめるような性質じゃあないみたいだし、血の型もユワンとは一致しないらしいからね」 ネンスオもこれを確認済みである旨も報告し、 「さて、現在の状況はこんなところだ。僕が音頭を取るのも妙な話ではあるけれども、気になる部分を調べにいって、時間になったら集まって話し合う、という体裁でどうかな」 異論の出ない中、利政はいったんの解散を告げるのだった。 2.誰が、なぜ 「やはり、そういうことか」 「そんな感じだね」 ハクアと理比古の視線の先で、絨毯は奇妙な光沢を見せている。 階段の一角、手すり寄りの隅っこ、踏み外すと危険な位置である。 細かく調査するうち、赤い絨毯にペトロラタム、商標名で言えばワセリンのような減摩剤が、目立たぬようこっそりと塗られていることが判明した。 シャンデリアが落とされたおかげで、現在そこを歩くことは出来ないが、万が一誰かが踏み込んでいれば、足を滑らせてひどい怪我を負ったかもしれない。下手をすれば、命を落とすような事故につながったかもしれない。――例えば、愛娘の暴霊がまた現れたと聞いて驚いたスウミンが、足元もよく確かめず階段を駆け下りようとした時などには。 「シャンデリア、階段、食器棚、薬剤庫に?」 「庭、窓、暖炉に浴室、重い置物、大きな植木鉢、水槽、か。なかなか大がかりなものを壊している場合もあるようだな」 「でも、怪我人は出ていない」 「……なら、やはり、アイメイは凶器となり得るものを壊しているんだ」 「うん、ここに危ないものがあるって気づいてほしいんだね」 アイメイの出現場所、要するに何かが倒されたり壊されたりしたところを念入りに調査すると、なにがしかの細工の痕跡が見つかった。その細工のどれもが、家人にとって危険な代物で、特に気力も注意力も体力も落ちているであろうスウミンにとって、最悪の場合致命的なダメージを与えかねない陰湿な凶悪さを含んでいた。 不可解なのは、スウミンは酒を飲まず、中に入ることもないのに、ネンスオの酒貯蔵庫にも細工の跡があったことだろう。現在探偵が調査中だが、おそらく酒の中に何か仕込まれているだろうとのことだった。 「アイメイが、母親ないしは家人を護るために起こしている現象、というわけか」 「それ以外には考えられないよね。特に、あまり子どもが立ち入りそうもない場所だし」 アイメイは母親が気がかりなのだ。 母親が狙われていることを知っていて、どうにかして彼女を助けなければと思っている。ならば、すべての憂いを晴らしてやれば、自然と浄化され、安らかに眠れるに違いない。 「だとしたら、ますます、一刻も早く解き明かさなくてはな」 「オレからの報告は一点。匂いを辿ってみたんだけど、今回に関しちゃあんま確かなことは言えねーわ。このお屋敷、サロン的な場所になってて、いろんな人の出入りがあるんだよ。事件前後でも大量の出入りがあったみてぇでさー」 しかしそれは、言い換えれば、誰でも犯行が可能ということだ。 誰も、未だ、疑いの目から逃れられてはいない。 「ふむ……」 しばし考え込んだのち、 「ツンス、ちょっといいか」 想うところあってハクアが呼ぶと、ツンスは少し首を傾げた。 彼には彼の仕事があるだろうに、一刻も早く事件を解決してアイメイを楽にしてやりたいから、という理由で手伝いを買って出ているのだ。ネンスオを気にしつつもスウミンの様子をよく見て、ぶっきらぼうではあるが温かい言葉をかけ、励まし、ロストナンバーたちへの労いも忘れない、怖いのは顔だけで、心は熱い男だった。 「どうした」 「いや……真意を尋ねたいと思ってな。『だから俺は言ったんだ』とは、どういうことだ? そして、なぜユワンを嫌う?」 