「――故にあの男は焼き殺されたのだ! 何からも燃え移る事なく、己の内側から溢れた火種に喰らい尽くされて!」「笑止、我らの何処にそのような芸当を可能とする者がいる。容疑者は此処に居る者だけなのだぞ」「ギャハハハ! あんたソレダジャレのつもりッスか!?」「そもそもあなたはそれを見たのですか? 何を火種とする事もなく、彼が勝手に焼け死んだのを?」「無論」「ソレはおかしいですネ」「キミ、さっき広場には出てないって言ったじゃないか」「む……そ、そんな瑣末な事はどうでもよい! 問題は炎の要因が何かと云う――」 ――透明な鐘の音が、高く鳴り響く。「《金曜の鐘》が鳴ったわ。お客さまにはお帰りいただかなくちゃ」 少女は立ち上がり、足許に一輪だけ咲く硝子の花を踏み躙ってテーブルを回り込む。 ただひとりの《傍聴人》の前に佇んで、何かを訴えるようにその青い瞳を見上げた。「噫」 蒼白な唇から、呼気にも似た頷きが返る。「そうだな。では、約束通り、俺はこれにて失礼しよう」 ◇「――訪れたんですね、彼処を」「禁止されていなかったからな」 深く被ったフードの下、世界司書は困ったように微笑んで、開いていた書を閉じた。ガーデンテーブルの上に置かれた其れは標準的な導きの書よりもずっと小さく、黒く艶やかな革のブックカバーに収められた文庫本のようにしか見えなかった。 街中を歩く壱番世界の大学生、と云った風情の小柄で痩身な青年は、それ以上は男の行いを咎めなかった。長い前髪と、パーカーのフードと、黒縁の眼鏡の奥に厳重に隠された目が、ジャン=ジャック・ワームウッドの陶器然とした端正な横顔を見つめている。「そうですね、“彼女”が招き入れたのであれば、僕に留める理由はありません。……異様な空間だったでしょう?」「――此のターミナルを正常と捉えていいのならば、そう呼ぶしかあるまい」「確かに、正気と狂気は語り手の主観一つで容易に翻る、硬貨の表裏のようなものでしょう。だからこそ、“彼ら”にとってこの街は生き辛かった」 この街には、様々な摂理を持つ、様々な異世界の者たちが集う。 それらは決して一様に括れるモノではなく、故に世界図書館もあらゆるロストナンバーの在り方を許容しようとしているのだが――限界と云う物は、何処にでもある。「周囲にその価値観を理解されなかった人、元の世界でしか生きられない特殊な体質を持った人。様々な理由で、ターミナルで暮らすには支障があると自ら判断した人々を、“彼女”は自身のチェンバーに受け容れたのです」「そして起こった事が、殺人事件か」「ええ。しかしそれは何処ででも起こりうる事ですから。このターミナルでも、他の世界でも」「そうだな」 物静かな二人の囲むテーブルに、暫しの静寂が訪れる。 やがて、彼らの傍らで黴たビスケットを齧るオウムを捨て置いて、ジャンは静かに席を立った。「俺はこの事件の行方に興味がある。主人にも許可を取った。人を集めるが、構わないな」「彼女がそれを赦したのなら」 庭園の出口へと歩いて行く背中を、世界司書は静かな目で見送る。「――ですが、一つだけ、約束してください」 かつり、杖先が地面にぶつかって、硬質な音を立てた。 夜会服の男は視線だけで振り返り、昏く、冷えた青を世界司書に向ける。「あなたたちの訪問が、あのチェンバーに如何なる結末を招いたとしても、決して後悔しない、と」 ◇ 重厚な金属音を悲鳴のように轟かせ、訪問者たちの目の前で、その門は独り手に開いた。 “一望監視型施設(パノプティコン)”と呼ばれる壱番世界の監獄を改修したその館は、しかし人の住める場所として造り替えられた今も尚、息が詰まるほどの閉塞感を訪れた者に与えていた。 回廊に並ぶ窓はどれも嵌め殺しで、格子こそ取り払われたようだが、人が外に出られるような造りにはなっていない。「何と言うか……ホワイトタワーよりもずっと監獄らしいですね」「ねー……こんな所に、百年も引き籠ってた人たちがいるんですか……」「住めば都、と云う奴だろうか」 初めてこのチェンバーを訪問する三人が背後で言葉を交わし合うのを聞き流して、ジャンは靴の音を高く響かせ、真っ直ぐな廊下を歩いて行く。 此の監獄館は、中央に位置する広場の形に合わせて、放射状に棟が広がっている。事前に聞いた話によれば、一つの棟にひとりずつ住人が住んでいて、主の住む棟には更に二人、執事が居るとのことだった。 パノプティコンの中央、独房を一望する為の監視塔があった広場は今や、淡い色の花が咲き乱れた美しい庭園と成っていた。塔は取り払われ、代わりに小さな噴水と小川、広いテーブルが並べられている。 純白のテーブルクロスが柔らかな光を跳ね返す、十角形のその空間だけは、監獄の面影を色濃く残すこの館の圧迫感を忘れさせてくれた。「いらっしゃい、酔狂なお客さま方。約束通り、来てくれたのね!」 愛らしい澄んだ声が響く。 テーブルの一番奥に座る白いドレスの少女が、立ち上がって徐に優雅なお辞儀を送った。それに併せ、卓に座す列席者もまた、めいめいに客人へ反応を返す。或る者は軽く頭を下げ、或る者はただ一瞥だけを寄越し、また或る者は興味ひとつ寄越さず、紅茶を呷った。「さ、お坐りなさいな。《裁判》はもうすぐ始まるわ」 夢みるような微笑みで、少女は彼女の向かい――旅人たちがやってきた扉に面した、空いた席を指し示す。十角形の一辺は広く、四つの席が並んでもまだ充分に余裕を残していた。 貌を見合わせる三人の前で、ひとり夜会服の男だけが、慣れた様子でテーブルへと向かう。 ◇「百年も前の事になりますが、かつて、そのチェンバーで或る《殺人事件》が起きました」 淡々と、無意識にブックカバーの背をなぞりながら、世界司書は静かに不穏な単語を口に出した。「殺人事件?」 ジャンの呼び掛けに応えて集まった旅人たちが首を傾げるのに頷いて、青年は説明を続ける。「そのチェンバーには時間が流れません。また、事件が起きる少し前に突然、チェバーの持ち主が空間を閉じ、外部との接触を断ってしまったようで、そこの住人たちは百年の時が経った事にも――ターミナルで起きた大きな戦争にも気付かず、未だに事件の謎を《裁判》に見立てて議論し続けているようです。もちろん、その百年で住人の顔触れにも変化はありません」「えーと、時間が止まったまま、という事なら、事件の起きた現場もそのままで残っていたりしないんですか?」「もし既になくなってしまっているなら、私のトラベルギアで再現も出来ますが……」 一が疑問を口に出し、サクラがそれに応えて新たな提案をする。しかし世界司書は僅かに眉を下げて微笑み、首を横に振った。「百年間閉じていたチェンバーです。内部の状況は、僕たちにも判りません。……ジャンさんはどう思われましたか?」 つい先日チェンバーを訪れたばかりだと言うジャンに、世界司書は話を向ける。 暗い色の巻き毛の奥で、陰鬱で凍りつくかのような青い双眸が青年を捉えた。「一見して、架空の殺人をでっちあげているようだったが」 色のない唇が、色香すら感ぜられる魅力的な声を紡ぐ。「彼らにはあれが真実だ。何を騙っているつもりもない」「……そう、かもしれませんね」 ――たとえ、そこに何も残っていなくとも、と、世界司書は静かに目を細めた。 ◇「《入庭》!」 多角形のテーブルの、誰も座っていない最後の席に面した扉が、重く音を軋ませて開く。 チョッキを着た小ウサギと、大きすぎるシルクハットを傾けて被る少年とに両脇を挟まれ、一人の青年が最後の棟から姿を見せた。 コンダクターかと見紛うような、何の特徴もない、平凡な青年だった。――その衣服に付いた、派手な返り血を除いては。「彼は」「事件の《被告人》だ。一目瞭然だろう」 住人達が言うには、事件現場で血まみれで倒れていた為に容疑者として確保されたのだそうだ。そして彼自身の部屋で一刻ほど休ませ、こうして広場へ呼び出したのだと。 柔和な光を湛えた、青年の瞳が庭園に集う人々を順に見遣る。 そして、含むモノのない朗らかな笑顔を浮かべ、頭を下げた後、静かに、空いた席と扉との間にある小さなテーブルに一人着いた。執事らしきウサギと少年はテーブルを回り込み、少女の両脇に控える。「――役者は揃ったな。では、《裁判》を始める前に、もう一度事件について詳しく聞かせては貰えないか」「あら。あなたは先日聞いていたのではなくて?」「俺の為ではない、新たな客人の為だ」 既にテーブルに着いていた四人の客人の内、ジャン・ジャック=ワームウッドはこの異様な状況にも戸惑う素振りを見せず、淡々とした声音で問うた。「そうね。では少しばかり説明しましょう」 少女が軽く手を叩けば、それにいらえるようにして二人の執事が声を上げた。「この館では今、殺人事件が起きております」「死んだのはこの館の住人。ツーリストの男」「ここにはツーリストの中でもヘンなのしかいないからね」 住人の一人が言葉を挟んだのを睨むように一瞥し、帽子の少年は説明を続ける。「この館では外の時間の代わりに、時計塔の鐘を一週間に見立てて生活しております。今から二刻――《金曜の鐘》が鳴るまではこうやってお茶会を続ける決まりでして」 それは、事件が起きる前もそうだったのだと言う。「尤も、昔はお茶会の内容ももっと穏やかなモノだったのだけれど」 少女ははにかんで、ふ、と遠くを見据え、硝子のような透いた瞳に郷愁の色を乗せた。 そして、謳うように言葉を紡ぐ。 ◆ 《月曜の鐘》が鳴って、男は目覚めた。「寝ていたのは被害者の住んでいた部屋。私たちの住む棟からは、必ずこの広場を通らなければ辿り着けないわ」 《火曜の鐘》が鳴って、男は広場に姿を見せた。「我々は常にお嬢様の棟の前で広場を見張っておりますが」「被害者の姿は火曜の鐘が鳴るまでお見かけしていません」 《水曜の鐘》が鳴って、茶会が始まった。「この時には全員、揃っていたんだったな?」「居なかったら誰かが気が付くでしょうね」 《木曜の鐘》が鳴っても、楽しい茶会は続いている。「あの、この節の意味は……?」「さあ。それは御自分で考えなさいな」 《金曜の鐘》が鳴って、男は自分の棟に戻った。「これはワタシたちも同じです。それぞれ棟に戻って好きに過ごしてイマシタ」「ちなみに僕は寝てたけどね」 《土曜の鐘》が鳴って、男は眠りに就いた。「先程とは違って、お嬢様のお世話の為に一人ずつ交代で見張っていたのですが」「先程と同じく、広場を通った被害者の姿は見ておりません」 《日曜の鐘》が鳴って、男の死体は見つかった。「随分と見つかるのが早いように思えるが」「そうかしら。そうね。誰かが死体を目撃したんではなくて?」 ◆ ――少女は謳うような言葉を已め、四人をじっと見据えたまま微笑む。「これがその日起きた事の全て。百年前に死んだ憐れな男の一日よ」「全て……現場は残っていないんですか?」「残念ながら、現場も、死体も、何処かへと消えてしまったわ」「“消えた”?」「ええ。私たちが確かめた後、其処にはもう何も残っていなかったの」 何ら不思議ではない事のように紡がれる言葉。