シオン・ユングがターミナルから姿を消した。 アルバトロス館の彼の自室には、禍々しい黒い羽根が散っており、事情を知るものには、いったい何が起こったのかを彷彿とさせた。人目を避けるようにロストレイルに乗り込んだ、黒髪に黒い翼の少年を見たものもいるという。「あぁ、オレがフライジング行きのチケットを発行した。むめっちには頼みにくかったんだろ。こんなすがたは見せたくねー、つってたから」 図書館ホールで複数のロストナンバーから説明を求められたアドは、尻尾をひと振りした。いつもの会話用看板を使用せず、珍しくも声を発する。「そんで、すぐにラファエルも後を追っかけたみてーだけど、帰ってくる気配もねーし、今、どういうことになってんのかはまったくわからん。むめっちの『導きの書』にはなんか浮かんでるはずなんだけどな」 無名の司書は、司書室に閉じこもり、ずっと泣きじゃくっているらしい。 モリーオ・ノルドが心配して様子を見にいってるのだと、ぶっきらぼうに、しかし気遣わしげに、アドは司書棟の方向を伺う。 ……と。 モリーオに支えられて、無名の司書が現れた。サングラスを取り去った目は泣き腫らして真っ赤だが、足取りはしっかりしている。「すみません、皆さん。みっともないところをお見せして……」 青ざめた唇を、司書は噛み締める。「モフトピアに転移したラファエルさんが保護されて、始めてターミナルにいらしたとき……、同時期にシオンくんがヴェネツィアで保護されたとき、あたしの『導きの書』には、ほんの一瞬だけ、ある光景が浮かびました。どことも知れない世界で、黒い孔雀が形成した迷宮に、黒い鷺となったシオンくんが赴き、比翼迷宮を作り上げてしまうこと、そして、助けに向かったラファエルさんが、その迷宮に囚われてしまう未来が」 すなわちそれが、現在の状況であるのだと司書は言う。 その世界がフライジングであり、黒い孔雀と黒い鷺が形成した迷宮の場所は、霊峰ブロッケンであったことが今ならわかる、とも。「あたし……、あたし、彼らには、笑顔でいてほしいと思って、だから『クリスタル・パレス』の運営を勧めて。いろんなお客さんが来てくださって、とても楽しそうで……。ホントはこんなこと考えちゃいけないんだけど、彼らの故郷なんて永遠に見つからなければいいのにって思ってた。ずっとこのまま、ターミナルにいればいいじゃない、って……」 嗚咽で声をくぐもらせる無名の司書のあとを、モリーオは引き取った。「ラファエルのことはわたしも心配だ。ごく個人的な思い入れではあるけれど、ダレス・ディーに捕らわれ、いのちが危うくなったとき、非常に案じてくれたことを今でも感謝している」 それを前置きとしてモリーオは、晩秋の霊峰に《比翼の迷宮》が出現したこと、その再奥には《迷鳥》となったオディールとシオンがいること、ラファエルが虜囚となってしまったこと、そして── その周囲を取り囲むように、新たに複数の迷宮が発生したことを告げる。 それらの迷宮群を消さなければ、《比翼の迷宮》には辿り着けないことも。 * *「お呼び立ていたしまして申し訳ありません。お久しぶりです、ヴォラース伯爵閣下」「どうぞ、昔のようにアンリと。落ち着いておられて安堵いたしました。シルフィーラ妃殿下」「妃殿下などという立場では……。アンリさまこそ、呼び捨ててくださいまし。非常事態でもあることですし」「うむ、いずれ皇妃にと考えてはいるが、未だこの娘は、真の親離れも弟離れも出来ておらぬゆえ」「恐れ入ります」 メディオラーヌムの、シルフィーラに与えられた館の応接室である。 霊峰ブロッケンに起こった異変。オディールとシオンによる《比翼の迷宮》と、それを取り囲む複数の迷宮の対応について、シルフィーラは、ヴォラース伯に連絡し協力をあおぐべきだと皇帝に進言したのだ。 時間が経てば経つほどに迷宮は広がり、じわじわと大陸を浸食する。トリとヒトがいがみ合っている場合ではない。 そして何より、シルフィーラにもヴォラース伯にも、支援者の心当たりがある。 異世界の、旅人たちだ。 「ずっと思っていたのです。なぜ、わたしとシオンだけが特異な《迷鳥》だったのだろうと」 焼け焦げた本を、シルフィーラは広げる。 