「皆さまお集まり、ではないようね」 リルカが室内を見回すと、予定していたロストナンバーは揃っていなかった。「あぁ、事情があって顔は出せねぇって」 応じて鰍はこの場に姿を現していない三雲文乃から預かったメモを懐から取り出した。「ちゃんと参加はするって言ってるから、勘弁な」「では、遠慮なく話を進めるわね」 参加者の中で連絡が取れているならそれも構わないと判断したのか、無感動に頷くと、リルカはさっそく本題を切り出した。「各自でも調査していたのだから、既に壺中天については知っているわね。端末を介して五感で接続するネットワーク技術と言えば良いかしら」 リルカの言葉に、仲津トオルは口元に僅かな笑みを乗せながら頷いた。「皆さまにはインヤンガイの探偵の手引きで壺中天へ潜入して、暴霊との戦闘に勝利することで仮想空間から現実へ戻ることができなくなった被害者たちの救出をお願いしたいの」 現実に戻ってくることができなくなったインヤンガイの住人は既に随分出ている。彼らを救出するためには囚われてしまったゲーム内で暴霊を倒すしか方法がない。「行き先は壺中天のアンダーグラウンドに隠れたゲーム。位置は割り出してあるから、しっかり頑張ってきてちょうだい。よろしくね」 鰍、トオル、そしてルツ・エルフィンストンの三人はそれぞれに表情を引き締め、リルカの言葉に頷くことで返事とした。 壺中天の中。問題のゲームを掲載しているサイト入り口を前に、鰍は深呼吸した。「デスゲーム……ね。現実でも仮想世界でも死の危険があるだなんて、インヤンガイってのも物騒な街だよなぁ」 今更かとも思うが、こうやって依頼解決のために仮装世界にやってくると、しみじみと考えてしまう。「現実で殺し合うよりは良いんでない?」 軽い調子で鰍の呟きに応じたトオルの表情は、言葉とは裏腹に険しい。「ま、それも暴霊絡みでさえなければ、だね。ホント、NPCを全滅させることじゃなくって生き残ることが勝利条件だってあたり嫌な感じだよね」「殺し合いゲームなんて、悪趣味だわ」 トオルの言葉に同意したルツもまた、目元を険しくしていた。 入り口に立つ彼らの前には「TowerGate」という文字とカウントダウンされている時間の表示と、鉄製の大きな門扉があった。それ以外には何もなく、ただ真っ暗な空間があるだけ。扉の取っ手には大きな南京錠と注意書きの書かれたボードが下がっている。「ルールが特殊なゲームだから気をつけようぜ」 四人参加者が集まった時点で開始する対抗戦の形式ではあるが、トオルの言った通りゲームクリアは生き残ることが条件となっている。 チーム戦だというのに、NPCである相手チームの全滅が条件ではない。 廃墟を舞台とした純粋に対戦を楽しむゲームと言えば聞こえが良いが、敵味方入り乱れてのデスゲームと言えばルツが悪趣味と評したのも当然だった。「あと一分」 参加登録開始までのカウントダウンは刻々と進んでいるが、門扉の前には彼ら三人以外の姿はない。被害者がこれ以上増えることがないので一般人がいない分には良かったが、未だ姿を見せない文乃に関してはトオルもルツも一抹の不安があった。「文乃のことは気にしなくていいぜ。言ったからには絶対来るからさ」 しかしそんな僅かな不安も、鰍が揺ぎ無く言い切る言葉で霧散する。「カジカジさんがそう言うなら信じましょーかね」「あたしも信じるわ」 目の前の門扉をくぐってしまえば、いくら探りを入れても詳しい情報が上がってこなかった戦場が待っている。現実から離れた世界では何が起こるか予想がつかない。今までゲームをクリアした人間がいないことを考えても予想外の事態が起こり得る。 不安材料は持ち込みたくない。鰍が大丈夫だと言うならそれを信じることで、いざというとき迷う選択肢が一つ減る。 ピッピッピッ……。 残り十秒を切った。カウントダウンの文字が赤に変わり、時報のような音が加わる。 ピッピッピッ……ゴーンゴーンゴーン。 開始時間と同時に、時報のような電子音ではなく鐘の音が響き渡り、南京錠が消えた鉄の門扉がゆっくりと開いてゆく。「何かアナウンスがあるとか、そんな訳でもないんだ」 閉ざされていた門扉が開いた以外の変わりはなく、依然として暗いまま。鐘の音の余韻が消えた後は再び静寂が戻ってきている。 開いた門扉の先もまた、見通すことの出来ない暗闇が広がっている。 