「……」 直截な問いに、ツンスはしばし沈黙したが、ややあって大きなため息とともに言葉を吐き出した。 「その問いはつながってる。ネンスオがスウミンと結婚したときから、あいつとは一刻も早く距離を取れ、と言い続けてきた」 「それはなぜだ?」 「ユワンは執着心の強い男だ。あいつは自分の好きなものを、何でも手元に置かなきゃ気が済まない。手元に置いて愛で続けたいんだ。相手のことなんか知ったこっちゃない……というより、自分が愛しているんだから相手も同じ気持ちでいるはずだ、と思っているんだろう。それがいいのか悪いのかは俺には判らん。だが、その独善がよいものを生むと思えるか?」 「いや……そうか、ありがとう。では、スウミンへの執着、独占欲が……?」 「……スウミンだけならいいんだが」 ハクアの独白に、ちらりと眼をやってから、意味深な言葉とともにツンスはスウミンの部屋へと入っていった。様子を見に行ったのだろう。 スウミンの部屋には、ユワンのほか、探偵とサクラが詰めている。誰もが怪しい中、まさかこれだけ屋敷に人がいる状況で犯行に及びはしないだろうが、誰かをスウミンと一対一にはしないほうがいい、というのが一致した意見だ。 「身代金の要求がなく、この敷地や、家人の行動範囲をよく知る人物。金が目的なわけではなく、別の目的で行動している人間。娘をさらい、殺し、次はその母親を害そうとしている。執拗な細工までして。――ここまで強い感情を抱くのは、ふたりに近しいものでしかないだろう」 おそらく、この場の誰もが同じ人間を気にしている。 「大好きな人が泣いてるのに、どうして彼は笑っていられたんだろう」 理比古の言葉はそれを代弁していた。 「彼の、スウミンへの愛が本物だというのならなおさら」 愛のかたちなどさまざま、人それぞれだと、言ってしまうのは簡単なことだけれど。 「ネンスオへの憎悪と、スウミンへの歪んだ執着? それらが、今回の事件の要、か……?」 しかし、確証は何もない。 限りなく黒には近くとも、それを証明するものは、未だ出てきてはいないのだ。 「ねえ……聞こえてるかな」 天井を見上げ、理比古が呼びかける。 返事も、反応もなかったけれど、 「きみはお母さんを護りたいんだよね? お母さんに、何か伝えたいことがあるんじゃないのかな……」 理比古は静かに言葉を重ねた。 ルイスが同意する。 「そうだぜ、オレたちはおまえを助けに来たんだ。手伝うから、心配しなくていい。だから、なあ、教えてくれ。おまえを殺したのは誰だ? おまえのかーちゃんを狙ってんのは?」 呼びかけに、空気が、どこかせつなげに――哀しげに震えたような気がしたが、それ以外には何も起こらなかった。 * * * そのころ、ジューンは利政とともに屋敷内を歩き回っていた。 「どうしましょう。アイメイちゃんとお話したくて来たのですが、私に霊を見ることは出来ないようです」 利政が、屋敷の柱の目立たない位置に札を貼りつけつつ頷く。 外側から暴霊が入って来られない、外側から影響をもたらすことが出来ない陣をかたちづくる札なのだそうだ。 「僕たちが来たからかもしれないね。異分子の存在を警戒しているのかも」 しかしそれは、アイメイが、まだ激しく荒ぶるたぐいの暴霊にはなっていないということだ。この先、暴走した霊力がアイメイに何らかの影響を与え、彼女が母をも傷つけるような存在になる前に、鎮めてやる必要があると言えるだろう。 「私は乳母ですから、アイメイちゃんのことを第一に考えたいです。アイメイちゃんが救われて、安らかに眠れるために何をすることが最善なのか」 「そうだね……本当は、当人に話を聴くのが一番手っ取り早いんだけど。