フェリックス・ノイアルベール。 既に在る歌を歌うことは出来るのに、自らの裡を言葉にする、それだけが難しかった男。 あの子の熱情、緋色の髪。お前はとっくに気づいていたのだろう。 見ないふりをしていたのは、どうしてだい。 戯れに歌ってごらんよ、今ならきっとうまく言えるだろうさ。 ◆ 国家というものに興味を失くしてからおよそ数十年、呆れるほど長い年月が経っていた。打ち捨てられたこの塔は色々な意味で居心地がいい、誰も自分を追わないし責めない、そして究めるべき研究対象が山のように積まれ、解が導き出される瞬間を今か今かと待つ場所は。解きかけの数式、数多の書物、そして静寂に囲まれるこの暮らしは、語弊はあるが平安や安息に近いものがあった。 「親分、きゅうりの買い置きはもう無いダス?」 「この間麻袋一杯に買ってやっただろう」 ムクが精一杯可愛げのある眼差しで自分を見上げてくる時は、いつもこうだ。だがこんな風に言うということはきゅうり以外の食料もそれなりに逼迫しているのだろう。研究に没頭するあまりこういうことを疎かにしがちな性分を自覚する度、瞼の裏に浮かぶのはあの、緋色の髪。 __やっぱりあたしがいないとダメね! 「……そうでもないさ」 届かない独り言。 ムクが不思議そうに見上げる。 「親分?」 「何でもない。街に行くぞ」 ◆ 塔に籠る暮らしを続けるには、先立つものが無ければ始まらない。幸い、身につけた魔法の力と背に生えた羽のおかげで、ムクと日々生きていき、研究に必要なものを買い揃えるだけの額を稼ぐ事は簡単だった。まるで子供向けの小説によくある冒険者のような暮らしだなと我ながら笑えてしまうが、誰も邪魔をしない静けさと研究の為には、どうやって日銭を稼ぐかなど瑣末な事柄だ。 「遺品?」 「はい、物が物なだけに誰も引き受けたがらんのです」 報酬は弾むからと依頼主に頭を下げられる。提示された額と仕事の簡単さに、引き受ける以外の選択肢は無かった。 曰く。小さな戦ではあったが、それなりに多くの兵が死んだらしい。 故郷の家族に宛てた手紙や遺品を回収出来るならばまだましなほうなのだろう。だが、それを遺志の通りに届ける者が居ないのだと。それについて、何故なのかと自分が問うのは野暮な気がした。死は畏れであり穢れである、普通の人間が抱く感情は、長く、永く生きている間、どこかへ落としてしまったらしい。 「手紙を十通、遺骨と遺品がそれぞれ五人分。確かに預かった」 「では、前金を。道中お気をつけて」 「ああ」 だからきっと、目を逸らしているうちに、忘れかけていたのだろう。 ◆ 砂地の街道。横を走り追い抜いていく馬車の蹄と車輪の音に合わせ、砂埃が舞う。街道の標識によれば、ここが目的地マールエレグの街らしい。 「親分、帰りにきゅうり買って欲しいダス」 「ご主人様と呼べ」 軽いやり取り。今日の仕事も、これくらい簡単に終わると思っていた。 「ハイデ家の方とお見受けする。トルーダ戦線に出征したご子息、ジャン殿のご生家は此方で合っておられるか」 「はい。……そうですか、息子は……」 名簿と地図を照らしあわせ、遺骨や手紙、そして戦没者遺族に支給される年金の受給資格証明書を淡々と事務的に手渡してゆく。死者たちの様子はどうだったのか、勇敢に戦ったのかと質問攻めにされることも覚悟はしていたが、どういうわけか皆納得したように頷き、そのまま俯いて目を伏せるだけ。 「(負け戦を覚悟していた顔、か)」 遺品を受け取った旨の書類にサインを貰い、最後に冥福を祈ると形式的に頭を下げて。それを何度か繰り返せば終わり。の筈だった。 「親分、きゅうり買って帰るダスよ」 「何度も言うな、覚えている」 最後の遺品を届け、あとはどこかで辻馬車を拾うか飛ぶかして依頼主の待つ街へ帰るだけという段になり、食料品店の前を通りがかったことに気づいてムクがひょっこりと顔を出す。ムクの言い分に素直に従うようで癪ではあったが、前金も貰っていることだし、たまには違う街で違うものを買うのもよかろうと店に足を踏み入れた。 「いらっしゃい……おや」 「? 何か?」 