今までこのゲームに挑んできた被害者たちは、静寂の中どんな気持ちでこの門扉を潜ったのだろう。まさか現実世界へ戻ることが出来なくなるとは考えてもなかったのだろうが、ルールがルールのゲームである。参加する側にも何がしか覚悟せざるを得ない異様な雰囲気があった。「よっし、行くか!」 鰍の一声を契機に彼らはゆっくりと門扉の中へ足を踏み入れる。ゲームなので登録するまでの間に取り返しのつかない事態は起こらないと分かっているはずだったが、不意打ちで何かが起こるのではないかと疑念が湧いてしまうのは、演出された不気味な雰囲気のせいに他ならない。「本当に悪趣味」 仮想世界であるために現実では動かない左手が動くことを確認しながら、ルツは心底嫌そうに呟いた。人の不安を煽るような演出には乗らないと強く心に念じる。 門扉を抜け進んだ先で彼らを待っていたのは、薄く発光している四つの扉だった。先ほどの鉄製とは違い、今度は木製のようだった。「今まで参加者同士で協力して攻略しようとするチームはいなかったのかなって思ってたけど、入り口が別々になってたんだねぇ」 トオルはため息混じりに呟いて扉の一つに近づいた。「これ開けたら参加登録ってことかな」「そうみたいだな」 トオルが向かった扉とは別の扉の前に立ち、鰍は深呼吸した。 いよいよ開始だ。ここまでの不安を掻き立てる演出は序の口に過ぎない。本題はゲームに参加してからなのだ。「じゃあ、後でな」 心の中で気合を入れ、扉を開ける。やはり暗闇が広がる扉の先へ一歩踏み出し扉を閉めた。「ああ、なるほど」 鰍が入った扉はトオルとルツの目の前で消えた。登録されたのだ。 四つの扉に参加者が四人。集まった時点で開始とはこういうことかとトオルは納得する。「行きますか」 そしてトオルとルツが扉を潜り、二つの扉が次々と消える。 残った扉は一つ。最後の参加者を待ち受けるようにぽつんと佇んでいた。 ……コツコツコツ。 三人の参加者が通り過ぎ静寂の落ちていた扉前に、小さな足音を立てて黒衣の女性が足早に現れたのは、さほどの時が過ぎた後ではなかった。 約束を破ることなくやってきた文乃は、一つだけ残った扉の前で足を止めた。黒いベールで覆われた表情は読めないが、引き返すつもりなどはないと分かる。 躊躇う様子もなく文乃が潜り抜けた扉が音もなく消え、辺りには暗闇と静寂のみが広がった。『殺しあえ』 扉を抜けた彼らにかけられた言葉は短く単純だったが、悪意に満ちていた。『お前の記憶を預かった。過去や自分を取り戻したくば戦え』 どこからともなく響く声の告げた内容に仰天し、慌てて過去を思い返してみようとしたが、それは無駄に終わる。 見事に自分が何者なのか、今までどんな人生を送ってきたのか、全てが脳裏から消え去っていたのだ。思い出すことができない。 今この場にいる経緯さえも。『一人一つ鍵を持っているはずだ』 声に促されて確認しようと自分の体を見てみれば、首から太い鎖が下がっておりそこに小さな南京錠が七つ付けられていた。『相手を倒して鍵を奪え。奪った鍵で己に掛けられた南京錠を開錠するのだ。開錠した分だけ記憶が戻る』 自分が何者なのか、知りたければ殺し合え、と声は促す。 一切の記憶がない中、自己を守り通すことは非常に難しい。己のアイデンティティがどう思い返そうとしても見つからない、その不安と恐怖。『さぁ、戦え』 行く先の見えないデスゲームのゴングが鳴った瞬間だった。=========!注意!この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。ただし、参加締切までにご参加にならなかった場合、参加権は失われます。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、ライターの意向により参加がキャンセルになることがあります(チケットは返却されます)。その場合、参加枠数がひとつ減った状態での運営になり、予定者の中に参加できない方が発生することがあります。<参加予定者>鰍(cnvx4116)仲津トオル(czbx8013)三雲文乃(cdcs1292)ルツ・エルフィンストン(cnus2412)=========
