「変な気を起こすんじゃねえぞ、俺は2秒もあればお前を殺せるんだ」 目の前の人物は小さな声で呟くように言うとズズッ。アイスコーヒーを啜った。 流鏑馬明日は、無理に掛けさせられたサングラスのひどく暗い視界の中で相手を見る。ここは0世界、ターミナルの近くにある喫茶店だった。 彼女の目の前にもアイスコーヒーがあったが、今彼女は腕を動かすことが出来ず、それを飲むことは出来なかった。汗をかくグラスの側面を見つめ、彼女は意を決したように顔を上げる。「もう一回聞くわ」 淡々と言う明日。彼女は相手の能力に囚われ、身体のあちこちを麻痺させられていた。声も小さくしか出すことができない。それでも彼女は恐れることなく言った。 なぜなら──彼女は刑事だからだ。「あなたの名前は? 何故エミリエを誘拐しようとしたの?」 返答する代わりに、男はギロリとこちらを睨み返してきた。 明日の刑事の感覚をもってしても、実に犯罪者然とした男である。 年齢は30代前半ぐらい。浅黒く日焼けした肌、黒髪に瞳は黒。きちんと剃った口髭を蓄えており、壱番世界ならヒスパニック系だと思われる風貌だ。鍛えた筋肉を見せびらかすように、裸の上半身に黒革の袖なしのロングコートを着ている。 そのロングコートには、どうも武器をしこたま隠し持っているらしい。男が動くと、コートのずっしりとした質感がはっきりと分かるからだ。「ジ・オピウム」「え?」「──俺は元の世界でそう呼ばれてた」 すぐにはその通り名の意味が分からなかった。ただ明日は気付いていた。彼から何かの花の香りのようなものが漂っていることを。そしてその香りが強くなった時、自分は身体を自由に動かすことが出来なくなったのだ。「お前はナラゴニアに行くんだ。そしてドクタークランチに会う」 携帯電話のような端末を取り出しながら男は言う。明日はその会話の中にあった単語を聞き取って驚きを隠せなかった。 ナラゴニア──。世界樹旅団という敵対的勢力の本拠地のことである。そこで、敵の司令官であろう男、ドクタークランチの名前まで出てきた。「本当は世界司書の誰かを攫うつもりだった。クランチにもそう言われてる。でもお前が邪魔してきたからこうなったんだ。要はお前のせいなんだよ」「──わたしをどうするつもりなの?」「クランチに引き渡すさ」 男はつまらなさそうに端末をいじりながら答えた。「お前は、奴に部品を埋め込まれてここにまた戻ってくるんだ。……つまり旅団のスパイとしてな」 ここまで説明すりゃ、分かるだろう、とばかりに彼は明日を見た。彼女は予想もしえなかった答えを飲み込むのに精一杯で返答もできない。 ただ、一つだけ彼女は気付いた。 彼の持っている携帯端末。それに小さな鈴の付いた兎の根付けがぶら下がっていたことに。ヒスパニック系アメリカ人にしか見えない彼が、純和風の小物を持っている──。 りん、と鈴が鳴る。 その違和感を感じながら、明日は自身の考えをまとめるために目を閉じた。 * ゴーストバスターのナオト・K・エルロットは、友人の明日を探していた。 彼女が以前食べてみたいと言っていたものを、買うことが出来たからだった。焼きそばパンならぬ焼きうどんパン……。彼は嬉々としてトラベラーズノートでエアメールを送った。 だが返事がない。 エアメールは相手のいる世界がわからないと届かない。しかし彼女が世界図書館の仕事などで出かけるとは聞いていない。今日も明日は0世界にいるはずだ。だとしたら、なぜ返事が無いのか。 ──まだ寝ているのかな? ナオトは気楽に考え、0世界の空を見上げる。 パンが悪くならないうちに届けたいのだが。そう思いながら歩いていると、前から見知った男が歩いてくるのに気付いた。「やあ、エルロットくん」 スーツを着た警察官、柊木新生だった。彼はきびきびとした足取りでナオトの前までくると、邪魔しても? と目で尋ねてきた。「流鏑馬くんを見かけなかったかな?」「明日さんを? 見てないよ。実は、俺も探してるんだ」「たまには一緒にお茶でも飲もうかと待ち合わせをしていたんだが、時間になっても待ち合わせ場所に現れなくてね。トラベラーズノートや携帯で連絡を取ろうと思っても繋がらないんだ」 同じだ、とナオトは思った。この時点でようやく彼は友人の身に何か起こったのではないかと思い始めていた。 彼が顔を曇らせたのを見て、柊木も同様の考えに至ったようだった。