§アルヴァク地方スレイマン王国首都・ローゼリアから離れた海上 月夜に漂う小さな帆船 夜陰に塗れ目立たぬよう黒塗りされた船体は、表稼業を生業とするもの利用するものでないことはようと知れた。 灯台の光も届かぬ通商用の航路を外れた静寂の水面を、啜り泣き声が揺らしていた。「なぁアニキ……ここってやばいんじゃねえのか?」「何が、だよ?」「……出るって話じゃねえか……あれがさ」 厳しい顔を滑稽なほどに歪め怯える男。「ああぁん? おめえ馬鹿か? 泣く子も連れ去る奴隷商人の俺らが何言ってやがるんだ……だったら今から航路を切り替えてお縄にでもつくのか? あ?」 アニキと呼ばれた男は鼻で笑って弟分の惰弱に取り合わない。「で、でもよう……アニキィ」 ――……る……し……い ――…………に……たく……な……い「アニキィ……なんか聞こえねえか?」「空耳だ、じゃなきゃ奴隷どもだろ、もういい。おめぇは船室で寝てろ、鬱陶しい」 愚かな奴隷商人は気づかない、己の踏み入った場所の危険さに。 風は凪いでいた。海面は空に赫赫と輝く紅い月を綺麗に写している。 ――コポッ……コポッ…… 凪いだ海面が泡立ちに揺れる、反射的に覗きこんでしまった奴隷商人の見た光景。 暗い海面……月影を割って次々と浮かび上がり空を仰いだそれは――人の顔 海に沈み溺死したもの特有の青白く膨れた腐れ堕ちかけた肌と仄暗い洞の眼窩。 歯の抜け落ちた溺死体の空虚な口腔から吹き抜けた耳障りな音が意思を伝える。 ――……あ……な……たも……いっしょ…… 笑みを象る水死体の爛れた生白い手が奴隷商人の頬に触れる。 恐怖に歪んだ奴隷商人の喉が絶叫に震え……なかった。 鼻腔を、口腔を一杯に埋め尽くす腐敗した臭気……爛れ落ちた己の肉塊 白く染まる視界の中、皮膚の落ちた肉が粘性のある液となって海に流れる。 ――奴隷商人は生きながら腐れ水に溶けた。 幾つもの溺死体が海面から浮かび上がる、水気に膨れた腐肉の塊が船に取り付く―― 絶望の悲鳴……奴隷船は瞬く間に腐敗し姿を失う。 ――静寂の水面 ――写る月影を割って巨大な影が起立した。‡ ‡ §0世界ターミナル・司書室「皆様、お集まり頂きありがとうございます。ヴォロスはアルヴァク地方スレイマン王国の首都・ローゼリアがある竜刻の脅威によって崩壊する予言がなされました、皆様にはこの脅威の排除をお願い致します。」 世界司書リベル・セヴァンは、いつも通り端的な言葉で説明の口火を切る。「まずはこれを御覧ください」 据付の端末をリベルの手が操作する。 光源が落ちた司書室、スクリーン一杯に奇妙な形状のいきものらしき物体が映し出された。 その姿は一見には蛇頚竜と呼ばれる壱番世界のジュラ紀から白亜紀に生存したと言われる水棲大型爬虫類に近似している。 だが全身はおよそ水棲生物とは思いがたい鋼鉄の重量感を感じさせる鎧状の鱗に覆われ、二対の鰭に加えて胴体からは鋭利な剣盤が並んだ腕が伸びる。「上体を起こした際の全高20m程……海上においては小型船並の巨躯、地上にあっては二対の鰭を支えに直立します。その仔細についてはオブザーバーとしてお招きしたメンタピ殿から話をさせて頂きます」 リベルの言葉に促されて姿を表したのは、紫檀のローブに身を包んだ有角の巨躯、運命と酔狂の魔神ことメンタピ。「……よかろう、此れは余らが海龍騎と呼ぶ守護騎士よ。竜星の折に現れた巨人の輩とでも呼ぶべき存在である。これらは我が慧龍の空蝉たる叢雲同様外界からの脅威を廃し、彼の地域を守護するはずのもの……此度の現出は竜星より入植した犬猫共を脅威と認識したがためであろう」 ――何故犬猫だけが? 私達ロストナンバー、それに世界樹旅団の奴らもヴォロスには幾度と無く訪れていたじゃないか?「しかり。これは行動と意思が鍵となる。犬猫共は長期にわたってアルヴァク地方に滞在し、地に特有の性質――文化を変じさせ融合を図っておる……これが一種の侵略、すなわち脅威とみなされる。そなたら、図書館の滞在は一時的なものだ、守護騎士は阿迦奢を読む……事態の収束とともに立ち去ることがわかっているが故、脅威とは認定されない。