ターミナルの片隅の、静かな通りの更に奥に、それはある。 彩音茶房(アヤオトサボウ)『エル・エウレカ』。 異世界産の風変わりな植物と、不可思議な鉱物に飾られ――埋め尽くされた、と表現しても間違いではないだろう――、造られた、どこか日本庭園に似たデザインのカフェである。 庭の片隅には泉があって、なんとも芳醇な、それでいて清らかな水の香りを立ち昇らせているのだが、その清冽な泉の水からは、時折、サファイアのような色をした美しい蝶が現れて、飛び立ってゆく。 自ら輝く、透き通った紫色のホタルブクロを思わせる幻想的な植物のアーチをくぐって中へ入ると、前述の植物や置石にぐるりと囲まれるかたちで、黒く光る籐で編んだ椅子と丸テーブルのセットが十二ばかりある。 客の入りはそこそこで、めいめいに茶を啜ったり甘味に舌鼓を打ったり、サンドウィッチを頬張りながら持ち込んだ雑誌を読み耽ったりしているようだ。 常連ならば、いつもと雰囲気が違うことに気づいただろう。 内装が大きく変わっているわけではない。しかし、あちこちに、いつもは見られない、赤や桃の可憐な花が活けられた花瓶や、ハートのかたちをした多肉植物、華やかな色合いのクッションなどが置かれているし、何より、店内には芳醇なチョコレートの香りが満ちている。 甘味を注文した客の大半は、特製のチョコレートデザートに舌鼓を打っているようだ。周囲を見渡せば、見知った顔もあるかもしれない。「ああ、いつもと少し違うだろう。あの辺りを用意したのはゲールハルトだが」 声をかけて来たのは、そのうちのひとつに腰掛けていた朱金の髪の人物だった。名を神楽・プリギエーラという、トラブルメーカーの呼び名も高いツーリストである。 店員ではないものの、ここの接客の大半を請け負っている神楽が、水とともに席を勧め、「壱番世界のバレンタインというイベントに合わせているのだそうだ」 あいつら案外イベントごとが好きだからな、と理由を教えてくれる。「そんなわけで、今日のお勧めはチョコレートを使ったもろもろの甘味だ。チョコレートは壱番世界の日本産、フランス産、イタリア産にドイツ産、スイス産からベルギー産まで、最高級のものを取り揃えてあるそうだから、楽しんで行ってくれ。もちろん、普通の甘味も、酒も食事も音楽もご自由に」 つまり、今日の『エル・エウレカ』は、バレンタイン仕様のティータイムが楽しめる、一日だけの特別カフェなのだった。 意中の相手がいてもいなくても、恋人でなくとも、家族でも友人でも同胞でも誰にでも、感謝と愛を伝えるための特別なチョコレートも販売しているほか、希望すればチョコレートをつくることも出来るらしい。「店長は相も変わらず新しい植物だか鉱物を探すために外へ出て不在だが、料理番はチョコレート菓子をつくるのにたいそう張り切っているようだ。顔は怖いが存外家庭的で面倒見のいい男だ、好みのものがあるのなら、どんどん無茶振りをしてやればいい」 どこまで本気なのか判らない淡々とした口調で神楽が言うと、植物がカーテンのようになって隠されていた厨房から、怖い顔で悪かったな、と件の世界司書が顔を出した。 名を贖ノ森火城という、赤眼の、刃のような雰囲気を持った男だが、神楽の言う通り、眼差しは理知的で静かだ。「……ん、新しい客か、ちょうどいい。今日は愛を語る特別な日だと言うじゃないか、そんな特別な日には、特別美味いチョコレートがあれば最高だろう。せっかくだから、食べていかないか。もちろん、もっと腹にたまるものがいいと言うなら、肉でも魚でも準備する」 火城は、特にメニューはないから好きなもの食べたいものを言ってくれ、なんとかする、と締め括り、また厨房へと引っ込んだ。 それを見送って、神楽が不思議な形状の弦楽器、“パラディーゾ”を掲げてみせる。