「彼女からどこかへ行く予定だとか、そういった話は聞いていないかい?」「今日は0世界にいるはずだよ。俺もこの買ってきたパンを──」「きゃ、きゃ、きゃ、た、たたいへんー!!」 ドンッ! その時、ナオトは後ろから誰かにぶつかられ、前のめりに突っ伏した。 彼の手から飛んだ焼きうどんパンの袋は、柊木がポンとキャッチしている。「誰だよ!?」 地面から起き上がり、振り返ったナオトはそこに息を切らした世界司書──エミリエ・ミィがいることに気づくのだった。 *「明日がエミリエの代わりに連れてかれちゃったの!」 エミリエは彼女にしては珍しく、ちゃんと真面目に事情を説明してくれた。「あのねっ、エミリエはいつものお洋服を洗濯に出したんだよ。そしたらね、それをお店に忘れてきちゃったの。てへぺろでしょ? それでね明日がね、気付いてくれてね。とっても親切だからそれをエミリエのお部屋にまで持ってきてくれたの。エミリエがねありがとうって言ったら、その袋から急にお花の匂いがしてね。エミリエ気を失っちゃったの。最後にね、男の人がね走ってきてね。明日と戦ってるのが見えて──」 一気に喋って、彼女は二人の顔を見上げた。「目が覚めたら、二人ともいなくなってたの」「ええ!?」「それで何故、君は“連れてかれちゃった”と?」 驚くナオトを尻目に、柊木は冷静に尋ねる。「ドードーに聞いたら、エミリエがね、明日を連れて司書棟を出て行ったっていうから」「何それってどういうこと?」「何らかの手段で君の姿を偽装したということか」 落ち着いた様子で、柊木は二人を見た。 彼はエミリエの証言をなぞるように状況を整理した。 エミリエに届けられるはずだったものに何らかの催眠成分が仕込まれていた。それを狙って忍び込んできた謎の男と明日が戦闘になり、明日がエミリエの代わりに連れ去られた……。その男には、他者に変身する能力のようなものがあるらしい。 そうそう、そうなの! と、少女司書はうなづきながら先を続けた。「でね、導きの書にね、その男の人と明日がロストレイルに乗ってるビジョンが浮き出てきたの。しかもそのロストレイルにナレンシフって円盤がぶつかってきてね。二人はそのままナレンシフに乗ってどこかに行っちゃうの」 えっ、とナオトと柊木は驚いて顔を見合わせた。「それって……明日が、世界樹旅団に連れ去られるってこと?」「そ、そうだよね! これってきっと。きゃーだからたいへんなの!」 ジタバタするエミリエ。ナオトは彼女の両肩をしっかり掴んで真剣な面持ちになる。「ちょっと待って。その謎の男のことをもっとちゃんと話して」「うーんとね、エミリエはちゃんと話したことないけどロストナンバーの一人だよ」「知ってる人なの?」「うん」 エミリエはそう答えると、その男の容貌を説明し始めた。 彼女の言葉を聞きながら柊木とナオトは顔を見合わせた。世界図書館に所属するロストナンバーがなぜエミリエを狙う……? 「──その男なら知ってるよ」 そこで、三人の背後から、鋭く口を挟んできたものがいた。 那智・B・インゲルハイムだった。「ジ・オピウム──阿片という意味の通り名を持つ、壱番世界のニューヨークに似た世界から来た男だ。本名はゲイブ・アロ。ナイフ術に長けた殺し屋だが、自分の身体から発する匂いを利用して、他人の感覚を麻痺させたり幻覚を見せたりできる能力がある」 彼は、事も無げに説明すると、両手を広げてみせた。「そうそう、それそれ!」 エミリエが慌てて相槌を打った。「ゲイブは何回か依頼も受けてくれてるし。殺し屋だけど、なんてゆうのかなエミリエ知ってるよ、そういうの。ダークヒーローっていうやつ?」 なるほど、と頷いて柊木は改めて那智を見る。「実は、私も明日を探していてね」視線を受け、那智は冷ややかな目で警察官を見返した。「君たちが大きな声で話していたから聞こえてしまった。どうやら私の明日をゲイブが攫ったようだ」「そうだね」 深く息を吐き、柊木。「インゲルハイムくん。君はどう思う?」「彼女を世界樹旅団に渡すほど、私は寛容な男じゃないよ」 答えを聞き、柊木は安心したように微笑む。その脇で、ナオトも俺も、俺も! と声を上げている。「わ、わかった。じゃあ他のみんなにも知らせるね!」 状況が分かったところで、エミリエが自分の役目を果たすために司書棟に戻っていった。 残された三人の男は、それぞれ視線を合わせ明日の誘拐を阻止するために散っていくのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>流鏑馬 明日(cepb3731)ナオト・K・エルロット(cwdt727柊木 新生(cbea2051)那智・B・インゲルハイム(cyeu2251)=========