……世界樹旅団の襲われてこなかった理由はより容易であろう。その実質的な司令塔であったのは叢雲の一部たるマスカローゼ……その意志に基づき入植した者どもらに、守護騎士共が手向かいするゆえはない。娘があの地を去って後もな」 ――ヴォロスを守護してるんだろ? じゃあなんでアルヴァクの街が壊滅するような被害を受けるんだ?「叢雲は異質を滅ぼすが、守護騎士は異質を喰らうのよ。故に存在に必要な竜刻が不足した場合は、知的生命体の意志を喰らうことで永らえる。海龍騎は水によって伝播する死の悲痛を喰らうのだ。だが、これは人の意志を食らい続けることで存在が徐々に変質してしまったようだな――喰らった中に特別強力な意志をもった者が居たのやもしれん。海龍騎は今現在、雑多な怨念と融合し死霊のような存在となっているようである。己が運命に他者を引き摺り込むことを望む死者の魂魄の依代となったということだな。傍迷惑なことだ、存在に刻まれた使命のまま竜星に向かわば、中途にある全てに死と腐敗をばら撒くであろう」 メンタピが指を鳴らすとスクリーンに表示された海龍騎の姿がおどろおどろしいものに変じた。 海龍騎の鱗鎧は赤錆、腕に生えた剣盤はところどころ罅割れが見える。 肉体の表面は土左衛門のようにぶよぶよと膨れ上がり、その体表一面にはデスマスクが浮かび上がっていた。「これが現在の彼奴の姿よ。卑しくも竜の眷属にあたるであろうものが、斯様な無様。見るに耐えん……早急に滅ぼすが良かろう」‡ ‡ §スレイマン王国首都・ローゼリア近海 ローゼリアにあって手に入らぬものはないとまで豪語されたスレイマン王国の要たる貿易都市。 ヴォロスにおける交通の要所あるという好立地を経済学という戦略で繁栄させて地は古代の超兵器とそれを操る怨念によって崩壊の危機を迎えていた―― 洋上に浮かぶは呪詛と腐敗の海龍騎、三時方向と六時方向から多数のガレオン船が囲む。「――距離1000 各艦につぐ照準弾は使用しない! 加農砲水平連続射撃!! ってーー!!」 スレイマン王国の第二艦隊『猛る海象』隊長のコダイが叫び声と共にガレオン船が咆哮を上げた。 加農砲――壱番世界におけるそれとは違い火薬ではなく竜刻のエネルギーで質量を押す兵器によって飛ぶ鉄鋼の弾が十字に洋上の化生に降り注ぐ。 交錯する重砲は赤錆びた鎧竜を海の藻屑へと変える十字の火線描くはずであった。 ――女性のような甲高い悲鳴 海龍騎の胴にならぶ顔面から吐き出された音。 腐敗を帯びたその振動は確かな圧をもって大気と海面を歪ませる。 衝撃は漣となって鉄鋼の弾を薙ぎ払う。 宙にあった鉄塊は赤錆の塊に変事、大気との摩擦に耐え切れず粉砕された。 ――赤茶けた破片が海面を叩いた時 海龍騎の姿は船団の中央にあった。 その外殻を覆うのは虚ろな眼窩の顔、水に膨れ爛れた顔、毛の疎らな顔、青白く鼻の削げた顔……顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔……。 軍人たちが無様を晒すことはなかった。 海龍騎の外殻が弾け飛び、寄生虫のような幽鬼が蠢く腐れ肉の中に埋まった竜刻が顕になる。 かの竜刻の巨人がそうであったように海龍騎の竜刻が放つ光の中に軍人たちの姿は消えた。‡ §ローゼリア傭兵隊駐屯地「おいおいおい……コダイんところの軍艦一瞬で沈んじまったぞ、あんなのどうしろっつんだ」「怖気づきましたかライお坊ちゃん? 貴人である貴方は退却しても構いませんよ」「……ディアス、てめ……舐めてんのか? 損得勘定しかしねえアホ親父共と俺を一緒にすんじゃねえぞ」「ロガ将軍殿だ、ガルド三番隊傭兵隊長……ありがたくも国王陛下より指令を賜った。シュラクやアルケミシュに現れた異世界人とやらが協力を申し出ている。傭兵隊に組み入れ海上の怪異に立ち向かうようにとのことだ……体面上文句の出んように貴官の配下として遇する、精々手柄にするんだな」