僕の交霊術も、ハクアやルイスの魔法も不発だったからな……」 あちこちで呼びかけてみたが、アイメイは姿を現さない。 “霊はシャイだ”とは心霊研究家たちによく言われることらしいのだだが、彼らはとてもデリケートで、外部刺激があると鳴りをひそめてしまうことが多いのだそうだ。 「とてももどかしいです。アイメイちゃんを抱きしめて、心配しないでと言ってあげたいのに」 乳母としての行動をプログラムされたジューンには、アイメイと出会えない、話が出来ないことが歯がゆいのだ。泣く子を慰めてもやれぬのでは、と、自分の意味がないかのような錯覚さえ感じてしまう。 「そもそも、犯人の狙いは何なのでしょう? 私は、スウミンさまを追い詰め、夫妻の仲を疎遠にし、自分にスウミンさまが縋るよう、犯人が仕向けた罠かとも思っていたのですが……」 騒霊現象はスウミンにとって危険な場所でその大半が起きている。 これは、アイメイの警告と考えて間違いではないだろう。 「でも、深読みをすれば、犯人とその一派が、ご夫妻を陥れ、何かを我がものとするために起こしていると考えられなくもありませんよね」 ただ、今のところ、複数犯であるという確証は得られていない。執拗な仕掛けから人手が必要だと考えてもおかしくはないが、お屋敷は広く、常に誰かが目を光らせているわけではないから、誰がどんな細工をしたところで、気づかれない場合のほうが多いだろう。ゆえに、それは、ひとりですべてをこなせないことの証明にはならない。 「そうだね……僕は、なぜ酒の貯蔵庫にまで細工がしてあったのか、それが気になるな」 バルコニーに立ち寄り、手すりなどの様子を確かめる。 「なにもありませんね。ここは安全です」 「うん、細工はされていないみたいだね。やっぱり、アイメイは危険を警告しているんだ」 アイメイは、死してなお母親を護るために、暴霊と化してとどまっている。司書が言ったように、スウミンは狙われていて、今も危機のさなかにある。その部分は疑いようがない。 しかし、なぜ、父親の酒貯蔵庫にまで細工があったのか。アイメイが気づいて壊さなければ、ネンスオが先に命を落としていた可能性すらあると考えれば、犯人の行動の不可解さが浮かび上がってくる。 「妙な……どうにもちぐはぐです。犯人は、子どもの命を奪ってまで、何がしたいのでしょう?」 ジューンにとって子どもとは護り育むべき存在だ。何かに利用していいものではない。それゆえに、ジューンには、犯人の心の機微、歪んだ望みなど、理解しようがないのだ。 「犯人の目的は、本当にただ命を奪うことなんだろうか……?」 首を傾げるアンドロイドを見ながら、利政はつぶやく。 命を奪う、という行為そのものに違いはない。 それは、倫理的に許される行為ではない。 しかし、だ。 なぜ殺すのか。 恨みか、怒りか、憎しみか、欲か、正義の心でか、それによって方向性はずいぶん変わってくる。 「殺されるがわにとっては、何も変わりはないけれど」 犯人の意図が読めれば、そう思って探った記憶の中、ふと思い当たったのは、 「……遺体には、花が供えてあった……」 ひどくまっすぐな、利政にとっては居心地のよくない眼をしたコンダクターの青年も気にしていた、犯人の不可解な行動。 娘の死にスウミンが心を痛め、憔悴していることに変わりはない。 けれど、アイメイを殺したのは、本当に、スウミンの心を痛めつけ弱らせるためだけだったのだろうか? 「ひどく歪んだ匂いがするね。独善と狂愛の花だ」 ジューンには見えない位置で、愉快そうな笑みを浮かべ、利政はつぶやく。 これだから、人間の引き起こす、どろどろとした悲劇を観察することはやめられない。 胸中につぶやき、調査を続ける。 * * * 調査が始まって三時間が経過していた。 