型抜きクッキーの作り方はとっても簡単。 バターに砂糖、小麦粉、卵。混ぜて、捏ねて、纏めて、よく伸ばす。 好きな型で抜いていって、余った生地はまた纏めて、伸ばして、また抜いて。 そうして最後の一枚になるまで、纏めて、伸ばして、抜いて。 さて、どれがバターでどれが砂糖? 卵は何処に行った? ねえ、あそこに放っておかれてる小さくなった生地の切れっ端はなあに? まあいいや、さあ焼こう。 グルメな音楽家たちも大喜びの、悪魔的に美味しいクッキーを。 綺麗に形の揃った、すてきで従順な型抜きクッキーさ。 ところで切れっ端の名は、なんて言ったっけ? ◆ 悪魔のための楽団。 彼ら彼女らの顔ぶれは、気の遠くなるような長い年月のなかで時折、入れ替わることがある。主、音楽を愛する悪魔は楽団員を自ら選びそして招く、だから増える機会はそれなりにあろうものだが、減る、という事実については皆、何となく口にし難い雰囲気が楽団内に常に漂っているような気がしていた。 気がしていた、というのは、恐らく自分の主観に過ぎない。主が楽団員の入れ替わりについて何かを言及したことは無い、たとえばロナルドや春臣がロストナンバーとなってそれまでの世界から放逐されたことについてすらもだ。つまり、自分が従者としての仕事を全うする為には不要な情報なのだ。だから自分が何かを思う必要は今までもこれからも、無い。いや、無かったはずだった。 __何故、このような思考を? 必要のない思考が頭の片隅で糸くずが玉を作り、絡まり始めているような感覚。糸口はそこかしこからはみ出ているのに、短すぎて、小さすぎて、それらは決して掴めない。だが、存在している。それを認識出来る。恐らく今までは、それすらも見えていなかったはずなのだ。 __人混みの中で握られた、否、繋がれた手、あたたかい、温度ではなく __揚げたての魚、美味だと感じた、どう作られたかも不明なものを __海から吹く塩気を含んだ風、涼しさ、髪のきしむ感覚 何かが、おかしい。 身体ではない。精神に何らかの異常が起きているとしか思えなかった。全て、不要な思考と感覚なのだ。主にこんなものを与えられた覚えは無い。無いなら、何故。 声に出せない問いかけに、答えてくれる、応えてくれる者のあるわけがない。 知ろうとしてしまったら、きっと自分は主に捨てられる。 __嗚呼 こわい。 恐れと畏れ、この感情は主から賜ったものだとはっきり言えるのに。 ◆ 夢を見るようになったのは、この街に来て大分と経った頃。 いずれも、覚えのない人間たちの夢だった。 睡眠中に見る夢とはどのようなものかと、一度だけ、ミチルに聞いたことがある。 その時のやり取りは確か、こうだった。 「そうッスね、食べきれないくらいのケーキとか、先生とか、楽しいもんばっかりッスよ!」 「……そうですか」 期待していた回答との齟齬に、面の下の表情がすこしだけ変わったのを覚えている(そうだ、推察や予想をすることはあっても期待などしないのが今までの常だったのだ)。ミチルは覚えのある人間の夢をみる。自分は、主や他の従者たち、楽団員たちを夢に見ることは無い。事前に百科事典で調べた限りでは、夢とは記憶映像の再生あるいはそれらを発展・混合させたような幻覚状のものであり、睡眠時でありながら起床時と変わらぬ活動を続ける脳が外的な刺激等を受けて引き起こすものと考えられている……ということらしいが、それであればミチルの回答は当然のものだ。 記憶。 自分の記憶は、主によって召喚された時から始まり今も連続している。そこに、夢で見るようになった風景や人物が存在していたことは無いと、断言出来る。夢で話しかけてくる彼ら彼女らは楽団員の中にも居ないし、主がこれと認めて契約を迫ろうとしたが失敗した人間たちとも違っていた。