旅人たちは顔を見合わせる。「……現場はなくても、目撃証言さえあれば充分じゃありません?」 主の二辺右に座す、豪奢なドレスを纏った妙齢の女がふと聲を上げた。扇を仰ぐその掌には鮮やかな紅の鱗が貼りついている。この非常時に客を招くなど――と、僅かに苛立ちを孕んだ視線を主に向けて、女はひとつ咳払いをした。「被害者は自室で、包丁で刺されていましたわ。扉には鍵が掛かっていて、わたくしは執事たちと一緒にそれを確認した後、扉をマスターキーで開けさせました」「この館は監獄を改装したものだけど、もちろん扉は中からも鍵がかけられるように造り直されてるんだよ。一つの棟の部屋は全て同じ鍵で開け閉め出来て、たったひとつの鍵を持っているのはもちろんそれぞれの棟の住人だけ」「我ら執事の部屋にはマスターキーが一束ありますが、簡単に持ち出しできるものではありません」「そう。その一つしかない棟の鍵は、もちろん被害者自身が持っていましたね」「それってつまり、密室殺人ってことですか?」「そう。でもね、鍵を開けた時、その部屋には《被告人》が倒れていたのよ。彼にしか犯行は不可能でしょう?」「極めて明白な事件だな」「ええ」「――俺が以前訪れた際は、焼死について論じていた筈だが」 紅茶を一口傾けて、不意にジャンがそう言葉を挟む。熱し始めていた場の空気が瞬時に引き締められて、住人たちは冷水を浴びせかけられたように、一斉に客人を見た。「焼死」「ギャハハ、今度はダジャレじゃないッスね!」「そうだ、焼死だ!」 住人の中でも特に体格のいい――巨人族か何かであろう――斜視の男がテーブルを強く叩いて立ち上がる。そして、血まみれの青年を指差して、思い出したように声を荒げた。「思い出したぞ。俺は見たんだ、あの男が広場で突然燃え上がる様を! 煤だらけのあの小僧も居たから奴が犯人で間違いない! それなのに、どうしてちっぽけな刺殺体について話してるんだ?」「ソノヨウナ話は初めて聞きましたが」「まーた死体が出てきたッスか?」「死体と言えば、僕が見たのは銃で撃たれた死体だったんだけど」「まさか。被害者は廊下で首を吊って死んでたじゃないか」「嘘仰いな。わたくしの事件はどうなったの?」「……いつもこんな感じなんですか?」 突如熱を増した滅茶苦茶な論議に呆気に取られ、真正面で黙々とスコーンを齧る少女に向けて問いかければ、彼女は此方を一瞥し、にこり、と花咲くように微笑んだ。「いいえ。いつもはもう少し筋が通っているんだけれど」 透きとおった美しい色の瞳が、冷淡に議論を見つめているジャンへと向けられる。「あなたの一言で、藪を突いてしまったようね」 ジャンは少女の方へ視線を向ける事も無く、ただ無言で紅茶を傾けている。 遠く、澄んだ音色の鐘が鳴る。 少女は呆れたように一つ息を吐いて、立ち上がり、足元の硝子の花を踏み躙ると、白熱するテーブルを回って旅人たちへと歩み寄った。「このとおり、議論は一向に進まないわ。あなたたちの意見を聞かせてくれるかしら」「意見……といわれても、現場も凶器も死体もはっきりしないんじゃ、議論のしようがありませんよね」「ああ。全員の言葉があまりにも食い違っている。どれかを信頼すれば、他の全てを切り捨てる事になりかねないな」 こんな多様な言葉の中に《真実》が隠されているのかと、三人は困惑に顔を見合わせた。住人は皆、狂っているようには見えないのに、その証言たちはどうやっても噛み合わない。「いいえ、彼らの言葉を吟味してほしい訳じゃないのよ」 そして、《被告人》の座る円形のテーブルへと彼らを誘って、執事たちに卓上の準備を新しくさせた。主が移動した事にすら、住人たちは気付かない。「はじめまして、皆さん」 青年は小さく目を瞠った後、にこりと微笑んで五人を受け容れる。「あなたは議論には参加しないのか?」「おれには話せるような事は何もありませんから」 ツリスガラの問い掛けにも、穏やかに応える。この青年もまた、狂人ばかりのチェンバーとは思えないほど、理知的なように見えた。「部屋で倒れていた事以外は、何も覚えてないんです」「自分の潔白を証明する事も出来ない憐れな男よ」 呆れ、または蔑むようにそう言って、少女の白い指先が紅茶のカップを手に取る。微かに眉を下げて、青年はわらう。「それでもお茶請けくらいにはなるでしょう。……そうね、意見を出すにも、取っ掛かりが必要かしら」 少しだけ考える素振りを見せた後、少女は何かを思いついたように貌を明るくした。先程までの楽しげな笑みを消し去り、何処か大人びた、気だるげで艶やかな笑みがその唇に咲く。「じゃあ、あなたたちの計画を聞かせてほしいわ」「計画?」「被害者の行動は判っているわ。殺す機会は何処にでもある。殺す場所も、凶器も、行動を起こすタイミングも選ぶ事ができる。……さ、あなたたちならどうする?」 架空の死体を切り刻むような、冴えた言葉が旅人たちの前に投げ出された。ツリスガラは僅かに視線を眇め、それ以上は表情を変えないまま、気だるげな主を横目に見遣る。「――それは、私たちに、殺人者になれと言っているのか」「そう。あなたたちが事件の日、住人として此処に居たら? そして彼に、どうしようもない殺意を抱いていたら?」 からかうように、いざなうように、少女は微笑む。青年もまた、首を傾げたまま透明な笑みを浮かべていた。 既に被害者の行動は提示された。他の条件は自由に考えて構わないと、主は語る。 それは推理ではない。 だが、この滅茶苦茶なチェンバーの、《真実》に近づく一端にはなるのかもしれない。「さあ、聞かせてくれるかしら。――あなたたちなら、どうやってこの男を殺す?」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ジャン=ジャック・ワームウッド(cbfb3997)ツリスガラ(ccyu3668)吉備 サクラ(cnxm1610)一一 一(cexe9619)=========