持ち寄った資料を広げ、考えをまとめるために借りた部屋で、 「うーん……」 理比古が唸る。 「何か?」 「どしたん?」 利政とルイスに問われ、理比古は小首を傾げてみせた。 「いや、あのさ、ただの偶然の一致かもしれないんだけど……気になることがあって」 テーブルに広げられた資料の海の片隅で、理比古はスウミンをはじめとした名前を書きだしている。 「この事件にかかわっている人たちの名前の意味、判る?」 「いや、そもそも、意味があるんだってことを初めて知ったよ。どういう意味?」 「スウミンは宿命。ネンスオは能手……これはエースとか主力のとかそんな意味だね。ツンスは誠実。――なんだか、そのままじゃない?」 「アイメイは?」 「愛名、かな? 彼女だけ準じてはいないし、そもそも壱番世界の言語だから、ほんとに言葉遊びみたいなものかなあって思うんだけどさ」 「……だとしたら、ユワンは?」 利政の眼が奇妙な光を帯びる。 理比古の言わんとするところがどこにあるのかを察した風だった。 ハクアの、ジューンの眼が、じっと理比古を見る。 理比古は少し、困ったように笑った。 「このために、フィルタをかけて見るようなことがないように……とは思うんだけど」 「ああ、確かにそうだね。それで?」 「――……『欲望』」 ぽつりとしたそれは、ひどく空虚に、寒々しく響いた。 3.翳(かげ)は狂おしく スウミンはとうとう寝付いてしまった。 食べることも眠ることも休むことも出来ないまま、心痛に心痛が重なってのことだった。 肌が青白く透き通り、ひどくやつれたさまは痛々しいが、同時にどこか倒錯的な美も醸し出している。嗜虐的な性質を持たぬものであっても、思わずどきりとする美しさだ。 とはいえ、このままでは危険であることに変わりはない。 「スウミンさま、アイメイちゃんが亡くなられてから、きちんと睡眠を取られていますか。ご飯を食べてらっしゃいますか。今の貴女は犯人の思惑通りに動いていらっしゃいます。――悔しくありませんか」 あえて厳しい言葉を使い、ジューンが懸命に励ますものの、床に横たわったスウミンはぼんやりと天井を見つめているばかりだ。呼びかけても反応がないのは、ほとんど意識を失っているからか、それとも意識だけどこかに遊ばせてしまっているからか。 そんな状態のスウミンを、自室にひとりで寝かすのは危険なので、広い客間に彼女の寝具を持ち込み、少しずつ水分を摂らせながら交代で様子を見ている。それらの役目は、同じ女性であるサクラが受け持った。 「やっぱり、アイメイを呼び出そう」 ルイスはそう主張した。 犯人を特定すること、スウミンを護ること、スウミンを救うこと。 それらすべてが、アイメイにかかっているといって過言ではないのだ。 「そうだな……俺もそう思う。今までのやりかたでは不足があるというのなら、さらに念入りに、確実に」 ハクアがそれに同意し、ふたりは準備に取り掛かる。 確実に、とはすなわち、陣という『始点』を用いることで、アイメイが寄り付きやすく顕現しやすい状況をつくろうというものだ。 母親のいる部屋のほうが近づきやすいだろうと客間のリビングに描くことになり、陣にはそれだけで力を帯びたハクアの血と、ルイスが魔術で練ったインクが使われた。 「属性はどうする」 「オレは月がいいと思うな。オレ、親和性が高いから、力を注ぎやすいし。たぶん、実体化を助けてやれると思う」 「なるほど、ならそこに闇も付け加えよう。眠りと安らぎの慈悲が、泣く子を安らがせるように」 指先に含ませた血とインクが、リビングの絨毯上に精緻な文様を描いてゆく。 蔦と葉と、花と羽と、月光と風、そんなものを髣髴とさせる模様が、精密に、美しく描き出されてゆく。 