人の気配がなく、薄暗い廃墟。人の不安を煽るには絶好のシチュエーションで、取り上げた記憶を餌に強要される殺人。 自分自身の記憶でさえなくした彼らは何を考え、何を選択するのか。 何が善で何が悪なのか彼らの記憶には、ない。 突然のことに呆然としていた彼は、ようやく我に返った。 「殺し合いって言った」 聞き間違いではない。それに彼は声の言っていた通り何も覚えていなかった。自分に関することだけではなく本当に全て。声が聞こえる以前の記憶もぷっつりと途絶えている。 何かヒントになる物でもと身に着けたものを探ってみても、通常より若干小さなサイズの携帯用工具セットや印鑑セットなどの何の変哲もないものばかりだ。 「情報が足りない」 薄暗い周囲には人の気配もない。光る物を持っていない自分がどうやってここまで辿りついたのか、何の目的でここへきたのか、見当もつかない。 乏しい明かりに薄らと浮かび上がるのは、コンクリートの味も素っ気もない床。少し離れた辺りに壁が見える以外には取り立てて変わったものは見えなかった。 「ここで、戦えっていうの?」 声に従って記憶を取り戻すために? 倒せば記憶が戻るなんて声が言っただけで、何の根拠もないのに? 信じる根拠が見えない。 でも。今は疑う根拠もない。 信じることも疑うことも、どちらにも理由がない。理由がないのなら声を疑うのがセオリーだと思うのに、何かがそう判断することを邪魔をしていた。強いて言えば理由がないことが理由。信じることも安易に疑うことも、どちらも危険な気がする。 南京錠の数は七つ。つまり自分以外に七人がここにいる。見えない彼らはどう思うだろう。 殺し合うという言葉に抵抗を感じているのだろうか。いくら殺せと言われてもはいそうですかと殺せないと思うのだが、それは楽観的な考えかもしれない。何事も用心しておいて悪いことはない。 「ボクの名前は『アキラ』かな」 印鑑に彫られた「明」が自分の名前なのだろう。一つだけ自分に関する情報を見つけた。残された手段は注意深く情報をつなぎ合わせて状況を把握すること。 周囲に人の気配がないことをもう一度確認して、アキラは壁へ向かって足を踏み出した。背中を壁に預けることで、背後からの攻撃を防ぐのだ。 南京錠の下がった鎖が首元でじゃらりと音を立てた。 遠くで音がして、彼女はしゃがみこんだ体勢から顔だけ上げて周囲の様子を伺った。 「誰かが戦ってる?」 謎の声が去って以来何の音も気配もなかった中で、初めての何か。ここは戦場なのだから、誰かが誰かと争う中で起こった音なのだろう。 しかし、実際に戦闘が行われていたとしても、その後は音も聞こえず気配を感じることもない。やはり遠くだと思ったのは間違いではないらしい。 「こっちへ来るのかしら」 しゃがみ込んだまま気配を伺うが、薄暗く見通しの悪い空間の向こうからは何も感じ取ることができない。湿った空気と痛いくらいの静寂。 本当はこのままじっとしているのは良くないかもしれない。しかし、どんな敵が登場するのか分からないのだ。体力を温存する必要がある。 相手が大男だったら、力比べなどの方法では彼女に勝ち目はない。だからと行ってみすみすやられてやるわけにはいかない。 彼女が選択できる手段は一つ。奇襲とカウンターだ。 広い空間へ続く通路の角に身を潜め、彼女は周囲への注意を怠らないようにしている。いつでも対戦できるように準備万端だ。 右手でスティレットの短い柄を握り締め、片膝を付いた姿勢で微動だにせず神経を研ぎ澄ます。記憶がないのにそうやって集中するのだとどこかが覚えていた。 敵を迎え討つ。その一点に集中するのみ。 近づく気配を待ち続ける、そこに邪念を混ぜ込まない心の在りようを身に着けている自分に対する疑問はなかった。 決して多くない光を鋭利に反射して、小型のナイフのようなものが壁に突き立った。 後じさる動作の最中、不意をついて投擲されたナイフを無理矢理上体をひねって避けた彼は、背後に迫った壁を左足で蹴りつけた反動で右へ身を投げ出した。受身をとって回転し、相手の側面を突く。 うまく相手の反応できないタイミングで繰り出した攻撃に、敵を獲ったと確信した彼の投じたチェーンは、しかし敵を絡めとることはなかった。 「新手のお出ましかよ!」 今にも対象を拘束しようとしていたチェーンの先端を鋭い音と共に跳ね飛ばしたのは、目の前の敵とは全く違う方向からの銃撃によるものだった。 とっさに発射されたのだろう方向を確認するが、目の届く範囲では視認できない。遠くからの狙撃だったのだろうか。この暗闇の中でよく狙い打てたものだ。 