赤黒く淀む天が広がっている。時おり思い出したように脈を打つそれが空と呼べるようなものとは逸したものだという事は、頭のどこかが不思議なほどに理解していた。 ここは墓場だ。終の果て、すり潰され消えていくのを待つばかりの魂たちが寄せ集められた、処刑のための場所だ。処された後には万全たる無が待つのみなのだろう。その先には一条の光さえ射る事もなく、身を包む温もりなどあろうはずもない。望みなど、わずかほどにも存在し得るはずもないのだ。 臼木桂花は焼けつく大地の上に立ち、頭上に広がる天をぼうやりと仰ぎ見ていた。 常であれば傍にいるはずのセクタンもいない。やわらかく温かなポチを抱きかかえていた感触も、もはや懐かしく思うばかりの遠い記憶であるようにしか思えない。身体のどこを探しても、トラベルギアである二挺拳銃は見つからなかった。 ぼうやりとした記憶の中、桂花はゆっくりと思い出す。薄らいでいく記憶を、写真を並べていくように整えていく。 ――君が死んだら狂う そう口にしたのは誰だっただろう。とてもとても大切な相手だったように思えるのに、思い出そうとしてもその顔はひどいもやがかかっていて、とてもではないが判然とはしなかった。ただ、鋭利な爪が伸びる鉄の腕だけが浮かぶ。桂花は彼の背をなす術もなく送った。胸が押しつぶされるような痛みを覚える。それなのに、その男の顔も名前も思い出す事が出来ない。 赤黒く広がる天の中、黒い影が視界の端々をかすめながら飛び交っている。不定形の黒い帯を引きずりながら、怒号のような、享楽のような、――否、あれは身に振りかかろうとしている、逃れられぬ先行きに向けた恐怖のゆえの狂気を叫んでいるのだろう。もはやそれすらも言葉という形を得ることも出来ず、ただただ不快な、金属を掻くときに放たれるような音にも似たそれをばら撒きながら、影はいくつもいくつも飛び交っている。 不意にその影が桂花の腕にぶつかった。影はそのまま過ぎていったが、ぶつかられた箇所はごっそりと抉れ、消えていた。 わずかに首をかしげ、抉れ消えた腕の箇所をしげしげと見つめる。痛みはまるで感じない。焦燥や恐怖といったものもまるで感じられなかった。感情と呼べるもの枯渇し、消失しているのだと、頭のどこかがぼんやりと理解する。一度だけ目を瞬いて、視線を再び上空に持ち上げた。 赤黒く広がる天は、先ほどよりも明らかに狭まっているような気がする。黒い影が往来する速度が増している。怨嗟を叫びつつ飛び交うそれらのいくつかが、再び桂花の身体にぶつかった。頭の半分と右足の膝下、左の腹がごそりと抉れ消える。桂花の身体を抉り過ぎていったものの行く先を確かめるともなく振り向くと、視線の先、まるでリアルな静止画のような地平線にぶつかり、のそりとめりこむように消えていくそれが目に映った。 片側の視界を失った今、視界に映る風景を正しく見届けることが出来ないまま。それでも、遠く続いているようにも見える地平の彼方が見る間に狭まってきているのは把握できた。 自分は今、箱の中に立たされているのだと思いつく。初めこそ大きく広い面積を持っていたその箱が、時が経つのと同時に――あるいは何かが呼気をするような速さで、瞬く間に狭くなっているのだ。そうしてその箱は、箱の内にあるものを容赦なく捕食しているのだろう。ならばあの赤黒い天は、ここが捕食者の胃の腑の中だということを知らしめているのだろうか。 定まらない思考の中、ぼんやりと思う。 もしもそうであるなら、もうどこへ行こうとも無駄な足掻きになるばかりだ。この箱の中からはもうどこへも逃れることなどできるはずもない。 逃げ惑う影たちがひどく滑稽に思えた。 もう、逃げられるはずもないのに。どこへ向かおうとも、あとは消失してくのを待つだけなのに。考えて、桂花はゆるゆるとかすかな笑みを漏らした。頭上に広がる赤黒い天を目指し、両手をあげる。指先が何かを得ることはない。代わりに、逃げ惑う影が両腕の肘から上を抉っていった。 