§スレイマン王国首都・ローゼリア 半月状に海岸線を削りとった港湾都市にして、陸運の要所でもある貿易都市。 石造りの埠頭から、そこかしこに張り出した係留設備――桟橋には艀が波にゆれ、巨大な帆船が多数横付けされていた。 陸上げされた荷物、そして船乗りが網目状に連なった運河にのり、その先に軒を連ねる歓楽街で提供される一時の安楽――食事を振る舞い、酒に語り、春を鬻ぎ、寝物語する――を享受していた。 洋上に出現した海龍騎によって海上交易路は封鎖され都市に抑留を強制された船乗りたちによって、皮肉な話かローゼリアは溢れんばかりの人集りと猥雑な活気に満ち満ちていた。 (……同じ海の都市なのに……ジャンク・ヘブンとは随分雰囲気が違うのね……) そんな歓楽街を遠巻きにした娘は、海岸に程近い階段状の石に布を引き座し、強い潮風になびく長い黒髪を抑えながら物思いにふける。 旅の外套がなければ恐ろしく目立ったであろう和装の娘――華月はとりたて行楽気分で街を眺めていたわけではない。 ただいくさ場に出る前に知っておきたかった、自分が今から護る人達はどういう人達なのか。 本当は近くまで行って話しをしてみたいという気持ちも浮かんだが、多くの人が犇めく場所はどうしても気後れ――そんなに時間もないから遠くからで……という思いつきに逃げてしまう それはそれで良かったかもしれない。 船乗りは男の世界、遷ろう視線には故郷とする世界で最も身近な環境であり、華月が最も忌避した『店』と同種と思えるものも映りこんだ。 息を飲む音――反射的に顔を背け紫瞳は外界を遮断する ――こんな人達助けたくない 衝動的な拒絶が胸を早鐘のように鳴らした。 皮肉な話か、世界を暗闇に閉ざすことによって鋭敏に響くのは波音に交じる生を謳歌する人々の笑い声。 華月は自分の内に湧いた感情を恥じ入るように顔を伏せると、トラベルギアの漆黒の槍を強く握り締める。 (……私は……今からこの人達を護る……この人達が生きる場所を失わせないために戦う……) 一度……二度……大きく深呼吸をし、言い聞かせるように心に呟く。 そして刮目した紫瞳にもう一度だけ歓楽街の姿を映すと仲間が集まる船へ脚を向けた。 華月が歓楽街を眺めていた時とちょうど同じ頃合い。 皮膜のような羽を持った女軍人――碧は一人灯台から海を――いや、その先に居るはずのリュウを思っていた。 「ふふふ、あはははは、この世界にはリュウとやらが随分いるのだな。……私の世界にもいた、沢山いた。…………もう私しかいない」 海風の中に流れる哄笑は沖に向かって消えていく。 己と同じ音で呼ばれる生物との戦いを前に、碧の心は小波のように揺れていた。 「リュウの眷属は、どうやらこの世界では尊ばれているのだな…………羨ましくも何ともない」 依頼主であった魔神の言葉を思い出し吐き捨てる言葉を聞きつけたものが居たとして、字義通り捕らえるものは居ないだろう。 「崩れたら狩られるだけだ。どこも同じだ」 リュウ種の証である翼状に突出した第十二肋骨が揺れる。 女の言葉は、狂躁の中に干乾びた諦念を感じさせた。 ‡ ‡ §ライ・ガルド旗艦 傭兵の集まる船は、無頼漢を彷彿させる職種が集まる場所とは思えぬほどに整理され、磨きぬかれた甲板が異界人を迎え入れていた。 船は賓客を思わんばかったのか軋み一つ立てずその体を受け止めるが、生憎礼儀をしらぬ粗野な傭兵達は当惑と好奇の視線を持って客人らを迎える。 噂程度に聞こえていた奇異の存在――ロストナンバー 流言には尾ひれが付き、やれ、その姿は天をつくほど大きいだの、半人半獣のケダモノであるだの勝手な想像が誠しやかに語られていたのだが―― ――蓋を開け実際に現れたのは女性が四人。 凛とした顔つきに軍人然とした怜悧な表情を浮かべ、腰から皮膜のような翼を生やすという明らかに人とは違う出で立ちを見せる碧はまだ理解の範疇にいた。 しかし、一応は武器である短槍――もっとも船上戦闘には向かない――にしがみつき、おどおどとした態度で視線を左右に揺らす華奢な娘。エプロンドレス姿に金髪、大きな鋼玉石のような目をクリクリとさせた可愛らしい少女。そして、全身に白を纏い己の名前を連呼しながら甲板を飛び跳ねる快活な幼女……。 