新たな敵の出現に言い知れない感情が沸きあがってくる。 彼がそちらへ神経を向けた隙に、相対していた相手はチェーンの間合いを抜け、壁からナイフを回収していた。 闇色をした長いスカートの裾をふわりと翻し、ぴたりと彼にナイフの切っ先を向けたのは、全身を黒衣に包んだ妙齢の女性。すっぽりとかぶったベールがその顔の大半を覆い隠し、容姿どころか表情さえも窺い知る事ができない。 正面の近い場所にはナイフを持った得体の知れない女性。そして遠くには姿の見えない誰かが身を潜めている。 「アッハハァ! 面白くなってきたんじゃねぇの?」 この場にそぐわない高い笑い声を上げ、彼は口端を持ち上げていびつな笑みを作った。 自分自身のことも分からないこの状況で命のやり取りを行う異常性。条件が同じ相手にお互い根拠のない殺意を抱く愚かしさ。 (笑いでもしなきゃやってらんねぇ) 言葉とは裏腹に恐怖と不安に怯えている自覚はある。特異な状況を楽しんでいるふりを演じてようやく、何の支えもない自己を保てるように感じていた。 「貴方は私の探していた人かしら?」 声だけは穏やかに、黒衣の女性は滑るように近付いてきて手にしたナイフを振りかぶる。 「その顔の傷、俺が付けたって言ったらどうする?」 襲い来る凶器を避けながら口に出した言葉に根拠はない。記憶がないのだから傷があるのかどうかも知らない。ただ相手の神経を逆撫でするための選択だった。 意味ありげな黒づくめにヴェール。それが彼の不安を痛いほど刺激するのだ。だから彼は自らの足元が崩れ落ちていくような恐怖を払拭するために、剥き出しの憎しみをぶつけられることを選んだ。そうやって自分という存在を確認する。 強い感情を向けられる自分を認識することで確認できる己のアイデンティティ。 対応する記憶がないから、考えても考えても自分という人間像が描けなくなる。それは意識が実像を見失ってしまうことの第一歩だ。 実像を見失った意識が己を疑い出す。自己をたもつための根拠が記憶にないこの状況では、自分が実在しているのかしていないのかでさえ、あやふやなもののように思えてしまう。 「死んでもらいますわ!」 だから、彼が当て推量で言った言葉に明らかに反応した女性が向けてくる憎しみが嬉しい。 ナイフの軌跡を横目で追いながら、彼は口端を意識してはっきりと持ち上げた。自己の消失から逃れる嬉しさと、通常とは違う状況を楽しむ人間を演じるために。 持ち前らしい身の軽さを活かした動きで相手の斜め背後へ回りこみ、足にチェーンを絡めるべく放つ。 「こっちはガラ空きだぜぇ!」 夜行性の動物が夜の森を移動するような素早さで身を沈め、向けられた敵意を遡るように投じられたチェーンの先が迫るスピードは、ロングスカートを着用しなおかつベールで死角の多い女性に対応できる速さではない。 今度こそ捉えたと思った会心の攻撃は、再び彼の思惑から外れる結果となった。 最初からそのつもりで大げさな動作を見せ付けたのだろう。彼女はナイフを振りかぶった動作を全く止めなかった。相手に迫った勢いそのままで踏み込んだ足を軸に半回転した女性は、チェーンの襲撃を避けて彼のすぐ間近から首元にナイフを突きつけた。 「ワンパターンって言葉、知っていらっしゃるかしら」 挑発に乗って感情のまま直線的な攻撃を仕掛けてきたのだと思っていた女性は、冷静そのものだった。冷ややかに告げられた声には紛れもなく憎しみが宿っているのに、言葉はこの上もなく落ち着き払っている。 一ミリ動かせば首に触れる位置にナイフを突きつけられ、ナイフと少しだけ下にあるヴェールに隠された顔を視線だけで見下ろした。 鮮やかに形成を逆転したにもかかわらず冷静過ぎる声の持ち主らしく、ベールの隙間からかろうじて垣間見える口元からはおよそ表情は読み取れなかった。 「ハッ、お見事なもんだなぁ」 絶対的に不利な状況。内心は平静でないのを隠して、彼は無理やり笑顔を浮かべた。 殺し合っている現状を楽しがっていて、余裕があると装うことこそが彼の対処法だったから。 「だけど……甘ぇな!」 触れていないとはいえ、首筋との間はわずか数ミリしかないナイフから目をそらさないまま、彼は女性の足を蹴り上げた。 「……!」 スカートに隠れて見えなかったため、およその見当をつけていた膝裏にうまく足先が入ったようで、女性は抵抗することもできず後ろへ倒れた。 