「君たちが新しい探偵かね! 待っていたよ! ああ、待ちわびていたとも!」 奇妙なゴーグルをつけた男が両手を広げて声を張り上げた。 胸から腹にかけて大きな太極図の描かれた袍を身につけたその男は、手にしていた鍵をひとつ持ち上げ、自分の顔の前で揺らして見せながら言を続ける。「音函男の事だよ。知っているだろう? ああ、知っているとも! この店の地下にいる変飛さ! 君たち探偵が四度足を寄せて函を閉じてから、なぜか君たちの来訪はピタリと止んだ。その間に、音函男のいる暗房もすっかりかたちを変えてしまったんだ。ああ、すっかり変わったとも!」 看板には酒食という文字がかすれて記されている。風雨にさらされ続けてきたせいか、看板は傾き、壊れかけていた。 インヤンガイというまちのあちこちで目にする看板の大抵はきらびやかな電飾でごてごてと飾り付けられている。が、眼前のそれにつけられた電飾には、もう、光は宿っていない。少なくともその店がもう営業していないのであろう事は明らかだろう。「この店の主人は音函が好きだったのさ。ゼンマイで音が鳴る、あれさ。それで色々蒐集しては、いろんな音に癒されていたんだ。それでその内、自分は音函なんだと妄想するようになってしまったのさ。 男は一息にそう言うと、慣れた手つきでドアの施錠をはずした。「中でも一番気に入っていたのは音函職人が造ったものでね。職人は昔この地区に住んでいたのさ。店主は職人の遺作が喉から手が出るほどに欲しかった。だがそれはならなかったのさ。何故か? 何故かって? マフィアだよ! 君たちも知っているだろう、マフィアだよ! 連中が職人の遺作を持ってっちまったのさ。呪われた音函さ。誰も欲しがるもんか。そうだろう?」 言いながら店のドアを開く。ドアの向こうには真っ暗な闇に包まれ寒々とした空間が広がっていた。「音函の事ばかり考えて音函になってしまった店主だ。それはそれで幸せだろうが、店主が幸せであろうと、変飛となった以上、居座り続けられると暗房は広がり続けてしまう。そうだろう? 影響するんだよ。広がるんだ。それでもしもいつか暗房がこのドアから溢れ出てきたらどうする? ……変飛は封じなくてはならないのさ」 男はそう言うと鏡をひとつ持ち上げた。「変飛は鏡に封じるんだ。そうすれば暗房化している場も安定する。場が安定すれば影魂も出現しにくくなる。変飛は陰気を放つんだ。影魂どもは陰気の強い場所でしか活動できない。そうだろう?」 ◇ 暗房の内部。 外部との通信を可能とする”ターミナル”――かつては律という名の人間であったが、現在はパソコンの変飛と化してしまっているそれの前に、女がひとり立っていた。 煌びやかな袍を身にまとう、見目の麗しい女だ。齢は決して若くもないのだろうが、その容貌が女の年齢を不詳なものとしている。「……ウィーロウ」 画面に両手をつき、女はため息のように声を落とした。『ランファ』 画面の向こう、スーツに身を包んだ男が穏やかな笑みを浮かべている。質の良いスーツだ。だがそれを嫌味なく着こなしているのは、ウィーロウと呼ばれた男の見目の良さが影響しているのかもしれない。『無理はしてないか?』「ええ、大丈夫。……だいぶ調整出来るようになってきたわ。もう少しであなたが望むような変飛を造りだせそう」『影魂はやっぱりダメそうか』「影魂はダメね。あれは陰気の強い場所でしか動けないから」『そうか』「……音函の手配をしてるの。音函職人の遺作よ。音函男はあれを欲しがっていた。……試してみたいことがあって」 言って、女――ランファは小さく笑んだ。「素性の知れない探偵たちが音函男の目覚めの手伝いもしてくれたわ。陰陽師には感謝しなくては。彼は結果的に妾の手伝いをしてくれたのだもの」『無理はするな、ランファ。お前の身の安全が最優先だ』 ウィーロウの言葉にランファは頬を紅潮させる。「愛しているわ、ウィーロウ。はやくあなたの力になりたい」 ささやき、画面に指を這わせた。 画面の向こう、ウィーロウもまたランファの指に指を重ね、穏やかな笑みを浮かべていた。==!注意!==========このシナリオは企画シナリオ『【砂上の楼閣】 腑』と同じ時系列の出来事を扱っています。同企画シナリオにご参加予定の方はこのシナリオへの参加はご遠慮下さい。================
