夢。 私にとっては、報われない日々を慰めてくれる数少ない場所。 夢の中なら、あの方は笑ってくださる。 微笑みかけ、手を取り、花を摘んで。 夢の中であの方が箏を弾けば、私はお傍で歌を歌い踊ることを許された。 否、あの方がそうして欲しいと望んでくれた。 夢の中なら、あの方と私を隔てるものは何もなかった。 だってそれは、夢の中だから。 だけど、ふと思う。 あの方に嫁いでからの時間、私はあの方の笑顔を見たことが無い。 知らないものを夢に見るほど恋焦がれ、望んでいただけなのかもしれない。 それでも、夢の中のあの方は、私の望む幼稚な想像の産物とは思えないほどに、自然な笑みを向けてくださる。私はもしかしたら……あの方の笑顔を、お優しいお心ざしを、どこかで知っているのかもしれない。 ……分かっている、そう、思おうとしているだけなのだと。 拭い去れない想いはいつまでも、私の目をふさいで離さない。 だから、知りたい。 ◆ 神託の都・メイム。この街で竜刻が見せた夢は、未来を指し示す道標となる。わずかでもと光を求める人々でごった返すこの街並み、一人歩くリンシンの姿はどこか心細げであった。夢占の街として名高いここを訪れはしたが、その心はいまだ半信半疑といった具合に揺れている。無理もなかろう、長らく彼女にとって夢とは、つらい現実から目を背け、ささくれだった心を覆ってくれる甘やかな薄絹でしかなかったのだから。 かつてリンシンの住んでいた国にも、夢占は存在した。だがそれは瑞兆や凶兆とされる事物がいくつか定められている程度で、夢から醒めたその日一日を機嫌よく過ごせるかそうでないか程度の影響しか無いものだった。だがここメイムでは夢を読み解くだけで食べていける者たちが大勢居る……その様子を不思議そうに眺め、リンシンは目についた石造りの建物に足を踏み入れる。 「それでは、身体を横たえてゆっくりと深呼吸をしてください。目を閉じて、そう、力を抜いて気を楽にね」 介添人でもある占師に言われるまま、リンシンは目を閉じかつて毎夜そうしていたように、現実では届けられぬ想いを夢の中の夫に託しに行くように、夢の道程を独りゆっくり沈んでゆく。 __逢えますように 本当に未来が見られるのなら。 帰りたいところがある。夢はその場所を映し出してくれるのだろうか。 もしも、帰れるのなら。 向き合いたい人がいる。夢はその人に逢わせてくれるのだろうか。 もしも、逢わせてくれるのなら。 そこから先は、眠気が夢の扉をそっと開けたせいで言葉に出来なかった。 知らずと胸の前で組んだ指は、何を祈るのだろう。 ◆ 聞き覚えのある小鳥のさえずり。 頬を撫でる朝のしっとりとした空気、朝露の匂い。 瞼の向こうでほんのりと白むのは蚊帳越しの朝日だろうか。 確か、自分は夢見の館の……薄紫色の天幕の中で眠りについたはず。 「貴妃様、おはようございます。今日もよい陽気でございますよ」 しゃら、しゃら、と蚊帳を引き開ける音。 介添えの占い師によく似た声、だが違う言葉遣い。違和感から返事はせずに身体を起こし瞳を開け……広がった光景に、ただ息を呑んだ。 「ここは……」 花蝶宮。 この場所を、忘れるわけがない。 __嗚呼、夢なのね そうだった、自分はこの夢を見る為にメイムを訪れ眠りに落ちたのだった。それを自覚した途端、言いようのない安堵感が身を包む。 「(……私……ここに帰ってくることが出来るのね……)」 この夢は、いつかこの宮で見ていたそれとは違う。 望むなら、背中を押してくれる。 「貴妃様? ……まだお身体がすぐれませんか?」 「! いえ、違うの……大丈夫よ、私は大丈夫」 夢の中の未来が現実になったなら、自分はこんな時どう言うのだろう。女官に心配をかけまいと取り繕った笑顔はうまく作れているのか、すこし不安になった。 「それならばようございました。