白い回廊の端に、見知らぬ顔がある。 青年と呼んですらいい、あどけなさを残した男だ。飄々とした笑みも相俟って、外見からでは年齢は測りようがない。 壁に掛けられた絵をしげしげと眺め、すぐにまた違う絵へと関心を向ける。ころころと興味を移すその様は、とてもこの画廊に絵を買いに来た客には見えなかった。 ふと、青年がこちらへ目を向ける。 瞬間鋭い色をその瞳に宿し、しかし即座に人なつこい笑みでそれを塗り潰す。 「どうも、はじめまして」 そして、意外なほどに律儀な挨拶を寄越した。 女は軽く目を丸め、小さな会釈を返す。 「ボク、仲津て言います。八重柏さんには生前よくしてもろて」 溌剌な抑揚の所々に西方の訛りが混ざる。柔らかな、京都の言葉だろうかと見当をつける内に、沸き上がった違和感がどこかへ去っていくのが感じられた。 「今日はお悔やみを言わせてもらいにきました」 「……ありがとうございます」 「いくつか、話を聞いてもええですか」 知人の死の真相を知りたい、という青い好奇心を装って、しかしどこか褪めた口振り。こういう問い方をする人間を知っている。 女は微笑み返し、小さく頷いた。 「事故死やった、て聞きましたけど」 「ええ、深夜に堤防から落ちて。きっと酔っていたのでしょうね」 事実、夫は酒癖の悪い所があった。 若者はその言葉に相槌を返し、短い礼と共に彼女の側を離れた。画廊に並ぶ絵を順に見て回る。 そして、ふと一枚の絵を見上げ、呟いた。 「綺麗な絵ですね」 眼鏡の奥の溌剌とした瞳が、白銀の森を描いた幻想的なその絵画を見上げている。 「この絵は八重柏さんが描かれたんですか?」 「ええ。夫が」 簡素に応じれば、若者は納得したように何度も頷いた。 「八重柏さんらしい絵やと思います」 「よく御存知ですのね、夫のこと」 そっと、探るように問いかければ、若者は曖昧に笑んで頷いた。何と答えようか迷った挙句、言葉を探すのを諦めたような仕種。 その一瞬、快活な瞳が冷えた光を燈した様を、女は見逃さなかった。 ◇ 「女はその瞬間、確信しました。“この若者は危険だ”と」 ロストレイルが硝子の轍の上を駆ける、規則的な音が響く。 仲津トオルは微かに目を細め、向かいに座る女の語る言葉を聞いていた。 女は黒いヴェールで顔のほとんどを覆い隠し、表情を窺わせない。身体もまた隙のない黒いドレスに包まれ、ただ語る口許だけが妖艶なまでに白く、ひどく目を惹く。 まるで、誰かの喪に服しているかのような姿だ。 客車を見渡しても、彼ら二人以外に乗客はいない。だというのに女はわざわざトオルの正面を選び、優雅な物腰で相席を申し出た。快く応じた彼の前に座り、そして徐に語り始めたのだ。 女の話ではなく、トオルの話を。 警鐘が鳴り響く。 この女は何者だと、彼の中の褪めた部分が考える。記憶でも読まれたか、と戯れに考えて、すぐにその推測を打ち消す。 女の傍らではグミ太――トオルのセクタンが物言わぬロボットを興味深そうに見やっている。それもまた彼と同じセクタンで、ならば女は彼と同郷の人間という事になる。 「わたくし、ターミナルで古美術商を営んでおりまして」 「……へえ」 唐突に話題を変えた女の思惑に、トオルは敢えて応じる事にした。女はその白い口許に嫣然と笑みを湛え、大きな黒いバッグの口を開く。 「是非、貴方に見ていただきたい作品がありますの」 そう言って取り出したのは、額に収まった小さな絵画だった。 惹き込まれるような、一面の銀が広がる。 しろがねの森に、しろがねの雨が降る。 繊細な色彩の中に、金の瞳の一角獣が佇んでいる、幻想的な光景。 「美しいでしょう?」 「……それは、」 描き手の豊かな感受性を如実に反映したその世界に、トオルは覚えがあった。 差し出された白銀は美しく、うねるような情景はなにも語ることなくただ静かにそこに在る。まるで、初めて見たあの日――彼に直感を与えてくれたあの瞬間と同じように。 確信が、目眩を伴って彼を襲う。 なにもかもがあの日と同じ。 どうしようもない既視感に襲われて、しかしトオルは首を横に振る。 ありえない。 あるはずがないのだ。 だって、彼女は、目の前で――。 ◇ 「いきなり警備を敷いてくれっていうから、何かと思ったら」 隣を歩く朝丘圭司が非難めいた口振りでそう零す。