作業が進むたび、円形の陣はほのかな光を帯びていく。 「じゃあ俺、ネンスオさんを呼びに行ってくる。ツンスさん、いっしょに来てもらってもいいかな。あなたの言葉なら、彼は聞き入れると思うから」 「ああ、構わないが……しかし、なぜ?」 「だって、最後の言葉くらい、交わさせてあげたいじゃない。別れが避け難いなら、せめて穏やかにって俺は思うから。娘さんにとっても、ネンスオさんにとってもね」 これからも生きていかなくてはならない人たちのための救いになればいい、理比古はそう微笑んで、ツンスとともに部屋を出て行った。 ジューンとサクラはスウミンに寄り添い、言葉を尽くして彼女を力づけ続けている。 またひとつ文様が描きこまれた時、空気が少し、震えた。 * * * そのころ、利政はユワンとともに隣の部屋にいた。 アイメイを呼び出すまで、ユワンに妙な動きをされないように、というのが一番の理由だが、個人的に尋ねたいこと、気になることがあったのも大きい。 「すごく気になってたんだ。どんなになっても、っていうのはどういうこと?」 「言葉のままだよ。それがスウミンであるなら、ってこと」 「それは……例えば、死体であっても?」 ずばりと突っ込んでみると、ユワンは極上の、とろけるような笑みを浮かべた。 「もちろん。骨のひとかけらだって愛せるよ」 このうえもない愛の言葉ではあったが、しかし、ユワンが発すると妙に寒々しく感じられるのも事実だ。口調が無邪気で、真摯であるがゆえに、なおさら。 「そう言えば、ネンスオは仕事だそうだけど、きみは行かなくてもいいのかい」 利政の問いに、ユワンはひどく嬉しそうな顔をした。 子どものような表情だ。 「ネンスオが本気になっているときは、僕なんかいなくても大丈夫だから。彼はすごいんだよ、好機を見極めるのがとてつもなく巧いんだ。世の中に神さまってものがいるとしたら、たぶん彼はそういうものに愛されているんだと思うね」 「……信頼しあってるんだね。きみは、ネンスオのことをどう思っているんだい?」 それは、おそらく、事件解決を図るうえでも重要な意味を持つはずだ。 現在、限りなくクロに近いユワンが、アイメイを殺害しスウミンを付け狙うのもネンスオへの憎悪からではないかという予測が囁かれる中、利政は彼の感情を探ってみたのだが、 「そうだね、僕はネンスオが大好きだよ。スウミンを愛しているのと同じくらいにね」 返ったのは、本当に幸福そうな、無邪気ですらある笑顔だった。 利政は基本的に疑り深いので――刑事や探偵とはそういうものだろう――、他人の言葉などというものはあまり信用しない。しかし、今のユワンはあまりにも幸せそうで、思わず毒気を抜かれる。 同時に、ならばなぜ、という思いが根ざしたのも確かだが。 「そういえば、君たちの仕事って、どういうものなんだい? 取引というからには、何かの商品を扱っているのかな?」 次の質問は、事件へ転用することが可能かどうかの確認でもあったが、 「将来性があるものなら何でも。貿易商みたいなものかもね、ここと別の街区じゃ、ガラッと品物が変わることも少なくないから。あっちこっちの流通をつないで、品物の出入りをよくする仕事……って言うべきかな?」 ここからも、特に有効な証言は得られなかった。 スウミンを愛していて、ネンスオを信頼し大好きだと言い切り、それなのに、おそらくはふたりの愛娘を殺しているユワンの、ちぐはぐに歪んだ魂の寒々しさが、利政を悦ばせる。無論、口には出来ないが。 「スウミンの様子を見に行きたいんだけど、いいかな?」 「ん? ……ああ、いいんじゃないかな」 ちらと見やったトラベラーズノートには、準備が完了した旨が簡潔に記されている。 