種々様々な兵の集まる傭兵団であっても醸し出される明らかな場違い感。 船員達はこの珍客に色めき立ちはしたものの、結局どう応対したものか距離感をはかりかねたように遠巻きしていた。 ‡ 艦長室を兼ねた応接室は甲板から船内に至り内部の通路を抜け、船のシンボルであろう角の生えた禽獣が刻まれた扉の先。 室内はひと目でそれと分かる品のある装飾、歓待用と思われる脚の低いテーブルには長めのソファが向かい合わせとなり、片側には少し崩した姿勢でソファに掛ける青年が一人。 申し訳程度に肩にかけた燕尾服型コートは、長らく使用していなかったのか微妙な型崩れをしている ウエストコートは第二ボタンまで開け放たれ、中からにはくしゃくしゃに着られたシャツが覗く。 服の隙間からは見える船乗り特有の日焼けが一様であることを見ると普段は慣れない格好、一応は客を迎え入れるための服装なのだろう。 ソファから立ち上がった青年は来客に対して一瞬訝るものを浮かべる……がすぐさまその表情を打ち消し、最敬礼をした。 「……初めまして異界の方々。俺はこの船の艦長を預かるライ・ガルド、スレイマン傭兵隊三番隊隊長だ。しかし……まさかご婦人方だとは……」 意表を突かれたであろう青年の隠しきれぬ感情は言葉と行動に漏れていた。 艦長を名乗る青年の視線が順々にロストナンバーに落ちる。 明らかに成人もしてないであろう幼女と少女――目が合うとニコニコと笑顔を返してきた。 (……子供じゃないのか? 異世界人は子供でも戦うのか? 女でなくても戦地にでるには早すぎる……) 短槍を杖のようにつく華奢な娘は自分と目が合うと慌てて視線を反らす。 (……奥ゆかしいな、見目も繊細で美し……いやいや何を考えている……槍を持っているがあまり戦闘慣れしたようにはみえない) 最後に目を合わせた軍装の女は失笑を浮かべていた。 そこではたと己の非礼に気づき、青年は一回咳払いをすると頭を垂れた。 「値踏みするような態度を申し訳ない……我々スレイマン軍ではご婦人方が戦場に立つ習慣がなくてね……少しそのな、もの珍しく思ってしまった」 「慣れている、見た目で他者を判断するのは人種の良いところだ」 謝罪する男を突き放すような碧の皮肉。 鼻白みたじろぎを見せた男に、莞爾と笑みを浮かべながら碧は言葉を吐いた。 「案じるな……リュウは私が全て狩り潰す」 ‡ ‡ §旗艦作戦室 方形に並んだ机の片側にはスレイマン傭兵隊――海に荒くれ者達と相対するように座るのはロストナンバー達 「自分達の掴んでいる情報では件の化け物……海龍騎と称されるリュウは陸上で著しく能力を低下させる。ガルド艦長、この都市の周囲に陸上戦に適した場所はあるか? あるならばこの艦隊で奴を誘導することは可能か?」 「ありがたい情報だが……難しいな。ゴダイの艦隊は回頭する間すらなく殲滅させられている。艦隊を使って誘き寄せることができる距離は僅かだ……確実を期すならば陸上からの砲撃になる……がローゼリアは化け物退治のために航海を禁止している、停泊している船を考えると被害は甚大だ」 机の上に広げられたのは、海流まで計算されたローゼリア近海の精密な海図。 船舶を象る駒と怪物の駒を動かしながら喧々囂々と対策を打ち出す。 出会い頭に辛辣な言葉を吐きつけた碧も作戦会議が始まるや態度は一変、持ち前の軍人気質を発揮し率先して発言を行なっていた。 「もう一つ問題がある。仮に陸上に誘き寄せたとして、おそらく避難勧告はでない。ローゼリアの膝下の海で夷狄を防衛できないという事実は極めて重大な政治問題に発展する……スレイマン王国が公的な記録に残る声明を出す可能性は薄い……それによって発生する事態が分かっていたとしてもだ」 「しかし、先の言では洋上で君達の戦力は意味を成さないだろう? 自分達も空を飛び戦えるわけではない。最小被害は容認するべきではないか?」 「……犠牲が必要とは言いたくないな…………」 意見を取りまとめる立場にいる青年が、がしがしと頭を掻き毟る指は逡巡ではなく決意を表している。 