どうか一日でも早く、帝にお健やかなお姿をお見せ出来ますよう」 「えっ……?」 ざわつく胸。 一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。 何故、と聞き直そうと口を開くが、次の瞬間。 くらりと、視界が歪んだ。 ◆ 暗転のような感覚。 これは、夢。 次に目にしたのは、後宮の中でも最も広い宮……輿入れのときに一度だけご挨拶に伺ったことのある、フェイユン様……正妃様とお世継ぎの皇子様がお住まいの陽春宮だった。目の前に正妃様と……賢妃イーシャン様が向かい合っておられるのを眺めているのが、何だか不思議な気がした。これは夢の中、きっと今この光景を見ている自分は、お二人には見えていないのだろう。 「イーシャン、何故、とは聞きません」 一度しかお声を賜ったことは無いけれど、正妃様のお声は透き通るように美しく、凛々しく、そしてとても優しい。婚礼の前に挨拶をしたときも、長旅を労うお言葉と、何かあったら自分を頼るようにとのあたたかいお言葉をかけてくださったのを思い出す。その正妃様が、自分の記憶には無いとても厳しい顔つきで賢妃様をじっと見ておられる。対する賢妃様は歯を食いしばり言葉に詰まっているような、ふてくされた子供のような顔をしていた。 「おかしいと思っていたのです、花蝶宮を修繕し、そこにリンシンの影武者を立てるなど」 __影武者……? 正妃様はそこから、賢妃様の反論を許さぬような早さで次々と、私の知らなかったことを明かし賢妃様を追い詰めるようにお話を続ける。 「金色の髪が、紅色の瞳の娘子がまことに帝を脅かすのであるならば、影武者など必要なかった筈。……崔国の王が何も知らされていないことに、もっと早く気づくべきでした」 帝を脅かすという言葉に、びくりと身が竦む。 __最期くらいは私の役に立ってみせよ かつて、シネマ・ヴェリテで見せてもらった、彼の歪んだ笑い声。私は……避けられていた。何故なのか、それを聞く勇気は無かった。今ここに、その答えが明かされようとしている。 「そなたは一つの嘘を誤魔化す為、あまりに多くの偽りを成し過ぎました。そなたが国の為に積んだ徳の数よりも多く」 「正妃様、私は!」 「言い訳は無用です。そなたの父を生かし、焚書に処さぬだけでもありがたいと思いなさい」 焚書という言葉を聞いた瞬間、賢妃様はぐっと拳を握り目を伏せた。 __そうだったの…… 賢妃様が私を嫌っているのは、どことなく肌身で伝わっていた。ジンヤン様よりもお歳が上でいらっしゃるのを理由に、お世継ぎを産むことを禁じられていることや、ご家族が長らく研究を続けてきた推命占術の発展に力を尽くしていることも知っていた。慧国の為に様々なご助言をされるとても頭のいい方だと、疎まれている身ながら尊敬の目で見ていたのを覚えている。 私たち側室はお世継ぎを設けた正妃様には叶わない、ならばせめて、数多いる側室の中で最も愛され目をかけてもらえる存在になりたい、帝に忘れられる女にはなりたくない……そんな思いが、賢妃様の苦々しげな表情から痛いほどに伝わってくる。 「醜い嫉妬で貴妃を追いやり、結果そなたは慧国を貶めた。それは帝を貶めることに他なりません。そなたの処分は中書省から追って沙汰があるでしょう、それまではこのフェイユンの名に於いて謹慎を命じます」 「……」 賢妃様は、何も言わなかった。 また、目の前の光景がふっと霞む。 次の夢は何を見せてくれるのだろう。 ◆ 故郷の風景。 連峰の裾野に広がる、私の生まれた国、崔国。 馬車に乗って、城から民の暮らしを眺めている。 大路を行く鉱夫たちの大きな笑い声や、商売を営む女の人たちの賑やかな呼び声、砂まみれになっても元気に遊ぶ子供たちの姿。嗚呼、懐かしい。月に一度、こうして民に顔を見せるのが古くからの決まり事だった。馬車の先に立って王族の行啓を知らせる兵の声と喇叭の音を聞きつけると、民はこぞって大路に姿を現す。 