それは、黒い孔雀が飛び去り、崩壊した地下図書館跡から発見したものだった。《始祖鳥》にまつわる神話や《迷鳥》に関する旧い伝承が記されたその本からは、僅かではあるが、うっすらと文字が読み取れる。《迷宮》を作らぬ《迷鳥》は、この……して…… ひとつ、《迷卵》の状態で保護……こと。 ひとつ、あたたかな慈しみを持……養育され…… ひとつ、翼を切り落と……、あるいは…… ひとつ、孵化した雛を卵に戻…… それには、この地の《理》を超越した……《真理》に目覚めた旅人の……」「もしや」 食い入るように読み込んでいたアンリが、顔を上げる。「本来であれば、保護者なきまま孵化した雛は《迷宮》を作ってしまう。収束するには討伐しかなく、実際に《旅人》の力を借り、それを行って来た。しかし《旅人》の力は、《迷鳥》を卵に戻すことが可能かもしれないほどのものだと?」「はい」「そして、養親に恵まれ、愛情を持って育成されれば、穏当に生きることができると?」「二百年前にそういった事例があったと、この本に記述されています。ですので」「……お願いしましょう。旅のかたがたに。《迷鳥》の救済を」「それがかなうのであれば」 皇帝は大きく頷く。「卵に戻った《迷鳥》は、いわば天災に見舞われた孤児のようなもの。後宮で保護するとしようぞ。雛鳥を養育するにふさわしいものはいくらもいようから、養親候補には事欠かぬ」 皇太子も、強い決意をしめす。瞳いっぱいに涙をためて。「ぼく……、ぼくも、育てたい。大事に育てて、家族になって、いつか巣立ちのときが来たら、ちゃんと見送って」「さて、それは首尾よく卵を保護できてからのことになろう。養親には責任が発生するゆえに」 * *「大体の背景は分かってもらえた? じゃあ、ここからは保護対象について説明するわね。ちょっとややこしいからメモを取ってちょうだい」 無名の司書、彼女の導きの書に浮かび上がったフライジングでの現状を簡素に説明したのち、助っ人の司書ルティ・シディは傍らの黒板にかつかつと人名らしき綴りの文字を書き始めた。「たとえばシオン君がそうだったように、迷卵は保護者がいれば迷宮を作らずに孵ることが出来る、ということが分かったわ。今回あなた達に保護して欲しいのは、かつて保護者が居た迷鳥なの」 保護者の庇護の元、愛情を受けながら時間を過ごすという条件下にあったにも関わらず、今日まで孵化せずにきた迷卵が今回の対象とのことだった。「えーと、黒板のここ。ノルド・ミュラーという考古学者さんが、今回の迷卵を発見して保護者となった人。見つけ出してこっそり持ち帰っちゃったのよね。ノルドさんが迷卵を見つけたのはだいたい五年くらい前みたい」 霊峰ブロッケンに研究用の住まいを構える駆け出しの考古学者・ノルドには、妻ドリスと二人の娘……姉のアメリと妹のエルザという家族があった。だがアメリはノルドが迷卵を発見した少し後に他界しており、加えてノルド本人もここ半年ほどの間に亡くなっているらしい。「だから迷卵の管理は奥さんのドリスさんと、生きている娘のエルザちゃんが引き継いでいるはずなんだけど……」 ここからがややこしいからよく聞いてね、と前置きし、ルティはミュラー家の少し血なまぐさい事情についてを黒板と口頭で解説し始める。「奥さんのドリスさんにはずっと、ノルドさんの他に恋人がいたの。で、娘のエルザちゃんはノルドさんの子ではなく、恋人との子なわけ。亡くなったアメリちゃんは……どうなのかしらね、そこまでは分からないんだけど」 この事に密かに気づいたアメリは、父ノルドへの敬愛と子供ゆえの潔癖さでもって、母ドリスを強く詰問したらしい。その結果揉み合いになり、体格の差もあってかドリスは誤ってアメリを階段から突き落とし……殺してしまったのだという。アメリの死因は、一人遊びの際の事故死ということにさせられ、父ノルドは真実を知ることなくアメリの後を追ってしまう。「ところでみんなって、お母さんのお腹の中の時の記憶ってあるかしら? あたし? いや、あたしはあったら大問題でしょ」 こほんと咳払い。「まぁ置いといて。困ったことに、迷卵はずっと卵の状態でこの暗い事情を全部知ってしまっているのよね。