『最初に一つ、確認させてください』 スケッチブックにすらすらと文字を書き連ね、吉備サクラが提言をする。テーブルの主たる少女はそれを認め、小さく顎を引いて見せた。 『ジャン=ジャックさん、この方は前回の≪被告人≫と同じ方ですか?』 指名を受け、夜会服の男は陰鬱に蒼い瞳をサクラへと向ける。そして、許しを得るように少女の貌を一瞥してから、口を開いた。 「ああ。紛れもなく」 『そう、ですか』 紙面に現れた僅かの空白が、沈黙を顕わす。考え込むサクラの前で、ジャンは白手袋に覆われた指を軽く鳴らした。 「――ギャハハ、なーに言ってんスかアンタは!」 「なっ、何がだ!」 「殺される側なら未だしも殺す側がどーして煤塗れになっちゃうんスか!」 「っこの、騒がしい鳥め、べちゃくちゃと!」 「騒がしいのは同意するけど、確かにそれはそうだね」 「ですガ、コノ庭なら焼死体と何ラカの関わりがナケレバ煤が付く事もないかと」 「そうだ、死体と同じ庭で、煤塗れになってあの小僧が倒れてたんだから、あいつしかいないだろう!」 「そうね。わたくしが見た密室に取り残されていたのもあの坊やでしたわ」 途端に滑り込む、不愉快な鸚鵡の笑い声と、熱を帯びた議論。 驚いて背後を振り返る少女らの耳に、今度は清水のように冷涼な、ジャンの声が届いた。 「どうやら、どの住人が目撃した事件でも、状況は同じようだな」 死体のあった場所に倒れている≪被告人≫。 聊か短絡的な決めつけだが、と息を吐き、ジャンは口を閉ざした。 「……それで、その確認がどうかして?」 『いえ。なんでもありません』 また、スケッチブックに空白が綴られる。 それを繰る少女もまた、口を閉ざしている。ペンを持つ指先を小さく逡巡させた後で、新しい紙を開いて文字を書いた。 『私が他人を殺すなら、それは木曜の間に相手の棟に仕掛けます』 そして、主人の奇妙な要求に応える。 『特に相手のベッドに』 スケッチブックの上に記されていく、架空の部屋の見取り図。サクラはそのまま、ベッドの脇に置かれた棚の中に小さなボウガンを書き込む。 「時限型のトリックね?」 『ええ。そうしたら、殺された人は自分で密室を作ってそこで死んでくれるでしょう? 後は見つけるだけで良いですから』 発見時のどさくさに紛れて、装置を回収すればそれでおしまい。 簡潔に、そう言い切って、サクラは筆を置いた。 『――そういえば、皆さんどうしてここへやってきたんですか?』 そして、ふと話題を切り替える。 「そうね……例えば、あの男」 少女は十角形の卓を、立ち上がって熱弁を揮う巨躯の男を指し示し、ことりと首を傾ける。 「あの男は食人鬼よ。彼にとってコンダクターは何よりの美食に見えるらしいわ」 コンダクターと同じ無力な一が、小さく息を呑んで、しかし気丈に男を見つめる。会話をしてみれば、激情しやすいだけの、真っ当な男に見えるというのに。 「そこの女はバジリスク。触れた相手を石に変える。その隣の生意気な子供は、ヴォロスで進行性の呪いを受けた。他にも、自分では制御できない虚言癖の持主もいたかしら。各々が他者に受け容れられ難いものを持つがゆえに、此処の住人はそれぞれの事情に無頓着なの」 少女の話を受けて、すらすらと、スケッチブックに綴られる疑問。 『それぞれの事情を受け容れあっているのなら、尚更、どうして殺人事件なんて、起こってしまったのでしょうか』 「さあ」 爪弾きにされてきたが故に、互いの境遇を認め合う住人たち。 話を聞くだけでは、そこに、憎悪が顕れるようには思えない。 ――静かな問い掛けに、主は首を傾げて笑った。 ◇ 「次はどなたが話してくださるのかしら」 いっそ無邪気なまでに美しい笑みで、少女は催促をする。 「……では、わたしが」 テーブルを見回して、ツリスガラが名乗り出る。 「そう。……ねえ。あなたはどうしてここへきたの?」 砂糖菓子でできた細工物のような、甘い笑みを浮かべる娘にそう問われて、ツリスガラは僅かに首を傾げて見せた。 「わたしは……そうだな」 つくりものめいたその貌は眉ひとつ動くことなく、何物にも惑わされない堅牢さがある。隣に座るジャンと並べば、まるで二つの蝋人形が並んでいるかのようで。ただ違うのは――夜会服の男が鋭利な氷を思わせるのに対し、旅人の女は何処か、燃え落ちた後の灰を彷彿とさせた。 かつてあった焔を、熾を、その空疎な裡(うちがわ)に今も残している。 「常識が通用しない場所――感情が通用しない場面に往けば、何かを得られるだろうか、と思った」 だが、思いの外にこの館は穏やかで、そして澄んでいる。 歪でありながら、その在り方を自ら受け容れている場所。 ――その現状を、さもありなん、と受け止めて、ツリスガラは凪いだ水面のような心で以って対峙する。期待には添わなかったが、それを残念に思う心さえも、虚ろな彼女には残されていない。 「そう」 無感動な相槌。 歪、狂っている、常識外れ――あらゆる言葉を聞き流して、監獄に住まう娘は頷いた。 