豊葦原を分断する大河さえ夥しく散り染めて、鮮やかな紅葉がゆるりと渦を描く。落ちては流れ、艶めいて身をくねらせる色彩は、世を儚んで河に身を投げた妓女の伝説の、水面に広がる衣装を思わせた。 かぼそい女の腕のように伸びた広葉樹の枝は、紅と金朱と薄緑、絢爛たる綾錦の葉を孕む。紅葉を咲かせた枝は折り重なってしなり、花の重さを保ち切れない牡丹さながらに、風に千切れては、金と赤の破片を空に舞わせていく。 この朱い世界にも、彩の衣を投げ広げる秋が訪れている。 東の大陸を統べる≪皇国≫の首都、真都(シント)に。そして、天帝の住まう東雲宮に。 だが、この秋は、不穏と波乱に満ちていた。 ――天帝が、ご乱心召された。 ――娼妓あがりの寵姫に血迷うとは、神の血筋たる一族の裔が、なんという浅ましさ。 ――あれこそが傾国の美姫。血膿の中で花開く白蓮のような、おそろしい清楚さではないか。 ――兄上。兄上。どうか、お聞き入れくださいませ。その方をお傍から遠ざけぬ限り、妾は東雲宮には戻りませぬ。 その女の素性は、定かではない。天帝がどこで見初めたのかも、誰も知り得ぬ。公娼街、朱雀縞原の娼妓であったとの噂だけが、独り歩きしていた。 わかっていることは、若くして即位し、英明をうたわれてきた現天帝が、その女を側に召してからというもの、片時も離さずに寵愛するあまり、いっさいの政務から遠ざかってしまったこと、兄帝を敬愛する妹宮『茜ノ上』が、どれほどに嘆いても諌めても耳を貸さず、それがため、とうとう茜ノ上は東雲宮から出奔し、行方知れずになったこと―― そして――重臣たち、軍部にゆかりあるもの、末端の召使いに至るまで、東雲宮に詰める人々の憎悪が、天帝を貶めたその女に向けられていたことだった。 悲劇は突然、訪れた。 紅葉のもと、宴を催していた天帝の隣で、寵姫はあっけなく、こと切れた。帝が与えた杯に口をつけた、その直後のことである。 冷たい骸をかき抱き、帝は嘆き続ける。 誰ぞ、我が半身を殺めしは。そなたか。否、そなたか。 わかっているとも。誰もがこの愛しい女を憎み、我から奪い去ろうとしていたのだ。 返せ。返せ。この女の魂を再び、我のもとへ。それがかなわぬなら、我もこの世を後にし、この女のもとへ往くとしよう。 この女が戻らぬ限り、我は誰も許さぬ。 呪いの言葉を投げたまま、天帝は寵姫の亡骸とともに、私室に閉じこもった。 ――何という浅ましさ。されど、何という、痛ましさ。「兄上の望みは、妾がかなえましょうぞ。たとえこの身が半妖と成り果てても」 寵姫の訃報と天帝のいっそうの乱心は真都中を揺るがし、そして、茜ノ上は東雲宮に帰還したのだが。 可憐な美貌を謳われた妹宮は、すでにその姿を変貌させていた。 丈なす黒髪も、淡い桜色の爪も、抜けるように白かった肌も、すべて、すべてが、朱く、染まっていた。 朱霧(アケギリ)の濃く立ちこめる場所に立ち、幾重にも纏った薄絹を脱ぎ去って、茜ノ上は三日三晩、朱の濃霧のただ中に素肌を晒したのだという。 反魂の儀を執り行う力を、手に入れるために。 「どうぞ兄上は室の外へ。妾とその方をふたりきりにしてくださいませ。誰の立ち合いも罷りなりませぬ」 剣ひとふり。鏡ニ面。比礼三種。玉四種。宝物殿の奥深くに眠る呪具『神宝十種』を、茜ノ上は天帝の私室に運ばせた。 『 一(ヒト)、二(フタ)、三(ミ)、四(ヨ)、五(イツ)、六(ム)、七(ナナ)、八(ヤ)、九(ココノ)、十(タリ) 』 『 ふるへ ゆるゆると ふるへ 』 朱に染まった少女は、そう唱えながら、比礼をゆっくりと振り動かした。 死者を蘇らせる儀式の、それが始まりであったのだが―― ++ ++ 「しばらくは、私室の扉越しに茜ノ上の詠唱が聞こえてきたらしい。だが、その声が途切れ、一時間が過ぎ、二時間が経った。しかし何も起こらない。中の様子もわからない。