「アニー、あんたってばほんとうにひどい女。こんなに可愛い息子がいたって何でも一人で決めちまう、こんなに生き急ぐことなんかなかっただろうに」 母アンジェラは、幸せだったのだろうか。 そんな問いかけに応えてくれる、そして答えてくれる人はもう、この広い空のどこにも居ないような気がしていた。 まだ朝焼けの残る空に、火葬の煙がまっすぐ、ゆるやかに立ち上る。有明の月を目がけるように空へとのぼってゆくその光景を見ていると、母の気丈な冗談もあながち嘘ではないように思えて、少しだけ笑うことが出来た。 『月のウサギと夜明けのダンスを約束したの、だからお葬式は明け方にしてね』 月にはウサギがいる。 母は誰からそんな寓話を教わったのだろう。 リタ……この葬式を手配し、今も付き添ってくれている母の友人ではないことは確かなのだけれど。 ◆ いつだったか、とても幼い頃。放浪の暮らしの中で一度だけ、母と離れリタの傍にいたことがあった。およそ半月かひと月か、とにかく今にしてみればそこまで長い間ではなかったが、幼い子供にとってはそうはいくまい。実際、成長したこんなときになってもまだ鮮明にあの寂しさを思い出せる程度には記憶に残っているくらいなのだから。 ただ、何故こんなに長い間、母と離れていなければならなかったのかは……母が亡くなるまで知らなかった。 記憶の中の母は、いつも何かに照らされて輝いていた。 自由で、奔放で、力強くしなやかで。旅の暮らしを愛し、音楽に愛されていればあとは何も要らない、そんなひとだったように思う。 六歳か七歳の頃。知り合いのイタリア男がよく口にしていた口説き文句を真似て、母の笑顔を太陽に喩えて褒めてみたことがある。どこでそんな言葉を覚えたんだかと目を丸くしたのち、母はくしゃりと笑ってこう言った。 「わたしは月よ」 「じゃあ照らしてくれる太陽はどこに?」 「そうね……今はきっと東の空のどこかで朝を待ってるんじゃない?」 「本物の太陽の話をしているんじゃないよ」 あの時、母は少しはにかむように目を細めていた。 それを見て何故か、ああ、月なのかもしれないなと思ったことを、今でも思い出す。 ◆ 十三歳の春に、母は熱病であっけなく亡くなった。最初は流行りの風邪だとたかをくくって、オレンジをかじりながら歌を歌っていたのが、ほんの数日の間で起き上がることも難しいほどの高熱にうなされ、しきりに誰かを呼び続けるようなうわごとを繰り返すようになっていった。 時折ひゅうひゅうと息を荒げながら昏々と眠り、喉の渇きで目を覚ます。大好きだったブラッドオレンジは喉にしみるからと拒むようになったから、街で買った真水に塩を少しだけ入れて飲ませるのは自分の役目だった。 「ムジカ」 「どうしたの、喉は平気?」 「太陽は東から昇るのよ」 「……うん、そうだね」 「きっとあなたのことも迎えに来るわ」 そう告げて、母は満足したようにまた目を閉じた。 今夜はこのまま眠るかと思ったが、母は楽しそうに笑って言葉を続ける。熱で上気した頬のせいか、片想いを語る少女のように、ほんとうに楽しそうな横顔だった。 「嘘をつかないという意味なんですって。だからわたしが死んでもあなたは大丈夫なの」 「子供ってね、七歳までは神様のものなのよ。あなたは十三歳、じゃああの子はもう十歳ね、二人とももう、ちゃんとわたしの子ね」 「会いたいのか、会いたくないのか、よくわからないの。だって綺麗でいたいじゃない」 「幸せな夢を見るの。四人でね、ちいさなちいさな家で夕食を食べる夢」 どう返事をしていいかわからない、独り言のような話の中に、自分がいたことが何故かひどく嬉しかった。ただ頷き、手を握ることで聞こえているよと伝え続けた。 それが、母とした最後の会話だった。 母は、どんな思いでこの言葉たちを遺していったのだろう。 母は、幸せだったのだろうか。 ◆ 母の葬儀はロマのやりかたに則り、亡き骸も、持ち物も、すべてが火葬にされることになった。元々、放浪の暮らしで物をあまり持っていなかった為、自分とリタが譲り受けたものを除けば服と靴、それからわずかな装飾品のみで。