「音楽が必要なら言ってくれ、歌でも旋律でも、きみの望みのように奏でよう。――もちろん、きみがうたってくれるのも、歓迎だ」 そうこうしているうちに、厨房から甘く深い、チョコレートのかぐわしい香りがひときわ強く漂い始める。「さあ、どうしようか?」 楽しげな、神楽の問いかけ。 選択は幾つもある。 愛と感謝を伝える特別な一日のひとときに、ゆったりと身を、心を委ねてみるのも悪くはないだろう。 ※彩音茶房『エル・エウレカ』バレンタイン版ソロシナリオ、『天鵞絨の夢』『綾絹の微睡』『繻子の午睡』『羅紗の欠伸』は同時系列での出来事を扱っています(個別タイトルは区別用のみで、内容に違いはありません)。同一PCさんでのご参加はご遠慮くださいますようお願いいたします。
春秋 冬夏は鼻息も荒く――毎度のことながら、可愛い女子高生にその表現がふさわしいかどうかはさておき――『エル・エウレカ』のドアをくぐった。 可愛くラッピングされたギフトボックスを手に、小さなショウケースからトリュフチョコレートを選んでいる猫獣人の女性と、気持ちいいほど旺盛な食欲でチョコレートスイーツを平らげていくコンダクターの女性、それからあどけないほどの幸せ笑顔でチョコレートを食べている青年――何度か依頼で同行したことがある――の姿が目に入り、にぎわってるなあなどと感心しつつ中へ踏み込む。 「気になってたんですが、予定が合わなかったり混んでたりしてなかなか入れなかったんですよね……やっと来られました!」 仁王立ちで感慨にふける間に、すぐに、神楽が水とおしぼりを持ってきて、席へと案内してくれるが、冬夏の目的は別のところにあった。 「チョコレートスイーツはのちほどいただくとして、先にお世話になったかたがたに渡すお菓子をつくらせてください!」 冬夏は、料理やお菓子づくりが趣味なのだ。 不器用なため、盛り付けは不格好な場合が多いが、レシピをしっかり理解してじっくりつくるため味はいいというのが、彼女のつくるものへの一貫した評価である。 「ん? 菓子づくり希望なのか?」 声を聴きつけた火城が顔を覗かせ、 「はい、お願いします、師匠! ちょっぴりほろ苦い、胡桃入りのブラウニーとザッハトルテ、オペラにフォンダンショコラ、それから口直しのお煎餅を作りたいです!」 冬夏は勢い込んで言うものの、師匠と呼ばれた火城はというと、驚いた顔とともに首を振った。 「待て、それだけの種類のものを短時間でつくるのは無理だ。特にザッハトルテとオペラは手順が複雑で繊細だから、急いでつくるとそれはもう残念なことになる。口直しの煎餅も、生地やらタレやらを用意するとなると時間がかかるだろう、それなら、種類を減らして量を多くつくったほうがいい」 “チョコレートケーキの王様”ザッハトルテと、これがつくれたら一流のパティシエというオペラ、双方をいちどきにつくるのは、どうも難しいらしい。 「あ、そうなんですか……うーん、じゃあどうしよう」 「それと、フォンダンショコラは温かいのが命だから、出先でプレゼントというのは難しいかもしれないぞ」 結局、簡単でおいしいブラウニーと、平面で成型するため量の変更がしやすいオペラをつくることになった。煎餅は、先に米を蒸かしておいてもらい、ケーキを焼いている間につくるつもりだ。 「じゃあ、よろしくお願いします、師匠。特に飾り付けが苦手なので、教えてもらえると嬉しいです」 エプロンをし、三角巾まで身に着けて、作業開始となった。 ブラウニーは、正直、それほど難しくない。材料を混ぜて焼くだけのものだし、成形も簡単だ。 しかし、オペラは、さまざまな工程によって成り立っている。 アーモンドプードルをたっぷり使ったビスキュイ・ジョコンドをつくる。 ビスキュイ・ジョコンドに沁み込ませるコーヒーシロップをつくる。 