扉の前に待機していた天帝と重臣は、四時間経過後、しびれを切らして扉を引き開けた」 しかし、と、虎猫の司書は、感情を込めずに淡々と語る。「中には誰も、いなかったそうだ」 そこには、茜の上はいなかった。寵姫の亡骸もなかった。 ただ、十種あった神宝が、ひとつ、増えていた。 ひとふりだけだった剣が、もうひとふり。真っ赤に染まって、そこにあった。「大した不条理だ。謎はあるのかもしれない。ないのかもしれない。それさえもわからない」 ただ、天帝の乱心は皇国の乱れだから、龍王も、何とかおさめて欲しいんじゃないかな? いつもの調査とさして変わりのないことのように、猫は気だるげに言うばかりだ。 ++ ++ 天帝の慟哭に応えるように、紅葉が震える。 ――ああ。 赤い。紅い。あかい。 何もかもが、朱い。
天帝の居、東雲宮(しののめみや)。 その一角に当たる部屋は、遺体が安置されていた場所とは思えぬほど、荘厳な気配を漂わせていた。 室内だというのに朱色の霧が薄く薄く掛かり、部屋を柔らかな薄紅に染める。その出所へと目を向ければ、十の呪具にぐるり囲まれて、朱がひとふり、置かれていた。 「円を描いて置かれているのが、神宝十種か」 「神サマの宝なのに呪具なんだ? 変なの」 「命を蘇らせるための秘宝じゃろう。反魂の術なれば、呪に相違あるまい」 朱に染まった剣から立ち昇る朱。 禍々しく揺らぐそれを目の前にして、ツリスガラは僅か瞳を眇めた。 「わたしの経験からすると……非常に恐ろしく、非常に美しい剣、なのだろう」 「変な言い方だね、お姉ちゃん」 「今のわたしでは判らないからな」 隣に立つ少女――リーリス・キャロンのからかうような物言いにも表情一つ変えず応える。 朱、紅、緋。赤に属する色は人の目を強く惹きつけるとともに、譬えようのない恐怖をも呼び起こす。そう、彼女の世界の絵描きが語っていた。赤い塗料を用い、炎を意のままに操る男だった。 彼女たちの傍らでは、狐の尾を備えた小柄な童子が興味深そうにあちこちを見て回っていた。逸儀=ノ・ハイネ、かつて九尾を備えていたとされる大妖の、尾の一つが変じた式だと聞いた。――今は、中に本人が取り憑いているのだろう。 「失いしは二つ。現れたるは一つ。なるほど数が合わぬのぅ」 からかうように笑み、好奇の目を朱霧へ向ける。これほどに薄いものであれば、肺に含んでも問題がないようだ。 「この剣が寵姫の……もしくは妹君、その両方から出来ていた、と言う可能性は」 「さての」 童子の簡素な相槌を聴き流しつつ、朱に染まり、朱に煌めく刃の端から端へと目を通す。 ――この、鮮やかであり禍々しいひとふりの刃が、一人ないし二人の女からできていると? この世界がどのような摂理で動いていて、ほんとうにそのような事象が起こり得るのか、異世界の者であるツリスガラにはわからない。だが、 「道具が心を持つ事があるならば、人の体が道具になることも、またあるかもしれない」 その可能性を、夢物語と断じる事は出来ない。 それもまた、彼女の“経験”が物語っていた。 唐突に部屋のドアが開けられ、一人の男が足を踏み入れた。その背に幾人もの従者、臣下を従えて、まっすぐに旅人達の前へと歩き来る。 それが誰であるか、彼らは問わずとも理解していた。 朱色の装束に身を包んだ、倒錯した美しさを備えた人物だ。――神の末裔としての証である、朱色の鮮やかな瞳が、今だけは眼下の隈でくすんで見える。 だが、一国の帝である人物を前にしても、ツリスガラの表情は揺るがなかった。能面、あるいは鋼鉄のような、冷えた無表情のまま、問いかける。 「あなたが、瑞武皇か?」 人としての名は、帝位についた時に秘された。今や彼を呼ぶべき名はそれ一つのみだ。 異国の女の不躾な物言いに、帝の背に控える数多の官僚たちが冷えた視線を送る。中には立ちあがり声を上げようとした者もいたが、天帝の手がそれを制止する。 「我を呼び付けたのは、そなたか」 疲弊した様子を押し隠そうともせずに、ひどくつまらなさそうに、天帝は答える。