その男は上から降ってきた。予想外の展開になんの抵抗も叶わず、地面に倒され、次には首にナイフが突き立てられた。がくっと少女の体が揺れた。抵抗しようと伸びた両手は虚しく宙をかく。ナイフは抜かれ、さらに振り下ろされる。何度も、何度も、何度も……単純明快な動作を繰り返す。赤い血が肌を濡らしたなまあたたかいぬくもりに浸り、恍惚とした笑みを浮かべて内臓をひきずりだして口つけて、舌で舐めて、歯を立てる。まるで母の胎内から出てきたばかりの幼児のように嬉しげな瞳だがその行動は残忍きわまりない。 と 白い手が伸びて男の足に触れた。まだ動けたのか。いいや、動けるはずがない、即死させたはずだ。なにかで動いただけだ。とたんに男の体ががくりっと下に落ちた。なぜ、バランスが失われたのだろう? 男が不思議そうに目を向けと片足がなくなっていた。おかしいと思ったときには男の体はさらに沈んだ。見るともう片方の足がなくなっていた。血は出てないのに? どうして? 男は首を傾げた。見ると自分の口のなかに自分の内臓があった。 「きみ」 低い声が男にささやきかける。金色の髪の少女が立っていた。傷口から溢れ出たばかりの血のような赤い瞳が輝く。 「ただで死ねると思うなよ、塵族が!」 牙をむき出しに笑う少女――それを見た瞬間、男の意識は文字通り、塵となって散った。 さらっ……音をたてて男の顔が砂になるのをリーリス・キャロンは無感動な、赤瞳で見つめていた。 いつもは甘い砂糖菓子のような余裕綽々な顔が、今は憎悪と苛立ちに歪む。 「最低!」 文句を吐きだして、まだ残っている塵の残骸を足で蹴る。 「本当に最低!」 二度、蹴ったあとリーリスは自分のありさまを見て下唇を噛んだ。ターミナルで見つけた不思議な世界に行く絵本の主役である女の子が身につていた青と白色のドレスはナイフで無茶苦茶に切られて裂け、血に染まってもともとの色がわからないほどに黒くにじんでしまっている。リーリスの小さな体も真っ赤――あっちこっちが裂け、おなかも大きな穴が開けられて内臓まで飛び出していた。 リーリスは人間ではない。この程度の傷では死んだりはしないし、痛みもない。 仕方なく自分の体を構成するものを集めて最低限の血止めをする。 肉体は自分の意思でどうとにでもできる。しかし、それには時間と余力がいる。まして服なんかはもっと時間がかかる。 気に入っていたのに、気に入っていたのに! 私のお洋服! 「……すごく腹が立つわ」 リーリスは吐き捨てると、もう一度、原因である男の残骸である残った塵を蹴る。魂はわざと痛覚を残して足元からざくざくと噛んで破壊してやった。けれども苛立ちは一向に収まらない。 肉体の治癒が終わらず、動けないことがよりいっそう、リーリスのプライドを傷つけた。 怒りがいつもは抑え込んでいる力を暴走させ、このあたり一帯の暴霊たちを捕えにかかる。 まるで怒れる蛇。 本体は一体だというのに、頭は八つある――神話に出てくる化け物のように、リーリスの体のあちこちから塵化して飛び出した。 メデューサ、またはスキュラのように。 魅了を全開にして寄せ集められた暴霊たちは危機すら感じることなく、黒蛇に頭から咀嚼されていく。 この光景を見たら誰もがリーリスの本性を知ってしまいそうだが、まぁいいよね。ここにはターミナルの人たちはいないんだし。一人なんだから! 狂うほどの怒りのなかでもリーリスは冷静に判断し、にぃと笑う。 「許さないから」 私が、このリーリス・キャロンが! よりにもよって塵族にこんな醜態をさらすなんて! 「ここにいるやつ、みぃんな、許さないから」 リーリスは好きなだけ暴霊たちを食らっていった。 「これも全部エバのせいよ!」 もうこれ以上、汚れることを気にすることのない姿なので、路地に直接腰かけてむすっと吐き捨てた。 まだ肉体の回復は終わらず、しばらくの間は動けない。ここの一帯は精神汚染したのでリーリスを襲うような命知らずな輩もいない。 リーリスがインヤンガイにきたのは依頼のためだ。 本来は五人ほどのチームで担当するべきスラム街に出る暴霊退治の依頼を司書を魅了して一人でやることにしたのだ。 ひとつはおなかがすいていたから。世界樹旅団と争っているとき、いろんなところでいっぱい食べておいたがもうほとんど力はなくなってしまった。今思えば本当に無駄遣いばっかりしちゃった。 もうひとつは試してみたかったから。 エバは口にした。 魅了や精神感応を使うな――やってみようと決めた。暴霊相手ならもともとアストラルサイドの目が捕えることができるし、吸収すれば負けない。 そうよ、私だってやれるんだから。 その結果がこれだ。 いつもは魅了と精神感応で死角なんてないことに慣れていたことが仇となった。 敵が霊だけだと思いこんで完全に油断した。まったく無関係な殺人鬼が頭上から襲ってきたのに対応できなかった。 狂人らしい常識に反した動きの一撃は小柄なリーリスに回避も、抵抗する暇すら与えてはくれなかった。 だから少しの間とはいえ好きにされてしまった。 この私が、この私が、この私が! 普段は笑顔の下に隠しているが、人よりも長く生き、彼らを餌として食している彼女にとって塵族に蹂躙されるのは許しがたい屈辱だ。 