トオルは何も答えず、傍らを流れる川へ目をやった。 「本当に彼女が怪しいと思っているのか、あんたは」 実直な刑事の胡乱な視線を感じ取りながら、しかし彼は頑なに向き直ろうとはしなかった。まるで追及される犯罪者のようだと肩を竦め、実際にそうなのだから否定は出来まい、と心中で苦笑する。 「彼女には確かなアリバイがある」 夫の死亡時刻、新幹線の中に居たという揺るがぬ証拠が。 「ボクはただ、あのお人に話を聞きたいだけですよ」 西方の柔らかな訛りを語尾に残し、トオルは飄々と答える。朝丘刑事は半信半疑のまま、それでも部下に無線で待機の指示を飛ばした。 「だが、珍しいな」 「え?」 「あんたがこんなに事件に肩入れするなんて」 二人は大橋へと通じる川沿いの歩道を行く。傍らの川は対岸の様子が小さく見えるほどに広く、土色に濁り、うねるように流れている。 「いつもだったら、すぐに逃げるだろ」 関わってたまるか、とばかりに。 茶化すようでもなく、純粋に疑問を抱いている様子の刑事へ、思わず苦笑を返した。頻繁に事件に巻き込まれ、早々に真相を見抜いて、証拠と証言を揃え、犯人へと突き付けて逃げるように立ち去る。それが朝丘の見る普段のトオルなのだろう。己の事ながら碌でもない。 「……まあ、今回ばかりは、関係ないとも言えんのですよね」 そう、ぽつりと落とした声は、刑事の耳には届かなかったらしい。 やがて彼らの路の先に、ひとりの女が姿を顕した。 喪服のドレスを翻し、顔を傾けた女は、やってきた二人に気が付いたようだった。 「いきなり呼び出してすみません」 出会い頭、深く頭を下げる。相手がかすかに微笑んだ気配がした。 「いえ。何か、御用でもありましたかしら」 八重柏文乃。 彼女はやはり、初めて見たときから何も変わらない。 トオルの頭の中で、警鐘がわんわんと鳴り響いている。それは初めて彼女を見たときから、天使の囁きにも似た不快さで彼を駆り立てるのだ。 唾を飲み込み、それをやり過ごす。 「聞いてほしい話があるんです」 「刑事さんと御一緒に?」 「はい」 訝しげに問う文乃に、トオルはただ頷いた。 「御依頼の絵、お持ちしましたけれど」 控え目にそう語りかける女は、肩から黒いバッグをかけていた。 トオルはその絵を見たいと言い、彼女を此処まで呼び出したのだ。 「あとで見せてもらいます」 笑んで応え、二人を促して眼前にかかる大橋へと歩みを進める。 「……ずっと気にかかってました。酔っていたはずの清吾さんがあの日、堤防へ向かった理由」 そして、ふと、本題を切り出す。 八重柏清吾の死の真相。 トオルはそれを知りたくて、この橋まで赴いた。 「堤防の位置は彼の自宅からは随分遠い。確かにそれは不審ではあったが……」 朝丘がそれに応えて、首を横に振った。警察の中では彼の死は既に、事故として片付いている。 「そ、これだけじゃ事件を疑うには弱いんです。……ところで、文乃さん。清吾さんは貴方に保険金をかけていたそうですね?」 女の歩む足が止まる。灰色の瞳が静かに、トオルへと向けられる。 トオルもまた立ち止まり、その視線を真っ向から受け止めた。 「ちょうど、清吾さんはお金に困ってたとも聞きます」 「待てよ仲津。その口振りじゃ、まるで彼女が――」 自嘲気味に唇を曲げ、言葉を続けようとしたトオルへ、朝丘が口を挟む。 トオルは一つ、頷きを返す。 「……本当は、殺されるんは文乃さん、あなたの方やったんです」 文乃は穏やかな笑みを崩さない。 「おかしな事を仰るのね、探偵さん。こうしてわたくしは生きていますけれど?」 トオルの言葉の意味を理解していながら、あえて真っ向から反論する。笑み含んだ灰色の瞳が、試すように彼を映していた。 「だからおかしいんですよ。――犯人と被害者が、入れ替わってしもたんですからね」 その瞳を受け止めて、慎重に言葉を紡ぐ。 「清吾さんは、保険金を目当てにあなたを殺そうと企んだ。わざわざ周到なアリバイまで用意して」 「アリバイ?」 絶妙のタイミングで朝丘刑事が言葉を挟む。トオルは芝居がかった仕草で眉をひょいと上げて、一枚の紙片を取り出した。 「その日、彼はオペラを見に行っていた」 「ああ、遺体が二階の先頭の席のチケットを持っていた。