今、客間では、ハクアとルイスがアイメイへの呼びかけを行っているはずだ。 陣によって増幅された『声』は、きっと幼子の霊を母のもとへ導くだろう。 「じゃあ……行こうか」 先に部屋へと入っていったのは、ネンスオを伴った理比古とツンスだ。そのあとに続き、ユワンと並んだ利政が客間へと踏み込んだ途端、描かれた陣が光を帯び、その中央から渦を巻くように風が吹いた。 何かを感じ取ったのか、スウミンが起き上がる。 「アイメイ……?」 少女のような唇が、愛娘の名を呼んだ、その時。 ――おかあさん! どこからか子どもの声が聞こえ、そして。 4.歪みと別れ 「アイ、メイ?」 ふらふらと立ち上がろうとするスウミンをジューンが支えた。 陣の真ん中に、愛らしい顔立ちの少女が佇んで、彼女を見つめている。 『おかあさん』 「アイメイ!」 つまずき、よろめきながら愛娘のもとへ走り寄る。 伸ばした腕がすり抜けることはなく、 「……実体化も巧くいったな。さすがに疲れるが」 「うん、現在進行形でガンガン魔力が吸い取られていくわー。まあ、根性で耐えるけどさ」 スウミンは、アイメイを抱きしめて、熱い涙をこぼしていた。 「アイメイ、ごめんね、ごめんね」 護れなくて、助けられなくて、代わりになれなくて、最後に何も言えなくて。 途切れ途切れに繰り返される言葉は、親という生き物が、自分より先に我が子を見送らざるを得なかった時に自らより突きつけられる後悔の念だっただろう。 アイメイは、啜り泣く母を抱きしめ、その背を撫でていたが、不意に大きく目を見開き、 『こっちにこないで!』 細い腕をいっぱいに広げ、母の前に立ちふさがった。 その視線の先にいるのは――ユワンだ。 ユワンは、ぶるぶる震えながらも立ちはだかる幼子に、とろけるような笑みを向けた。 「どうしたの、アイメイ? 僕が怖いの? どうして?」 彼が一歩、歩み寄った途端、 『メイをころしたくせに! おかあさんをころすつもりのくせに! おとうさんだって、ころそうとおもってるくせに!』 アイメイが叫ぶ。 霊力が揺らぎ、その余波を受けて窓ガラスが割れた。 ハクアが眼差しを厳しくし、ルイスが身構え、サクラは息を飲み、ジューンは痛ましげな眼をした。 『どうしてそんなことするの、どうして! メイはしにたくなかった、くるしかった。どうしてメイをころしたの、ユワンおじさんは、メイにだってやさしかったのに!』 信じていたものに裏切られた悲痛な哀しみにも、 「だって」 ユワンの笑みは揺らがない。 そこには、罪の意識のかけらすら見えない。 「きみも、スウミンも、ネンスオも、僕のものだから」 うっとりと、 「だから、完全に僕のものにしようと思って。――誰かに盗られる前に」 きっぱりと言い切る。 「ユワン、お前……!」 ツンスが怒気とともに彼を捕らえようとするが、ユワンの動作のほうが速かった。 彼はアイメイを押しのけてスウミンの背後に回り込んだ。手にはいつの間にか鈍く光るナイフがあって、その刃はスウミンの首筋に押し当てられている。スウミンの眼には、死への恐怖より哀しみがたゆたっていた。 「ユワン、どうして」 「ごめんね、スウミン。大丈夫、僕もすぐに行くから」 ユワンが本気だと判るから、誰もふたりに近づけない。 ナイフに力が加えられ、刃がなすすべもなくスウミンの首筋にめり込む―― 「あのね」 その前に、理比古はユワンの腕を掴んでいた。 「殺して、死んで、逃げることは許されないんだよ、誰だって」 力を込めて、ユワンをスウミンの身体から引き剥がす。 「なッ」 そのまま腕をひねりあげられて、初めて、ユワンが驚きの声を上げた。 「は……離せ、ッ!?」 