人の記憶や心に干渉する能力を持ってる迷鳥も多いから、不自然じゃないんだろうけど……やっぱりちょっと可哀想じゃない?」 本当なら、ノルドと、ドリス、アメリとエルザ、四人の人間にあたたかく見守られ、末の娘か息子として愛情に包まれながら世界を知るはずだったのだ。「アメリちゃんがドリスさんの嘘を暴いて、ノルドさんも死んでしまって、残ったドリスさんとエルザちゃんがノルドさんのことを悪く言いながら、家族四人で住んでいた家と自分を捨てていくのをただ殻越しに見てるだけ……迷卵でなくてもやってられないわよね」 ドリスの恋人・フランツが、ドリスとエルザを迎えに来た日。殻の中で迷いと疑問を育て続けてきた迷卵に、ついにひびが入ってしまう。「ドリスさん達三人が既にミュラー家を去った後に迷宮が生まれたから、三人の命はまだ無事よ、まだね」 ドリス、エルザ、フランツに強い憎しみを持って生まれた迷鳥が、三人をそのまま野放しにしておくはずがない。ロストナンバー達が到着する時間なら充分に間に合うから、確実に保護を頼むとルティは強調する。「もしどうしても説得が難しかったなら、その時は仕方ないから戦って討ち取らなければいけないわ。最悪そうなっても迷宮は消えて、オディールさんとシオン君の比翼の迷宮にはたどり着けるから」 ここでルティは一旦黒板の文字を消し、また新しく間取り図のようなものを重ねて書き始める。迷鳥が生み出した迷宮の構造は、どうやら人家のような構造をしているらしい。「分かれ道も罠も無い、迷宮っていうよりは普通の家よ。……すぐにはそれと分からないけどね」 この迷鳥は入り込んだ者の記憶を覗き、その者の生家、あるいは家族と長く時を過ごした場所の幻を見せるが、本来は迷卵が過ごしていたミュラー家とそっくり同じ作りをしているらしい。「あなた達は三人で入るけど、それぞれが違う幻を見ることになるから、幻を破るまでチームプレイは出来ないの、気をつけてね」 この幻には勿論迷い込んだ者の家族も現れるが、迷鳥はこの幻の中で、『お前が家族と信じていた人間は皆偽物で、誰もお前を愛してなどいない』という強力な暗示をかけるのだという。「心を強く持ってね、この幻の中であなた達が家族を否定するような言動を見せたら、幻は解けないし迷鳥が凶暴化することもあり得るから」 この幻を破った者だけが迷鳥と対話を図る事が出来るが、迷鳥を卵の状態に戻そうと思うのなら全員が幻を破る必要がある。「少しでも迷いを残したままじゃ、卵には戻れないものね」 迷鳥はシオンやラファエルのように背中に鳥の羽根が生えたいわゆる有翼人と呼ばれるもので、十~十二歳程度の少女の姿をしているそうだ。「カッコウの羽根が生えて、顔は……皮肉だけど、亡くなったアメリちゃんに瓜二つだそうよ」 もし、迷鳥の外見を迷鳥自身が選べるのだとしたら、何とも皮肉で痛々しい。 この家を模した迷宮で、迷鳥は迷いを捨てられるのだろうか。 * *__パパに悪いと思わないの!? ママ、あなたって最低……!__ドリス、わたしの愛する妻__あーあ、早くこんななーんにもない山奥の家なんか出て行きたいし__フランツ、愛しているのは貴方だけ「ねえアメリ、直情的で愚かなあなたの代わりに、あたしが断罪するわ」「おとうさん、馬鹿みたい。あんな人達に騙されて、哀れな人」「あの人達を食べちゃえば、アメリもおとうさんも安らかに眠ってくれるかしら」「家族って……何なのかしらね。きっとあの人達に聞いても分からないんでしょうけど」 * *!お願い!オリジナルワールドシナリオ群『晩秋の迷宮』は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。