被害者が入場したのも、その列に空席がなかった事も確認が取れている。……ん?」 手元のメモを眺めつつ朝丘が説明を加え、しかしふと言葉を止めた。トオルの持つチケットに目を向け、それを覗き込む。被害者のチケットは証拠として警察が管理しているはずなのだが。 「二階席の最後列じゃないか、それ」 「そ。清吾さんのチケットじゃないんです。――彼が用意した、替え玉のものなんですよ」 「……どういう事だ?」 「簡単な話です。文乃さんは被害者の用意したアリバイの証人になるだけでよかった」 ――その日、確かに夫を劇場へ送り届けたと。 そう言って、後は舞台の終わりを待たずに新幹線にでも飛び乗ってしまえば、それだけで彼女のアリバイは成立するのだ。 劇場のロビーで夫は後席に座っていた適当な人物に声を掛け、自分の席を譲る。そしてチケットを手に、そのまま妻の後を追った。 あたかも、自分はずっと客席にいたとみせかけて。 「わざわざ二階席の先頭を選んだんもそのためです。舞台から一番目につきやすい、けど顔まではわからない。替え玉を置くには絶好の場所やった」 しかし、妻はそれを知っていた。 駅へと向かう自分を追い掛けてきた夫を堤防の上で待ち伏せ、逆に突き落とし、殺した。夫が用意したアリバイはそのまま彼の死亡時刻を舞台終了後と誤認させ、妻のアリバイをより強固にしてしまった。 「……証拠がありませんわ」 静かに笑み深める。 女がそう返す事さえ、トオルは判っていた。 「清吾さんはその男性にお金を手渡していたそうです。依頼料、みたいなもんだったようで。――でも」 ぴん、と伸ばした指先が天を向く。 まるで、全ては日の元に暴かれるべきなのだと、そう告げるように。 「胡散臭いて、思たんでしょうね。だから彼は紙幣を使わずに残しておいた。……出ましたよ、清吾さんの指紋」 それこそが、決定的だった。 その日、八重柏清吾がオペラハウスに“存在しなかった”証明。 そして、八重柏文乃のアリバイが、意味を為さなくなった証明。 暫しの沈黙の後、八重柏文乃は目を伏せ、小さく溜息を落とした。 「……初めから、その為にお呼びしたのね」 その言葉は静かで、先程までの挑戦的な様子を垣間見せない。ただ全てを諦めたような、穏やかな雰囲気だけがあった。 「すみません」 それを何よりの自白と見て、トオルもまた探偵としての仮面を脱ぐ。一人の若者に戻った彼は素直に、今一度頭を下げた。 文乃はバッグを地面に下ろし、その中から白銀の絵画を取り出して、愛おしいものに触れるように一角獣の輪郭をなぞる。 「では、この絵はもう必要ありませんわね」 黒いレースの裾と、白い肌のコントラストが鮮やかに目を焼く。繊細な白銀をその腕に抱きしめて、文乃は一歩、二歩と彼らから距離を取った。 そのまま彼女は、岸ではなく橋の隅へと歩みを寄せた。 ひらり、とスチールグレーの欄干に飛び乗る。まるで散歩の続きのような、鮮やかな素振りで。 「――文乃さん!」 叫びと共に、トオルが欄干へ駆け寄った。――しかし、その焦燥は、振り返った女の視線に掻き消される。 足を止める。 穏やかだったはずの灰色の双眸が、冷たく昏い光を伴ってそこにある。ただ、芯から冷えた色彩の瞳が、トオルだけを映していた。 淡い色の紅を惹いた口許が、嫣然と持ち上がる。 「御機嫌よう。名探偵様」 喪服のドレスが翻る。しなやかな肢体が、ぐらりと傾ぐ。 漆黒の女と、白銀の色彩が、濁流の中に融けて消える。 水面は遠過ぎる。 彼らの耳には、水音ひとつ届かなかった。 いとも容易く、女は橋の上から“消えた”。 欄干へ駆け寄り、そのまま落ちてしまいそうなほどに身を乗り出したトオルを、朝丘刑事が寸での所で捕まえた。背後で部下に指示を飛ばす、鋭い声が聴こえる。 振り返る事も、身を戻す事も忘れ、トオルはただ眼下に広がる川を見下ろしていた。 うねり狂う土色の激流に、吸い込まれてしまいそうだった。 ◇ ふ、と、客車に光が溢れる。 つられるように視線をずらせば、いびつに割れたディラックの空ばかりを映し出していた窓が、白一色に塗り潰されていた。 風景ではない。自然物どころか、線も点も何一つない、塗られる前の画布にも似た白。客車を照らすのは白と言う色それ自体が持つ明るさであり、決して光などではなかった。 