己の成す行動と其の結果は分かっているが、次善の策が無ければ判断しなければならない。 それが役職に対する責任ということだ。 分かっているが、割り切れないが故の苦渋が体を動かしていた。 「……そんな……駄目です……」 決定しかけた青年の意志に割り込んだのは、気後れのような怯えのような感情が帯びた小さく透き通った声。 娘は、ただ人や街へ被害がないのであれば、海龍騎の力が十分に発揮されないであろう地上で戦えればいいのだけれど……となど思い浮かべながら耳を傾けていた。専門的な軍事行動の打ち合わせに参加するには知識がないことに加えて、意見を言えばきっと傭兵達――男達の耳目を集める……それが怖くて碧の影で押し黙っていた。 ――犠牲が必要 軍人たちの会話に上った其の言葉は、その恐怖を押しのける程に華月の感情を揺らした。 ――猥雑なこの街の人達が好きなわけではない、それでも自分が護りに来たあの人達は一生懸命に生きていた 「……駄目……そんなあの人達を……見捨てるなんて……」 必然と己に集まる視線、動揺に揺れる二の句は消え入るように小さい。 吐き出す場所をなくした感情は眦に溜まり光るものとなる。 哀願する娘の姿――ガルドは一瞬惚けた表情を浮かべ娘を見つめ自嘲の息を吐くと顔を引き締めた 「ああそうだな……俺が護るのは街の奴らだ。俺としたことが気後れしていたみたいだな……ありがとよ」 華月に手を差し出すガルド、しかし娘は怯えたように両手で身を抱きしめると一歩引いてしまう。 手持ち無沙汰となった手を困ったようにぶらぶらさせるガルドに揶揄するような笑いが降った。 ‡ 眼前で繰り広げられる感情のやり取りは、赤い目の少女を象る魔にとってまさに人事であった。 (海上で戦うことになりそうなのかな? 陸上で戦えるほうが楽に済みそうだったけど、今から艦長さんの心を弄ったりしたら怪しまれるよね。リュウ? へんてこな羽根のあの子を助ければいいのかな? 魔術師の卵を名乗る魔術師が使って許される能力範囲ってどのくらいかなぁ?) 数多いるロストナンバーの内でも取り合わけ強力な力を持ちながらも、其の力をひた隠しトラベルギアに封じられた完全な力を取り戻す機を伺い続ける魔は、ここにおいても只管見に徹していた。 手の内を晒さずに己に利する動きを待つ――永き時を生きた少女は老獪そのものである (腐敗で肉体が消滅してもリーリス自身が消滅するわけじゃないし、それに海龍騎って怨霊の塊よね? それなら周り中から精神エネルギーを摂取し続けられるわけだから、絶対消滅しないって断言できるわ……でも手の内はあんまり明かしたくないのよね……そうだ) 「ねえゼロちゃん、リーリスは海龍騎から亡霊成分が抜けて、当分ヴォロスに戻ってこれなくなれば勝ちかなって思うの。その間に犬猫さんはヴォロスの民になれちゃうと思うし。具体的にはね、ゼロちゃんが大きくなって海龍騎を陸揚げして、弱ったところを海軍に主砲で攻撃させつつ亡霊成分しばき倒して、もっと大きくなったゼロちゃんが宇宙の果てくらいまで海龍騎をぶん投げるとか、ね? これならゼロちゃん、他者を傷付けてないし、良いんじゃない?」 傍らの白い幼女、自分と同じように見た目にそぐわぬ永き時を生きているゼロにリーリスはこっそり耳打ちする。 「ゼロはリーリスさんのアイデアとてもいいと思います。でもゼロは、もっともっといいアイデアを思いついたのです……これならリーリスさんも、碧さんも、華月さんも、それにガルドさんも納得なのです、でもヒーローは最後にやってくるものなのです。少々お待ちくださいなのです!」 囁きかけられた幼女はニパッと笑みを浮かべると少女に返事する。 「どんなアイデアなの? 先に聞かせてほしい、名案がだったら協力するよ?」 うーん秘密なのですと言いながらゼロはリーリスに耳にささやいた。 傍目には、子供の戯言のような密談、リーリスは相槌を打ちながら内心ほくそ笑んでいた。 (この方法いいね。これなら陸上で戦えるし、こっそりと……) 「うんゼロちゃん、リーリスもとってもいいアイデアだと思うの。