りん、と鈴が鳴った。 「行くぞ」 何の脈絡もなく、ふいにゲイブ・アロが立ち上がったのだ。彼は兎の根付と鈴のついた携帯端末をジーンズのポケットにねじ込む。 流鏑馬明日はその動きを目で追った。彼の姿がモヤに包まれ、すぐにエミリエに変わった。自身の能力で自分を少女に見せているのだ。 エミリエになったゲイブは明日の手を引いて立たせた。見れば、カフェの目の前に0世界を移動する路面電車──トラムが着こうとしていた。 なるほど、ターミナルに向かうのか。明日は脳裏に路線を思い浮かべる。 何事もなければ本当に自分はナラゴニアに連れて行かれてしまうかもしれない。エミリエが他の皆に知らせてくれたとしても、それが間に合うかどうか分からない。 自分は刑事だ。自分がやるしかない。 明日は心にそう決めていた。 「おい」 ゲイブが椅子に残されていたものを拾い、彼女に押し付けるようにした。それは明日のヒップバッグだった。 「何か残そうって魂胆か?」 「いいえ」 明日はしかしバッグを持たなかった。 「あなたの為よ。その中に世界図書館の発信器が入っているから」 「何だと?」 ゲイブはエミリエの姿で、バッグの中身を漁り始める。 「私は刑事だから……いつでもどこにいるか分かる様になっているの。今すぐ捨てた方がいいんじゃないかしら」 トラムが停車している。ゲイブはそれを見てチッと舌打ちした。 精査している時間を惜しんだのだろう。彼はバッグを机の下に投げ捨て、明日の腕を引いてトラムへと走っていった。 * 「彼は、なぜ世界図書館を裏切ろうとしているんだろうね」 柊木新生と、那智・B・インゲルハイムは連れ立って足早に歩いていた。目的地はターミナルだ。エミリエの予言によりそこに現れると知っていたからだ。 「僕は彼が旅団に行くのは止めないよ。何処へ行くのも彼の自由だ。だが、流鏑馬くんは返してもらいたい」 確かに。と那智は柊木の言葉に相槌を打つ。 「曲がりなりにも属していた組織、それもかなり大きなものを裏切るとなれば相当の見返りを得るのか、もしくは強い目的があるだろうね」 那智は一度、ゲイブと共に世界図書館の仕事をこなしたことがあった。気さくな男であったように記憶している。 「なるほど、見返りか。その線は有りかもしれないなぁー」 納得したように柊木は顎に手をやり続ける。「我々ロストナンバーは基本的には天涯孤独の身だ。身ひとつで異世界に来たのだから、大切なものは自分自身か、あるいは──ここに来てから得たものだろうね。そのために動いたか」 「というと?」 「つまり、今、僕たちが流鏑馬くんを助けようとしているように」 「なるほど」 那智はニヤと口端を緩めた。 「誰かのために裏切ったという推論は悪くないね。例えば、人質を取られている、とか」 その言葉に柊木は、言葉を止めじっと那智の横顔を見た。 流鏑馬明日が刑事であるなら、ここにいるこの男も同じ人種なのだった。人質という言葉に反応し、彼の目つきが変わっていた。 「インゲルハイムくん、君がゲイブ・アロについて知っていることを話してくれないか」 眉をひょいと上げ、うなづく那智。 「彼は最初にディアスポラ現象に見舞われた時、壱番世界の日本に飛ばされ、そこで世界図書館に保護されたそうだ。こっちに来てからも、たまに壱番世界に遊びに行くようなことを言っていたような気がする」 「壱番世界の日本か……」 柊木はうなづき、考え込むように視線を巡らせた。 「そう、日本だ。用事が無ければ二度も三度も行くことはないだろう」 「ということは、誰かに会いに戻っているということ、かな?」 「私も同じ意見だよ」 肩をすくめながら、那智はそう結んだ。 * 停車していたトラムが走り出した。車内には八割ほどの乗車率で、ほとんどの席に人が座っていた。皆、窓の外を見たり隣りの者と会話を楽しんでいたり。いつもと何も変わらない光景である。 エミリエに見せかけたゲイブと明日も無言で座っている。