手にした鍵で閉ざされていたドアを開錠し、ドアを押し開ける。どこか緊張したような面持ちの男を前に、シーアールシーゼロが音も無く立ち、瞬きをした。 「ええと、ゼロはゼロなのです」 言って、ゼロは丁寧に腰を折る。銀色の長い髪がさらさらと音をたてて流れた。 ゴーグルで顔を隠した男の表情は、あまり判然とはしない。ただ顔の角度や向きから、ゴーグルで隠された双眸がゼロを見据えているのであろうことだけは知れた。 「気になることがあるのです」 「気になること?」 男がゼロの言を繰り返す。ゼロはうなずき、再び口を開く。 「インヤンガイは世界自体に陰気が満ちていて、そこには濃いか薄いかの差しかないように思えるのです。陽気に満ちた物品とか場所とかも実はあったりするのです?」 変飛は陰気を放ち、影魂は陰気が強いところでしか活動できない。眼前の男は確かにそう言った。けれどインヤンガイは街そのものが陰気に満ちた場所のはずだ。ならば影魂は何も暗房に限らず活動出来るはずだし、変飛も実はあちこちにいるのかもしれない。 むろん逆を言えば、ゼロの言うように、陽気に満ちた場所などがあるということになるのかもしれない。だが果たして、それはありえることなのだろうか。 男はゼロの問い掛けに対し、先ほどまではあれほどに饒舌だった口を閉ざし、わずかに視線をそらした――ようだった。 「陽気に満ちた場所など、聞いたこともない」 しぼりだすような声音で応えた男に、ゼロは再び目を瞬かせ、うなずく。 「なるほどなのですー。それと、音函男さんに会ったら、どうやって鏡に封じるのです?」 「それはわたしも……わたしも興味があったの」 ゼロの言に続いたのはほのかだった。白の小袖に緋色の小袖を羽織り合わせるという出で立ちは、特にインヤンガイにおいては珍しいものだ。 「暗房は……どう変わったの? 先にこのお店の地下に入った方々は……影魂に襲われはしなかったのよね……?」 それが最近になって出るようになったのか? 男が曰く、ほのか達がここを訪れるより前に、四人の探偵――ロストナンバーのことだろうが、とにかく訪ねてきたらしい。彼らが影魂の襲撃をうけたということはないようだし、結果的に変飛と遭遇したということもなかったようだ。だが、それでは、四人目が去った後、何らかの変化が生じたということか。 男は小さなため息をもらした後、ほのかの方に顔を向けてうなずいた。 「地下には小さな部屋があったんだ。酒樽なんかを置いておくための場所さ。それが、部屋が消えてたんだ。暗房は広いんだ。階段を下りていくと、先にあるのは地下室じゃあなく暗房なんだ」 「つまり、壁が無くなっていた?」 ツリスガラが言を紡ぐ。浅黒く滑らかな肌、短く切りそろえたピンク色の髪。見る者の劣情を誘うような豊満な躯。しかし落とされる声音は感情の波のない、淡々としたものだった。 「ああ、そうだ。壁が消えて、通路になっていたんだ」 男が応える。アラクネが片手で軽くあごを撫でながら小さな笑みを浮かべた。 「なるほどねぇ」 「そんなことより、早く行ってくれ、探偵たち。音函男を封じてくるんだ」 男は、言いながらドアの向こうに広がる店内を示す。 「急かしてすまないね、ああ、すまないと思う。だがこちらも急かされていてね」 「急かされてんだ? 誰に?」 アラクネが、前髪で隠された左目の赤をわずかに覗かせて訊ねる。