霊峰ブロッケン、その三合目あたりまでは比較的なだらかな土地が多く、ヒトが住まいを構えるのにさほど不自由は無いと言われている。ただそれは、炭焼き小屋や陶芸の工房のように、ブロッケンの自然と密接につながった暮らしを必要としていればの話だ。 山の暮らしに利便性や娯楽性を求めてはいけない。たとえば手紙や荷物が指定した日時に確実に届くとは言いがたいし、新しい本も無い、芝居も無い、サーカスの興行もやってこない、舞踏会なんて夢のまた夢。華やかで文化的な生活からは当然ながら程遠い。だが、考古学者ノルド・ミュラーにとってそれらはさほど重要な要素ではなかった。雨風から身を守る頑丈な家がある、清水もある、火も御せる。そんな恵まれた場所を囲むのが、まだ誰も知らない歴史が眠っているであろう霊峰。研究報告と学会で定期的に山を降りる為、利便上麓の街に本宅を構えてはいたが、ノルド自身このブロッケンの小さな家を終の棲家にしてもいいと、本気で考えていた。愛する家族に囲まれ、研究に没頭し、生涯を終える。それこそがノルドの幸せなのだと。 その幸せは、ミュラー家の幸福には、なりえなかった。 __あなたの家族って、ほんとに家族? __ねえ教えてよ。あなたが信じてる、家族っていう人の単位を ◆ ドアを開けたら、見知らぬ文化の他人の家が広がっている。最初から幻覚を見せられるとは聞いていたが、迷宮の外観があまりに普通の家だったから、健は何となくそう思ってしまっていた。だが、健の目の前に広がっているのは、見慣れた一軒家の玄関。リビングダイニングに繋がるドア、和室に続く白い襖、正面の奥には自分や妹の部屋がある二階へと続く階段が伸びている。 「あれ? あ、そうか、もうここは幻の家なんだ……! うわ、母さんのサンダルもある。すごいな」 自分の記憶と寸分たがわぬ家の再現度に、健はここが異世界の迷宮であることを一瞬忘れるが、玄関から聞き慣れた声が響くことで瞬時に背中に緊張が走る。 「あ、お兄ちゃんおかえり。遅いよ!」 「あ、お、おう。って、いいだろ! 俺の家に俺がいつ帰ってきたって」 「何言ってんの? 今日お父さん帰ってくるの忘れてないよね?」 健の父親は単身赴任で家を長く空けている。連休などたまに帰っては母と妹、父と健の四人で食卓を囲むのがささやかな家族の楽しみだった。母も仕事で忙しい為、四人の食卓に上がる料理を作るのは専ら健の役目であることを遠回しに指摘しているのか、幻の妹は口を尖らせてたたきに脱いだローファーを揃える。 「お兄ちゃんがハンバーグ作るって言うからまっすぐ帰ってきたんですけどー?」 「あ、ああ。父さんが帰ってきたらすぐ呼ぶよ」 「はーい」 いつもと同じ、いや、むしろいつもよりも人当たり……というか兄当たりのいい妹との会話が終わり、健は幻の家に一人。この流れに沿う必要があるのなら、今日は父親を含めて四人で食卓を囲む日であり、自分はいつものように夕飯を作らなければならないようだ。階段のそばにある台所への引き戸を開けて冷蔵庫を確かめると、なるほど中段に4人分のハンバーグが作れる分量の合挽肉が入っている。 「本当に家にいるみたいだ……」 野菜をストックしてあるカゴを覗き、小さめの玉ねぎをひとつ手に取る。幻とは思えないその質量に感嘆の溜息を漏らしながらも、これは幻なのだと強く心に言い聞かせた。 「パパ、おかえりなさーい!」 四人分のハンバーグを焼き、空いたコンロでは妹の大好きな玉ねぎとゆずポン酢を合わせたソースをあたためて。つけあわせは粉ふき芋にいんげんのソテー、トマトスライス。きゅうりたっぷりの春雨サラダにお新香、味噌汁とどんどん盛りつけ食卓に並べようと食卓へ振り返ったとき、健はこの幻の家でたった一つ、本当の家との差異を見つけ眉をひそめる。 「じゃあ三人揃ったし、食べましょうか」 「そうだな、冷めないうちに」 「いただきまーっす」 四人。 本当なら、坂上家のダイニングテーブルは四人掛けの四角いテーブルなのだ。だが、幻の家で健が目にしているのは、三人掛けの丸いテーブルだった。 「なあ、俺の椅子……」 「ねえあなた、連休はずっといられるのよね?」 「ああ、休みはちゃんと取ってきたよ。たまには父さんの赴任先まで遊びに来るか?」 「ほんと!? じゃあこないだ言ってた新しい水族館行こうよ」 声が届いていないわけではない。健が台所から持っていったサラダの器や麦茶のボトルを母や妹が受け取り、視線が合うこともある。だが、誰も健の言葉には応えない。これが司書の言っていた幻の本性かと、健はまた深く息を吸った。 「なあ、俺だけ台所で食えってことか? 冗談キツいぜ、家族だろ?」 「あ、このソース超おいしいー」 「やっぱり家族で囲む食卓が一番だなあ」 暗くならないように、絶望や糾弾には聞こえないように、つとめて明るく三人に声をかけ続けるが、三人の様子は少しも変わらない。