明日は乗客たちを見たが、知り合いは誰もいなかった。 「ねえ」 明日は小さな声を上げた。やろうと思えば大きな声も出せた。しかし彼女はそうはせず、隣りの男に話しかけたのだった。 「私はメイヒよ。あなたのファーストネームを教えて。呼びにくいから」 エミリエの姿で彼は面倒そうに身じろぎした。ねえ、ともう一度明日が声を掛けると、ようやく、ゲイブだ、と返事があった。 「ゲイブ……ガブリエルね」 少しだけ微笑む明日。 「あなたはそんなに悪い人には見えないわ。エミリエを攫いたかったなら、その武器で私を殺す事も出来たはずだから」 うるせえな、黙ってろ。とエミリエの姿で彼は言う。 「あなた……何か理由があって、こんな事をしているんじゃないの?」 「黙ってろって言ってんだろうがッ」 抑えた声の悪態とともに、明日の手のすぐそばにナイフが突き立てられた。その動きは素早く、彼女は目で捉えることが出来なかった。 そっとナイフから目を上げ、明日はもう一度彼の横顔を見た。 「私は別に世界樹旅団にあなたが繋がっている事を軽蔑する事も攻める事もしないわ。ただ、気になるの。旅団の人間はあなたにどんな条件を出してきたの?」 反応は無かった。しかし彼女は続ける。「どこかの世界に帰属させるとか、元居た世界を探してくれるとか?」 「くだらねえ」 ぼそりとゲイブが口を挟んだ。 「どこの世界に行こうが同じだろうがよ」 しかし明日は口元を綻ばせた。反応があったからだ。 「なら、誰かに会わせてくれるとか?」 そう言うと、ゲイブは初めて彼女の方に目線を向けた。何某かの色が瞳に浮かんでいる。 「そう、なの?」 もしや当たりか? 明日はたたみかけるように尋ねた。 「やあ! エミリエ、明日さん、ここにいたんだ」 その時に、ふいにゲイブの隣りに腰掛けてきた青年がいた。 ナオト・K・エルロットだ。 「焼きうどんパン、持ってくって約束してたのに!」 「ごめんなさい」 友人の登場に、明日は小さくだが返事をする。 「忘れ物だよ、ほら」 ナオトは明日のバッグを取り出してみせた。動物的な勘で彼女の残した手掛かりを探り当て、彼はここを突き止めたのだった。 ゲイブはというと、身体を硬直させていた。ナオトが自分のジャケットの胸元に手を入れていたからだ。明日は、その不自然な膨らみの正体に気付く。 「──動くな。この距離なら一秒でアンタを撃てる」 彼は隠した銃で、誘拐犯を狙っていたのだった。早々に気付いたゲイブは、エミリエの姿のまま、鋭い目つきで睨み返す。 「……なんてね!」 しかし急におどけた様子で、ナオトは空いた手をヒラヒラさせた。彼は小声でゲイブに囁くように言う。「知ってるよ? アンタ、向こうに亡命すんだろ? 俺さ、ホンモノのエミリエに話聞いちゃったんだよね」 「てめえ」 「待った、待った。そうじゃない。俺はあんたの味方だよ」 何か言いかけたゲイブを制するようにナオト。ちらりと明日を見る。明日は友人が何か作戦を考えていることに気付き、黙して何も言わないことにした。 「俺も実は向こう側に行きたいなと思ってたんだよ」 ナオトは秘密を話すようにそっと言った。「明日さんは友達だし、一緒に亡命しようよ。何なら俺もスパイになったっていい」 そこでようやく彼は懐の銃から手を離し、両手をゲイブに見せて微笑んだ。 「味方は多い方がいいだろ? 俺、けっこう戦えるし」 「……」 「これ、俺のトラベルギア。魔力の込められた銃だよ。あんたに渡す」 まだ信用していない様子のゲイブに、ナオトは駄目押しとばかりに銃を差し出した。 「フン」 ゲイブはエミリエの姿のまま、玄人の手つきで受け取った銃をチェックし始めた。弾倉を取り出し、弾の数を確認する。 ナオトはその隙に明日に視線を送った。人質となった友人はサングラスを掛けさせられ、表情を読むことは難しかったが、彼は、必ず、助け出すよ、と目でメッセージを送ったのだった。 そうしているうちに、ターミナルが見えてきた。 ひとまず信用してもらえたのだろうか。そう思ってナオトがゲイブを見た時。彼はあろうことか、立ち上がって先ほどの銃を構えていた。 「えええ!」 回りの乗客が気付いて、驚いて銃を構えたエミリエを見る。ゲイブはそのまま銃の引き金を引いた。 弾は出なかった。 ニヤ、とゲイブは笑い、もう一度、二度と引き金を引いた。 ──パン! パン! 乾いた音をさせて、トラムの床に二つの穴が出来た。 悲鳴を上げる乗客。運転手が異変に気付いて、電車を急停車させると、慌てた乗客たちは飛び降りるように逃げ出していく。 驚いたのはナオトだ。 おかしい、相手には弾の出ないフェイクの銃を渡したはずなのに……! 「あっ、そうか!」 彼は気がついて、床の穴を指で触った。感覚がない。これは幻覚だったのだ。 「ナオト!」 明日の声に気付いて顔を上げると、回りには誰もいない。 しまった! ナオトはトラムの窓から顔を出し、ターミナルの方に走っていくゲイブと明日の姿を確認したのだった。 * 明日は転びそうになりながら息を切らしていた。身体を麻痺されられているのに無理矢理走らされているのだ。広い空間のまばらな人影を縫って、二人は走り続ける。 「待って、足が」 声を掛けてもゲイブは振り向きもしない。その後姿が無骨な男性の姿に変わっていく。あっ、と明日は目を見張った。それは館長の執事、ウィリアム・マクケインだ。 二人はターミナルのホールへと足を踏み入れ、石階段を駆け上がった。数段登って踊り場に着いた時だ。 柱の影から、ゆらり。一人の男が横顔を見せ姿を現した。 「君はレディのエスコートの仕方を知らないようだな」 先回りしていた柊木新生である。 その右手に握られた銃の、鈍く黒い輝きが、ゲイブの足を止めた。 目が合ったその刹那、二人はパッと散るように動いた。 突然強い力で腕を下に引かれ、明日は転ぶように地面に手を着く。頭の上で、キンッという澄んだ音がする。 柊木が銃を撃ち、同時にゲイブが懐のナイフを放ったのだ。凶器は明日の頭上で火花を散らす。 「──明日、おいで。私の明日」 何が起こっているか把握しきれない中で、突然彼女の身体を誰かが助け起こした。サングラスを外され、ようやく明日は相手が友人であることに気付く。 「那智さん!」 「掴まって」 那智は明日の身体をひょいと抱き上げ、その場からすみやかに立ち去ろうとした。ここは広いが屋内だ。ゲイブの幻覚から逃れるためには外に出た方がいい。 そこでようやく、他の無関係の客達が騒ぎ始めた。 外に逃げていく者、プラットホームの方へ走っていく者。那智は振り返り、玄関口の光を見る。 「待て!」 ガツッ。 だが目の前に飛び出してきた男が、あろうことか那智の足を引っ掛け、転ばせたのだった。 「柊木さん!?」 タイルの床に投げ出される二人。那智は、こちらに向かってきた柊木が明日を乱暴に立たせるのを見て、ようやく事態に気付いた。 あれは、柊木ではない──! 「ゲイブ!」 相手の名前を呼びながら立ち上がるものの、銃弾が彼の邪魔をした。手元を撃たれそうになり、那智は身を翻すようにして、再度地面に伏せる。 撃ってきたのは“本物の”柊木だ。 騙された! 那智は悔しそうに拳を作って床を叩く。 ゲイブは自分達を見て、同士打ちになるように幻覚を掛けたのだ。きっと柊木には自分がゲイブの姿に見えていることだろう。 那智は手を挙げ、柊木に身体がよく見えるようにした。 「ヘル柊木、私だ」 気付いた柊木も銃を納め、足早に走ってきた。 が、当の二人の姿は、逃げていく数人の者たちにまぎれてしまっている。すでに判別がつく状態では無かった。 「済まない」 「いや」 短く言葉をかわす二人。 「ふ、ふたりともー、大丈夫?」 そこで、玄関口にエミリエとナオトが姿を現したのだった。 * 「手配は掛けたよ、でも、間に合わないロストレイルが」 4人は、プラットホームへ。階段を駆け上がり改札口に辿り着いた。 「6本は止められたんだけど、あと6本も運行があって、それは止められないの」 運行掲示板のところで立ち止まり、エミリエは息を切らしながら説明した。3人はめいめい運行版を見上げる。 確かに、どれもこれも発車時間まで間が無い。 「ねえ、ちょっと!」 ナオトは改札口にいた駅員を捕まえ、服の袖をぐいぐいと引っ張りながら質問する。 「ウィリアム執事か、アリッサとか……、そうでなければ、揉めているような怪しい二人組は来なかった?」 「いや、すみません。自分にはよく分かりません……」 駅員はぶるぶると首を振る。ならぱ、とナオトはエミリエを振り返った。 「世界司書でしょ? 導きの書で当ててよ」 「む、無理だよぉ、そんな便利なもんじゃないもん」 泣きそうになるエミリエ。