「へえ……」 皈織見(カヘリミ)の森は美しいところだった。 現実味を欠いて時を止める、刹那と永劫の交差する場所だ。 古城 蒔也は目を細め、辺りを見渡した。 銀の小枝と琥珀の葉が降り積もる地面を踏み出し、さくさくという小気味よい音を聴きながら一歩ずつ進む。 先ほど、視界を遮るほどに吹いた幻迷嵐は、今は収まっているらしい。 空間すら分断する作用があるのか、それとも時間の流れ方がおかしくなっているのか、先ほど自分を呼ばわった黒い夢守は現れない。 しかし、別段危険を感じるでもなく、むしろこの美しくも幻想的な景色に誘われるようにして、蒔也は奥へと踏み込んでゆく。 「もうひとりの自分……なあ?」 パラレルワールド、という概念は知っている。 例えばAを選択しBを選択しなかったのが今の自分だとして、どこか、まったく交わることのない世界には、Aを選択せずBを選択した自分がいたとしてもおかしな話ではない、と思う。 「考えてみたら、愉快な話だよな」 どこかから、金属の鈴が鳴るような、繊細で美しい音が聞こえてくる。誰から教わったわけでもないのに、小鳥のさえずりだと判った。 さくさくと、枯れた枝葉を踏みしめて進む。 白と銀と琥珀で出来た森には、蒔也以外、誰の姿も見えない。 まぶしく明るい静謐の中、純白の幹、銀の枝、琥珀の葉、幹を彩る雲母状の煌めきを愛でながら、蒔也は、いつしか純粋にこの散策を楽しんでいた。 なにせ彼は、美を解する壊し屋である。 その帰結、行き着く先に、美しいもの愛しいものをすべて破壊してしまいたいという激烈な――純粋に歪んだ熱望があるにせよ、蒔也にとってこの森は確かに美しかった。美しい風景をこの腕にかき抱き、目に映るすべてを破壊しつくしてしまいたい、その願望にあてはまる。 「さすがに、全部壊すのは苦労しそうだけどな」 世界というものの美しさに感じ入るにつけ、思い知る。 自分の弱さ、孤独なまでの矮小さを。 そして、寂しさと不安と寄る辺なさを味わい、そのうえでさらに世界の美しさに感嘆し、やはりすべてを壊してしまいたい、と、睦言のように思うのだ。 それは、蒔也にとってこのうえもない愛情表現であり、無上の賛辞でもあるのだが、彼の、その発露に眉をひそめるものも、少なくはあるまい。 蒔也は、自分の中にあるいびつなケモノを理解している。 それを誰かに押し付けようとも思ってはいない。――真実、深い深い愛を感じる、蒔也にとって価値のあるモノ以外には。 「ま、理解されたいとも思っちゃ、」 つぶやきは途中で掻き消える。 目の前を、誰かが横切っていく。 「お」 彼だ、とわけもなく確信した。 背中を丸めて歩く、無気力な横顔が目に入る。 じっと見つめる先で、青年の銀眼がこちらへ向き、胡乱に細められる。彼も、蒔也に気づいたらしかった。 「よう」 動じず、構えず、蒔也が片手を挙げると、 「……どうも」 青年は軽い会釈を返してみせた。 おそらく彼も、蒔也が自分の『何』であるか気づいたはずだ。 それゆえか、青年の、蒔也と同じ銀を宿した目に、どうしてという疑問はあっても警戒や不信はない。蒔也はそれに、なぜかとても満足した。 髪型、服装ともに小ざっぱりとした蒔也とは対照的に、青年は、中途半端に伸びた髪を手入れもせず無造作に流し、くたびれたシャツにジーンズという見栄えにもいっさいの頓着のない出で立ちだった。 「俺は古城蒔也っていうんだ」 特に気にせず、いっそ無邪気ですらある風情で名乗ると、熱を持って潤んでいるようにも見える銀眼が、だるそうに蒔也を見る。どこか卑屈でやさぐれた、世の中すべてを倦んだように見える、陽気で人懐っこい古城蒔也とは正反対の無気力な印象の男だ。 「……美原蒔也だ」 それを聞いてぴんときた。 美原とは母親の姓だ。 母は、春をひさぐ娼婦のひとりだったと聞いている。 蒔也が幼いころに死んだ実父からは、強制的に息子を押し付けて消えた女だとだけ聞いている。それ以外は何も知らないが、美原蒔也の様子から、子育てに積極的でも情熱的でもないことは察せられた。 つまるところ、彼は、『実父に引き取られず、母のもとで育った自分』なのだ。 それと同時に判ったことがあった。 ――美原はクスリをやっている。 熱っぽい目つきや定まらない焦点、だるそうな態度などがその確信に拍車をかけた。 「おまえさ、」 「おまえは、お父さんに育てられたんだな。俺とは別の俺、か」 言いかけた言葉尻をさらい、美原が言う。 蒔也は笑って頷いた。 「そういうお前はお袋に、か。お袋って、どんなやつなんだ? 俺、まったく面識がねぇからさ」 蒔也の言に、美原は顔をしかめる。 「……お綺麗なのはツラだけだ」 「ん?」 