淡い黄色のタカラガイに革ひもを通したシンプルなネックレスが、母の胸元で寂しげに朝焼けの光を浴びてきらめいた。 「アニー、あんたってばほんとうにひどい女。こんなに可愛い息子がいたって何でも一人で決めちまう、こんなに生き急ぐことなんかなかっただろうに」 「いいんだ、リタ。おれはそんな母さんが好きだよ」 母の名を、最期までアニーと呼ぶリタの親愛が、嬉しかった。 「あんたこれからどうするんだい」 「さあ……おれは今まで通りの生き方しか知らないから、そうするつもりだけど」 嘘ではなかった。 音楽がそばにある放浪の暮らしだけが、自分が知っている『生活』だったから。 それ以外の過ごし方を知らないし、自分を導いてくれる大人ももう居ない。リタのことは好きだし、ロマの集団の中で唯一気を許している大人だったが、彼女だっていつかは誰かとつがい、その誰かの家族を産むのだ。そこに自分がいてはいけないことを、自分はよく知っている。 何気なく見上げた火葬場の空。 朝焼けはすっかり落ち着き、春らしく少し色が濃くなり始めた青空に、さっきまで母だったものの煙が煙突から昇る様をただ眺める。火を入れてからもう二時間は経っただろうか。 昇る煙がほんの少し、東に揺れたように見えた。その時。 「ムジカ?」 「……はい。あなた……たちは?」 「ああ、よかった。やっと会えた! 僕は誠、こっちは息子のレオン。君の弟だよ」 「マコト……?」 自分より二つか三つ下に見える、淡い金色の髪の少年と、少年の手を引いてこちらに目を細める東洋人の男性。自分とは何のかかわりもなさそうに見える二人の姿を見て、母が病床でうわごとのように繰り返し語った言葉がよみがえる。 __きっとあなたのことも迎えにくるわ __嘘をつかないという意味なんですって。だから ◆ リタから今日のことを聞いて駆けつけたという、マコト・アンジョウと名乗った日本人男性……母の想い人だったひとが見せてくれた古い写真には、若かったころの母と、自分と同じ髪の色をした赤ん坊、そして今の姿とあまり変わらないように見えるマコトの三人が写っていた。 「覚えていないかな、君とも会ったことがあるんだよ。ほら」 「あ、これ……おれなんだ」 マコトは嬉しそうに頷いて、母のことを語りだす。 トリニタ・デイ・モンティ階段で歌を歌っていた姿にひとめぼれをしたこと。 声をかけても子供のいたずらだと思われて最初は口もきいてもらえなかったこと、後で同じ歳だと知って謝りながらカフェを奢ってくれたこと。 本当はカフェよりも紅茶が好きで、もっと好きなのはブラッドオレンジのジュースだと言っていたこと。 「日本の住所を書いて渡したらとても驚かれたんだ、本当に流浪の暮らしをしていたんだね」 定まった住居を持たない母に手紙を送っても届かない、だが逆に、母はマコトに宛てて何度か葉書を送っていたことも教えてもらった。 「今の季節はここにいるとか、そちらの空はどんな色ですかとか……本当に他愛もないことを書いて送ってくれたんだ。一番びっくりしたのは、レオンが産まれたしらせだったけれどね」 葉書の内容と消印の地名を手掛かりにもう一度この国を訪ねてみたら、本当に赤子……レオンを抱いた母が出迎えてくれたことも。 「本当に来ると思わなかった、今だって他人の子をあなたの子だと騙しているかもしれないのにって笑っていたよ」 「……なんて答えたんですか?」 「そんなことは構わない、知らせてくれたなら会いにいかなくちゃと思った。君と、君の子に。って。……だいぶ恥ずかしいなあ、忘れてくれていいよ」 そして家族が出来たのだから一緒に暮らしたいと、ごく自然に口に出していたこと。 「君と、アンジーと、レオンと。四人で住もう、日本という国を見せてあげたいんだと言ったら、とても……そうだね、僕の記憶で美化されているかもしれないけれど、嬉しさと戸惑いが本当に半々になったような顔をしていた」 結局、母はマコトについて行くことは無かった。その結末は常に一緒にいた自分には分かる。