「いや……人違いだろうさ」 店番の老人はこちらの顔を見て、ほんの少し目を見開いた。人違いという言葉に何か引っかかるものを感じる。 「そうか。きゅうりとトマトを二袋ずつ、干し肉もあれば。それから……そうだな、マールエレグの街ならではの物があれば買っていきたいのだが」 「お前さん、他所者かね」 「……そうだな、今日来たばかりだ。もうすぐ帰る」 「この街をそう呼ぶ奴なんかにゃ物は売れねえ、帰ってくれ」 「……」 言われてみれば、ここがマールエレグという地名であることを示すものは、街の外の標識だけだった。戦の爪痕というのは人の命以外にも、様々なものを容易く踏みにじる。食料品店の壁に貼られた古い祭りのポスター、その掠れた文字に、今度はこちらが目を見張った。 「……ヴェルハイム?」 「そうだ、この街の名を変えるのは神への冒涜だ。分かったらさっさと出て行け!」 半ば追い出されるように、何も買えず店を出る。だがそんなことよりも、この街のもとの名前、その響きが頭を苦しさで満たす。 「嘘だろう……」 それは、故郷の名前。 もう二度と足を踏み入れることは無いと決めていた土地の名前。 何故、気付かなかったのだろう。 ◆ 手繰れるだけの記憶を遡り、過ごした季節の数を指折り数える。この街を出て五十年あまりの歳月が経っていたことに、今更だが驚きを覚える自分が居た。当たり前だが、五十年もあれば街は変わる。風景も、名前も、そして人も。気がつけば、もう用は無いはずの街並みをぼんやりと歩いていた。 「親分……?」 「……」 ムクの不安そうな問いかけも耳をすり抜ける。 様変わりしたとはいえ、辻を作る大きな街道に立てば、見覚えのある建物もいくつかまだ残っているのが分かった。もう帰ってもいいはずなのに、足は何故か止まらない。この辻を南に行って、東に伸びた細い路地に入り、もう一つ南向きの角を曲がれば、緑色の屋根が見えてくるはずなのだ。 「(五十年だぞ? 莫迦莫迦しいな、フェリックス)」 自嘲じみた呟きで己を笑うのは、心の何処かでそれを期待しているからだろうか。あの家に住んでいた彼女も、きっと変わってしまっているはずなのに。 東向きの路地には、目印の栗の木が植えてある。栗が生る季節にはよくあの幹を揺らして、いくつ取れるかを競っていた。自分がそれをしてもそっぽを向くくせに、こちらが落とした栗の毬がぶつかると『レディになんてことするの!』と烈火のごとく怒った顔を、今でも覚えている。 「何処がレディだ、真っ黒に日焼けしたのが秋になっても取れないくせして」 ひとりごちて笑う瞬間。するりと、時が巻き戻る。 それでも。 「……フェリックス……?」 「! ……ラナ……か……?」 きぃ、きぃ、と地面を這うような車輪の音。振り返らずとも、車椅子のそれだとすぐに分かった。だが、一緒に聞こえた懐かしくも変わってしまった声。その主を彼女だと認め口にするのに、少しだけ勇気が必要だった。 「そう……やっぱりあなたなの」 「ラナ……」 五十年。 記憶にあった緋色の髪はとうに白く変わっていたが、同じ色の瞳はちっとも変わっていない。すぐにラナだと分かった。懐かしさに思わず駆け寄ろうとするが、ラナの厳しい声音がぴしゃりとそれを遮る。 「来ないで! あなたは……あなたはいつもそう」 車椅子の車輪が、ラナの手によってぎぃ、と軋むような音を立てる。 「いつだって置いてけぼり。……そうよ、こんな姿になっても」 まるで魔法にかかってしまったように、足が竦んで動けなかった。ラナがその横をゆっくり、ゆっくりと車椅子で通り過ぎる。 「帰って。……これ以上、惨めな気持ちにさせないで」 頷くことも出来ずに、ただ虚空を、いや、色あせた緑色の屋根を、ただじっと見つめることしか出来なかった。 ◆ 「親分もなかなか女泣かせダスなぁ」 「……少し黙ってろ」 場を和ませようとするムクの努力は分からないでもなかったが、それに付き合えるだけの余裕などありはしない。帰れと言われて帰れる筈もなく、かといって家の前にずっと居るわけにもいかず、結局こうして酒場で管を巻いている。 