不意をついた彼女から飛び退りながら、彼は周囲を窺う。今度は狙撃されていない。 そう。どれだけ彼を追い詰めたとしても、所詮彼女には戦闘に関して経験も慣れも技術もすべてが備わっていない。長引かせれば体力的にいずれ自分に軍配が上がるだろう。ただし狙撃主が関わってこなければ、だ。 心は恐怖で震えていたが、判断は冷静だった。 「次はその首、俺がもらうぜぇ!」 捨て台詞を残して身を翻す。自分の身の軽さを存分に活かした彼の退避を、バランスを崩していた女性が追えるはずもない。 駆け込んだ先の通路を足早に進み、彼は脅かされる恐怖から逃れたことに人知れず安堵する。背後から敵が迫っていないかと気配を探りながら。萎縮しそうな自分を叱咤しながら。 (俺は戦うことが楽しい快楽殺人者だ。今は最高に楽しい時間だろ?) 自分自身を殺して、進むしかないから。 何かがおかしい。 狙っていた通り、無防備に眼前を通ろうとした相手に奇襲をかけた。 最初から一撃必殺がありえないことは分かっていたが、予想していたよりはてこずっている。それは完全に相手の意表をつくことが叶わず、背の中央へ突き刺さるはずだった凶器がわき腹を深く抉るに留まったからだ。予定では最初にもっと致命傷に近い傷を負わせておくつもりだったのだ。 とにかく長引かせないことが彼女が勝利するための絶対条件なのだ。 直前に体をひねって死に直結するような被害は防いでいたがわき腹への攻撃は深く、男のシルエットが膝から崩れ落ちるように倒れこむ様子は現実よりゆっくりと見えた。 流れ出る血がどことなく現実離れして見えると思った彼女へ向けて、仰向けの体勢から男が銃口を構えたのは敵ながら見事だったと思う。 しかし放たれた銃弾は男の狙いを大きく外れた。気配も探れないほど遠いどこかで甲高い金属音が聞こえた、ただそれだ。 負傷し床に倒れた体勢からでもこの近距離なら被弾させられるはずだったが、それも負傷したわき腹を踏みつけられては果たせるはずもない。 「あなたに恨みがあるわけじゃないの。だけど、あたしのために死んでちょうだい」 患部に激痛を感じていないわけではないだろうに、未だに一言も発することのない男を見下ろしながら、彼女は右掌の中に隠すように持っていたスティレットを強く握り締めた。脂汗を流しながらも無表情のまま軍人のような容貌をした男へ振り下ろす。躊躇いはなかった。 「!」 小さな凶器を突き刺そうとしたタイミングで、発砲したまま投げ出された男の左手に握られていたライフルの銃床が、彼女の足下を襲うのが見えた。 慌てて跳び退り、間一髪殴打されずに距離をとる。体勢を整えなおす間に視線だけいち早く様子を窺った彼女が見たのは、飛びのいて攻撃を避けただけの数瞬にライフルを構えなおし照準を合わせようとする男の姿だった。 (でもまだ整っていない) 相手が照準を合わせようとしていながら、まだ伏せたまま身を起こせていないことを見て取ると、彼女は躊躇いなく凶器を男に向かって投げつけた。 負傷箇所のある分行動が遅くなっている男の発砲よりも彼女の投擲の方が早い。当然男は発砲するよりもかわすことを優先させるはずだ。もし回避行動を取らなければ投げつけたスティレットの餌食になるだけ。どのみち彼女の勝ちだ。 「さようなら」 案の定床を転がることで強襲を避けた男を目前に、投げつけた武器を追うように距離を詰めた彼女は突き立った凶器を左手で引き抜き、見せ付けるように振り下ろした。 今度は男の手ごとライフルを踏みつけながら。 ぐるぐると眩暈がした。 誰かが自分に向かって何か言っている。 『カ……さんがそう言……信じましょーかね』 『あ……も信じるわ』 酷い眩暈と吐き気だった。頭の中で反響するように聞こえるは一体誰の声だろう。ぐわんぐわんと脳をかきまわしている声。言葉ははっきりと分かるのに声が男なのか女なのかも分からない。 『……で……うよ……は良いんでない?』 あれは誰だっただろう、とても大事なことを話していたような気がするのに。 分からない。思い出せない。 眩暈が治まるのを待って、彼は座り込んでいた床から腰を上げた。 今のは記憶の一部が蘇った瞬間なのだろう。忘れていたことを緩やかに思い出すようになるとかそういった優しい戻り方ではないらしい。脳を揺さぶられて、今まで繋がっていなかった神経を乱暴に繋ぐような強引な戻り方。 「胸クソ悪ぃ」 断片的に思い出される何か。