その様はまるで拗ねている童のようで、――とても、一国の帝とは思えない。 「あまり長く時間を取らせるのも申し訳ない。わたしが代表して訊こう」 一度視線を巡らせて、その場の面々に同意を問う。何も言葉が帰らないのを了承と取って、彼女は切り出した。 「まずは、亡くなられた寵姫の事。彼女は、どのような女性だった?」 「どのような、とは」 「まずは名前。出自、人となり……些細な事でもいい、とにかくわたし達には情報が足りない」 天帝はは静かにその願いを受け止めて、頷く。会話ができるだけの理性は取り戻したらしい。 「名は『沙霧ノ君』。元は朱雀縞原の芸妓をしていたが、それ以上は知らぬ。あれは己の事をほとんど語ろうとしなかった」 「町の噂話は真実だったか」 「あとは、人となり、と唐突に言われても……ただ、穏やかで、気立ての良い娘であった。天帝ではなく、一個の人として、我を見ていた」 寵姫個人についての話を天帝が口にした瞬間、その背後で負の感情が一層膨れ上がった。そう、リーリスの目には見えて、唇に弧を描く。 「よっぽど好きだったんだね」 「ああ」 揶揄を含んだ言葉も、色に狂った男には額面通り受け取られてしまう。 「全てがにくい?」 「……噫」 ざわつく臣下を、魅了の一瞥で以って封じる。そのまま、魔眼を神聖なる男の顔へと注ぐ。 「全てを怨んで悪霊になる? ……なってもいいよ? そしたら私が全部食べてあげるから」 隣に立つ二人が、彼女の方へ目を向けるのが判った。彼女の言を理解できない女と、気だるげに、面倒そうに見遣る童子。――不味かろうに、と聴こえた声に思わず笑みを零した。あれと自分とでは、味覚が異なるのだろう。 「……何故、その必要がある?」 ややあって、天帝は口を開く。 訳が判らぬ、と言った目であった。確かにリーリスの魔眼を見つめておきながら、その力を物ともせぬ目であった。『神の末裔』は、名ばかりの存在ではないらしい。 「沙霧が最早戻らぬと言うのならば、あれが向かうのは『儀莱(ニライ)』であろう。譬えこの身が妖へ、悪霊へ堕ちたとて、儀莱は我を受け容れぬ」 その言葉は、先程までの廃れた呪言とは違う。確信を伴った、明瞭な物言いだった。恐らくはこちらが本来の帝の在り方なのだろう、と思わせるほどに。 「……へえ。そのニライ、って?」 「黄泉と称するのが最も適切だろう。海の彼方、空の彼方に存在する、死者の国だ」 いびつに目を煌めかせ重ねて問うたリーリスに、やはり淀みない調子で応える。そして口を閉ざし、再び先程までの厭世の色を瞳に浮かべた。 「……話を戻そう。死の直前、沙霧殿に何か変わりは見られたか?」 「特には……いや、いつも以上に塞ぎ込んでいたようにも見えた。我はそれが気にかかっている。よもや宴席の前から、何者かに毒を盛られていたのではと」 「なるほど、その可能性も有り得なくはない」 かすかに震えながらの物言いは猜疑に取り憑かれた故の妄言とも聴こえたが、それを端から斬って捨てる事はしない。可能性の一つとして受け取り、寵姫に関する問いを終えた。 「それと、最後に一つだけ」 胡乱な朱の瞳が、許すように彼女を視た。ツリスガラは頷いて、己の考えを言葉にする。 「乱心するのは良い」 冷静だが、あえて忌み語を選んだであろうその言葉に、再び天帝の背後がざわついた。しかし彼女は意に介する様子もない。 「だが、そちらは上に立つ人物ならば、いずれそれを抑えなくてはならないのでは」 疑問の為に言葉尻を上げる事さえない。淡々と、冷涼に、無表情の旅人は言葉を紡ぐ。 「どうだろうか。わたし達が真相を見つけ出せたら、その悲しみの鉾を納めてはくれないか」 その申し出は、簡潔だった。 隣に立つ童子が、片眉を上げて彼女を見上げる。幼子らしくないその仕種は、かれの主である狐の大妖を思い起こさせた。 天帝もまた、意表を突かれたように、口許を袖で隠しながらツリスガラを視る。