だが、何故レオンだけはマコトと共に日本に行ったのだろう? 疑問符を見透かされたのか、マコトがふとやわらかく笑う。 「アンジーは、旅をやめるのが怖いと言っていたんだ。自分はこの暮らしが何より好きで楽しいけれど、それはこの生き方しか知らないからかもしれないとね」 何にでもすぐ興味を持つけれど少し飽きっぽくて、でもそんなところが可愛らしかったとマコトは母の思い出にうっそりと目を細めた。母をひとつの土地に縛ることで母の笑顔が消えることは望めなかった、自由に思うままに生きて欲しかったとマコトは続ける。 「だからアンジーがレオンを預けたいと言ったとき、ひとつだけ約束をしたんだ。次に会えるときは帰りの飛行機か船のチケットをもう一枚買うから、それを受け取ってくれってね」 そうして十年の間、母とマコトは、母が時々送る絵葉書でのみ繋がる間柄であり続けたのだという。時々、街の本屋や文房具屋で楽しげに絵葉書の図案を選ぶ母の後ろ姿。あのあたたかな眼差しは、マコトに向けられたものだったのだと、ようやく知ることが出来た。 「いつも、有明の月が写っている写真の絵葉書を送ってくれたんだ」 「有明の月……。母は、月のウサギとダンスの約束があると言って旅立っていきました」 「そうか……。日本ではね、月には蟹じゃなくてウサギがいるという神話があるんだよ。覚えていたんだ」 きっと母は、この人の月だったのだろう。 自由であろうとして、それでもどこかで繋がっていたかった。 ただでさえ、ロマの集団の中では拾われ子としてはみ出し者の扱いを受けていた母が、自分に加えて日本人との子を連れて暮らしていくのは難しいという事情も理解出来た。それに。 「家族だったんですね」 「うん。君もだよ、ムジカ。アンジーは君を残していってくれた。アンジーと果たせなかった約束を、君に託してもいいかな」 「……ええと」 一瞬何のことか分からず自分が呆けているうち、マコトが内ポケットから三枚の航空券を取り出して見せる。あらかじめ予約されていて搭乗者の氏名と年齢が記されているそれらのうち一枚に、見慣れた自分のファーストネームと年齢があるのを見つけ思わず目が見開かれる。 ”ムジカ・アンジョウ 13歳 男性” 「僕は君と家族になりたい。君を迎えに来たんだ、一緒に暮らそう」 便宜上先に名前をこうしてしまってすまないと照れたように笑うマコトの手から航空券を受け取ったものの、どう返事をしていいか本当に分からなくて、しばらく航空券を見つめたまま呆然としてしまっていた。何か言わなければいけないのに、言葉が無い。 『……パパ』 「ああ、よしよし。ムジカ、ちょっと失礼」 さっきからマコトの隣で船を漕いでいたレオンがとうとう眠気に負けて目を閉じてしまった。頭を膝に載せてやり、背中をとんとんとたたきながら何かを口ずさむマコトの姿が、何故かひどくなつかしい。 『あすはこの子の宮詣り、ねんころろん……ねんころろん』 「あ……」 __宮へ詣って何言うて拝む 「……いっしょうこのこのまめなよに、ねんころろん」 「ムジカ……忘れていなかったんだね」 母の背で幾度と無く聞いた、異国の言葉の子守唄。 ロマの中で誰もこの歌を歌う者がいなかった理由。 理解、ではなく。小さな疑問がつっかえていたこころに、すとんと納得が降りる。 「……マコトさん」 「うん?」 「おれにも……おれにもうたってくれませんか」 「もちろん」 そっと、遠慮がちにマコトの右隣に座る。ちょうどマコトの肩先に自分のこめかみが当たるくらいに上背の差があった。マコトの右手が左手と交互に拍をとり、子守唄がもう一度。 「(……母さん)」 この歌を聞かせてくれた母はもう居ない。その実感が今になって、子守唄の少し外れた節に合わせて胸を締め付ける。でも、これ以上寂しくなることはきっとない。 やっと。 やっと母の死を、分かち合い悼むことが出来た気がした。 母が残してくれた、東の空から迎えにきてくれた家族と一緒に。
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