「あなたの益になれなかったのは残念ね。……それで、計画の方は聞かせてくださるかしら?」 「そうだな……やはり、茶会という場ならば、毒殺は外せないと思う。あくまでわたしの経験によると、だが」 『経験?』 「ああ。わたしの罪ではないが」 ツリスガラの住んでいた、心の強さが力になる世界。 物語を綴り、それを力に変える者がいた。 彼は感情を形に変えるとき、必ず“推理小説”の容を取った。――彼によれば、あらゆる殺し方、あらゆるトリックにはひとつひとつ違った感情が込められているらしい。 彼ならば、この“物語”にどんな感情を籠めるだろう。 最早推測することしかできぬそれを、ツリスガラは追い求める。 「わたしが殺人を犯すなら、容疑者が絞られるような方法は使わないだろう」 云いながら、テーブルの上に視線を落とす。彼女の被るソフト帽に、視線を隠す。 薄切りの檸檬が浮かぶ紅色の海は、わずかに波を立てていた。 「殺す機会があるとすれば、茶会の後だろうが……ここは敢えて、その逆で考えてみたいと思う」 「面白いわね。続けて」 少女の催促に応え、ツリスガラは音を奏でるように、言葉を繰る。 「茶会で出された菓子か紅茶に、遅行性の毒物を混ぜておく。死に至るまでの時間を調節し、被害者が部屋に戻った後効き目が表れるようにしておけば、簡単に、容疑者の特定できない方法で彼を殺すことができるだろう」 楽器を奏でる美しい指が、カップの取っ手に触れる。そっと持ち上げれば、それは光に透かされて、ゆるりと紅色を泳がせた。――この鮮やかな色彩に、毒が混ざっていたとしたら、それはどのような感情によるものなのだろう、と“経験”を追求する。 「他の棟からも簡単に見渡せる広場や、死体を移動させる手間のかかる犯人の棟で殺すのは、あまり効率的とは言えないだろう。あくまで、私の経験によるが」 ――その行為に、何らかの意味があるのならば別の話だが。 語りながら、時折、褐色の長い指が、テーブルを叩くように空を泳ぐ。 その様はまるで、見えない楽譜を綴っているかのようだった。 (――もしも、この場で音楽を奏でることが許されたなら、私は何を捧げるだろう) ほつれ、千切れ掛けた音楽家の琴線を、爪弾いていく一筋の衝動。 それを、彼女自身は未だ、理解していないようだった。 「シンプルなトリックね。嫌いじゃないわ」 端的な言葉で以てツリスガラの推理を称え、少女はにこやかに笑う。ツリスガラは帽子を脱ぎ、胸元に当てるとひとつ軽い会釈を送った。 ◇ 「私が人を殺すなら、ですか……」 己で口にした言葉に、ぶるりと身震いをし、一一一は思わず自らの肩を抱きしめた。 「想像つかないかしら?」 「いえ……想像したからこそ、ぞっとしてしまって」 云いながら、一は其処に己自身で違和感を感じている。 ――本来の彼女であれば、死者を冒涜するような“推理”に反発さえも抱いたはずだ。それらを愉しげに語る館の主に対して、嫌悪と恐怖を感じたはずだ。 しかし、今身の内から沸き起こる震えは、それらに似ているようで、全く違う何かから来るものだと、本当は理解している。 それはきっと、此処があまりにも彼処と似ているからだ。 監獄で行われる茶会。 一つの殺人事件を題材に、繰り広げられる推理談義。 一の脳裏に、最期を看取ったばかりの男の姿が蘇る。 ――この謎を、≪あの人≫だったら、どう考えただろう? あの人を見送った今、もう一度、シュレディンガーの匣の中を夢想することは許されるだろうか。 「……この事件、複雑なように見えて、問題は一つだけだと思うんです」 無言の葛藤の末に始まった推理は、モノローグに似て。 語り始めた一が相槌を求めていないことを瞬時に悟って、館の主は微笑んだまま黙した。 「密室の鍵。つまり、此処を崩せばいいんですよね」 絡まった糸を解すように、シンプルに、問題を簡略化させていく。 感傷を削ぎ落した声は、いつしか嫌悪とは正反対の、熱を帯び始めていた。 「……ばらばらな証言。密室の鍵。死体と入れ替わりに密室内に現れた≪被告人≫。もし――もし、そのすべてに意味があったとしたら?」 水曜の茶会、そこで役割と計画が与えられた。 木曜の茶会、殺人はそこで発生した。 金曜に青年の手によって運ばれた。 土曜に眠った男は青年。 日曜に全てが発覚した“ことになった”。 「――全部、皆さんによる戯曲だったんです」 死者など存在しない。 殺人者など存在しない。 ――すべては、囚人たちが作り上げた、虚構の舞台。虚構の謎解き。 自ずから閉じられた監獄の向こうで繰り広げられる、終わりのない戯曲。それを、彼らは観劇しただけ。 「犯人を上げるとするならば、この館にいる全員です。――そして、それらを仕立てた脚本家が、密室の鍵を手配した黒子が、あなただ」 すっ――と。 翼を広げるように、持ち上げられる腕。真っ直ぐな人差し指が、一点を指し示す。 紅茶のカップを手に、楽しげな笑みで少女の糾弾を聞き届ける、この監獄の主を。 「そう、私を告発するのね」 「……はい」 何処か、熱に中てられたような茫洋とした瞳が、少女を捉える。。 「密室の鍵はあなたの館にあった。自由に持ち出せるのは執事の彼らとあなたで、この茶会を用意できたのは――ッ!?」 捲し立てるように、熱のこもった声音を次々と突きつけて――そして、ふと、一は我に返った。瞳を瞬かせ、周囲を見回して、唇を戦慄かせる。 「――すすすすみません、私ってばつい滅茶苦茶な事を――!!」 