私はこの時間が好きだった。皆私に手を振り、花を捧げ、笑顔を向けてくれる。慧国に嫁いでから、こんな風に人々に歓迎されたことは無かったなと、少し切ないことを思う。 馬車が大路の辻に差し掛かる。ひと目見ようとごった返す民の為、馬車はゆっくりゆっくりと進んでいた。そこに、鉱夫の姿をした黒い髪の男性が、一輪の花を手に近づくのが見える。 __あれは…… この人のことは、覚えている。確か、何か言葉をかけられ、季節外れの桃の花を手渡された筈だ。記憶の中でそうしたように、感謝を込めた笑みを絶やさずに伸ばされた手から花を受け取る。 「きれいな花をありがとう、大事にするわ」 「いつかこの花をわたしに返す日がきっと来る。民に愛される姫君」 __あっ 笑顔の中に刺すような意志の強さを見せ、花を手にとった私の指にそっとくちづけを落としていった彼の手は、本物の鉱夫のように黒く汚れていなかった。何故この時の私は気づいていなかったのだろう。あんなに欲していたものを、私はずっと前から持っていたなんて。 「ジンヤン様!? 待って……待ってください!」 足早に去っていく背中に、思わず声をかける。当然だけれど、返事は無い。 そうだ、この行啓から五日と経たぬ頃、慧国が攻めてきたのだった。 ◆ 嗚呼。 また、光景が変わる。 さっきの夢はもっと見ていたかったのに。 そう思ったら。 「リン……シン」 花梨の香りに包まれた、花蝶宮の空気。そこにあるはずのない、ジンヤン様の姿がある。しかもあろうことか、私の寝所に。これも夢なら、メイムの夢は一体私に何を指し示しているというのだろう。 いや、そんなことよりも今はただ、目の前にジンヤン様が居ることへの驚きのほうが大きかった。こんなに近くにいるのに、顔を覆う薄布をつけていないのに、彼はいつものように険しい表情をしていない。怒鳴りつけたり、手をあげたりする素振りもない。ただただ、何かを待つように私の瞳をじっと覗きこんでいる。 「ジンヤン様……?」 「……」 私の問いかけに、ジンヤン様が小さく頷いてくださる。 戸惑いと喜びとで、これ以上どう声をかけていいのか分からない。 聞きたいことがたくさん、たくさんあった。 言いたいこともあった。 忘れられ、避けられ続けた五年のあいだに、怒りや恨みが無かったといえば嘘になる。 でも、今いただいているこの眼差しが全てをきれいに洗い流してくれている。 __私、忘れられてなかったのね…… 何かに視界が歪む。 また夢の光景が変わるのかと惜しんだが、そうではなくて。 涙が、ぼろぼろと零れ落ちる。 泣きたくない。こんなに嬉しいのに。やっと、ジンヤン様を誰にはばからず見つめていられるのに。泣かないで、お願い。誰か、涙を止めて。 「!」 そっと、いつかこの手にハナモモの花と一緒に触れた指先が、私の頬に触れる。ジンヤン様が涙を拭ってくださったのだと気づくまで、少し時間がかかった。 この指に、触れてもいいのだろうか。 迷って、言葉を選んでいるうちに……夢はそっと遠ざかっていった。 ◆ 「……起こそうかどうか、少し迷ったのだけど」 介添えの声に目を開けるが、瞼がひどく重い。それは涙のせいだと、すぐに分かった。 「あなたが自分から目覚めてくれてよかった。いい夢を見たのね」 「いい、夢……」 氷水につけ固く絞った手拭い布を渡され、涙を拭いながら目元を冷やす。さっきまで見ていた光景がはっきりと思い出され、また涙がじわじわと溢れるのを感じた。 「……そうね、前に進める夢だったと思うわ」 「じゃあ、夢解きは必要ないかしら?」 この夢が、背中を押してくれた。 小さく頷く。 どこにも無いと思っていた道は、まっすぐ前に続いていた。 私、帰らなくちゃ。
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