その瞳の奥に宿る感情を見透かそうとでもするかのように。――だが、そこには何も映っていないのだろう、と、己の事ながら彼女は知っている。 「……それで、茜と沙霧が還ってくるのであれば」 頷く男の言葉は、やはり何処かが決定的に食い違っている。そう判っていながらも、真実の見えない今は正す言葉を持たなかった。 ◆ その街は、女たちの監獄。 焔纏う幻鳥の名を冠す、男たちの幻想の街。 公娼街『朱雀縞原』の大路沿いにある一軒の茶屋へ、相沢 優は情報収集のために訪れていた。 若い、初見の客を装って宴席に潜入する事には成功した。――妙に手慣れている同行者のおかげも、かなりあるのだが。 座敷には彼らと、数人の娼妓、そして演奏する芸妓たちが見られる。視線を格子窓の外へ向ければ、硝子の砂が敷き詰められた大路と、柳の形をした街燈が見える。朱硝子の天窓から射す朱色の陽に灯されて、それらは煌びやかな光を放っていた。 歌が聴こえる。姦しい笑い声が響く。《双子華》とはまた違う、華やかで賑々しい場所だ。だが、どちらにしろ居心地の悪さに変わりはなくて、座しながら肩を縮める。 それでも、知りたいと思ったのだ。 『天帝を惑わせた』と言われる娘の事を。彼女が何者なのかを。 「仮にも一国の王を狂わせた女じゃろう? 妖物の類と疑るのも無理はない」 「逸儀さん!」 いつ、隣に来ていたのか。 長い金の髪を洒脱に簪でまとめ、仕立ての良い打掛けを纏った狐妖が、くつりと唇を曲げて笑む。半獣半人、性別の無い姿を好む彼も、今だけは耳と尾を仕舞い、“妓女好みの”美丈夫の容を取っていた。 「逸儀さんは、遊女として潜入してるのかと思いました」 何気なくそう口にすれば、絶世の美丈夫は杯を傾ける手を止めて、ふむ、と考え込んだ。 「成程、それも一興」 狐面の容のごとくに瞳を細め、上機嫌でわらう。剛胆に杯を煽る、その姿にまとわりつく女たちが高い声を上げた。彼ほどの美丈夫なれば、何をしようと女の心を動かしてしまうらしい。 何処となく居心地の悪さを覚えつつ、優もまた杯に口を付けた――もちろんフリ、だ。 「じゃが、遊ぶのならばこちらの方が都合がよい」 朱の隈取りがなされた瞳を、すい、と優の方へ流す。そういうのは妓女にやってくれ、と思うも口にする度胸はない。ただ曖昧に笑んで、傍らの娘が次の酒を注ごうとするのを制した。 「あの、」 代わりに、言葉をかける。つと手を止めた妓女が、たおやかに首を傾けて優の問いを待った。 「朝霧、という名前の女性のことを、何か知っていますか?」 それは、殺された寵姫のかつての名。 優と左程歳の変わらないであろう妓女は、首を傾げたままひそやかに笑んだ。華やかなこの街、賑やかなこの座において、ひどく不釣り合いな――しかし、大輪の薔薇の中に咲き光る百合の花のような、静かな美しさを湛えて。 「ええ」 ややあって口を開いた、その声もまた穏やかで凛としている。 よかった、と声に出さずに呟いて、優は安堵に息を緩める。骨折り損に終わったらどうしようかと、少しばかり心配していたのも事実だ。 「東雲宮に行ってしまった子でしょう?」 歳が同じ頃であるからか、喋り口調も柔らかく、確認を取るように妓女は問い返した。そこまで知れているのであれば隠す必要もない、と優は頷く。 優と、彼女の座る場だけが、宴席から遠く切り離されてしまったように感じる。 「どんな人だった?」 「不思議な子だったわ。客の無い時はいつも、硝子の空を見上げて。柳燈の擦れる音が好きなんだって、窓際に座っていた。……名前の通り、いつも霧に包まれているような、そんな雰囲気の子」 二人の傍らで、絶え間なく妓女たちと会話に花を咲かせ、酒を煽る逸儀の耳が、一言も聴き漏らすまいとこちらへ向けられているのが判る。 「でも、それだけ。特に話し上手なわけでもない、ただそれだけの、やさしい子だったの」 「そう、か」 伏せられた眼に、追悼の色を見た。 