「……いいえ」 紅茶を一口含み、主人は息を吐く。 今し方告発さればかりだというのに、少女の貌には不愉快さなど微塵もなく。満足げな微笑と共に、立ち尽くす一を見上げていた。 「面白い推理を聞かせてもらったわ」 「推理……っていうよりも、妄想に近かったですよね……すみません」 髪を掻き混ぜて、乾いた笑いでやり過ごす一を、しかし誰一人として咎めることはなかった。 「やさしい娘ね。誰も殺さない結末を選んだ」 「……はい。これが、私ですから」 感嘆めいた呟きに、恥じ入りながらも胸を張って応える。幾つもの悲しみと、別離の果てに辿り着いた、一の結論。 誰も死なせない。 誰にも殺させない。 甘いと言われようが、愚かと言われようが、その決意を貫くのが、一一一だ。 『でも、私も一さんと似たような考えをしました』 「ぅえっ!?」 さらさらと言葉を綴りながら、サクラが彼女に同意を返す。よもや賛同を得られるとは思っていなかったのか、女子高生らしからぬ奇声を発した一は、しかしその後どこか嬉しそうに笑った。 「ほほ、ホントですか……!?」 『はい。毎回、住人の皆さんが持ち回りで被害者と被告人を演じてるのかなって。ジャンさんによれば違ったらしいんですが』 犯人が違うからこそ、毎回違う手口で殺されているのでは――と睨んだからこそ、初めの質問につながったようだった。 「だが、被告人はともかく、被害者は“男性”で固定なのだろう。ここの住人には女性も見受けられるが」 『あ、そうか。そうですね』 「うーん……悪い線は行ってない、と思うんですけどね……」 そこで一旦、推理は途切れる。 首を捻りあう少女たちを、館の主人は静かに、何処か柔らかなまなざしで見守っていた。 ◇ 「……最後はあなたね」 どんな物語を聞かせてくれるのかしら、と幾分か期待に弾んだ声で、少女は夜会服の男を促した。ジャンは恭しく頭を下げて、舞台上へ躍り出る役者のように、朗々と声を紡いだ。 「此処に一つの物語がある」 そう云って、男は何でもない事のように、己の胸元に手をかけた。 「ジャンさん……!?」 指先が沈み込む。仰け反る一の目の前で、陶器然とした端正な顔を崩さぬまま、男は胸を切り開いた。――その奥にあるのは、深淵にも似た空洞。 ふ、と――血の気の失せた唇が僅かに笑みを刻んだ。 「気の違った人々の集まる、茶会の始まりの話だ」 それはまるで、この庭の事を指しているようで。 しかしジャンはそれ以上の意図は語らず、言葉を続けた。 「人格を持った≪時間≫はバラバラにされ、以降茶会は時間を失くす」 「――素敵な趣向ね」 目の前で男が胸を開いても尚、驚き一つ見せなかった娘が、ようやく鮮やかな笑みと共に言葉を紡いだ。 「聞かせてくれるかしら。≪時間≫を殺した男の話を」 夜会服の男は言葉を返すことなく、ただ目礼だけでその期待に沿うた。 ――夜会服の男と、一羽の鳥は、この館の住人だった。 日曜の鐘が鳴ったその瞬間、庭園に集っていた彼らの頭上に、影が差す。 振り仰ぐ人々の目の前で、棟の屋上から落下する、人の首。 首の主が住む棟へ走った彼らは、鍵のかかった主の寝室の前で足を止める。マスターキーを持ち出して鍵を開ければ、其処には首のない死体が、血染めの寝台に横たわっていた。 被害者の棟の鍵は、首なし死体の下敷きになって見つかった。 「――バラバラ死体に、密室殺人ね? 面白いわ、独創的でロマンティック」 はしゃぐように囃し立てる少女の言葉を聞き流し、ジャンは涼しい顔で口上を述べ続ける。 「首が落下した時、住人は被害者を除く全員が庭園に居た。……一一一」 「はぃっ!?」 唐突に、名を呼ばれた。 冷徹な青の瞳に射抜かれて、自らの出番を終え菓子に舌鼓を打っていた一は思わず姿勢を正す。 「この茶会の趣旨からして、犯人が誰かは判っている事だろう。では、ジャン=ジャック・ワームウッドはどうやってこの状況下で男を殺した?」 「えっ、えーと、そんないきなり言われても……やっぱり密室の鍵がネックになってきますよね……」 「わたしには、被害者の首をどうやって持ち運んだかが重要に思えるな。鍵は、密室が破られてから置いたという可能性も考えられる」 首を捻る一に助け舟を出すように、ツリスガラが言葉を添えた。 今し方発見したという素振りで、死体の下から鍵を取り出して見せれば、あたかもそれは密室内に置き去りにされていたと見えるだろう。 「首を持ち運ぶ方法? ――あっ!」 ふと、正面の男と目が合って、一は思わず声を上げた。 「ジャンさんの胸に首を隠して持ち運べばいいんだ! それで、落とすのはその――えーと、」 「ビアンカッス!」 「そう、ビアンカさんにやってもらうとか」 「正解だ」 ジャンは頷いて、開いた胸部の中の鸚鵡がケタケタと不愉快な笑い声を上げた。 奇妙な共犯関係。自身の身体構造をギミックにしたトリック。 「もしかして、最初に胸を開いて見せたのはこのため……ですか?」 被害者の首を収める場所を示すために、とどこか不安げに一が男を窺う。 男は何も答えない。ただ淡々と鸚鵡を掴んで投げ捨て(ヒドイッスアニキ! と叫び声が聞こえたのは誰も気に留めなかった)、胸の虚を再び埋めただけだった。 疎らな拍手が、静まり返ったテーブルに充ちる。 「こんなにも素敵な事件を創り上げてくれるなんて思わなかった。流石ね」 拍手の熱量とは裏腹の惜しみない賛辞を送り、少女はジャンと、いつの間にかその胸にちょこんと収まっている鸚鵡を見上げた。 ――夜会服の男は、自らを虚構の舞台に的確に配した上で、見事に主人の提示した問いに応えて見せた。“彼ら”でなくばできない犯行。この館でこそ意味のある事件。動機。 上機嫌な少女の隣で、≪被告人≫たる青年はただ柔らかな笑みを浮かべ、彼らの話を聞いているだけだった。 ――目の前で様々な殺人計画が語られているというのに、怯えも、驚きも、愉しみもしない。 「……正気と狂気を区別して語る事こそ愚かしい」 ――ジャンのその呟きの意味を悟った者は、居ただろうか。 ◇ 「――では、」 終わらぬ議論を背中に聞き流し、テーブルに落ちた静寂を切り裂いて、ジャンが口を開いた。艶やかだが生気の欠けた声が、テーブルを囲む六人にだけ聞こえるように紡がれる。 「解答が出揃った所で、俺からも一つ、謎かけをしよう」 『謎?』 律儀に文字を書き連ねながら、サクラが問いかける。ジャンは頷いて、疑問を提示する。 「この館で死んだ“男”とは?」 問いを受けて、ツリスガラが僅かに考え込む。そして、楽器を奏でるように指先を動かしながら、其れに応えた。 「密室内で死んでいた“男”……それは、あなたではないのだろうか。≪被告人≫」 奏でられるサキソフォン、それそのもののような落ち着きのある声が、告発する。ツリスガラの正面に座る、青年を。 青年の、害のなさそうな瞳が大きく、円くなる。 「おれ……ですか?」 きょとん、と瞬きを一つし、青年はケーキを解体していた手を止めた。そのあどけない仕種と、血まみれのシャツの差異が際立つ。 ツリスガラはまた一つ頷いた。 「死体は“すべて”、あなたのものだ」 「そんな――おれはこうして、生きてるじゃないですか」 当惑に声を上げるその様子に、嘘を吐いている気配はない。 「きみは日曜の鐘が鳴ると共に、自らを被害者として殺人事件を作ってみせた。おそらくは茶会の話題を提供するために――あくまでも、わたしの経験によれば、だが」 「そう、この館では、何度も殺人が繰り返されている。被害者を同じとして」 バラバラの証言。ひとつひとつ独立しているとしか思えない事件。全く同一の被害者と被告人。 “己を被害者と容疑者にした殺人の芝居を、一人の青年が繰り返している”。 ――これらの疑問に筋を通すには、其の解釈しか存在しない。 「しかし――繰り返されているのは、本当に殺人事件だけなのか?」 無造作に、食材を切り開いていくように。 いっそ冷酷なまでに、情のない声が、或る事実を浮き彫りにさせる。 「この庭に、硝子の花が咲いていたな」 「よく覚えておいでね」 少女の座る席の足元に、一輪だけ咲いていた華奢な光の花。――彼女が立ち上がる拍子に、跡形もなく踏み躙られてしまったが、ジャンはそれを指摘し、陰鬱な色の瞳を瞼の裏に隠した。 「俺はそれを二度見た覚えがある」 先の来訪と、今回。日を開けて二度、同じ花を目にしている。 ――少女がそれを踏み躙る姿も、二度。 「何故一度壊れた花が再び咲いていた?」 少女はいらえない。 幽かな笑みを浮かべたまま、ジャンの言葉を待っている。まるで、彼が既に答えを得ている事を知っているかのように。 「この館は、時が停まっているのではない。繰り返されている。そうだな」 ――少女はいらえない。 瞳を瞬かせ、一層華やかな笑みを咲かせる。まるで、それが正解だと認めるように。 月曜の鐘が鳴ると共に、館の一週間は始まる。 そして、七つの鐘を過ごした後、再び月曜の鐘と共に時間は巻き戻されるのだ。週の始まりまで。 「進行性の呪いや、飢えならば、時間を止めるだけで事足りる。――だが、既に死んでしまった人間ならば? 時を巻き戻さなければ蘇生しないだろう」 「既に――?」 「ああ」 頷いて、冷酷なまでに鮮やかな青が、つい、と滑る。 その視界に血まみれの青年を捉え、ジャンは色香すら感ぜられる声で、更に言葉を編み上げた。 「発端が自殺か、他殺か、それは我々には判らない。だが、その男の死を契機にこの館の時は繰り返される事になった。そして、繰り返される時間の中で彼は死を選び続ける。時間が巻き戻され、死体のあった場所には息を吹き返した男だけが残っている」 血まみれの≪被告人≫として。 密室下に居ようが関係はない。初めからその部屋には、一人しかいなかったのだから。 「――そして、この館の≪時間≫を殺したのは、貴女だな」 穏やかで、冷淡な、断定。 白手袋に覆われた長い指先が、真っ直ぐに監獄の主を指し示していた。 静寂。 「……素晴らしいわ。ジャン=ジャック・ワームウッド」 そして紡がれる、たった一言の賛辞。 何かを諦めたように、瞼を閉ざして、この館の主人は微笑んでいる。 それは何よりの、肯定だった。 ◇ 青年は、ゆっくりと首を巡らせて、少女を見る。その面に表情を窺わせないまま。少女は謳うように自白する。すべての真実を。 「始まりは自殺だったわ。そこの馬鹿な男が、日曜の鐘と共に、私たち全員の見ている前で飛び降りた」 残念ながら首と胴体は繋がっていたけど、とからかうように囁いても、夜会服の男はただ一瞥を寄越しただけだった。 顔見知りの死で恐慌状態に陥った館の中、少女は一人冷静に、停めるだけだった時間を巻き戻すことを選んだ。――≪一週間≫をやり直し、青年の死を停めるために。 「何故繰り返した時の中で再び自殺を起こさせる?」 ジャンの問いを受け、少女はソーサーにカップを置いて、一つ息を吐いた。