自分と誰かがいた時間があったという、それだけの不確かな記憶。 何となく先ほどまでと変わったような気がして見ると、首の鎖にかかった南京錠は一つ消えている。 「どおりで開錠できないはずだ」 詳細は思い出せないが、鍵に関する知識があった彼は最初に南京錠を鍵なしで開錠することができないか試みていた。錠前外しには絶対の自信があったのに全く歯が立たなかったのは彼の腕がどうこうということではなかったらしい。 「だいたい、鍵だって持ってなかったもんな」 何か計り知れない力で管理されている錠前であり鍵なのだろう。手が出せないのが歯がゆいが、そういうものだと思うしかない。 「これで一人減った、か」 相手は残り錠前と同じ数の六人。 アキラは壁伝いに歩いていた。今いる場所を正確に把握したかったからだ。 「何の建物なんだろ」 脳裏に地図を描きながら考えていた時、急に頭部を強烈な衝撃が襲った。 立っていられないような感覚に平衡感覚を失い、ふらりと体が傾ぐ。とっさに広めの足幅でバランスを取ろうと踏み出した足が空を切ったことを、頭部をかき混ぜられるような強烈な感覚に惑乱されたアキラが気付けるはずもなかった。 森が見えた。 深く壮大な森と、濃い空気。静寂と喧騒を分けるように立ちはだかる大いなる自然を前に人は息を飲み、尊敬と畏怖を抱くのだ。 (帰って来た。懐かしい) 無意識に深呼吸して、眼前の景色からはするはずのない濃厚な血臭を感じた途端、夢から覚めるように景色が様変わりした。 自らが止めを刺した死体が転がる生々しい光景に、今見たはずの懐かしい森の幻をかき消されたような気がして、彼女は顔を背けた。 懐かしい光景。ただの景色だけだったが、途轍もなく懐かしいという気持ちだけは揺ぎ無く確かだった。 まるで酩酊しているような奇妙な浮遊感を振り払い、彼女はその場を後にした。記憶を取り戻すために。 昏倒していたのは少しだけの時間だったらしい。 床は先ほどまでとほぼ変わらない。違うのは、目が覚めた時に見上げた先が大穴の開いた天井で、どうやら先ほどまでは二階で今は一階にいるのだということだった。 「いたたた」 二階から一階へ受身も取れずに落ちた割には元気だなと思いながら、あちこちの打撲加減を確かめる。所々痛かったが、大したことはなさそうだった。 あの表現しがたい衝撃と共にいくつかの記憶が戻ってきていた。身動きできない箱の中に閉じ込められたみたいに掴めるものが全くない感触だった記憶の中に、新しい空間ができたようになっているのを感じる。 「少なくとも、誰かが誰かを殺したってことで間違いないよね」 戻ってくるとも限らないと疑っていたが、一つ疑いは消えた。実際に記憶は戻ってきているのだから。 「ていうか、自分で倒してなくても戻ってくるんだ」 記憶を奪うとかそんな非現実なと思ってはいたが、記憶の戻り方も常識では計り知れないくらい非現実的だった。常識的に解釈して、倒した相手から鍵を取り上げて自分の南京錠を開錠すると記憶に繋がるヒントが手に入る、といった感じのものを想定していたのに。 しかし振り返って冷静に考えてみれば、最初から現実離れしたことばかりだったのだ。何となく状況にのまれてしまい今まで問題にしていなかったが、自分の常識や物理法則に照らし合わせてみると、明らかに今この展開は現実ではない。 二階から一階へ落ちた痛さや触っている壁の感触をみても、まさかこれが夢だとは思わないが、何らかの仮想現実を体感しているのではないか。彼の思考することに長けた脳はそれが結論だと半ば確信していた。 「誰かが『悪趣味だ』って言ってた。本当に悪趣味なゲームだよ」 少しだけ戻ってきた記憶。自分はこの殺人ゲームが殺しあうゲームだと知っていて参加したということ。それには何かの理由があったこと。そして、誰かと連れ立って参加したのだということ。 なぜよりによってこんな殺伐としたゲームに知っている者同士で参加したのだろう。 肝心なことは不明なまま。そして自分自身に関しても、記憶は霧の中だ。 「うわ」 考えながら歩いていたアキラの視線の先に現れたのは、流れ出した血だまりの中に横たわる死体だった。力なく投げ出された手にはライフルが握られたままだ。 「見た感じ致命傷は心臓を一突きのコレだね。それからわき腹にも結構深い傷。傷口から見て刃物ではないけど鋭いアイスピックみたいな凶器で刺突、ってとこかな」 テキパキと死体を見て、死因を特定する。