だからこそ、それは嘘ではないと判る。 「いろいろありがとう。……君の名前は?」 頭を下げ、そして改めて問う。思えば、名も知らぬままに込み入った事を聞いていたのだと、今更になって申し訳なく感じた。 百合の花によく似た娘は、優の問い掛けに、もう一度ひそやかに笑った。 「奉(まつり)。……たのしかった。また来てね、優」 ◆ 東雲宮に戻ってきた優たちと入れ替わりに、ツリスガラは現場を立ち去った。擦れ違いざまに何処へ、と問えば、妹君を探しに、とだけ答えて。 「やっぱり……茜ノ上は生きてるって、ツリスガラさんもそう思ってるんだな」 「当り前だよ、そんなの」 ぽつりと落とした独り言に、喰いつくようにリーリスが応える。拗ねたような口ぶりは容貌と相俟って大変愛らしいが、その視線は何処となく揺らいでいる。 唐突に現れたひとふりの剣。 それは何の変哲もない、ただの《舞台装置》に過ぎないと思っていたのだ。愚かで愛らしい、妹君の置き土産。 実際、剣を目にするまでは、それで間違いないと確信していた。己の推理に間違いはないと。――関係者の話どころか、現場にさえも入っていないというのに、彼女はそう確信していたのだ。 それがどうだ。 あの禍々しい、忌々しい朱色は――確かに妖気を放っているではないか! 少女は冥族として己の力に誇りを持つが故に、目に見える光景を信じる他なかった。 あの剣には、朱昏という世界の根幹でもあるエネルギー『朱』が充ちている。ぼろりぼろりと毀れ、空へ向かって登っていく霧には感情らしきものも垣間見えて、リーリスの精神感応にその意味を強く訴えかける。 決して《舞台装置》などではない、彼の剣はソレ自体が《役者》の一人なのだ、と。 知らず、唇を噛む。 圧し掛かる何かを振り払うように首を振り、きっと顔を上げる。まだ確かめるべき事がある。 この部屋の何処かに、秘密の抜け穴があるはずなのだ。妹君が剣に変じるはずがないと、必ず何処かから逃げ遂せたはずなのだと、それだけは“判って”いるのだから。 責任者から借りた宮内の見取り図には、特に不自然な空間は見つからなかった。 儀式のために設えられた部屋なのだろう、室内に生活感をおもわせる家具は少なく、ただ剣状の何かを祀るための祭壇と、背の高い鏡、そして抽象画の収められた額縁だけが目立って置かれていた。そのどれを動かしてみても、背中に扉を隠し持っているなどと言ったことはない。 がたごとと、音が響く。幼い少女が身の丈以上ある家具を動かしていく様は壮観だった。 「リーリス、張り切ってるな……」 圧倒されたように呟く優の言葉も、今だけはと聞き流す。 見つけなければならないのだ。否、必ず見つかる、と、彼女は確信していた。 四方の壁は何の変哲もない。最後の望みに、天井を振り仰ぐ。 その隅の隅、網で仕切られている僅かな《通路》――通風孔を見つけ出し、ようやく少女はその愛らしい顔に笑みを浮かべた。 言葉少なに、三人はそれぞれの調査を続けている。 ふと、十の呪具の中心で剣を見下ろす青年の、その背がやけに小さく見えて、逸儀はおもむろに彼の隣へと歩み寄った。 「優。何やら難しく考えているようじゃが」 「あ、いや……どうにもやりきれないな、って」 常に明朗な彼のはっきりとしない物言いに、逸儀はその流麗な眉を上げて続きを促す。優の指先が、朱色の刃を静かになぞる。 「元々茜ノ上は、天帝の寵愛を抗議していた側なんでしょう? それがどうして、人ならざるものになってまで彼の望みをかなえようとしたのかな、って」 「ふむ」 顎に手を当て、人間の身でありながらやはり聡い子供だ、と逸儀は思う。優の言葉にも一理あった。何故茜ノ上は、己が身を堕としてまで天帝の意志に添うたのか。 「逸儀さんには、何かわかりますか?」 「判らぬ」 「即答!?」 思わぬ答えに脱力する青年に、からからと笑ってみせる。 「所詮我は妖。