ゼロはアラクネの顔を仰ぎ見た後に男へ向き直り、わずかに首をかしげた。 男は小さく喉を鳴らす。ゴーグルの奥、視線を泳がせたような気配がした。 「ゼロは暗房に入ったことがあるのですー」 のんびりとした口調でゼロが言を挟む。皆の視線が一様にゼロへ注がれた。 ゼロは語る。かつて訪れたときの暗房がどういう場所であったのか。 電気が通っていた――これはゼロより前に暗房を訪れたロストナンバーの手による結果であるらしいが――こと、迷路のような場所であったこと、壁に埋め込まれるようにして設置されてあった”ターミナル”と呼ばれるものがあったこと、それも元は人間であったらしいこと。 「ゼロは見たのです。赤い光と緑の光が点滅する場所で見た影魂と、それと女のひとがいたのです」 男がわずかに体を震わせる。ほのかがそれを見とめ、ゆるゆると視線を細めた。 「ゼロは思ったのです。影魂は誰かが作ったものなのだと」 「誰かが作った」 ツリスガラがゼロの言葉を反芻する。ゼロはツリスガラを仰ぎ見てうなずき、それから開かれたドアの向こうに視線を向けた。 「教えていただいても……いいかしら」 ほのかが口を開ける。 「変飛を封じる術……それに使う鏡ですけれど、陰陽師さまがお持ちのそれが必須なのですか……?」 「あ、ああ、いや、かまわないよ、なんでも。ああ、まるでなんの問題はないとも」 「……そうですか。ああ、でもわたし……鏡を持ってくるのを忘れていましたわ……」 取り出したのは小さな重箱だった。ほのかはそれを手に、途方にくれたような息を落とす。 「暗房と呼ばれる場所の源が邪気ならば、お米と小豆で祓えるかしらと思ったのですけど……邪気ではなく陰気なのね。……なぜ邪気だと思ったのかしら」 「へぇ。で、何を作ってきたんだい?」 アラクネがほのかの手元を覗きこむ。開かれた重箱の中には小豆餅が収められていた。 「こいつはうまそうだねぇ。後でひとつ呼ばれるとしようか。……ところで手鏡なら俺が」 「暗房の中で食べる時間はあるかしら」 言いかけたアラクネの言葉を遮って、ほのかがわずかに笑みを浮かべる。 「じゃあ、行きましょうなのです。……あ、そうなのです。鏡に封じるというのは、どうやればいいんです?」 男から鏡を受け取りながらゼロが問う。男は「ああ」とうなずいた。 「映すのさ。変飛を鏡に映して、それを変飛に見せるんだ。自分が今人間ではなく妄想していた物になっていることを知らせてやるんだ」 「それからどうするんです?」 「そうすれば変飛の内にあるもの……魂が鏡の中に吸い込まれて封じられるのさ」 応えた男の声は自信なさげにわずかに震えている。アラクネの赤い眼光が男を見やる。ツリスガラも男を横目に見やったが、礼を述べるゼロの背を押し、先導するようにして店の中へと踏み入った。 ◇ 女――ランファは暗房の中、通信を切ったターミナルのそばで、未だに残るわずかな頬の紅潮を冷ますように両手で顔を覆う。 ウィーロウのあの深い瞳で見つめられると、それだけで胸が高鳴る、まるで初めての恋を知った生娘のような気持ちだ。 熱をこめた息を落とす。それから静かに呼気を整え、ゆったりと目を閉じ天井を仰ぐ。目を開き、視線を移ろわせた。 空気がわずかに揺れている。 「フアンイングアンリン」 ランファの頬が歪みあがる。が、その口もとはすぐに扇によって隠され見えなくなった。 ◇ 決して広いとは言えない店の奥、手狭で勾配のきつい階段を下りていく。足もとを照らすものがないと下りるのも一苦労なのだろうが、アラクネが持参したランタンが仄かな光源となり、四人を無事階下まで導いた。 「普通の鏡のようなのです」 渡された鏡に自分の顔を映しながらゼロが言う。ほのかの顔が、後ろから覗きこむような格好で映りこんだ。 