「知らないほうが幸せなこともある、ってことさ」 それ以上を語りたがらない様子から、平行世界の自身が母親を嫌っていることは明らかだった。 「嫌いなのか」 「あいつだけじゃない。世の中は醜い雑音だらけで吐き気がする。この世のすべてが嫌いだ」 端的に問うと、吐き捨てるような答えが返った。 「……それって、寂しくねぇ?」 「どうかな。寂しいなんて高尚な感情はとっくの昔に磨滅したよ。ああ……ただ、何かが壊れる瞬間だけはいい。何もかもがかき消されて、浄化されるみてぇで心地いい」 うっとりと、夢でも見ているように語る美原は、とてもまっとうな仕事をしているようには思えない。もちろん、一般的には、蒔也とてまっとうとは言えない職業に従事しているわけだが。 「おまえ、どんな仕事してんの?」 「俺か? だいたいは、お偉い政治家サンのやることなすこと気に食わねぇって連中に雇われて、そいつらの家だのクルマだの命だのをぶっ壊してるぜ? そうすりゃ、嫌いなものが壊せるうえ、日銭まで稼げるからな」 つまるところ、それは、世に言うところのテロリストというやつだ。 政治的な主張が目的ではない辺りが、普通のテロリストより厄介とも言える。 「嫌いだから壊すのか?」 「好きなものがねぇからな」 「そっか……俺は嫌いなものがねぇけどな」 「じゃあおまえはなんで壊す?」 「――好きだから」 蒔也が朴訥に言うと、美原は笑った。 「は、なるほど……そいつは最高だ」 くつくつと笑う彼に、初めて生気が宿る。 なぜ美原が笑ったのか、蒔也には手に取るように理解できた。 過ごした人生、歩んだ道、胸の内にある感情、それらのほとんどが異なるはずの美原を、蒔也は理解できた。同時に、蒔也の内実、蒔也の内面を、美原が理解しているだろうことも、彼には確信できた。 なぜこんなにも判るのか。 判らないのに、解っている。 この奇妙な充足感、安堵感はなんだろう。 「なあ」 無性に安心して、その場に座り込むと、美原も同じように腰を下ろしていた。 「ん」 銀の枝と琥珀の葉に埋もれた地面で、背中合わせのふたりは言葉なくわかりあう。 存在する世界線を違えても、根幹、根源にある、孤独で激烈な『獣』になんら変わりはないのだ。 嫌いなもの、好きなもの、いとおしいもの、うつくしいもの、醜く吐き気がするもの、きれいな音、聞くに堪えない雑音。それらすべて、壊し尽くせたなら、自分たちはきっと、このうえもなく幸福になれるだろうに。 そんなふうに思い、その至福を想像して、ふたり、くつくつと笑う。 「……なんか、思い出すな」 美原は何をとは問わなかった。 蒔也は、そんなところにも、実父を髣髴とさせる、懐かしい安らぎを覚えていた。 それは、同種の獣が身を寄せ合い、ぬくもりを得る感覚だ。 身の内に巣食う、孤独な獣を理解しあえるものが、どれだけ愛おしいか。 蒔也はそれを、砂漠に沁みこむ慈雨のように理解し、納得していた。 ――しかし愛しさは蒔也の中のスイッチを押す。 壊したい、壊すことこそが至上の愛だと叫ぶスイッチを。 「なあ」 もう一度呼ばわり、振り向いて手を伸ばす。 肩に手が触れる。 蒔也の能力では、生物である人体を爆破することは出来ない。しかし、物体である衣服を爆破し、その衝撃によって肉体を吹き飛ばすことはできる。結論から言えば、蒔也は美原を爆破できる。壊せる。壊そうと思った。そのはずだった。 だが、蒔也は能力を発動させなかった。 できなかった、の、かもしれない。 「……なんでだ?」 ぽろりとこぼれた言葉に、美原が共感の眼を向ける。 きっと彼も、同じことを考えていた。そう断言できる。 壊したくない。 それが蒔也たちの魂が出した結論だった。 なぜなのかはわからない。 何も壊していないのに、何かが満たされている理由も。 何もかもを破壊しつくさねば気が済まぬとばかりに猛り狂い、最後は自らを爆発させて死んだという、壊すために生まれてきたかのような実父が――根気や配慮とは無縁だったはずの男が、何年も、壊さずに蒔也を育てたのは、この感覚のせいなのかもしれない。そう思う。 「なあ」 「ん」 「変……だよなあ」 「……ああ」 言葉少なに、ふたりの間でだけ通じる会話を交わし、あとは黙る。 沈黙は苦痛ではなかった。 むしろ、百年寄り添った半身であるかのように、傍らの、そこにあって当然だとすら感じるぬくもりと、沈黙の中に満たされた深い理解が心地よい。 「本当に、変だ」 そのことに、もうひとりの自分も困惑しているようだった。
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