人の心は判らぬものよ」 何せ人とは、愛する故と嘯きながら、容易くそれを裏切る事ができる。 『逸儀』と人とは、所詮理を同じくする生き物ではないのだろう。 祭壇に昇り、通風孔の様子を確かめていたリーリスがふと、振り返って言った。 「案外、お兄さんにその剣を見せたくて、『これ以上血迷うならその刃で死になさい。それを確かめたなら私も後を追いましょう』――って言いたかったんじゃないかな?」 「うーん」 たとえ話のように口に登らせた少女の推理に、優は再び首を傾げた。その可能性もあるのかもしれない、しかし何処か腑に落ちない。 「……む」 ふと、何かを察したのか、逸儀の狐耳がピクリと動く。 「帰って来たようじゃな」 畳んだ扇を部屋の外、回廊へと向ければ、それに応じるように足音が彼らの耳にも聴こえて来た。その数からして一人ではない事を訝しく思いながらも、三人はそれを出迎える為に一度外へ出る。 「ツリスガラさん!」 戻ってきた彼女は、もう一人の女性を連れていた。 朱色のヴェールに顔を隠したその下から、長く艶やかな黒髪が、華奢な肩に流れる。白い肌は抜けるように美しく、しかしところどころに痣のような醜い赤色を散らしていた。長身のツリスガラよりも頭一つ低く、顔が隠れていながら、凛とした美しさを感じさせる女だ。 「……あの、そちらは」 「天帝の妹君だ」 何でもないことのように言う。その後ろに立つ女も、何でもないことのように笑った。 「出奔していた間の住居に戻っておられた。周囲の確認も取れている。……本物の、茜ノ上だ」 「の、ようじゃな」 逸儀の金眼が、女を鋭く射抜く。大妖の優れた鼻は、女と天帝の血縁を確かに嗅ぎ取っていた。妖に落ちたとはいえ神の血は断ち切れぬものらしく、天帝ほどではないもののやはり不味そうに見える。 「生きて、いたんですね。……どうして、隠れたりなんか」 「わたしはここへ来るまでに説明してもらったのだが……もう一度、当人の口から語ってもらうのがいいだろう」 ツリスガラの言葉を受けて、女は頷いた。 「かつて、この身は確かに妖魔へと変じました」 身を朱霧に曝し、喉を朱霧に通し、肺を朱霧に浸し、神の血を引く女は己が意志で以って妖へと落ちる事を選んだ。強く、濃い朱の力が凝縮されて、その身は一度、確かに朱に染まったはずなのに。 「ですが、あの時――呪言を唱え、沙霧ノ君に触れたとき、我が身に溜めた朱の力が全て、あの方へ流れ込んでしまったのです」 そして、朱の力は遺体を剣の形へと変えた。 半妖から人へと引き摺り戻された、憐れな女一人を残して。 「成程のぅ」 気だるげに相槌を打って、逸儀は茜ノ上から寵姫――それが変じた剣へと、視線を移した。 「『朱』は感情に左右される呪力……なれば、より強い感情が凝り固まった方へ、流れていったということかえ」 ただ献身的に兄を想う女から、都の憎悪と帝の寵愛を集め、健気にその想いに応えようとして、歪んでしまった女へ。死して尚國の憎悪を集め続ける女だ、その身に宿す想いの力も並ならぬものだったろう。 「妹君からは朱が抜け、元の姿に戻った。……一部を除いて」 ツリスガラの言葉に応じるようにして、茜ノ上が、顔を覆っていたヴェールを剥ぐ。黒い髪が流れるように散って、その顔が白日に曝される。 「茜さん、その眼……!」 優が目を瞠り、声を上げる。聴こえた方に顔を向けて、女は――眼球全てが朱に染まった瞳で、笑ってみせた。 「全て、承知の上に御座います。余計な憐憫は不要」 元は天帝のものと同じ朱色だったのだろう。それが、朱霧に曝され、無理に暴かれた。最早その瞳が光を得る事はない。 それでも微笑む女、どうしようもないやるせなさに、優はただ拳を握る。 ◆ 死した娘は剣に変じた。 最早彼女を蘇らせることは不可能だと感じた茜ノ上は、祭壇に登り、そこから天井の通風孔を潜って密室の外へと逃げ遂せたのだという。 そして、彼女はそこで口を噤んだ。 