「……八卦鏡とかではないのね……」 呟くほのかの顔を、鏡の中のゼロが見上げる。ほのかは小さな笑みを浮かべ、ゼロの頭を撫でた。 「で? 俺が手鏡持ってるっていうの、なんで言わせなかったんだい?」 アラクネがほのかに問う。アラクネの手にはランタンの他、手鏡がふたつあった。陰陽師から鏡を借りる必要などなかったのだ。 「ええ」 ほのかは笑みを浮かべたままで振り返り、アラクネの手から手鏡をひとつ拝借してしげしげと検める。陰陽師から借りた鏡とは意匠こそ違うものの、おそらくは変哲もない普通の鏡だろう。 「変飛を鏡に封じたとして……。音函は音函よね? ……それは鏡に入るものかしら」 やんわりとした笑みを浮かべながら言を紡ぐ。 「鏡には魂を封じるだけなのだとしたら、……後に残るのはただの音函よね。……それなら、わたし、音函を持ち帰って供養をして差し上げたいと……思うのよ」 「供養?」 ツリスガラが訊ねる。ほのかはゆっくりと首肯した。 「荼毘にするか、お焚き上げか……表現に迷うところね」 言ってわずかに思案顔を浮かべたほのかの横、ゼロがほのかの言を継ぐ。 「陰陽師さんの説明は少し怪しいと思ったのです」 「怪しい? んー、ああ、まあ、そうだね」 「陰陽師さんは別件の依頼もしているようなのです。そちらでは音函の回収を依頼しているらしいのです」 「音函男が欲しがっていたという音函のことだな」 「はいなのです」 アラクネとツリスガラからの問い掛けに、ゼロはいちいち丁寧にうなずく。次いで渡された鏡をもう一度見つめて続けた。 「音函男さんはアラクネさんが用意してきたその手鏡に封じるのです」 「……そうね。それがいいと思うわ」 ほのかが賛同を示す。 アラクネとツリスガラは互いの顔を見やった後にゼロに訊ねた。 「それで、どうするんだい?」 「もしも鏡自体に変化がなくて変飛を封じたのかどうかも一目で分からないようなら、陰陽師さんから渡された鏡を陰陽師さんにお返しするのです」 「それは」 ツリスガラがわずかに表情をかたくする。が、ゼロは涼しげな顔でうなずいたのだ。 「音函男さんの魂は、信頼できるひとのところに渡すのです」 ◇ 暗房の中はゼロの説明通り、迷路のようになっていた。 見目にもひんやりとしているコンクリートの壁。間接照明のような、ぼんやりとした光源が落とされた仄暗い空間。歩き回るのには不便を要しない程度の暗さではあるが、アラクネが用意してきたランタンはやはりここでも役に立った。 ゼロは周りを見回しながら首をかしげる。 「前に来た場所と、違う場所のようなのです」 言いながら時おり壁を探る。 「壁に目印を残していたのです」 それに見る限り構造も異なっているようだ。 「……暗房は広い場所なのです?」 独り言をごちる。 例えばインヤンガイの街にならぶ建物の下に広がる地下空間。その空間が元々存在する場所であったならば。 インヤンガイは陰気で満ちた世界だ。陰気は人の住まう場所や小路に淀む。ならば、地下空間という場所は、陰気が集い淀むのには最高な条件を備えていることにもならないだろうか。 考えつつ、ゼロは再び壁に印を残す。下りてきた階段に目印を残し、進行してきた順に矢印を打つのだ。 「ところで、思うのだが」 矢印を打つゼロを見つめながらツリスガラが口を開ける。 「店主は音函をこよなく愛し、ゆえに音函になってしまったのだろう。本人がそれで満足しているなら、それはそれで幸せなのではないのかな」 「そうだねぇ。姿を変えてしまうほどに好きな音函だったのだろう? 店主は今、どんな気分なのだろうねぇ」 アラクネが応えた。 暗房に長く滞在すれば、その人物は妄想する物に姿を変えてしまうのだという。なら、自分が長く留まれば、やはり機織に姿を変えるのだろうか。考えながら、アラクネは目をすがめる。 