ちょっと見せてと導きの書を見ているナオト。 そんな二人を尻目に、柊木と那智は運行版を見ながら意見を交わした。 「ここは空間としてもそれほど広くない。おそらく二人は目立たない人物に姿を変えて、ロストレイルに乗り込んだはずだ」 「ナレンシフと合流するなら、きっと予め決めている列車があるね」 「──乗客リストをチェックできないか?」 柊木と那智の要望に、駅員はエミリエが一緒にいることもあってか、すんなり応じてくれた。トラベラーズノートに似た素材で出来た冊子を開いてみると、全6本の列車の乗客がすぐに掴めるようになっている。 一方、ナオトは出発間際のロストレイルを順に見て回った。全部で6本、走れば間に合う。彼は自分の勘に頼ったのだ。 空気を肌で感じる──。 匂いでもない、視覚でもない、音でもない。彼は言葉で言い表せない“何か”を掴める自分自身の能力を意識していた。 ふと、ナオトは3本目の列車に“何か”を感じた。4両編成のヴォロス行きだ。 見たところ、かなり空き席が多いようだ。乗客は一番少ない。 これだ。 ナオトは仲間のところに戻る。 怪しい列車の最初の出発まで、あと3分。 「俺は、あのヴォロス行きだと思う。近くで調べてきた。乗客も一番少ない」 「なるほど。その根拠は?」 柊木が考え込むように尋ねてきた。ナオトは胸を張って答える。 「勘だよ」 「そうか」 柊木は苦笑したようだった。しかしそれは嫌味なものではない。 「実は私も同じ意見なんだよ。今日はエミリエの言うとおり元々12本の運行があった。その行き先を調ても、ヴォロス行きはたったの一本しかない」 彼は那智の方を見、続ける。「もし私が犯人ならこのロストレイルにするだろう」 「奇遇だね。私も同じ意見だ」 青年はニコリと微笑みながら、例の乗客リストを皆に見せた。 「あのヴォロス行きは、確かに乗客が一番少ない。しかも私の知っている人間が誰もいない」 「どういうこと?」 ナオトが不思議そうに尋ねる。 「知っている人間が誰もいないということは、異世界に赴かない人物ばかりではないかと思ったんだよ。それなら偽装しやすいだろう? つまり……」 と、那智は片目をつむってみせた。 「私も、勘で言ってるだけさ」 * ロストレイルの車内は静かだった。時空を駆ける列車はディラックの海を普段と変わらぬ様子で走っている。 ゲイブは四人掛け席を選び、明日と向かい合うように座った。 彼は兎耳を生やした青年に。明日も猫耳の女性に姿を変えさせられており、二人は何の変哲もないロストナンバーのカップルにしか見えなかった。 ゲイブは一度だけ明日を見ると、興味をなくしたように窓の外を見た。しばらく。また手持ちぶさたになったようで、鈴のついた携帯端末を引っ張りだして見始める。 「あなた、悪い人じゃないわね」 ふと、明日が口を開く。 「だって、さっきは私を盾にしたりしなかった。しかも私が撃たれないように地面に伏せさせた」 「思いつかなかっただけだ」 ゲイブは目を上げないまま答えた。ただ、その言葉には徐々に険が無くなってきている。 悪くない雰囲気だ。明日は彼の携帯からぶら下がる兎と鈴の根付けに視線を移す。 「あなたは人質を取られているんじゃないの?」 「またその話か」 そっけなくゲイブ。だが明日はめげない。 「私、このまま世界樹旅団に行ってもいいと思ってるの。もしあなたの大切な人が掴まっているのなら、一緒に助け出しましょう」 少し身を乗り出すようにすると、ゲイブも視線を彼女に戻した。 「私は本気よ」 「分かったよ、しつこいな」 とうとう根気負けしたのか、彼は居住まいを直した。「……お前はどうあっても俺が寝返った理由を聞きたいらしい」 ふわりと、花のいい匂いがした。ゲイブは窓の外を見ながら話し出す。 「人質なんかいねえよ。ただ、世話になった人が事故にあって、今、病院で苦しんでる。だからクランチに治療を頼んだ。それだけだ」 「治療、って?」 少し予想外の回答だった。明日は面食らったように聞き返した。 「俺とドクタークランチは同じ世界の出身なのさ」 淡々とゲイブは説明を続ける。 「奴はクレイジーだが、世界一の腕を持つ外科医だった。それは今でも変わらねえだろう。前の世界にいた頃、奴とつるんだことが二度、三度あったが、奴はきちんと取引に応じる男だった。