黒銀にたゆたう森は、今日もあまたの想いを光る果実に載せ、静謐に沈み続ける。 誰かのために実る記憶の果実は、やさしく、鮮やかで、烈しく、どこかものがなしい色をしている。いつか、遠い日に嗅いだことのあるような、懐かしい、かぐわしい香りが、郷愁をかきたてながら鼻腔をくすぐる。 「不思議な場所ですね。誰もいないのに、誰もかれもがここにいるような気がする」 愛を、想いを、喜びを、哀しみを苦しみを、せつなさを後悔を怒りをはらんだたくさんの果実は、その記憶と感情を捧げられるべきだれかを待って、静かに輝き続けている。 「私のための果実はあるのかな? ――宝探しみたいですね」 テオ・カルカーデはくすくすと笑い、黒い樹と樹の間を覗き込んだ。 黒曜石と黒水晶、ブラックオパールを組み合わせて彫り出した樹木に、銀と白金の葉を飾りつけ、わずかなサファイアで陰影をつけたかのような、幻想的で美しいそれらは、しかし森全体が孕むのと同じものがなしさを持って佇んでいる。 ごつごつとした根に、光る苔を見つけ、触れてみれば、それは線香花火のように瞬いて消える。 「面白いですね……いったい何が、どういう原理でこの場所をかたちづくるのか、徹底的に探究してみたいような気すらする」 『お城』で日々を研究に費やしていた身としては、ここは興味深い材料ばかりだ。 むろんこの、無機によって構成されながら変則的な生命の論理によって息づく【箱庭】において、科学的に解明されるものごとがどれだけあるか微妙なところではあるが。 とはいえこの森の不可思議さは、テオの好奇心をくすぐるのに充分すぎるほどで、彼は興味の赴くまま、楽しげに散策を続けた。 その道すがら、 (創造主さま、創造主さま) 彼の耳をどこか覚えのある響きがかすめ、懐かしさを覚える香りが鼻をくすぐった。 (あなたは――どうして) 漠然とした疑惑、焦り、不安。 そして、もどかしさ。 そんなものを浮かべた――そう思ったのはテオだけかもしれないが――鈍い銀の果実に、誘われるように近づき、触れれば、 (世界には不可解がある。『ソレ』を表す言葉はない) 確かに昔、自分が抱いた覚えのある感情と記憶が、テオの意識をよぎった。 覚えのある意匠、花と杖と羽は、つくり主を表すものだ。城の中央部外壁に描かれ、また、城外のあちこちに見られる旗に、必ず染め抜かれている。 (それはたぶん、『ソレ』が創造主にとって悪いものだから。だから『ソレ』は隠されているのだろう) (……でも、私はおそらく、『ソレ』を行える) (きっと、なんの障害も感じずに) 記憶は、感情は、ためらいがちに……しかし強く、疑念を深めてゆく。 『創造主さまのお城』と呼ばれる、巨大で複雑な、一個の都市に匹敵する規模を持ったその施設の中で、世界中からかき集められたあまたの魔法使いたちとともに、移ろいゆく――それなのに、変わらない――世界を見つめながら、焦燥を強めてゆく。 根底に流れる、造物主への深い愛、渇望にも似たそれを、テオははっきりと感じ取っていた。――禁忌を犯し、覚醒したその瞬間にすら、そして今でも持ち続けているのだ、当然のことなのかもしれないが。 (知りたい。教えてほしい。確かめたい) もどかしく狂おしい、切実な思い。 ――そうだった。 覚醒する前、テオが、図太くのんきで面の皮の厚い彼が、食事も休息も忘れるほど悩み、思いつめた。その理由は、『ソレ』にあった。 (私たち、一部の魔法使いが行使できる力は『ソレ』に似ている。『在る』をないものとし、『無い』をあるものとする、あの力は) 覚醒した今ではもう使えない、人智を超えた不思議の力。 常識を、法則を飛び越えて行使されるそれを、人々は魔法と呼んだ。 その力を持っていたがゆえに、疑念は哀しみを帯びて深まった。 (だから、魔法使いは、すべて、生まれれば生まれたぶんだけ、城に集められるのだろうか。『ソレ』が民の中にあって、彼らに邪悪と混乱と不都合を撒かないように?) 城には魔法使いと呼ばれる人々がいる。 全員が魔法を使えたわけではなかったが、少なくとも皆、城外では異端者と呼ばれるたぐいの存在だ。その中でも、テオは、幼馴染の友人とともに、数少ない『本当の魔法が使える魔法使い』だった。 (確かめたい。――確かめなければ) 千変万化のリエネス、誰も姿を見たことがないのに、誰も実在を疑わない、この世界をつくり、司る創造主。魂に刷り込まれたものだとでもいうように、誰もが心からの愛を捧げる、見えざる『ものごとのはじまり』。 ――テオはあのとき、切望していた。 世界の真実が知りたい、と。 そして、 (魔法が使える私たちは、『ソレ』を行える私は、創造主に愛されているのだろうか?) 胸を締め付けられるような、無間の闇でもがくような、やり場のない苦悩ともどかしさに、もう過ぎたことと知って息苦しさが込み上げる。 創造主は自分たち魔法使いを、『ソレ』を潜在的に行える異端の存在を愛しているのか、自分たちはここにいてもよいモノなのか、テオは確かめたかった。確かめようとして禁忌に触れ、故郷を見失った。 親に、つくり主に愛されたくないと思うものなどあの世界にいただろうか? そして、つくり主に愛されていないかもしれないという苦しみに身悶えぬものがいただろうか? (――早く、しなければ。