機織となり、ずっと機織りをして生きていけるのなら、きっとそれはそれで満ち足りて楽しい生なのではないだろうか。 「アラクネさん?」 ふいにほのかの声が耳に触れて、アラクネはふと我に戻った。ほのかはアラクネの顔を覗きこむように膝を折り、アラクネの目が自分を捉えたのを確認すると、ふと静かに微笑んでうなずいた。 「店主の、音函としての音色に興味があるな」 ツリスガラは思案顔でそう告げる。 「自分の好きなものに姿を変えた。その気持ちにも興味があるが、会話ができるのかどうかもわかないしな。しかし音なら奏でられるだろう? 音函ならば」 「会話はできたのです」 矢印を打っていたゼロが肩ごしにこちらを見やって口を開けた。 「”ターミナル”に姿を変えたひととはお話したのです」 「そうなのかい? それじゃあ、物になってからも人としての意識を残しているということかな」 「それは分からないのです」 応え、ゼロは顔をあげて進行方向に視線を送る。 赤く明滅した場所は、視界に映る範囲の中にはないようだ。なら影魂はいないということか。影魂は陰気に宿る。変飛は陰気を生む。 「この辺には音函男さんはいないようなのです」 言って、ゼロは逡巡を見せることもなく歩き進む。アラクネはゼロを追いながら煙管を取り出すが、周りが密閉されていると思しき空間であるのを思い出してか、苦笑いを落とした後にしまいこんだ。 ◇ 「そうだ。思い出したのです」 突然歩みを止めたゼロに、続く三人も同じように足を止めた。 暗房に踏み入ってから、どれぐらいの時間が経っただろう。”長時間滞在すれば”とはいうが、その”長時間”とは果たしてどの程度を指すのだろうか。 とにかく、音函男はおろか、影魂らしいものにすらはち合うこともないまま、時間は無駄に過ぎていく。 ゼロが打った矢印の場所に引き返してきてしまったり、上った階段の先が行き止まりだったりもした。――端的に言えば、暗房の構造に、道に迷ってしまった、とも言うのだろう。 その中でゼロははたりと手を打ち、ぬいぐるみをひとつ、手荷物の中から取り出した。もっふりとした手触りのそれをゼロが抱えると、視覚的にはまるでそこだけが陽気に満ちた場所であるような錯覚に陥る。 「これはゼロがジャンクヘブンでいただいたものなのです」 「ぬいぐるみ?」 ツリスガラが手を伸べて、羊のかたちをしたぬいぐるみを一撫でする。ゼロはうなずき、ごそごそと動いた。 「これはじつはオルゴールなのです」 ゼロが言うと、羊のぬいぐるみからやわらかな音色が流れだした。ゼロは睡たげに目をこすりつつ、懸命に言葉を継げた。 「音函男さんは音函が好きだそうなのです。だから、音函を持参して鳴らせば、それに惹かれるなり、挑発されるなり何か特別な反応を示すかもなのです」 「なるほどねぇ」 アラクネがうなずく。 オルゴールから流れる童謡は、暗房という場所においては場違いなほどにのんびりと、やわらかな音を響かせる。 その音に頬をゆるめつつ、ほのかはゆったりと周りを見渡していた。 琥珀色のその目には見鬼の力が宿る。影鬼が害悪をなすものならば、その眼は逃すことなく見出すことが出来るのだから。 ツリスガラもまたほのかと同様、オルゴールの音を耳にしながら周りの様子を窺っていた。 音函男は自分の好きなものに変じることが出来、幸せなのではないか。考えてはみるが、ツリスガラにそれを理解することはできなかった。 少なくとも今の自分では、別のものに変じてしまうほどに心をかたむけることはできないだろう。むろんそれは自分で選択したことの結果によるものなのだが、けれど今は、それでも、心を取り戻したいと願っている。 一心に何かにこだわり続ける妄信は、妄執は、言葉は、気持ちは。――それらに触れることができればあるいは、いつかは心を戻すこともできるのではないだろうか、と。 「……あら」 オルゴールが響く中、ほのかが小さく声を落とした。 