そも、夢の中の人物は総じて音楽家で無いことが多かった。それがどうにも不可解な点なのだ。 ミチルが就寝した。今日もまた、眠る時間がやって来る。 今日はどんな夢を見てしまうのか、不安を覚える自分が居た。 何かが、おかしい。 ◆ 「あなたは変わらないわ、出会った時のまま」 「おっそろしいよな、とうに六十越えてるはずなんだぜ」 「それがどれだけ怖いことか、あなたには分からないのね」 「おめェはおらだずの村の誇りなんだァ」 「君の創る曲があれば生きていけるんだ」 「圧倒的な才能と技量があっても、人はいずれ飽きる」 「補正しすぎだろこのポスター、美貌の女指揮者なんてフレーズ使っていいトシじゃねぇよ」 「人があなたを何て呼んでいるか知ってる?」 「なあ」 「お前の音楽、好きだったよ」 「変わんないね、本当に」 ◆ 「!!!」 声にならない叫びに目をカッと開く瞬間、今までの映像と音声は夢であったと初めて自覚する。あれはまた、夢の中でしか覚えのない人間たちの夢だ。 何故? 楽団員でもない人間たちが、何故自分に言葉をかけてくる? 自分はあの人間たちを知らない。 知らないのに、何故? 「懐かしい……?」 ひとりの部屋で思わず口にした言葉。その意味を反芻し、背筋に冷たいものが走る。 嘘だ。 知らないものを懐古するわけがない、懐かしむ心など持ちあわせては居ない。 何故だ。 もし、この夢が記憶に蓄積された何かに因るものならば。 まるで自分は人間のようではないか。 そうだ、夢の中で、自分はまるでミディアンであるかのような扱いを受けていたように思うのだ。ありえない、自分は従者だ、主の手足となりミディアンを監視する為に生み出された、主から生まれた従者なのだ。 ミディアンとは、違う。主の愛する音楽を奏でる為の才能も技量も無いが、それは主から与えられないだけの理由がある。自分が、従者がいなければミディアンたちは。 「ありえない」 そう呟いたのは、本当にそう思ったからだろうか。 ◆ 悪魔は芸術を解さないという。 どこかの国の諺だ。 それの真偽についてを論じようとは思わないし肯定も否定も敢えてしない。 だが、自分は音楽と名のつくものならば何でも好ましいと思う。 たとえばこの体躯にそぐわぬ少女ミチルの歌声。 いつか、半ば賭けのようにして指を落としかけた青年のヴァイオリン。 音楽はいい。 何がいいと聞かれても言葉では説き難いのがまた、いいのだ。 気の遠くなるような長い長い時間の中で、人間の創りだす音楽は常に変化を続けてきた(進化と言わないのは、ひとえに好みの所為だ)。それを見守り、中でも一際輝く音楽家たちを集めて立ち上げた我が楽団が素晴らしくないわけが無い。永遠を生きているのだ、これくらいの遊びがなくてはならない。 だが、それに横槍が入ろうとしていると感じたのはいつだったか。 気がつけばミチルにくっつくようにしてこの街にまでやって来た従者の一人。『あれ』から並々ならぬ殺意で持って見下された時だけは、ミチルの低い身長を少しばかり恨んだものだ。 理由を推察することは無意味であり、不可能に近いが解はとても単純だと知っている。従者の行為は悪魔の意志。悪魔は往々にして自分のことしか考えない。それで充分だ。 楽団員の連中に未練が無いわけでも無いが、この街に居続けてもミチルやロナルド、春臣の音楽を聴き続けることは出来る。命に執着しない理由はそれくらいでよかったが、黙って殺されるほどつまらない事も無い。つまらないならば、面白くすればいい。 だから、教えてやった。否、思い出させてやった。 命令とはいえ分不相応に刃を向ける愚か者の従者に、自ら……自ら『たち』の出自を。 ミチルの手が何かしたと気づく頃には、もうあれは従者と呼べるモノでは在れまい。 「大丈夫ッスか? 