「ラナ……」 「ラナ? あの東南の一角に住んでるバァさんか」 「ば……あぁ、そうだが。彼女を知っているのか」 三杯目の蒸留酒を注ぎに来たマスター曰く、ラナはずっとあの家に一人で暮らしているらしかった。父母や親戚の強い勧めも聞かず、独り身を通して。 「誰だか知らねぇが、絶対に帰ってくるんだって毎日のように言ってるよ。とうとう呆けが入ったかねぇ」 「……そうか」 __いつだって置いてけぼり ずっと自分を待っていたというのか、五十年もの間。 この姿を見る瞬間まで。 「馬鹿なことばかりする……」 一人でも、いや、自分が居なくてもラナは大丈夫だと思っていた。 いや、思っていたかった。 きっと自分を忘れ、幸せにやっているだろうと、何故かそう信じきっていた。 何故と聞かれれば、答えられないくせに。 ◆ 少し湿り気を帯びた夜の風が外套の隙間から入り込み、体を冷やす。 夜明け前に雨が降り出すしるし、こんな夜は雨戸を閉めて、湯を入れた行火をベッドの足元に置いて、早めに眠りにつくに限るのだ。酒で火照った指先を擦り合わせながら、幼い頃に一緒の布団に入った夜のことを思い出す。 「冷え性だったっけな」 もうあの日々のように、無邪気に笑い、触れ合うことは叶わないのだろうか。 自分は、時の流れに頓着せずとも生きてはいける、だが。 __ぎぃ 「? ラナ……?」 車椅子の音。 こんな時間に、外へ? ちいさな疑念が危機感に変わるのはすぐだった。 「よせ、ラナ!!!」 遠くからでも分かる、丸めた背、うつむいた目線の先にあるものが。 柵の壊れた崖にラナが車椅子ごと身を投げようとしている。 「来ないで! 来ないでちょうだい!」 引き止めるよりも飛んで先回りするほうが早い、そして確実だ。そう思った瞬間、足は地面を蹴り体は宙を舞う。車椅子が重力に逆らわずがらがらと落ちていく音。咄嗟のところで抱き止めたラナの身体は、可哀想なほどに細く、軽かった。 「(俺がそう思うことすらも、惨めなのだろうな……)」 ◆ 落下の弾みで気を失ってしまったラナを家まで運び、整えられたベッドにその身体を横たえた。足が不自由になって尚、誰にも頼るまいと気丈にしていたのがよく分かる暮らしぶりにいたたまれなくなる。 昔一緒に絵を描いた机も、小鳥に餌をやった南向きの窓も、何も変わっていない。差し込む月の光がラナの老いた顔をそっと照らした。 「……すまなかった」 艶のない白い髪に指を通す。ラナが自分を信じて待っていた五十年に、今自分は何をして償えるのだろう。 今日の事が無ければ、ラナはきっと死ぬまで自分を待っていたのだろう。誰にも頼らず生きる日々の中の、ささやかな心の支えだったかもしれない。それを、知らなかったとはいえ踏みにじってしまった。 「親分、無かったことにするダス?」 「……そうするしか無いだろう」 せめて、自分と過ごした日々を忘れてしまえれば。ラナの心はいくらかでも穏やかであってくれるだろうか。そう思い至った手が、人の記憶を奪う魔法の印を描こうとしていた。 「ワシは反対ダス……」 「じゃあどうしろって言うんだ」 「ラナさんが親分を待ってたのはほんとダス、それまで奪っちゃいかんダス」 「……そうかもしれないな」 描く印は変わらない。 ただ、今日の記憶だけを。 「目が覚めたら、また俺を待ち続けてくれるか?」 返ってくるはずのない問いかけに、ラナが笑った気がした。 待ち続けていたこと、待ち続けることを知ってしまったのは、罰かもしれない。 それでも、この心にこみ上げるものは何だろう。 「……ありがとう」 ラナから消し去ったのは、一日分の記憶。 きっとあの頃の彼女なら、笑顔で怒ってこう言うのだろう。 『いつまで経ってもお子様ね、フェリックス。あたしはあなたと違って大人だから、笑って許してあげるわ。感謝しなさいよね』 思いがけず交差した二人の道は、また遠く遠くへ分かたれる。 五十年分のさようならを込めて、道の先からそっと、手を振った。
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