視界の先、袍を身につけた女がひとり、扇で顔の半分を覆い隠した状態で立っている。 「あ」 ぬいぐるみを抱いたまま、ゼロが目を瞬いた。 「見たことのある人なのです!」 言うが早いか、ゼロは駆け出していた。 「もしも影魂が誰かに作られているものだとしたら、きっとあの人なのです」 「根拠は?」 追いかけてきたアラクネが問う。ゼロはかぶりを振った。 「ゼロがそう思うだけなのです」 「おー、なるほどねぇ」 応え、アラクネは笑った。 ◇ 暗房にちょろちょろ出入りするようになった探偵たちが何者なのかは分からない。そんなことはどうでもいい。 ここは実験のための場所。影魂たちは陰気の恩恵を得なければ動くことはできない。薄弱とした陰気の中ではまだ動くことはできないのだ。 変飛は陰気を放つ。ならば変飛を多く生み出すことができれば、影魂もまた多く動くことができるようになるはずだ。 陰気ならば暗房の外にも、いくらでも満ちている。 外界を混乱の中に陥れるのだ。この世界のすべてを混乱の中に沈めることができれば、そしてそれを主導することができれば。 愛する男の微笑みが鮮やかに浮かぶ。 ランファは自分に気付き追いかけてきた探偵たちをしばし見据えると、きびすを返し、音函男がいる場所を目指して駆け出した。 ◇ 女を追い走り続け、角をいくつか折れた先。ゼロとアラクネの目に映りこんだのは、それまではぼうやりとした淡い光に包まれていただけだった空間から一転、まるで警告しているかのような赤を明滅させた空間だった。 ゼロが足を止める。アラクネはゼロより数歩先まで進んだところで足を止め、ゼロを振り向いた。 人形が赤い光の中で踊っている。あやつり人形、針金人形。それらが入り混ざり、繰り手もないままに踊っているのだ。そしてそれらの手には身の丈よりも長いものや短いもの、様々な刀剣が握られている。 「これは」 追いついたツリスガラが目を見張る。落としたその声はひどく小さなものだった。が、それを聞いたのか、それまで踊っているだけだった人形たちが一斉にこちらに顔を向けた。 「……音函男はその向こうです」 続き追いついたほのかが赤い光の向こうを示す。赤い光の奥は小路になっていた。その小路の端にドアがひとつついている。 「影魂って、人形かい。……人形相手じゃぁ、俺にゃあどうしようもねぇなあ」 アラクネは眉をしかめて数歩下がる。ゼロの前で一度足を止めたが、そのままゼロよりも後ろに引き下がっていった。 「その奥にいるんだな」 アラクネに替わって前に歩みでたのはツリスガラ。ツリスガラはギアである木の棒を振りかざし、指揮棒を揮うような所作で横に薙いだ。 風刃が生じ、放たれる。風刃は影魂たちの体を捉え切り裂いた。そのまま二度、三度と攻撃を加えると、人形の群れはほどなくして微塵に砕かれ、動きを止めてしまった。 女の姿はもう消えていた。影魂がすべて動きを止めたのを検めて、ゼロが再び走り出す。ほのかが示したドアを開けるのだ。 光源は未だ赤く明滅を繰り返している。その中をくぐり、ドアノブを押し開ける。 そこには決して広くはない空間が広がっていた。大きな木箱がいくつか並んでいる。その一番奥の木箱の上に、それはあった。 「酒樽や食糧の入った木箱のようだな」 手近にある木箱を軽く叩きながらツリスガラが言う。 「中身は空っぽなようだ」 「店の地下に、酒樽なんかを置いていたと……陰陽師さまが言っていたわね」 「……つまりここはあの店の地下にあったはずの部屋だ、ということか?」 肩ごしに振り向き、ほのかの顔を見つめながらツリスガラが返した。ほのかはわずかに肩をすくめる。 「っていうことは、そうさなぁ。つまり、あれかい。暗房の中は構造があやふやになっちまってる、っていう」 アラクネが口を挟む。 