肩を叩いてみても、顔を近づけて目を覗きこんでみても、返事をくれるどころか面倒くさそうに手でしっと追い払われてしまう。ただ、三人が、自分が作った夕飯を美味しそうに食べている。皮肉だが、その光景は少し、健の心を強く持たせてくれた。 __ねえ、これがあなたの家族だったものよ 「……迷鳥か?」 ふと、どこからともなく響く少女の声。幻の家族は反応しない、健にだけ聞こえる声ということは、迷鳥のもので間違い無いだろう。 __あなたは、いるけどいない。そこにいるけど、家族じゃないの __つらいでしょう? 嫌でしょう? 家族なんて、いないほうが幸せじゃない? 「……」 いるけどいない。この状況は、きっと。 健には、迷鳥が何故こんな幻を見せたのか、分かる気がした。幻の家族にくるりと背を向け、どこかでこの状況をじっと見ているであろう迷鳥のこころに向かって、健は声を張る。 「こんな幻で俺がへこたれると思ったなら、大間違いだ。俺がKIRINでも残念野郎でも前を向いていられるのは、家族が俺を愛してくれてるからだ。俺はそれをちゃんと知ってるからだ! 俺の記憶から俺を抜いた家族をつくって見せても、俺は何とも思わない!」 健の揺るぎない、宣言にも似た声に、幻の家族三人の挙動がぴた、と止まる。幻を操る迷鳥が、何がしかの反応を見せたのだろうか。 「家族が俺を愛してるだけじゃない。父さんは母さんと妹を、母さんは父さんと妹を、妹は父さんと母さんを愛してるって俺は知ってるんだ」 家を空けざるをえない父は、健が母や妹を守っていると信じている。仕事に忙しい母は、健が妹を助け何でも出来る息子に育っていることを知っている。成長とともに素直さを表に出さなくなった妹も、困ったことがあればちゃんと両親と健を頼る。健も、普通の家族より両親が忙しく働いているからこそ今の暮らしが出来ているのだと理解している。誰が欠けても駄目だと、皆それぞれに分かっているのだ。 「血のつながりだけが家族じゃない。元は他人だった父さんと母さんが、愛し合って、喧嘩もして、時間をかけて信頼をつくって、少しずつ家族になっていくんだ。俺はそんな中で22年間過ごしてきた、だから俺の家族はお前の見せる幻のように冷たくないってハッキリ言える」 __……じゃあ、こんな家族偽物だって言ってみなさいよ、本物の家族っていうのを知ってるんでしょう? 確かに、今健が見ている幻の家と家族は偽物かもしれない。それでも。 「そうだな、今見ているものは幻だ。けどな、幻だからって俺は家族の前で人がざっくり傷つくようなことは言わない」 言いたいことがあるなら聞いてやる、だから出てこい。 健の思いが、幻の家をさらさらと、さらさらと砂の城のように静かに打ち崩していった。 __そうね、あなたとは話をしてもいいわ ◆ アキは司書から聞いた幻の内容について、特段不安を露わにするようなことはなかった。それは例えば健のように、本物の家族からの愛情を信じきっているからといった風ではなく、もっと諦観じみた空気を纏っていたかもしれない。 「……うん」 だが、目にしたこの光景にアキは懐かしさを感じている。この光景の中に、ほんとうに存在した頃には決して覚えなかった感情だ。それが、この光景が幻であることを静かに物語っていた。 目の前にいるのは母親と弟、自分を含めた三人が居るのはかつて過ごしていた故郷の生家。弟は記憶の中にある幼少の頃の姿で、母も同じように……もしかすると今の自分とそう変わらないくらいの年齢に見える。ただひとり、おとなになった自分の姿がすこし、滑稽だった。 「嫌だわ、また花瓶が割れて……」 「ボクじゃないよ! お兄ちゃん……が……」 「まあ、誰もあなたを疑ったりなんてするものですか。……アキ!」 「……ごめん。すぐに片付けるよ」 玄関に飾ってあった、母のお気に入りの花瓶。頑丈なクリスタルガラスで出来たそれはひどく重たくて、花を買うのは母、水を換えるのは父と役割が決まっている花瓶だった。勿論、子供の手では動かすことすら出来ない代物だったそれが、今、アキと……アキの母、そして弟の前で、真っ二つに割れて玄関の靴棚を水浸しにしてしまっている。 