海で戦うの決まりそうだしそろそろ言ってあげたら?」 「了解なのですリーリス将軍、ゼロはご注進に上がるのです」 ぴっと、最敬礼をしたゼロは会議机に飛び乗ると自分の考えを説き始めた。 ‡ 確実な方策を持たず感情論的特攻に傾きつつあった傭兵隊だ、何ら損はないゼロの提案を飲むであろう。 だが万が一ぶれても困る、円滑に行くように少しだけ力を使おう……懐疑の心は起こさせない。 (其の作戦はよさそうだな……よし其の作戦で行こう) 「其の作戦はよさそうだな……よし其の作戦で行こう」 リーリスが心で唱える言葉がガルドの口をついて出る。 元々浮かび駆けていた感情の強化だ、一厘程の疑念も発生させまい。 (うん、これでいいわね……これで……あの子を食べることができる) リーリスの目的はこの一点に尽きる、強き力を喰らって己の力を開放すること ――だってリーリス、インヤンガイで魔王になってトレインウォーで遊びたいんだもの ‡ ‡ ――異界生命……排除 ――み……んな……わた……しと……いっ……しょにくさ……レ・・・・・・ ――異界……せ…いっ…・・・くさ……除 ‡ ‡ §ローゼリア近海・洋上 ――穏やかな海に響く海嘯は彼方から上がる呼び声 腐敗の海龍騎を双眼鏡の限界距離から遠巻きにした傭兵隊艦隊から単騎、白い幼女を乗せた軽巡が切り離される。 「ここでいいのです、それではゼロは行ってくるのです」 海龍騎の予測進路に先んじた船から自らの案じた策に従い白いワンピース姿のゼロは海中に身を躍らせる。 見開いた眼球に水が触れたが、ゼロの視界が歪むことはない。 呼吸とともに肺が液体で満たされたが、ゼロが窒息することはない。 ただ潜行する幼女の視界は蒼銀の世界。 航行する船がなく穏やかな海中は魚鱗が陽光を照り返し視界に賑々しい。 『すごく綺麗な海なのです、どうせならみんなと遊びに来たかったのです。あ、お魚さんこんにちは、ゼロはゼロなのです』 幼女が喋ると口腔から泡が漏れ、楽しげな幼女の笑いが海水を振動させる。 重力に任せゆっくりと降り立ったゼロ。 海底の土を両手に掬い上げ薄暗くなった海面を見上げると、頭上を我が物顔でたゆたっていた微かな銀鱗の輝きは慌てふためき散り消えた。 一つ頷くとゼロは土を掬ったままのその容積を拡大した。 ゼロの能力は何者も傷つけることはかなわず、反対に誰もゼロを傷つけることを許さない。 静かな巨大化は海中の流を一つも乱すこともなく、あたかもそれがはじめから存在していたかのように空間を変じていた。 ‡ 「――敵距離1000……危険域です、ガルド様砲撃許可を……」 双眼鏡越しに見えるのは、幾多もの死顔を赤錆びた鎧に刻印した死霊の如き蛇頚竜の騎士。 鍛えあげられた兵士であっても、その姿には恐怖を……生理的な嫌悪を禁じえず稚拙な攻撃を要求してしまう。 「まだ早い……来たぞ」 ぽつぽつと海面に浮かぶ銀の煌めきが瞬く間に広がる。 銀髪が蒼い海面を編みこみ、波を盛り上げながら巨大化したゼロの頭部が艦隊と海龍騎の間に現れる。 海面にから現れた超巨大化したゼロの顔、続いて現れる肩そして両手に掬いあげられた土――それは距離にして数キロ平方にも及ぶ大地 「地面をもってきたのですー」 ゼロの作戦――人的被害を恐れて地上という有利をとることができないのであれば、海の上に大地を作ればいい。 滑稽なほどに単純、余りにも明快なその策は神域に至る能力を持つゼロならではと言えた。 傭兵隊の艦隊が振動に揺れる。 海面に現れた大地に船底は乗り上げ自重を持って湿り気を帯びた柔い地面に沈み込む。 反対側のヘリ――陸上げされた海龍騎は海から切り離され腐敗した醜い半身を晒している。 まさに驚天動地の事態に海龍騎は己のフィールドたる海に戻ることもなくただ佇んでいる。 「さあ今なのです、海龍騎さんをやっつけてしまうのですー」 巨大化したゼロの声は大きい音ではあるが不思議と耳騒がしいものではない。 到来した好機にライ・ガルドが叫んだ。 「作戦は成功だ。切り込み隊抜刀突撃! 砲兵突撃支援開始せよ!!」 ‡ ゼロの作った大地――泥濘んだ土の上を傭兵団とロストナンバーが駆ける 海風の中にホゥーホゥーと洞に空気が抜けるような奇妙な音が響いていた。 近づくに連れて明らかになる海龍騎の姿は異様そのものであった。 海上に晒されていた赤錆びた鎧の表面に浮かぶ白は水に爛れ崩れた死者の顔を背負ったゲル状の物体。 それは丁度、埠頭に蠢く船虫が如く鉄の上を這いまわる。 海面に隠れた下半身は一面の腐肉が波打っている、海龍の肉から死者の体が蛆のように生え表面を覆い尽くしている。 死者の体は水に爛れ青白く膨れ海龍の肉と融合しゆらゆらと揺れている。 海から切り離された海龍騎の動きはナメクジが如き鈍重、精々人を倍する程の速度。 船団から放たれる砲撃から逃げることも叶わず、ただ金切り声のような腐敗の悲鳴を上げていた。 「はははは、なんだこの醜さは。やはりリュウだ、これでは尊ばれるはずがない……私が除去してやる」 泥濘に沈む軍靴を何ら障害とせず先陣を切った碧は、醜い海龍騎の姿に哄笑を上げる。 碧の頭上を飛び超えた砲弾が腐敗の結界に触れ赤錆びた鉄塊となり砕け粉塵を巻き上げた。 無造作に進む碧が振動の領域に触れると五芒星の陣が弾け呪いの振動と鬩ぎ合った。 心象に結べばすぐさまに現れる華月の異能――結界 隔て拒絶する力が振動を伝えることを許さない。 泥濘を蹴り海龍騎の体に迫る碧。 身構える海龍騎が腕、赤錆の剣盤が高速で空を切ると引き裂かれた大気は致死の空裂となる。 不可知の斬撃――碧は造作も無く、腕を振り上げ打ち払う 目視不能であっても大気の揺れは鋭敏な羽根が捕らえる、そして華月の結界を加えた剛力は正面から海龍騎の攻撃を砕くことを可能にした。 幾度と無く迫るソニックブームを砕きながら接近する碧の哄笑は最高潮になった。 華月は戦線に並びながら矢継ぎ早に結界を生成する、幾重にも集まる傭兵達の武器に、そしてその体に。 結界の加護を受けた傭兵達が海龍騎の周囲にあふれる怨霊たちを切り裂く。 密着するほどに近づいた碧の剛拳が破砕音を響かせ海龍騎の鎧を穿つ、苦し紛れに振られた腕の軌道を華月が伸ばした槍が打ち払いその腕は宙に舞った。 切り払われた腕から白い塊が止めども無く爛れ落ちる。 動きを止める海龍騎に間髪を入れず駆け込む華月、斜め下方に突き出した漆黒の槍が穿つのは地面。 弧の字に撓む棒が娘の体を上空に跳ね飛ばす。 落下の風切り音が耳に触れる。 棒高跳びの要領で飛んだ空から眼窩に広がるは大挙した死者達。 「せめて安らかに……」 華月は死者の為に一つ祈ると落下する勢いのまま、己の身に纏う結界を剣に海龍騎を袈裟懸けに一閃した。 赤錆びた金属を削り落とす音とともに海龍騎の鎧は爆ぜ中に収まる爛れた肉と力の根源たる竜刻を露出させる。 陸上での戦闘が可能となったとき、もはや戦いの趨勢は決していた。 窮鼠となった海龍騎は足掻くように竜刻を明滅させた。 消失の白光――逃げる間もなく放たれた光の陣は勝気に逸る傭兵とロストナンバーを包こむ ‡ 視界を覆う白は晴れ、霧散するするエネルギーの乱流の中で呆然とする傭兵。 ただ一人、娘は槍を支えに苦しい息で口腔からこぼしていた。 白光の前に華月の結界は火に灼かれる蝋纈のように脆かった。 溶けるように崩れる結界を前に華月は、その暴威が晴れるまで幾度も幾度も結界を生成した。 海上であれば、ダメージを受けていなければ防ぐことも能わなかった白光を防いだ代償は重い。 極度の集中は毛細血管を破壊し充血した目は赤く、鼻から血が滴り落ちた。 「ガルドさん……すぐに兵を引くように指示してください。次は守れ……ません」 苦しい息から絞り出すように吐き出す言葉。 「馬鹿な……異界人の君が命をかけているのを見て、おめおめと引き下がれるわけがないだろう」 だが、其の姿を見ながら退却できるほどにガルドは大人ではない。 「……早くして下さい! 少数ならまだ守れ……」 絞りだす声に聞き取れないほどに掠れ、ひりつく喉の痛みが言葉の代わりに咳を吐く。 「ならその少数に俺を入れろ、それが条件だ」 「……!」 押し問答を続けるのも辛いのか、華月は押し黙る。 