あの店の階段を下りた先にあったはずの部屋が、階段よりずっと離れた場所に存在している。店主が音函男に変化してしまったことと、地下室が暗房に統合されてしまったこととの間にある因果関係は定かではない。だが無関係でもないだろう。 「そういう……ことかしら」 ほのかが首をひねる。その横をすり抜けて、ゼロはまっすぐに音函の前に向かっていった。 「音函男さん、初めましてなのです。ゼロはゼロなのですー」 言いながら函の蓋に指をかける。 開かれた函の中からこぼれ出てきたのは、楽しげなワルツ曲だった。ゼロが抱えるぬいぐるみから流れる童謡はまだ続いている。 ごぼり、 どこからか、水を吐くような音がした。 ◇ 「……音函男さんはお話してくれそうにないのです」 ゼロがしょんぼりと肩を落とす。 「前に会った変飛さんとはお話できたのです。何が違うのです?」 訊ねるが、音函は応えない。ただ時おり、ワルツの音階のところどころで、水を吐き出すような音が混ざり込むだけだ。よくよく聴けばそれが男の低い唸り声なのだと知れるが、それだけだ。会話が成り立つわけでもない。 「苦しい……のかしら」 ほのかが言う。 「音函になりきれていないのかもしれないな」 続いたのはツリスガラだ。ゼロはツリスガラの顔を仰ぎ、しばし何かを思案したような顔をして、それからアラクネに視線をやって手を伸べる。 「鏡を貸してください、なのです」 「ん? ああ、そうだったなぁ」 応えつつ、アラクネは懐から手鏡をひとつ取り出し、ゼロに渡した。 「とりあえず、鏡に映してみるのです。それでダメなら、今度は合わせ鏡なのです」 幾度かうなずきながらそう言って、ゼロは音函に鏡面を向け、その姿を映し出して見せた。 ◇ 「ん? お、おお……! 戻ったか、探偵!」 店の外で四人を待ち構えていた男は、四人の姿をみとめると両手をあげて喜んだ。 「それで、首尾よくいったのだろうね?」 「……ええ」 微笑んだほのかにうなずきを返し、男は言う。 「さあ、それでは鏡を貸してくれ。封じたのだろう? ああ、これで私も長らえることができる! あとは向こうのふたりが音函を持ち帰ってくるのを待つばかりだ!」 「長らえることができる、かい?」 アラクネが問う。男は刹那動揺したような面持ちを浮かべ、それから視線を移ろわせながら、ゼロが差し出した鏡を手に、隅々までを検めている。 「音函を鏡に映してみたのです。そうしたら、」 響いたのは、パイプの詰まりが一度に通り流れていくような音だった。 むろんそれは男の声ではあったのだが、結局、会話が成り立つことはないままだった。 水音は徐々に弱まって消えていき、後にはただ、音函がそつなく鳴らす軽やかなワルツの音ばかりが残されたのだ。 「しかし、鏡面にも鏡にも異常な変化は見当たらない。……本当に封じられたのか?」 訊ねたツリスガラに、男は眉をしかめて首をかしげる。 「……お分かりではないの?」 続けて問いかけたほのかに、男はついに背を向けた。そして数歩を進んだ後、もう一度こちらを振り向き、口を開ける。 「とにかく礼を言う、探偵たち。これで私も当分は長らえることができる。何しろ依頼してきたのはマフィアだからね。音函男の封印も、音函の回収も、万が一に失敗したともなれば、明日の朝には私も無残な屍体になっているのだからね」 言って笑う男に、ゼロは小さく微笑みかける。 提げ持つバックの中、持ち帰ってきた鏡が収めてある。そして音函はほのかの懐に。 足早に去っていく男の背を送り、四人は改めて店のドアに目を向けた。 「そういえば、陰陽師さま、……鍵をしめ忘れているわ」 ほのかが呟く。 追いかけて確認しようとしてみたが、男の姿はもうどこにも見えなくなっていた。
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