会ったのは久しぶりだが、同郷のよしみもある。今回も俺が仕事をこなせば、奴は俺のために自分の腕を振るうだろう」 だから、とゲイブは明日を見た。 「もう諦めろ。お前もデカなら腹くくって、自分で奴と取引しな」 ばたん、と音がした。 アナログなドアを開けて、誰かがこの車両に入ってきたのだ。 那智だった。 彼は二人を見ると、もう一組だけ乗っていたカップルに耳打ちしてから、こちらにゆっくり歩いてきた。 カップルはそそくさと別車両に移動していき、彼は姿を変えているゲイブと明日の前に立った。 「やあ、ジ・オピウム」 椅子の背に手を掛け、微笑む那智。 「私の明日を返してくれないか」 「ああ、あんたは那智か。一度、仕事で一緒になったことがあったっけな」 他人事のように言うゲイブ。なんてことのない世間話を返すように。 「一つ聞きたいんだが、君はなぜ、世界樹旅団に手を貸そうなんて思いついたんだい?」 「なら聞くが、あんたはなんで世界図書館に?」 「そうきたか」 相手の返答に、那智は微笑んでみせた。 「特に意味は無いな。ただ私には友人というのか……気に入ってる者がこちら側に何人か居てね」 彼がそう言うと、反対側のドアが開いて二人の人物がこの車両に足を踏み入れてきた。 柊木とナオトだ。 彼らは那智と視線を交わし、黙ってその場に留まった。 「──君が、壱番世界の友人を助け出したいと思っているように」 「あと5分だ」 いきなり会話を打ち切るようにゲイブが言った。 「旅団のナレンシフがこの列車に接触する。こいつは連中への“手土産”だ」 「私の大切な友人を返してはもらえないかな?」 そこで口を挟むのは柊木だ。「どうしても旅団に行くというのなら、君ひとりで行きたまえ」 そうだ、そうだ! とナオトが背後で声を上げる。 「違うの、那智さん」 にわかに緊迫してきた中で、精一杯の声を張り上げたのは明日だった。彼女は座して動けぬまま、目で那智を見る。 壱番世界の友人。でも少し違うのだ。ゲイブに必要なのは優れた医療技術であって、ドクタークランチは必須ではない。 「彼の友人は、今病院で──」 そう言い掛けた時、突然ゲイブが慌てたように彼女の腹を殴った。椅子の背に打ちつけられ、たまらず身体をくの字に折る明日。 「何を──!」 苦しそうに呻く彼女の姿は、3人の救出者の意識を一変させた。無抵抗の女性に手を上げるとは──。その瞬間、彼らの行動を妨げるものは何も無くなっていた。 那智は懐に隠していたものをゲイブに投げつけた。 柊木は銃を抜いた。 ナオトは椅子に手を掛け、明日の方へ跳んだ。 全て一瞬の行動だった。 柊木の撃った銃弾“衝撃弾”が車内に風を巻き起こし、列車の窓を割った。 「!?」 そしてゲイブは自分の姿が元に戻っていることに気付いた。那智に投げつけられたのは、水──それもウィスキーだった。濃い酒の匂いが、彼の匂いを駆逐していく。 「タアッ!」 間髪入れず、ナオトが迫っていた。彼は一気に走りこみ、身を引いた那智に代わってゲイブに躍り掛かった。 顔に向かって蹴りを放てば、ゲイブは腕でガードしつつも、まともに食らった。しかし素早さなら彼も負けてはいなかった。いつの間にか抜き放っていた両手のナイフで、ナオトの懐を狙ってくる。 「くっ」 一戟、二戟。ナオトが背後に跳び退くと、彼は両腕を交差するようにナイフを構えた。ボックス席の入口に陣取り、明日の奪還を防ぐつもりのようだ。 ダンッ、ダンッ。 そこを柊木が狙撃した。狭い車内だが、彼の射撃は正確だった。ゲイブは身を低くして遮蔽を取ろうとしたが──間に合わない。銃弾は彼の左手にヒットし、鮮血とナイフを飛ばした。 うずくまったゲイブに、ナオトが追撃するように蹴りを放つ。柊木はそれを見越して銃撃をやめた。 逃げ場を失い、彼は明日を放棄して隣りのボックス席へ転がるように逃れた。 ナオトがそれを追い、身を低くしていた那智が明日を助けに行く。 「明日」 一方、那智は幻覚が解け、元の姿になった友人を抱きしめた。明日は驚きながらも、少しずつ身体を動かせるようになっていることに気付いた。 「大丈夫よ、那智さん」 明日は友人に礼を言いながらゲイブの方を気にしたように見やる。 「彼、壱番世界に大怪我をした友人がいるらしいの、だから治療を旅団のドクタークランチに」 「なぜ?」 