「寵姫を殺したの、お姉さんなんでしょ?」 リーリスの率直な問いにも、ただ首を傾げるのみ。己からはこれ以上語る事は無い、と言う明確な意思表示でもあった。謎の鍵を握る女は、鍵を握るゆえに口を閉ざす。 「茜ノ上が兄を止める為に寵姫を殺した。けれど思惑通りにはいかず、寵姫を剣として天帝の元にかえした……ってことなんだろうか」 リーリスの追及に乗る形で優が推理を展開するものの、やはりそれも納得できるものではない。先程、彼女は確かに姫を蘇らせるつもりでいたと、剣への変化は想定外の事態だと、そう語ったではないか。 「寵姫の命を奪ったのは、帝の杯に間違いないのかえ?」 気だるげな逸儀の声が、朱満ちる部屋に響く。赤地に金の華やかな扇を顎に宛てて、思案するように視線を巡らせる。 「そう聞いたけど」 「他でもない帝の杯に細工などできるものかの」 短く相槌を返した優に、己の推測を投げてはまた思案に口を閉ざした。 寵姫の命を奪った、毒。 「それが真実、杯から現れたのであれば――最も機会があるのは帝と、寵姫自身じゃのぅ?」 開いた扇の奥に笑いを潜ませて、かつて“僭主”と呼ばれた大妖は瞳を細めた。裏切り、悪意、呪い、呪われ、そう言ったものには慣れている。 「沙霧殿は、死の直前やけに塞ぎ込んでいたという」 「……それじゃ、まさか」 考えてみれば単純な事だ。 杯に触れたのはただ二人。帝が殺したのでなければ、後は誰が居よう? 「自殺……!?」 「酷な話じゃ。単なる人間の娘に、全てを受け止める器があろうはずもなかろうて」 臣民の憎悪と、帝の深い寵愛。その両者に挟まれ、娘は身動き一つ取れなくなっていたのではないか。呼吸もできぬほどの圧迫を覚えていたのではないか。 口許を扇で隠したまま、逸儀はその視線を黙する女へと向けた。答えを求めるのではなく、あくまで同意を得る為に。 女は静かに、口を開く。 「さて。妾は宴には出席しておりませぬゆえ、真実は知りませぬ。……話を訊くならば、もっと適した方が居りましょう」 あにうえ、と。 朱の唇が、愛おしそうに言葉を紡ぐ。 部屋の入り口で、何かを取り落とす音がした。 「茜……」 傍らに人を連れず、再び姿を見せた帝は、ただ茫然と呟きを落とす。その足元では、音の原因であろう銀の杯が転がっている。 「聞いていたんですね、全て」 咎めるような、確かめるような優の言葉にも、素直に首肯を返した。 ツリスガラの無感情な瞳が、銀の杯に落ちて、そして帝の揺らぐ瞳へと辿り着く。 「では、もうひとつだけ聞こう。その杯に、貴方は毒を盛ったのか?」 「……否」 僅かの逡巡の後、返された答え。 それがすべてだった。 誰も、一言も口を発しない。ただ明らかになった――真実かは判らないが、最もソレに近いだろうと思われる結末に、言葉を喪っている。 その中で、茜ノ上が静かに部屋の中央へと進み出た。 そこに何があるのか、判っているかのように。 死した娘を――その成れの果てを、恭しく掲げ持つ。その所作は優雅で、美しく、しかしどこか悲しいと、優にはそう見えた。 「兄上」 朱に染まった眼球が、愛しの兄を探して彷徨う。 その異様な美に気圧されて、天帝は言葉を発することを躊躇い、物言わぬ偶像のように押し黙る。 やがて、女は男を探すことを諦めた。寂しげな笑みをその朱色の唇に乗せて、何処とも知れぬ虚空へ言葉を投げる。 「沙霧ノ君を、お返しいたします」 両の手に掲げた娘を、朱色の剣を、己の前へとそっと押し出す。そこには誰も居ないというのに、彼女は気づかない。否、気づいていて何も言わぬのか。 怯える兄と、凛と立つ妹。 整った容と、崩れた異形の対比を成していながら、女こそがより美しく見えるのは、何故だろうか。 「人を愛する事は、悪い事じゃない」 穏やかで、人の心を捉える声が響く。 優の真摯で、しかし柔らかな瞳が、帝の朱色を射抜いていた。 