「みじめね」 不意に声がした。ゆっくりと視線を落とす。そこにいたのはふわりとしたデザインのワンピースを身につけた少女だった。桂花は首をかしげる。――確かに憶えのある少女のはずなのだが、記憶はひどくおぼろだ。少女の名前を思い出すのにもかなりの時間を要しそうだ。 けれど少女は桂花のうろんな反応になど関心を寄せるでもなく、後手に両手を組み、ゆっくりとした足取りで、桂花の周りを回りだす。 「ねえ、自分が誰なのかはまだ覚えてる?」 上目に覗くように、少女は桂花の表情を窺っている。唄うような口ぶりで告げた。 桂花は少女の、やけに赤くひらめく眼光を見つめながら、のっそりと口をひらく。 「ええ」 もちろんだわ。 記憶がすべてうろんなものとなった今も、自分が何者であるのかだけは判然と憶えていた。 「ふうん」 少女はくすくすと小さく笑い、踊るような足取りで桂花の隣に歩み寄る。 恐ろしく愛らしい見目をもった少女だ。その眼光からはきっと何者も逃れることなどできはしないだろう。ねだるような目つきで桂花を覗きこみ、少女はふわりと頬をゆるめた。 「じゃあ、自分がどういうふうに死んだのかも憶えてる?」 言いながら少女は両手を持ち上げる。桂花の頬を包みこみ、唇と唇が触れ合うような距離にまで顔を近づけて、少女は赤の双眸を三日月の形に歪めた。そこかしこを飛び交っていた影たちは、今はただ静かに寄り合い、ふたりが身を重ねるように立っているのを遠巻きに見ている。むろん、箱は止まることなく狭まり続けているのだ。影たちは押し迫る壁に喰われ、取り込まれ、消えていく。思い出したように再び逃げ惑い始めた影たちが放つ騒がしい怨嗟の絶叫に、桂花の半分きりしか残されていない顔を覗き込み笑みを浮かべていた少女が、わずかに不快を滲ませた。 「どうせ無駄なんだから、黙ってリーリスのためになればいいのに」 舌打ちすら混ぜ込んで、少女――リーリス・キャロンは紅玉の眼光を苦々しげにすがめる。と、箱の壁がぐにゃぐにゃと歪み曲がって、逃げ惑う影が見る間に捕食されていった。それまでは影たちが放つ雑音で満たされていた空間が、一息の後の静寂を取り戻す。リーリスは満足げにうなずき、頬をゆるめた後に再び桂花に視線を向けた。 「ね、そう思わない?」 再び、ねだるような目で桂花の顔を覗き込む。 桂花は黙したまま、うろんな目でリーリスを見つめた。 「……そうね」 残された片側の眼球だけを瞬かせ、桂花は首肯する。 「逃げたって無駄なのに」 「ふふ」 桂花の応えを受けて、リーリスは満面に愛らしい笑みを咲かせる。それから桂花を離れ、ふわふわと踊るような軽やかな足取りで廻る。スカートの裾が波うつように踊った。 「ねえ、それじゃあ、自分がどうやって死んだのかは覚えてる? あ、自分は死んじゃったんだっていうのは分かってる?」 やはりリーリスの声は楽しげで、弾むようだ。友だちが親しい相手を前に、さっきまでの出来事を訊ねかけるような語調。桂花は、けれど、その問いかけにはわずかに口をつぐむ。 自分が死んでいるのだということは理解している。自分の名前も記憶している。けれど生前に関する記憶や風景はとても曖昧で、フィルターがかってぼやけてしまっていた。 口を閉ざし、目を足元に落とした姿勢で、桂花はぼうやりと考える。 先ほどまで記憶していたはずのポチに関する記憶も、もう薄らいでいた。何かがこの腕の中にいたような気はする。けれどそれがなんだったのか、――分からない。 「キサをかばって死ぬなんて、犬死もいいとこ。よっぽど死にたかったんだろうけど、あの子はきっともうキミのことなんか覚えてないわよ。覚醒してロストナンバーになっちゃったの。逃げ出したのよ」 そう言ったリーリスの口許がほんのわずかに歪む。声がわずかにかげりを帯びた。そのかすかな変調を察しながら、しかし桂花はさほどの関心を向けるでもなく、ただ茫洋と首をかしげる。 