「女の遺体は、結局上がらなかったとの事です」 視線を逸らしたままのトオルに、女は語り続ける。 「探偵は女が逃げられないよう、橋の周囲に警察を配備していたようですわ。女もそれを薄々察し、けれど敢えてその挑戦を受けました」 その微笑みはただ静かに、美しく、しかしどこか悲しそうでもある。 「女には勝算がありましたの。絶対に、その場から逃げられるという確証が」 「――ありえない」 思わず、噛み付くように声を挟んでいた。 気付いた時にはもう遅い。トオルの口からその一言を引き摺り出せた事に、女は満足げに微笑んでいた。 ――それでも、ありえるはずがないのだ。 己の敷いた包囲網を潜って、逃げ出す事ができたなどと。 探偵としての自信からか、或いは罪を追及される犯罪者の心地か、トオルの舌はまるで独立した生き物のように言葉を紡ぎ続ける。 「あるはずがないんです。刑事さんの敷いたあの警備の中、逃げ出すだなんて、そんな」 ぞり。 女の手にするパレットナイフが、客車の壁を抉る。その、生々しい音が、喋り続けるトオルの口を塞いだ。 「あら。それなら、“わたくし”は死んでいればよかったと。そう仰るのね?」 「――っ」 そう。 本当は、初めから知っていた。 黒いヴェールにあの優しい瞳を隠したとしても、儚げな佇まいを払拭していたとしても、その声を聞き間違えるはずがない。 その笑みを、見間違えるはずがなかった。 トオルの目の前で淡々と語るこの女こそが、かつてあの橋から身を投げた――八重柏文乃である、と。 「わたくしを捕まえたくてあんな警備を敷いたんじゃなかったのかしら。では何故今になって、生きていた事がそんなに許し難いの?」 その声はひどく優しく、ひどく悲しげな、詰問だ。 トオルは返す言葉を喪って、黒いヴェール越しに糾弾の視線を受け止めた。 「本当に身勝手な人。自分が金を騙し取った男が殺されて、罪滅ぼしをとでも思ったのかしら? 警察を使って女を一人追い込んで、それで今更死なせるつもりはなかったとでも言うつもり?」 ――そこに、あの、灰色の瞳がある。 見えないまでも、最早疑いようがなかった。 濁流へと身を投げる刹那、彼を振り返った、あの昏い灰色の瞳が。 「ボクは、」 「探偵を気取るのも大概になさったら? 詐欺師様」 罪滅ぼしなどと、考えたことがなかった。そもそも詐欺にかかったのは男自身であり、トオルに罪の意識などなく――だからこそ、女はその言葉を選んだのだと知れる。彼を、たかが犯罪者に過ぎぬと糾弾する。 規則正しい列車の音が響く中で、窓の外の白がおもむろに姿を変え始めた。ぱたぱたと、次々と倒れていくドミノが新たな絵を紡ぎ出すのに似た軽快さで、白いだけの風景に黒が混ざっていく。瞬く間に窓の外はモザイク模様で埋め尽くされた。 景色がうねる。白と黒とが侵蝕を繰り返す。 「……まあ、結局はその手を使うまでもありませんでしたけれど。八重柏文乃は川に落ちた直後、異世界へ消えてしまいましたから」 それが、彼女の遺体が上がらなかった理由。 決して癒える事のない顔の傷跡と引き換えに、女は壱番世界からその存在を消した。 「ある意味では、探偵のおかげと言えるのかもしれませんわね。……警察は二度と彼女を捕まえる事は出来ない。どこかの誰かの浅はかな策略の所為で」 苛烈だ。 あまりにも苛烈で、容赦のない言葉が優雅な声音で叩きつけられる。鋭利で峻烈な視線がトオルを射抜く。昏い灰色の瞳がヴェールの奥にある。 「感謝いたしますわ、名探偵様」 皮肉に充ちた言葉を投げて、黒いドレスの裾を払って立ち上がる。 「それでは、御機嫌よう」 女は最早、トオルの方へ見向きもしなかった。ヴェールの下から覗く口許に笑みを添えて、しろがねの絵画を残したまま、気まぐれな淑やかさでボックス席を離れる。ロボットフォームのセクタンが軋む音を立てながらそれを追い、彼にちょっかいを掛けていたグミ太がバランスを崩して席から転がり落ちた。――その全てを、トオルは胡乱な目で見つめるしかなかった。 列車は止まり、遠くの喧騒だけが、耳に響く。 いつしか、窓の外は黒一色に染め上げられていた。 <了>
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