ばらばらになったフリージアの花を拾う母の半ばあきらめたような溜息に、弟がびくりと身をすくませ自分を指差す。 「(……本当にこいつを割ったのは、どっちだったっけなぁ)」 この頃の自分はまだ幼く、身に持って生まれたESP能力をうまく扱えなかった。念力で窓を割ってしまったり、包みを開ける前にプレゼントの中身を当ててしまったり、声に出せなかった要求をテレパシーで駄々漏れにしてしまったり。ただ、明らかにESP能力と分からないもの……たとえば今のように、何か重いものを動かし破壊するような悪さをするのは、たいてい弟のほうだった。 「この子を怯えさせたことを悪いと思うのなら、急ぎなさい。本当に恐ろしい子!」 安心させるように母が弟の肩を抱き、弟はそのまま母と居間へ消えてゆく。母が居間へ続くドアを開けた瞬間、弟はくるりとこちらを振り向いてなんとも言えない、鼻で笑うような仕草を自分に見せつけていった。 「(……ああ、やっぱり俺じゃなかった)」 アキにとっては、幻を見るというよりも記憶の再生でしかない体験だった。 __ほら、あなただって家族に愛されてない。あなたもお父さんと一緒、哀れな人 憐れむような少女の声が、どこからか聞こえてくる。 アキはその声を肯定も否定もせず、黙々と割れたガラスを拾い、靴箱にこぼれた水を拭いた。 __ほんとうに愛されていたら、あなたが超能力を持ってたって動じなかったはずよ 「誰だって、知らねぇもんは怖いだろ」 アキの肉親は、アキの持って生まれた力を知ろうとしなかった。ただ恐れ、遠ざけ、その結果アキは軍に売られることになってしまったが、そこでの出会いが皮肉にもアキに家族愛と呼べるものを教えてくれた。 この力を持たせて、この世に健康な身体で産み落としてくれたこと。愛されなかった結果とはいえ、軍や仲間たちに出会わせてくれたこと。それに感謝出来る今だからこそ、アキはこう言うのだ。 「この人達と本当の家族になれりゃ、どんなによかったか」 __……あなたは、家族を恨んでいないの? 「恨むだの否定するだのはしたくねぇ。怖がらせちまったのは事実なんだ」 子供だったアキは、何故自分だけがとしか思えなかった。肉親から離れ、大切な存在を知り、今はただ歩み寄れなかった幼い自分への後悔と、もう会うことも無い肉親の幸せを願う気持ちがある。 「俺は、実の親も弟も大事だ。ハルカ……俺が作った家族のことも。たとえばあいつが俺を否定したって、俺はあいつを肯定するし、あいつを尊ぶ」 __そう……そうなの アキは、歩み寄れなかったと言った。家族を肯定すると、尊ぶと言った。アキは、どんな境遇に置かれても、決して他人を自分のいいように変えようとはしなかった。迷鳥の、何かに頷いたような呟きのあと、シャボン玉の泡がぱちんと弾けるように……幻の家と、母と弟は消えてなくなった。 ◆ 視界が少し、低い。アキと健が目の前から消えたことを確かめ、ムジカはそろりと周囲を見回して、自分の背が本来よりもだいぶん縮んでしまっていることに気づいた。 「(……この靴は……確か)」 母が買ってくれた鹿革のショートブーツ。これを好んで履いていたのは、母が亡くなる前後……十歳あたりだったと記憶している。だが、今ムジカが立っているのは壱番世界の日本に多く見られるごく普通の一戸建ての、夜の庭だった。この家は母が亡くなってからムジカが引き取られた義理の父と弟の家、つまりこの幻の中では、母に会うことは出来ないのだろう。 「……まあ、家の幻だ」 母は旅を愛し、放浪のまま、河に浮かぶ笹舟のように流れるまま生きてきた自由なひとだった。それについて生きてきた生活も家族との大事な時間だったが、家となればこちらが現れるのも無理は無い。 「ムジカ! 夕飯だよ、戻ってきなさい」 「……誠さん? ……はい、すぐに行きます」 懐かしい声が優しくムジカを幻に引き止める。ムジカが声の方向に振り向けば、最後の記憶よりも大分年若い義父が居間の窓を薄く開け、困ったように眉を下げ笑いながら手招きをしていた。 「本当に星が好きだね」 玄関に向かう途中、ふと空を見上げる。母が旅の夜空でいつも探し、見つけては笑っていた星は、ここでは見えなかった。 