「でも、キミもあの子を愛してかばうようなフリして、実際はただあの子を理由に使っただけだもんね、犬死でもなんでも、キミにはどうだっていいのか」 いたずらめいた笑みを浮かべ、リーリスは言う。 「……理由……?」 「そうよ。死にたかったんでしょ? きっとどうしてもどうしても死にたかったんでしょ? そんなに思いつめるきっかけになったのがどんなことかなんて、リーリス、別にどうでもいいけど」 興味もないしね。吐き捨てたリーリスの言葉に耳を寄せながら、桂花はそっと目を伏せた。 ――私ね、貴方が好きでおかしくなりそうよ。もっと貴方と話したいわ ――そうか 幸福を含んだ笑い声が脳裏をかすめ、消えていく。 ――君がつつましいなら、世界の女性たちはすべておしとやかになってしまうぞ。桂花 静かに笑う。黒いチャイナ服、悪戯が成功した子どものように、わざとらしく肩を竦める。 ――「 」 彼の名を呼んだ。目をすがめて思い出そうと試みる。けれどその間にも、彼の笑みも声もしぐさも、すべてが記憶から消えていく。ただ、愛していた、そればかりが確たるものとして心の中に残されていた。 赤黒い天が押し迫る。眼前で少女がくるくると廻り、踊る。歌をうたうように楽しげに、少女は時おりくすくすと笑いながら、逃げ惑い続けている影たちの狂乱を眺めていた。 いつか、愛していたという感情さえも消えてしまうのだろうか。心を捧げていた男の顔も名前もすべてを忘れてしまっている現状で、感情ばかりが残されているというのもおかしな話だ。それでも、その感情までもが消失していくことばかりが、ほんの少し、恐ろしくもある。 「大丈夫よ、そういうのもぜんぶ、リーリス、食べちゃうから」 桂花のぼうやりとした心の声を聞いていたように、不意に少女が振り向いた。 「……そう」 呼気を落とすのと一緒に声を落とす。もう、少女の名前も分からない。 「そうね」 ため息にも似た応えを返すと、桂花は静かに視線を持ち上げた。 赤黒く広がる天は一枚絵のように見えていたが、今は脈打つ筋のようにも見える。生物の内側にある内臓というものをまじまじと目にしたことはないはずだが、頭上に広がるそれは、生々しくうごめく腸のようでもあった。実際に天がうごめいているのか、それとも自分の視界が揺らいでいるのかは分からない。ゆっくりと息を吸う。むせ返るような鉄の臭気が全身を浸していった。 逃げようともしない自分に疑念を感じることもない。 なにもなさず、なにもなせず、人を傷つけることしかできなかった、無為なばかりの存在だった。それでも誰かを愛し、愛されることを望んだ。今となってはその記憶や願望すらも消失していくばかり。逃げ惑う影たちよりも滑稽な存在。 「……あの人は、私を忘れてしまうのかしら」 誰に向けたものでもない呟き。少女が歌うように言う。 「きっと、あっという間ね」 スカートの裾をひるがえしながら踊る。全身に羽が生えているかのような、軽やかな動き。 桂花は笑う。 「そうよね」 返し、今度は深々と息を吐き出した。 「誰の心にも残らずに消えていけるのね」 落とした言葉に、少女の応えはなかった。目を開き、少女を探す。けれどもうどこにも少女の姿はなかった。 生ぬるい風が頬を撫でる。 影たちは相変わらず無意味な絶叫を響かせながら飛び交っていた。 少女を探すのをやめて、うつろな視線を前方へと寄せる。影の塊が押し迫って来ているのが見えた。その後ろ、勢いを速めた壁がみるみるこちらへ迫って来ているのも知れた。影たちは壁に追いつかれ捕食されていく。あれに捕らわれればすべてが終わる。輪廻を繰り返すこともない、文字通りの消滅があるのみだ。なぜかそれだけは明瞭たるものとして理解できていた。 半分しか残っていない顔に極上の笑みをのせる。壁はもう目の前にあった。たぶん後ろを見れば、そこにもまた押し迫ってきている壁を見ることができるだろう。 完全たる死 ――ああ、幸せだ これで彼の言葉を達するこ
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