苛立ちに押し黙ったリーリスは拳を握りしめ、まるで小さな子供が自分の言い分が通らないと駄々をこねるように地団駄を踏む。 怒りのオーラを全身に纏い、肩を戦慄かせるリーリスは深呼吸をひとつ。傷も癒えてだいぶ落ち着きが戻ってきた。 じっと地面を睨みつけて、リーリスはある考えに至った。 にぃと唇を釣り上げる。 そうだ! リーリスはちらりと自分の体に目を向ける。ドレスはずたぼろで、血もついている。けど怪我が完全になおしてしまった。これはちょっと早まったかと思い直す。 笑って、笑い、笑う。 これをエバお兄ちゃんが見たらなんていうかしら? 自分のせいでこうなったんだもん。ちょっとはあわてるかも。ううん。もしかしたら謝るかも。んふふ。魅了の隙も……それはだめかな。 エバはああみえて精神感応防御が高い。たとえ隙を突いてもすぐに防御される恐れがある。そんなことになったらもう二度と近くにいけなくなる それに欲しいのは本物だもの。 チャンスを利用してうまくやれっていったのはエバお兄ちゃんよ。 このチャンスを生かしてもいいよね? 「んー。けど、それだとこのままじゃあ、だめよねぇ」 先ほどまでの怒り狂っていた気持ちはすで消え、リーリスは自分の素敵な思いつきに夢中になった。 うまくやればエバに一泡ふかせてやれる。 再帰属の糸口が見つかるかもしれない。 「そうだ! 前、ゴーストに痛覚を経験させられたのよね。あれを利用しちゃおっと」 リーリスは目を閉じると自分の思考を作り変える。 エバの前に、ううん、美龍会を目の前にしたら小さな子供の思考回路に切り替わるようにセット。 それに合わせて先ほど刺された痛みの記憶と痛覚を連動させて。 よーし、でぇきたぁ! はやくエバの顔がみたい! わくわくした気持ちいっぱいにリーリスは白鳩にその姿を変えて飛び立つと、精神感応でエバを探す。 屋敷にエバのいるのを確認したリーリスは一直線に向かう。 全身に痛みが走る。 鋭く、冷たく、重い。 普段なら、いや、きっと一生感じることなんてない類の感覚。それに思わず顔が歪み、ぽろぽろと涙が出る。 よーし。 事前に作った思考と交代しながら鳩のままリーリスはアジトのなかに直進する。 戸がふっと開いた。 そのタイミングでリーリスは部屋のなかに転がりこみ、鳩から人間の姿に戻る。血まみれの姿で畳に倒れこむ。 「おっ」 エバの声がしてリーリスはよろよろと顔を上げた。その間も痛みは連続してリーリスを襲う。自分で決めたこととはいえ中々につらい。 ぽろぽろと涙を流したリーリスは肘つきによりかかって煙管をふかしているエバを睨む。 「エバお兄ちゃんのバカァ!」 涙も痛みもリーリスには縁遠いものだが、百年ほどかけて取得したそれは本当の塵族の五感 となんら変わりない。迫真さがある。 「お兄ちゃんが目の力を使うなって言うから、リーリス頑張った! 暴霊退治に行って殺人鬼に襲われた! 力を使ってなかったから初手を防げなくて滅多刺しにされた! お気に入りの服だったのに! リーリスだって治るまでは痛いのに!」 痛みと屈辱に濡れた瞳。 「お兄ちゃんは褒めてくれない! 人形じゃないパパやママやお兄ちゃんが欲しいだけなのに!」 リーリスは小刻みに全身を震わせた。 「このまま帰るのやだ! 戻るたびにこんな格好になるのやだ、うわーん!」 声を高らかに、リーリスは天に向けて叫び、すぐにエバを睨む。 「で」 エバは笑った。 「なんだって」 「~っ! リーリスの、文句聞いてなかったのぉ!」 「聞いてる、聞いてる」 ひらひらとエバは手をふった。 「リーリスのこの姿、みえないの!」 「見えてる、見えてる」 エバの態度にリーリスの怒りは爆発した。 「エバお兄ちゃんっ!」 「そんなのてめぇがしたことだろう。文句言われる筋ねぇよ」 「そんなことないもん、エバお兄ちゃんが言うから、リーリス」 エバの目が底冷えするほど冷たくなるのにリーリスは口を噤んだ。 「他人のせいにする阿呆をどうして俺が褒めなきゃならん。死んでもねぇからいいじゃねぇか」 「~っ!」 リーリスは腹立しげに拳を握りしめて何か言おうとして結局何も言えなくて俯いた。 「もおー!」 「牛かよ。ははは。着るものくらいやるぜ。いらんのがあったはずだ。おーい、ヴェ、着物あったろう? 女もんとってこい」 「いらない! もう知らない!」 エバが廊下にいるヴェに声をかけるのに最後の抵抗とリーリスはつんっとそっぼう向く。頭をぽんぽんと叩かれた。 「ほーら、いたいの、いたいのとんでいけ」 「子供騙しじゃない!」 「そうかい? じゃあ、さっさと帰りな。ああ、けど、そのまんまだと、布が落ちるかもなぁ。そしたらそんな服、役に立たないだろう? あー、全身見られちまうわけだぁ」 「!」 リーリスが声も出ないほど怒りに絶句する。 「真っ裸でかえって、仲間どもにひやかされるか。それとも俺の好意に甘えるか、さっさと決めな」 にやにやと笑うエバをリーリスは射殺さんばかりに睨みつける。 屈辱……! 「ひどい!」 「好きにほざきな。さーて、酒でも飲むかねえ」
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