クレーム・アングレーズベースのクレーム・オ・ブールをつくる。 生クリームとバターを加えたガナッシュをつくる。 それらを順番に重ね、ビスキュイ・ジョコンドにコーヒーシロップを沁みこませたら、最後にグラサージュ・ショコラをつくり、表面をコーティングする。 これらを、丁寧に、正確に分量を量ってやらねばならない。 しかも、お世話になった人たち全員に渡すため、であるから、けっこうな量になった。 「ブラウニーと比べると、格段に難しいですね、オペラって。でも、美味しく出来るようにがんばらなくちゃ」 焼き上がったジョコンドを切り分けながら、額の汗をぬぐう。 立派なオーブンからは、ブラウニーの香ばしく甘い香りが漂い始めている。 「熱心だな。それほど強く想う誰かがいるのか?」 ガナッシュづくりを手伝いつつ火城が問う。 「私、甘くておいしいものを食べるときに幸せを感じるので、バレンタインっていう特別な日に、私によくしてくれる人たちが、少しでも幸せを感じてくれたらなあって思うんです」 そのあと、照れたように笑い、付け足す。 「それももちろん本心なんですけど、本当はですね」 ブラウニーの生地を放り込んだオーブンが、高らかに焼き上がりを告げた。 並行して焼き始めている煎餅からは、醤油の香ばしいにおいが立ち上り、食欲を刺激している。 「私、まだ恋ってしたことないんです。師匠は恋ってしたことありますか?」 「……少なくとも、ロストメモリーになってからの俺はないな。必要もないことだろう」 「そうなんですかね? あのね、恋がどんなものか、って数え切れないくらい色んなものに描かれてるから、想像はするんです。でも、実感は湧かないんですよね」 人間とはそういうものだろうと思う。 豊かな想像力が、たった一回の経験にかなわないこともあるのだ。 「だから、いつか、大切な人たちだけじゃなくて、恋しい、恋した人にあげたいなって思います。ほら、胃袋を掴めって言うじゃないですか。だから、そのためには精進あるのみかなって!」 コーヒーシロップを沁みこませたジョコンドをガナッシュクリームの上に重ね、グラサージュ・ショコラでコーティング、冷蔵庫に入れて状態が落ち着くのを待ち、切り分ける。 特製のボックスに、金箔を飾ったオペラと正方形にカットしたブラウニー、個包装した煎餅を入れて封をし、リボンで飾れば出来上がりだ。この、冬夏の心が込められた豪華な贈り物は、きっと、彼女の大切な人たちを喜ばせることだろう。 喜んでもらえるのも嬉しいが、自分の気持ちを、自分の特技に載せて伝えられることもまた、嬉しい。 「場所を貸してくださった上に、お手伝いまで、ありがとうございました!」 冬夏はとても満たされた気持ちで頭を下げた。 いや、と首を振る火城に、ギフトボックスのひとつを差し出す。 「お礼になるかも微妙ですけど、これ、受け取っていただけませんか。感謝と、幸せを願う気持ちはいっぱい込めました」 「……そうか。ありがとう」 静かな微笑とともに、褐色の手が伸ばされる。 「あとね、人手が必要なときなんか、声をかけてもらえれば手伝いに来ますから! そんなので、お礼になるかどうかも判らないんですけど」 「いや、ありがたいと思う。その時はよろしく頼む」 「はい、任せてください! ……えっと、その、だから、また遊びに来ていいですか? で、もしよかったら、また、いろいろ教えて下さい」 「もちろんだ。いつでも来てくれ、歓迎する」 てらいのない言葉に照れつつも、冬夏は満面の笑みを浮かべた。 そして、 「さて、その贈り物を渡しに行く前に、もちろん一服していくだろう? いいものをもらった礼だ、とっておきの甘味を出そう」 「わ、ありがとうございます!」 心づくしのティータイムを楽しむべく、足取りも軽やかに、厨房をあとにしたのだった。
このライターへメールを送る