「けどその為に自分の義務を忘れ、周囲を悲しませて……こういう結末になったのは、間違いなく貴方自身の責任でもある」 視力を失った娘が、共に旅をする仲間が、彼の言葉に耳を傾けているのが判る。だが、一度口を開いてしまえば、言葉は止め処なく流れ出るだけだった。 「沙霧ノ君は――朝霧さんは、普通の女性だったんだ。貴方からの愛を喜んで、それに応えたかっただけ。……ただそれだけの、優しいひとだった」 優しい目をした妓女が、優しい子だと、そう言った。 巨大な公娼街においても無垢さを喪わぬ女性が、天帝に見初められ、召し上げられて尚その性質を変えなかったであろう事は、想像に難くない。 「本当に愛していたなら、もっときちんと貴方は守るべきだった。都の人たちの憎しみから」 「しかし……」 「臣や民に背を向けてどうしてただ一人を愛せるのかえ?」 戸惑う天帝に、更に言葉が与えられた。金の目を物憂げに細める逸儀、その背中で、残された二尾がゆらゆらと揺れる。 「愚かで残酷な王じゃ。寵姫一人に憎悪を集めず、愛す方法が他にもあったろうに」 朗々と語りながら、茜ノ上の掲げる剣に歩み寄る。朱霧から零れる女の情念に、目を眇める。 「この有様は娘らの心そのもの」 寵姫一人ではない。それは一度、茜ノ上の呪いをも吸い上げた朱だ。なれば、ふたりぶんの心が凝り固まっているのだろう。 「まだ僅かでも気概があるなら抱えてみせよ」 それは、かつて“僭主”と呼ばれながらもひとつの国を治めていた者の言葉だ。 「知りたくはないのか」 ツリスガラの声は、やはり初めから何も変わらない。感情の変化を見せぬ、冷たい――否、温度さえも感じさせない空虚な声音だ。 「わたしなら知りたいと思う。自ら命を断った愛しき人が、死の間際に何を想っていたのか。……あくまで、わたしの経験によると、だが」 しかし、それは空虚だからこそ、天帝の耳を震わせる。 空虚だからこそ、その奥に潜む、切なる願いが心を揺るがすのだ。 やがて、それぞれの言葉に背を押されるようにして、天帝は蒼白な顔で、しかしゆっくりと歩み始めた。 やはり変異した茜ノ上の顔を視る事は出来ないのか、俯いたまま、彼女の前に立つ。俯いた男は妹がこの上なく幸せそうな笑みを浮かべた事にも気付けず、盲の女は兄が彼女の顔を見ていない事にも気付けない。お互いに大切な何かを違えたまま、兄は妹の捧げた“心”を受け取った。 「……!」 怯えたようであった貌が、唐突に色を変えた。 剣を手にしたその一瞬に、何を見たのか。 初めは驚愕、そして動揺。その波も過ぎて、残されるのは、泣きだす寸前の幼子のような歪んだ貌。 ずるずると、そのまま崩れ落ちるように座り込む。俯いた瞳から涙が止め処なく溢れ、殺しきれなかった嗚咽が次第に大きくなっていくのを、彼らはただ見下ろすしかなかった。 愛する者にするように剣を抱き締める。慈母に縋りつくように泣きじゃくる。 対峙する女は、ただ静かに立ち尽くす。兄が剣を受け取ったことは判っているはずなのに、捧げたままの手も戻そうとしない。ただ、朱に染まる眼球から、同じように朱の涙を流すのみだった。 男の抱き締める腕の中から、溶けていく剣。留まる事を知らない霧は、扉を潜り空へと還っていった。 さぎり、あさぎり、と嗚咽に混じって声が響く。 泣きじゃくる天帝を、一国の主が蹲る姿を見ているのは、異世界の旅人達だけだった。その涙が、凝り固まった憎悪や悲哀の全てを洗い流しているのだと、知っているのは。 しかし、それでいいのだろう、と優は思う。 「今だけは、彼もただの人だ。好きなだけ泣かせてあげよう」 優の言葉に、ツリスガラは頷いた。これで彼の悲しみも収まることだろうと、彼女の経験がそれを知っている。 涙が乾いて、霧が晴れて。 そしてまた、都を見通す瞳を得る頃には、施政者として立っていけるのだろうから。
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