熱でもあるんじゃないッスかね」 我ながら、口真似が巧いものだ。 ◆ 「ねえ、ナオミ。あなたはいつまで指揮棒を握り続けるつもりなの」 死ぬまでよ。わたしにはそれしか出来ないの。 「ねえ、ナオミ。こんなことを言いたくは無いのだけれど」 そんな前置きの後に続く言葉はもう聞き飽きたわ。 「どうしてあなたの音楽はもう成長しないの?」 …………貴女もそう思うのね。 「だって……」 分かっている、分かっているの。 「ねえ、ナオミ。ちゃんと答えて。本当に、死ぬまで指揮を続けるの?」 ……わたし、もう疲れてしまったわ……。 ◆ 「かをる、おめ、おらだずに隠し立てさしてねが」 何もだぁ、父ちゃん。 「おめさの歌がおらが村さ立て直してけだ、おらだずはおめに足コさ向けて寝らんねェ」 足向けて寝らんねのはおらのほうださ。 村さ出で民謡で食ってけっかや、ぼいどさなってけえってくんのが関の山だぁって、村長さんも農協さんもごしゃいでたべした。 「んだから! おめがおどげでねぇくれ売れった途端よ、だぁれ手のひら返したみてえにへいこらしやがってよ」 そんただこと言ってもしゃあねえべや、しゃあねえことすんのは誰だってこええよ。 「おめはそうやって……」 おら、まだご恩返しが足りねぇ。まだ足りねぇんだ。 ろくすっぽ帰んね娘でごめんな。 「かをる!」 おらも、はえぐ村さけぇりてぇ。もうちょっとだけ待っててけらい。 ◆ 「悪魔は芸術を解さないって、どこの諺だっけ」 さあ。でもその諺、事実かなって最近思うよ。 「ユーリィ、そういうの好きじゃなかったんじゃない?」 そうだっけ。いいじゃないかどうでも。 とにかくさ、悪魔が解すのは芸術じゃなくて娯楽なんだ。 「芸術と娯楽ってどう違うの」 芸術は自分が自分のために作ったものだ。娯楽は他人のために作られたものさ。 「今この世のあらゆる宗教芸術を否定したね、君」 神なんか、その他大勢からすれば勝手に見えるものなんだ。 何かすがりたいものの中に勝手にね。 たとえばその辺の石ころにだって、見ようと思えば神は宿る。違うか? 「だから君の曲にも?」 そうだ。悪魔にとっては娯楽だろうが、僕にとっては芸術だ。 悪魔が芸術を解さないのなら、僕はもう神になるしかないんだ。 ◆ 型抜きクッキーの作り方はとっても簡単。 バターに砂糖、小麦粉、卵。混ぜて、捏ねて、纏めて、よく伸ばす。 好きな型で抜いていって、余った生地はまた纏めて、伸ばして、また抜いて。 そうして最後の一枚になるまで、纏めて、伸ばして、抜いて。 さて、どれがバターでどれが砂糖? 卵は何処に行った? ねえ、あそこに放っておかれてる小さくなった生地の切れっ端はなあに? まあいいや、さあ焼こう。 グルメな音楽家たちも大喜びの、悪魔的に美味しいクッキーを。 綺麗に形の揃った、すてきで従順な型抜きクッキーさ。 ところで切れっ端の名は、なんて言ったっけ? 「……ルサンチマン」 指揮者ナオミ・バランシェ。 民謡歌手小湊かをる。 作曲家ユーリィ・ジョプリン。 永遠の時間に絶望した者と、悪魔の束縛に疲れた者と、悪魔を否定した者と。 彼ら彼女らを混ぜて、纏めて、捏ねて、伸ばせば。 ほうら。 ◆ ルサンチマン、哀れな従者。 ルサンチマン、持たざる者。 ルサンチマン、従者だった者。 ルサンチマン、音楽家だった者。 「うそだ……」 嘘じゃない、ルサンチマン。 「私は」 私は? どれが、その私だ? 「私は、だれ……?」 ◆ ついに、声に出てしまった問いかけ。 答えられる者は、どこにもいない。 溢れ出す記憶の映像、感情の発露。 剥いで、継いで、混ぜっ返してつくられたひとりぶんの肉体には、多すぎた。 「私は、何」
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