「古い知り合いらしいの」 ようやく明日が事情を説明できた、その時。 ──ガコォン! ロストレイル全体が何かにぶつかったように揺らめいた。 「後ろだ!」 柊木が言い、もう一丁の銃を懐から抜く。彼は視線を巡らせると、何かを悟ったようだった。そのまま交戦中のナオトに声を掛ける。 「エルロットくん、ここは頼む」 「ええっ? 頼むって、あんたはどこに?」 ニヤと笑う柊木。彼は後方車両へと姿を消した。 ──カカカッ。 そこを狙って、ゲイブの投げナイフが椅子に刺さる。ナオトは視線を戻してそれをかわすと、滑り込むように相手に足払いを放った。 飛び退こうとしてバランスを崩し、血だらけの左手を着いて顔を歪めるゲイブ。 今だ! ナオトはその一瞬の隙をついて回し蹴りを繰り出した。渾身の力を込めた蹴りだ。 ゲイブはそのスピードに身体を合わせられなかった。 ナオトの蹴りはゲイブの頭を捉え、殺し屋は椅子に頭をぶつけて静かになった。脳震盪を起こして気を失ったのだ。 「柊木さんを助けに行きましょう」 すっかり身体を動かせるようになった明日が銃を手にする。おそらくは旅団のナレンシフが後方に迫っているのだ。柊木が一人それに対応しようとしている。 よし、とナオト。 明日とナオトが後方へと走っていく中で、しんがりを務めた那智はふと後ろを振り返った。そこには気を失って倒れているゲイブの姿がある。 彼は不自然なほど長い間、それをじっと見つめていた。 一方、柊木は車掌と運転手に的確な指示を出していた。スピードを緩めナレンシフを油断させた後、一気に加速したのだ。 ロストレイルは蛇行しながらぐんぐんとスピードを上げている。一度は拿捕されそうになっていたものの、追いすがるナレンシフから距離を取りつつあった。 柊木はというと、最後尾で仁王立ちしながら両手の銃を構えている。 大きく揺れたあの時、ナレンシフから数人がこちらに入ってきていたのだった。素早く駆けつけた柊木が最後尾の車輌で応戦して、本格的な侵入を防いだというわけだ。 「柊木さん」 3人が彼の元にやってきた。柊木は元気そうな明日の姿を見つけると、嬉しそうに頬を緩めた。 「もう大丈夫だね」 「奴は?」 聞かれてナオトが親指をビッと立てて見せる。 「作戦成功、だね?」 4人はお互いの顔を見て、微笑んだ。小さくなっていくナレンシフ。誰かがひょいと出した拳に、コツンと拳をぶつける。これで世界樹旅団との接触は無くなった。 あとは──。明日はあの殺し屋がいる方を見た。 * ゲイブ・アロは死んでいた。 あの後意識を取り戻したらしく、彼は違う車両にいた。しかし彼は真っ赤な血の海の中に倒れていたのだった。 自らのナイフで首の頚動脈をかき斬ったのか、それとも誰かにやられたのか──。大量の血を失い、彼は二度と目を開くことはなかった。 「そんな……」 言葉もなく悲しそうな顔で立ち尽くす明日。驚きながらもナオトが遺体を確認した。 「旅団の仕業かな?」 「さあ? 自ら命を絶ったのかもしれないよ」 明日の背中を、那智が慰めるように撫でている。彼の瞳は冷たく、男の亡骸を一瞥しただけだった。 「旅団にも行けなかったが、こちらにも戻れない。孤独な男の末路というわけか」 静かに言う那智。 その横顔を柊木がちらりと見た。しかし彼は小さく頭を振ると、悲しむ明日に視線を戻すのだった。 * 後日。 明日は壱番世界の日本にある病院にいた。 面会を申し込んだ病室には、老婆が目を開けたまま静かに横たわっていた。看護婦とともに明日が入ってきたのを見ると老婆は不思議そうに彼女を見る。 身寄りの少ない孤独な女性だという。 一ヶ月も前に交通事故に遭い、ずっと意識不明の状態だったのだが、昨日突然意識が戻ったのだ。奇跡的なことだそうだ。 看護婦が言う。彼女は耳が聞こえません、手話でお伝えします。 明日は、彼女の友人であるゲイブ・アロが亡くなったことを話した。そして彼が大切にしていた携帯端末に残っていた、彼女へのメールを見せる。 ──俺の知ってるやつで、すごい医者がいる。絶対にバァさんを治してみせる。 彼女の皺だらけの手の甲に、涙が一つ落ちた。 明日は兎の根付けと鈴のついた携帯端末を彼女に渡すと、静かに病室を後にしたのだった。 (了)
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