「……母さん?」 「何よ、変な顔して。冷めるから早く座んなさい」 義父と弟が待っていると思い向かった食卓には、何故か亡くなった母も当然のように座っている。記憶を覗かれた割に時系列や人間関係上の整合性が全く取れていないのが不思議ではあったが、ムジカにとっての家族とは自分を含めたこの四人なのだという真実を見せられている気がして、自然と目が細くなる。それに、エプロンをつけた母が肉じゃがや茄子の天麩羅、豆腐の味噌汁にほうれん草の胡麻和えといった和食を並べていることへのギャップも手伝い、ムジカは思わずふっと笑う。 「あら、そんなに好物ばかりだった?」 「……そうだね、好きだ。ありがとう、いただきます」 もう皆席に着いている。空いた椅子、弟の隣に腰掛けて手を合わせるこの光景を、ムジカは目を閉じてぎゅっと瞼の奥に焼き付けた。 「ところで、ムジカ。食べながらでいいから聞いてくれ」 「あ……はい」 義父が箸を持ったまま、にこやかに語りかける。そのまま母と弟に目配せをすると、二人もにっこりと笑って頷いた。 「明日から家族だけで暮らすことにしたんだ、君の荷物は今日中に纏めておくれ」 「家族……だけ、ですか」 「そうよ、わたしちゃんと帰化して誠さんと住むことにしたの。レオンも寂しくないでしょう?」 「うん、僕が二人にお願いしたんだ。だから兄さん……ううん、ムジカさん」 「言いにくいだろう、私が言うよ、レオン。……ムジカ、君は出て行きなさい。いいね」 ムジカは、幻の家族が聞かせる冷たい言葉に口を挟もうとはしなかった。確かに、レオンは母アンジェラと義父誠の息子。ムジカだけ父親が違うはみ出し者。それを挙げて家族ではないとされるなら、反論は出来ない。勿論、ムジカが静かに幻の言葉を聞けたのはそれだけが理由ではなかった。 「おれはあなたたちがちゃんと愛し合っていることを知っているよ」 __でも、その中にあなたは含まれていないのよ? 迷鳥の同情に満ちた慰めるような声も、ムジカの心は揺るがない。 いつか母の腕で聞いた、日本の子守唄を。 帰りの飛行機チケットを三人分買って、レオンと二人で母の葬儀に駆けつけてくれた義父の手を。 母に似ていると純粋に喜び、慕ってくれた弟の無邪気な笑顔を。 皆何も求めず、ただ愛しい人へ、愛情を無心に注ぐ人たちだった。 愛情を注ぎたい人が居ること、それを全て受け止めてもらえること、そして同じように愛情を注いでもらえること。それを、幸福といわずに何といおう。 「おれは全部覚えている。この記憶があるから、おれは幸せだよ」 だけど、たった一つ叶わなかった。四人で幸せに暮らすことだけが。 「これだけは、俺が思い描いた以上に幸せな光景だった。ありがとう」 思い出すように、ムジカはそっと目を閉じる。瞼の裏に映るのは、夕食を囲む義父と、母と、弟と、自分。たとえ幻でも、それを体験することが出来た。小さく頷いて目を開けた瞬間、幻は煙のように消えていた。 __これを見たかったの……? ◆ 「あれ、ここは?」 「お、二人とも無事だったみてぇだな」 「ああ、これが本来の迷宮……ミュラー家というべきか?」 それぞれにかけられた幻を無事に破ったおかげで、三人は見慣れた光景からフライジングの一般的な住宅、その玄関ホールらしき場所に立っていることを自覚する。最初のハードルを全員でクリアしたことを確かめ、三人に安堵の笑みが漏れた瞬間、玄関ホールから伸びる小さな螺旋階段の上から気だるげな拍手の音が響いた。 「幻……破ってくれたのね」 音の方向に三人が視線を向けると、十三歳ほどの少女が二階の手すりに腰掛け三人を見下ろしている。ゆるく癖のある青灰色の髪を腰まで伸ばし、白いワンピースに煉瓦色と黄色のリボンを首に巻いた愛らしい見た目をしているが、背中に生えた濃灰色の羽根が、少女がヒトではなくトリであることを示していた。 「あたし、ここから出なきゃいけないの。そこを退いてくれる?」 迷鳥がここを出てすることを、三人は知っている。そうはさせまいと、皆自然と玄関を塞ぐように立ちはだかった。アキがはっきりと、だが諭すように柔らかな口調で語りかける。 「駄目だ。あんたを置いてった人たちを傷つければ、一番傷つくのはあんただ」 「綺麗事は嫌い。