その口の中に、理比古はためらいなく拳を突っ込む。歯を立てられても表情ひとつ変えることはない。 「歯に毒を仕込んであると困るからね。……ん、あった」 理比古はずっと警戒していたのだ、ユワンが、スウミンを道連れに死のうとすることを。だから、彼が現れたとき、死角に隠れて気配を殺し、最悪の事態に備えていたのだった。 すぐにルイスとハクアが駆け寄り、ユワンの身柄を拘束する。 「あなたの愛が本物だというのなら、生きることで証明してみせて」 哀しみをたたえた理比古の言葉に、ユワンは場違いなほど明るい笑い声を立てた。 「独占欲……か」 利政のそれは、 「きみは彼女が許せなかっただけじゃないのかい。それは、ただの自己愛とどう違う?」 かすかな嘲りさえ含んでいたが、しかしユワンはひどく楽しげに、穏やかに――憐れむように笑った。 「……そういう君は、手には入らず、逃れられないものを抱えているんだね? ああ、かわいそうに。僕は、こんなに幸せなのに」 笑みは絶やさぬまま、利政の眉がぴくりと跳ねる。 高らかな、幸せそうな笑い声を響かせながら、ユワンが探偵と警察に連れられてゆく。 あとには、ぽっかりと空虚な沈黙が残った。 しかしその虚ろを、 『ああ、よかった』 安堵に満ちた幼い声が振り払う。 『これでもう、だいじょうぶ』 「アイメイちゃん」 ジューンが呼ぶと、アイメイはにっこり笑った。 『ありがとう、たびびとさんたち。メイに、ずっとよびかけてくれて。みんながきてくれたから、おとうさんもおかあさんも、たすけられた。ありがとう』 アイメイの身体を、どこからともなく差し込む月光が照らしている。 陣に魔力を吸い取られて汗だくのルイスがはなむけにと使った月魔術だ。月はアイメイを清め、心を穏やかにし、別れを彩るだろう。ハクアは、アイメイを実体化させる魔法を維持するため、今も少しずつ血を失っているせいで蒼白だが、それでも彼が我が身可愛さに魔法を解除することはなかった。 「最後の別れくらい、思う存分やればいい。俺にはそれを手伝うことしかできないが……」 スウミンがアイメイを抱きしめ、ネンスオは妻と娘を包み込むように抱擁する。 言葉は少なかった。仰々しく飾った言葉もなかった。 ただ、名前を呼び、謝り、感謝して、全身で愛を叫ぶのみだ。 『おとうさん、おかあさん、だいすきよ』 アイメイは笑い、交互に両親を抱きしめた。もう、なにひとつ心配のない、晴れやかな顔で。 『げんきで、しあわせで、なかよくね』 ふわりと浮かびながら、アイメイが手を振る。 『メイはもういくけど、ないちゃだめよ。おとうさんはちゃんとおかあさんをまもってあげて。おかあさんは、おとうさんのこと、いっぱいすきっていってあげてね。ツンスおじさんは、ずっとなかよくしてあげてね。やくそくよ』 愛らしく、おしゃまに片目を瞑ってみせ、アイメイはくるりと身を翻した。 花の香を含んだ風が吹き、室内のカーテンが揺れた、そう思った時にはもう、アイメイの姿はなかった。 「アイメイ……ッ!」 スウミンが声をあげて泣き伏す。 しかし、その涙には熱がこもっていた。 彼女はきっと生きるだろう、アイメイがそう願い、望んでいるのだから。 「……過ぎた娘だ。俺のことまで気遣っていくなんて」 ネンスオはつぶやきとともに天井を見上げた。 その頬を、透明な雫が一筋、スッと滑り落ちる。 空虚な絶望は温かい涙に払われて、屋敷は哀しみに浄化されていく。 旅人たちはそれを、静かに見守った。 夫妻の間に愛らしい女児が生まれたと旅人たちが知るのは、そこから三年後のことである。
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