物憂げな視線を虚空に流して、独白めいた答えを返す。 「――幾ら時を戻したところで、その馬鹿が死ぬのは止められないの。理由も、犯人もその時々だわ」 時を戻しても、運命づけられた死は避けられないのだ、と少女は自嘲する。繰り返される時間の中で住人たちの記憶は入り混じり、実際には“未だ発生していない”筈の殺人事件について延々と議論を繰り返すのだという。 曖昧に記憶を保持し続けるからこそ、少しジャンが言葉を挟んだだけで、住人たちは過去繰り返された幾つもの殺人事件を思い出したのだ。 「哀れで、傍迷惑な男よ。――でも、もっと傍迷惑なのは、他ならぬこの私ね」 己が胸に手を当てて、誇るように胸を張り、小柄な少女は、瞼を閉じて笑う。 「彼らを私の我儘に巻き込んで、此の歪んだ時空に縛り続けている。それが私の罪よ」 一度でも繰り返しを止めたら、青年の死が確定してしまう。 だから、終わりがないと知っていて尚、繰り返さなければならなかった。 そう語る少女の長い睫毛は、濡れているようにも見えた。 沈黙。誰もが言葉を繰るのを止め、静謐に身を任せる中で。 ――からん、と、乾いた音が響いた。 音の主に視線が集中する。 テーブルの上に投げ出された、マジックペン。スケッチブックを抱えた少女は、視線を集めたまま、わずかに笑って見せた。 『それはどうでしょう』 彼女らしい、丁寧な文字が綴られている。館の主が驚いたように目を瞬かせ、サクラの次の言動に注視する。 『先程から、皆さんの議論を聴いていて思ったんですけど』 云いながら指し示すのは、背後の十角形のテーブルだ。館の主も、被告人も外れていたからか、議論は小康状態にあるらしい。 『皆さん、言うほどお互いを憎んでるようでも、疑心暗鬼に陥っているようにも見えなかったので。普通こういう状況なら、いつ次の殺人が起きるか、いつ誰に殺されるか、不安になるし警戒もしますよね』 サクラの言葉通り、先程までは議論をぶつけ合っていた住人たちも、今は談笑を交わしている。二人の執事がすっかり冷めてしまった紅茶を下げ、取り替えている、その姿に労いの声を掛ける様子すらあった。 その光景に、緊迫感などなく。 ただ付き合いの長い、爪弾きになったが故に互いを受け容れることを選んだ顔馴染みたちの交流があるだけだった。 『だから、皆さん、本当は全部知っているんじゃないかなって』 「え――?」 ――絶句。 文字通り言葉を失った少女の顔を覗き込むように、二人の執事がワゴンを牽きながらやってきた。 「お嬢様は隠し事が下手ですから」 「皆、主様に感謝しているのです。そんな事情で怒ったりしませんよ」 いたずらに笑う兎と少年は、ワゴンの向きを変えると、彼女を置いてテーブルの方へと戻っていった。テーブルに座る住人たちは皆、此方を見つめている。 或る者は笑顔で、或る者は苦くも不愉快ではなさそうに、或る者は呆れた息を吐きながら。 「そん、な……馬鹿な人たち……!」 唇を戦慄かせ、柔らかな芝生の上にくずおれる少女。 十角形のテーブルから、彼女を招く声がする。 ◇ ふらふらと、監獄の主たる少女が、住人たちに受け容れられてテーブルへと帰っていく。その光景を、小テーブルに着く五人が見守る。 「それで……君はどうする」 無感情な瞳を青年へと向け、ツリスガラが問いかけた。 事実を突き付けられ、当惑した様子は見られたものの、先程までと同じ静かな表情でそれを――少女の告白をも受け容れたらしき彼は、少しだけ困ったように微笑んだ。 「つまり……おれが何度も死ぬせいで、彼女と、皆を此処に縛り付けていたってことですよね」 はにかみながら、髪を掻き混ぜる。薄々、彼自身も勘付いてはいたのだろう。 「本当は、時間を巻き戻すのをやめてもらって、そのまま死を待つべきなんだろうけど……困ったな」 しかし、青年は、その答えを選べない。 ――それを、彼女が望んでいないと、知っているから。 「皆が許してくれるなら……おれは、このまま亡霊としてでも留まり続けたい」 許可を得るように、青年は四人の傍聴人を――あるいは裁判官を、窺った。 「きみがそう願うのなら、それを貫けばいいのではないだろうか」 ツリスガラの与える言葉は無情で、しかしだからこそ、迷う者の背中を突き動かすに充分だった。 『このチェンバーの在り方は、充分素敵な引きこもり方だと思いますよ』 想定していた結末とは違ったけれど、とサクラは苦く笑いながら、スケッチブックに言葉を綴っていく。その隣で、複雑な表情を見せる一は、僅かな逡巡を抱えていた。 ターミナルはあらゆる世界の、あらゆる価値観を受け容れる。 けれど此処は、其の中の爪弾き者たちが集う場所だ。 ――であれば、此処で、己の価値観は、正義はきっと通用しない。 「……多分、ここで私が何を言っても、仕方のないことだと思うんです」 深呼吸を一つ。そして一は笑って、青年の願いを見逃した。 「好きにすればいい」 監獄の繰り返しを傍観し続ける娘の真実。酷くありきたりで、不可思議な情動。 得たいものは手に入れた。 ジャンがそれ以上は何も言わないのを受けて、青年は勢いよく頭を下げる。 「皆さん、ありがとうございました」 そして、住人たちの待つ、十角形のテーブルへと走り出した。 ――監獄は再び閉じられる。 一週間の死を繰り返す≪ソロモン・グランディ≫と、彼を受け容れる人々を残したまま。 <了>
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