誰のせいでアメリが死んで、おとうさんが傷ついて、あたしがこんな風に孵ったと思ってるの?」 迷鳥が羽根を大きく広げ、威嚇するように目を眇める。 「ノルドは決して傷ついてなどいない。そう思うのはきみだけだ」 「そうだ、お前が三人を食べちゃったらそこで初めて、ノルドさんとアメリが哀しむんだぞ?」 ムジカはノルドを父の姿に重ね、純粋にアメリとドリス、エルザ、そして迷鳥を大事にしていたことを説こうとする。健も子の立場で、迷鳥と同じ目線を心がけ言葉を慎重に選んだ。 「確かにノルドは裏切られてた。あんたには憐れに見えるかもしれねぇけど、ノルドは誰も裏切っちゃいねぇ」 「そうよ、おとうさんは本当に馬鹿なヒト。何も知らずに幸せな顔して。でも、あたしは知ってる。あいつらがあんなんじゃなかったら……アメリは死ななかったわ!」 迷鳥が怒りを露わにし、黒い瞳が段々と禍々しく金色に輝き始める。 「愛は血に左右されない、それを知っている。だからきみは、そんなに怒っているんだろう」 ノルドがアメリに、ドリスに、エルザに、そして迷卵に注いだ愛と、誠がムジカに注いだ愛はきっと、それぞれの心の同じ場所から沸き上がるものだとムジカは理解していた。 「殻の中でもきみは彼らを愛した。そしてノルド……お父さんはきみを愛し続けた。この意味が、きみなら分かるはずだ」 もし迷鳥が、ノルドとアメリだけを家族と認めていたのなら、迷鳥はきっとノルドが死んだ直後に孵化してしまったことだろう。だが、実際はそうではなかったのだ。 「お前、ドリスさんとエルザに謝って欲しかったんだろう? 悪いことをしたって分かって欲しいんだろう? 確かにアメリのことは可哀想だった、ドリスさんも悪いことをした。お前は全部一人で見てて、何も出来なかった、何も言えなかったから辛かったんだよな」 「三人を食って、殺して、あんたは少しだけ、一瞬だけすっきりするかもしれない。けどな、そんなのは本当に一瞬だ。あんたのしたことを、誰も叱ってくれないからだ」 だから。 「だから、俺の勝手な願いだけど……あんたを愛してくれる、あんたが愛せる家族を、俺達に探させてくれねぇかな。その人達と暮らしてからでも、絶望するのは遅くねぇと思うんだ」 「生きてくれ。おれ達はきみにそう言いにきたんだ」 迷鳥は、ロストナンバー三人と対峙したとき、幻を『破ってくれた』と言った。家族は、騙し合いでなく愛しあうことが出来ること。自分は、確かに愛されていたこと。それを、幻を打ち破ることで誰かに証明して欲しかったのだろう。いつの間にかしゅんと閉じた翼は迷鳥の背に隠れ、弱気で寂しがりな普通の少女にしか見えない。 「あなたたちの家族みたいな家族が……あたしにも出来るの?」 「ああ、俺達が責任持って探すよ! 幻を破った人間が言うなら説得力あるだろ?」 釦はいくつか掛け違えてしまったかもしれない。死んでしまった命は戻らない。変えられるのは、自分と、未来だけ。 「でも、忘れたくない。おとうさんと、アメリのことを」 「じゃあ、きみに名前をあげよう。きみは今から、アメリと名乗ればいい」 「……え、い、いいの?」 司書によれば、この迷鳥の外見は羽根を除いて死んだアメリに瓜二つとのことだった。きっと、父ノルドをまっすぐに愛し、言葉を交わし、卵である自分を慈しんでくれた姉への思慕が形となった結果なのだろう。見た目がこうで、名前も同じならば死んだアメリも、そしてノルドも喜ぶはずだとムジカは笑って頷く。 「そうだな、月並みだけどアメリの分まで幸せになれよ」 「俺の父さんが言ってたんだ、子供が笑って暮らすのが一番の親孝行だって。お前もそうしていいんだぞ」 「……うん……」 一度孵ったときの記憶を、再び卵に戻った迷鳥が保持しているかは分からない。だが、迷鳥……アメリは、名前を決めた瞬間納得したように頷き、初めて三人に笑顔を見せた。そのまま、アメリの身体全体を白くやわらかな光が包み……眩しさに三人が目を閉じている間、アメリはもの言わぬ卵の姿に戻っていった。 __ありがとう 「シルフィーラに言っておかねぇとな」 再び孵った彼女を、どうかアメリと呼んでやってくれ、と。
このライターへメールを送る