確かめるなら、早くしなければ) 記憶はまた、焦りを深める。 (あいつがこれを知ってしまう前に。創造主を心から愛するあいつが) テオは、その瞬間まで、果実の孕む感情、意識を、自分のものだと思っていた。あまりにも強い想いだったがゆえに、こうしてここに実り、再度自分の前に姿を現したのだろう、と。 しかし、 (テオが、このことを知ってしまう前に) 記憶の中を、紫髪の、何の獣人ともつかぬ青年の顔がよぎるに至って、ようやく気付いた。いつも記憶の主の傍らにあり、城の魔法使いとしてあまたの研究に従事する青年は、テオ・カルカーデ以外にありえない。 「……まさか、ジラ……?」 ぽつり、と名前がこぼれる。 澄んだ青の瞳と、灰色の髪。テオと同じく何の獣人とも取れぬ、男装の麗人は、ネモフィラのジラ、そう呼ばれた、テオの幼馴染だった。 「……あなたですか、ジラ」 銀の果実は、切々と感情をこぼしてゆく。 (あなたに逢いたい。逢って知りたい。尋ねたい、確かめたい。私は、あなたに愛されているのかと。あなたは、私をいても好い存在だと思っているのかと。私は、――私たちは、あなたにとって悪いモノではないのかと) それは、覚醒前のテオが狂おしく抱いていた感情とまったく同じものだ。 何もかもが、寸分違わず。 (テオ、どうして。――お前は、バカだ! どうしてお前が危険を冒す。どうしてお前が消える? 消えねばならない? 私などよりずっと世界にふさわしかったのに。私などよりずっと、愛していたのに。消えるのは、私でよかったのに!) そう、お互いに向ける感情でさえも。 そして、 (造物主よ、神よ、大いなる意思よ) 感情が、言葉が連なってゆく。 (どうかあの大バカ者を赦してください。そして護ってください。あなたにとって佳きものではなかったかもしれないけれど、彼ほどあなたを愛するバカ者もまた、この世界には存在しないのだから) 禁忌を犯し、世界から放り出された友人への痛み、嘆きは、そのまま創造主への祈りとなって重ねられる。 「まさか……あなたまで、そんなふうに」 テオは苦笑し、果実をそっと掌に握り込んだ。 「全部、私の言葉ですよ。世界にふさわしいのはあなたのほうだ」 ここでこうしていることを、テオは後悔していない。 ここに至った過程を否定することもない。 「私もまた、確かめたかった。それだけのことです」 千変万化のリエネス。 それは、神の名であり、世界の名でもあった。 嘘が隠された、少なくとも上辺は善良でやさしい世界。 誰も嘘をつかず、つかれず、それどころか嘘というモノの存在を知らない世界だ。 テオはそこで、堂々と、何のためらいもなく大嘘をつき、神、創造主、大いなる意思、そういった存在によって異世界へと放逐された。 同一の線上にある、不可解=『ソレ』=嘘を確かめたかった。生まれたときから素質として『ソレ』を持っている自分たちが、本当に創造主の愛とともにあるのかを、嘘をつく、『ソレ』を行うことで確かめようとした。 半分は自分のために、半分は彼女のために。 そうしなければ、きっと、自分ではなく彼女が同じことをして、世界から放り出されていたことだろう。果実はそれを高らかに証明した。 真面目で堅物で、誠実で一途な、創造主を心から愛していたジラ。 城にこもって研究ばかりしていたテオとは違い、彼女は、城外に出て辺境の村々を回り、城の権威と、知恵と魔法を用いて揉めごとを解決するのが『仕事』だった。ゆえに彼女は『調停者』と呼ばれ、『外』の人々から尊敬され愛されていた。 テオの、たったひとりの幼馴染だ。 ひねくれもののテオにとっては、唯一と言っていい、本当の自分をさらけ出せる相手だ。愛という言葉を素直に口に出すほど純粋ではないが、彼女に抱く感情を言葉にするのなら、それ以外にはありえない。ジラはそういう存在だった。 ――ジラにとってのテオもまた、そういう存在だったのだろう。 おそらくは、今でも。 「ああ」 唇が、ゆるい微苦笑をかたちどる。 「私たちは、ふたりともバカですねぇ、本当に」 テオが『ソレ』に気づき、苦悩し、焦りを深めて禁忌に至ったのは、ジラが同じことに思い至ったとき、どれだけ苦しむか手に取るように判ったからだ。だからこそ先回りをして、我が身を用いて確かめようとした。 「あなたも、同じことを考えていただなんて」 ジラがこんな考えを持っていたとは知らなかった。 ジラもまた、テオがまったく同じことを考えていたとは気づかなかっただろう。 だとしたら、放逐されたのが自分でよかった、ジラが創造主のもとに残れてよかったと、ただ彼女を祝福しその無事を喜ぶことしかテオには出来ない。 「私たちは鏡のようなのに、お互いを映すことは出来なかったんですね」 くすくすと笑い、果実を包み込んだ掌にそっと口づける。 「ああ、本当に、おかしいなあ」 おかしくておかしくて、二度と会えないかもしれないことが、寂しい。 ――テオの唇が触れた先で、果実は淡い光を放ち、瞬いた。
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