ライフルとの戦闘を制したのは、飛び道具ではなくもっと直接的な武器だ。 「って、あれ? ボクなんやっとったヒトなん?」 簡単な検死をしている自分に、やってみてから疑問を持った。改めて考えるまで不思議にも思わなかった。ごく自然な行動だったのだ。 自分の特殊な知識に首を傾げていたアキラの耳に、ヒュンという僅かな音が聞こえたのはその時だった。 「あっれー? 上手く避けちゃってぇ! ざーんねん」 床を転がってワイヤーを避けたアキラを見た男は、場違いに明るかった。 「俺さー、さっさと帰りたいんだよね」 アキラと大して変わらない程度しか記憶がないはずの男は、覚えてもいない場所へ帰るという。口調が明るいというより軽すぎて深刻さに欠けたが。 「だからさぁ。オマエ、さっさと死んでよ」 正直、ここまでの行動でアキラは自分の運動神経に不安があった。そして思った通り今正に、転がって逃げた体勢から次の行動が予想以上に遅い自分に多少の焦りを覚える。 (あそこ、あそこなら何とか!) 戦い方を組み立てながら、運動が苦手らしい自分の体を必死で動かす。 「なになに逃げちゃうのぉ? 逃がさないよ」 男が笑い含みの声で悠然と追いかけてくるのを確かめながら、アキラは繰り出されたワイヤーを避けつつあらかじめ想定した位置へたどり着く。 「逃げるの諦めた? いい心がけだね」 動きを止めたアキラを見て男が嬉しそうに笑い、両手でワイヤーを放った。 考えた通りの状況だった。アキラはタイミングを見計らってすぐ側の壁穴を潜り抜ける。 「ええぇぇ!」 口数の多い男が緊張感のない悲鳴を上げ、自らの武器で身動きできない体勢になった姿を確認すると、アキラはゆっくりと男に近寄る。最後の一人に残るゲームなのだ、相手に恨みはないが仕方がない。 「すみませんね」 そう言って手にした工具を男に振り下ろす、ことができなかった。 「……え?」 ごまかさずきちんと考えた。殺さなければ殺されるだけ。ちゃんと納得しているというのに、いざ命を絶とうという今、動けない。どうして。 何度やろうとしてもできなかった。手が震える。直前で止まる。なんで。 自分の死に直面した状況ではさすがに黙っていた男が再びうるさく口を開きはじめ、アキラは我に返った。 何が原因かは分からなかったが、きっと、自分は命を奪う決定的なことはできない。このゲーム、勝ち目なんてない。 愕然とした気持ちのまま、アキラはその場を離れた。身動きできない男をそのままにして、逃げるように。 どれくらい時間が経っただろう。自分を失う恐怖と戦っていたはずだったのに、いつの間にか戻り始めた記憶がもたらす自分に対する恐怖へと代わってきていた。 思い出されるのはふざけているようで根が真面目な自分。誰かに信頼されていた、という自分。それがなぜこんな人殺しに参加しているのか。 『これは誰かに設定されたゲームだよ。しかも現実じゃない』 そんな忠告をして息絶えた男。敵意むき出しで襲い掛かり、殺した途端蘇った彼の記憶に鰍は愕然とした。自分をカジカジさんと呼んだ仲間。何らかの理由で共にこの殺人ゲームに参加した、トオル。 仲間の命を犠牲にして何がしたいのだろう。まともな神経などとうに麻痺した。 本当に、正気でなんていられない。 もどかしい。強く誰かを憎んでいた記憶が蘇っているのに、その相手が思い出せない。その理由が思い出せない。 自分にとって、何よりも大切だった何か。濃い霞が曇らせた記憶の先にある大切なそれ。取り戻したいと気持ちが焦って仕方がない。 錠前がひとつ消えた代わりに戻った僅かな記憶の中に、今目の前で息絶えた相手はいない。 「この中にいるはずなのに」 憎い憎いその誰かが。 「よぉ、約束どおり首をもらいに来たぜぇ!」 ジャッという音と共に見覚えのあるチェーンが彼女の体に巻きついた。 「アンタのことは思い出した。けど容赦しねぇ」 記憶が戻った分さっきよりも殺伐とした空気を漂わせた男の力に逆らわず、チェーンが引き寄せられるまま、むしろ自分からその懐へ滑り込んだ。凶器を握った手に思ったとおりの感触。 憎くてたまらないが、その憎んでいる相手を殺すことにも本当は不安がある。復讐というよすがをなくせば存在意義を見失った人生が待っている。憎い相手への復讐心とその先を生きる自分への不安と。相反する気持ちは同時に彼女の中に存在していた。 