「大丈夫? お姉ちゃん、リーリスが心の力を分けてあげるね。ねえ、二人共よく見て海龍騎はもう力を失っている、さっきのが最後の悪あがきだったのね……」 苦しそうな息の華月の横にふわりと現れた少女が其の背に触れる。 己の精気を受渡しながらも、其の紅玉が見定めているものは輩ではない。 リーリスの目には見えていた。 永い時を共に過ごした怨霊と海龍騎は、もはや不可分の存在となっていた。 彼らは崩れゆく己の肉体を放棄し、精神体のみで何処かへと逃げようとしている。 ――おいでおいで海龍騎、まだ消えたくないでしょう? おいでおいで怨霊さん、私の中に来なさい。きっと貴方の願いは叶うわ 精神体――肉体を捨てたことによって本来の姿となった巫女装束の女と纏わりつく竜の影は甘い言葉――精神感応に惹かれリーリスに近づく。 (憎い憎い憎い……私を竜の供物に捧げた奴らが憎い。腐れた水に私を捨てた者達に全て同じ運命を……) 誘蛾灯に引かれる羽虫のようにリーリスに近づく精神体達、それが愚挙であると理解する時間はなかった。 リーリスの本体と言える『それ』は顎門を開くと近づいてきた餌を一飲みにした。 ――ごちそうさま より強力な魔に喰われ海龍騎の精神は消失した。 精神を失った肉体は、もはや竜刻のエネルギーの残滓に集る怨霊の集まりでしかなかった。 力の支え、精神の支えを失った怨霊の塊は急速に瓦解を始めあるべき場所へと帰した。 ‡ ‡ §ターミナル・カジノ付近のチェンバー 白い小波が砂浜に上がり耳心地良い音を立てている。 ココ椰子の広がった葉が頭を垂れ、潮風に揺れていた。 カラフルなビーチパラソルで影を作ったテーブルに座るのは二人。 濃紫のローブを纏う魔神と白いワンピースの幼女。 「大儀であったな……して話とはなんだ。小さきものよ、そなたのたってとあらば、我が胸襟は常に開かれている……」 言葉こそ厳かであるが、膨らんだ鼻は些か世間体に問題が発生しそうな雰囲気を醸し出している。 「ゼロは質問があるのです。こんな防御機構が必要だったということは、慧龍さん現役時代のヴォロスには世界繭がなかったか脆弱だったのです?」 「ククク……確かにヴォロス創世記における世界繭はおよそ強固とは言えぬもの。秩序が薄く混沌に満ちた世界は容易に異世界からの侵入を許し変質を繰り返した」 応える魔神は机の上に盛られた怪しげな色の団子を食み――極僅か、本当に極僅かな時間だけ動きを停止する。 「なるほどなのです、だから防御機構を作ったのです? でもゼロがヴォロスの人だったら劣化・変質・誤作動したり、乗っ取られたりするのに自己メンテナンス機構もチェック機構もバックアップも無い代物に世界の安寧を預けるのはご遠慮したいのです」 「ククク、左様か。しかしそれは詮のないことだ。我が慧龍とて完全な存在とは言えぬ、その権能の及ぶ限りで成すべきことを成しているのだ。 もっとも此度の海龍騎は誤作動したわけではないのだ……相当の変質こそしてはいたがな。奴らが守護するのは人の世ではない、己らを生み出した母たる竜の世……このまま、犬猫共がヴォロスに馴染まぬのであらば、別の巨人が目覚め竜星に向かうであろうな」 「うーん、でも慧龍さんも巨人さんが人へ迷惑をかけるのは本意じゃないと思うのです。 そうです! ゼロは小竹さんにメンタピさんと一緒にお仕事してもらうのがいいと思うのですー。慧龍さんと一緒になった小竹さんの言うことなら巨人さん達も言うことを聞くはずなのです」 「小さきものよ、そなたの願いを無碍に否定するのは心苦しいがそれは余には不可能だ。小竹と名乗るロストナンバーは慧龍と一体になりその意志はヴォロスに還った。因果は収束している。余は力になれぬ。 もし、小竹とやらを望むのであればそれは奇跡そのもの……だが心せよ、小さきもの。奇跡とは、運命すなわち世界法則の破壊に他ならぬ、そなたがそれを望むのであれば、次に巨人と対峙するのは犬猫共ではなくなるな……」
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