「あなたでもないのね」 しかし、今引く力と飛び込む力の両方を利用してパレットナイフを突き刺したこの敵は、その憎い相手ではない。復讐以外の殺害にためらいがないわけではなかったが、この複雑で強烈な気持ちに至った大切な記憶のためならかまわないと信じていた。 「それでいい。アンタはアンタのために行けよ、文乃」 さっきまでの狂気じみた笑いとは違う、穏やかな笑みでゆっくりと息を引き取ったその人。 「鰍……さん」 最初だけは酷い衝撃を伴ったが、それ以降は紗がはがれるように戻ってくる記憶。殺してから相手の記憶が戻るのはとても残酷なことだった。 「あなたにはお世話になりましたのに」 これは殺し合いゲーム。片隅に蘇った記憶が、このゲームに関して調べていた自分を呼び起こす。そう、目的があってこのゲームを調べて、そして何かを解決するためにここへ来たのだ。 首の鎖にかかった南京錠は残り二つ。八人いたはずの参加者はいつの間にか三人まで数を減らしている。 記憶を取り戻すためなら死も厭わない文乃だったが、生き残ることこそが記憶を勝ち取るというのなら喜んで残りの二人を狩る。 「みつけましたわ」 唯一ヴェールに隠れていない口元を笑みの形に綻ばせ、文乃は薄闇の中に発見した人影へと足を踏み出した。 ゆらりと不思議な気配で背後から襲い掛かってきたのは、黒づくめの女性だった。 彼女がその強襲に気付いたのは反応できるギリギリで、とっさに跳ね上げたスティレットが相手の握っていた珍しい形のナイフを弾いたのは運が良かった。 「貴女が私の探している相手かしら?」 刃こそないが、十分に鋭利なスティレットの先端が至近距離で胸元を狙っている状況だというのに、妙齢と思われるその女性は酷く落ち着いた調子で彼女へ問いかける。 「なんのことか分からないわ」 とっさの行動で突きつけたスティレットを握っているのは左手。なにか違和感のあるその光景は、彼女に奇妙な高揚感を呼び起こす。不思議とどんな相手と戦っても負ける気がしなかった。 一歩女性に向かって踏み出せば、相手が同じだけ後へ下がった。無言で更に進むと女性の背が壁に突き当たる。 「あたしの勝ちね」 長いスカートから突然突き出された足を余裕でかわし、転倒した女性が拾おうとしたナイフを蹴り飛ばした。 何もかもが思い通りに動く。なんて素晴らしい。 残りはひとり。 『合格』 響き渡った声に、ルツは反射的に周囲を見回した。 『お姉さんだけだよ、最後まで自分のことも他人のことも思い出さずに戦いきったの』 薄暗い廃墟だったはずの場所はただ白いだけの空間に変わっていた。少年とルツだけがいる空間。 「どういう意味なの」 今までが嘘のように記憶が戻っていた。最後に倒したのが文乃だったことも、なぜこんな悪趣味なゲームへ潜入したのかも。 『記憶の戻る順番は自分で決めてるんだ。みんな思い出したくてたまらない事ほど事実を知るのが怖いんだね』 矛盾する気持ちを持っているのが人という生き物。知りたいけれど知りたくない。それは誰もが経験する心の葛藤だろう。 十歳前後だろうか。まだあどけない少年が無邪気な笑顔で人間の心理を語る。 『お姉さんだけ自分にも他人にも興味がなくて、戦いを満喫してた』 だから故郷のこと以外は思い出さなかったし、余計な考えがなかった。 それが最後まで勝ち残る秘訣だったのだと告げられて、ルツは少年の笑顔に隠された闇を見せられたような気がした。 『だから、最後にボクを殺してよ』 お姉さんなら子供のボクを殺しても後悔しないでしょ? とんだ見当違いだ。今回はたまたま動かないはずの左腕が動く感覚に自己を省みなかっただけで、ルツだって子供を殺して後味が悪くないはずがない。 それでも。最後のひとりになる、それがゲームクリアの条件。 少年が望むなら、そしてそれがゲーム世界に囚われた多くの人を救うことになるのなら。 ルツは快適に動く左手に握った自分の得物を少年に向ける。 『楽しかったよ、テレビ見てるみたいで』 それが少年の最期の言葉だった。 ゴーンゴーンゴーン。 鳴り響く鐘の音の中。消え行く白い空間で、ルツはついに動かなくなった自分の左手を見つめた。 現実に戻ればもう動くことはない左腕。昔失ったもの。 でも、ここで戦士だった記憶はずっと残る。思い切り戦うことができた満足感と、少しの後味の悪さと共に。
このライターへメールを送る