小さな噴水の脇で止まった車から降り立って、仲津トオルは枝葉の合間から射し込む日光の明るさに思わず目を細める。澄んだ大気の中を降りる陽射しは、眩くも柔らかに注いでいた。 白く、横に広い形の建物は、静けさと鷹揚さを保ったまま其処に在る。緑の蔦に埋もれ、まるで、時を止めたように。 「本当に、ここが?」 訝しげに問いかければ、隣を歩く朝丘圭司が神妙に顎を引いた。 「昨夜の話だ」 病院の一角で毒ガスが発生し、院中の人間が死亡したと言う。殺人事件と呼ぶには規模が大きく、また犯人の見当もつかない事から、困り果てた朝丘刑事は知己である仲津を呼び出した。 「テロか何かと違うんですかね」 関わりたくないと突っぱねるのもいつもの事なら、結局はこうして無理矢理引き摺り出されるのもいつもの事だ。渋々と言った様子で事件現場へ赴いたトオルが、適当に言葉を合わせる。 「だとしても、こんな郊外の病院を狙う意図が判らないんだよ」 いやに静かなエントランスを抜けて、病棟と病棟を繋ぐ回廊へと刑事は彼をいざなった。奥にはほぼ使われていない精神科の病棟があると言う。 「ここが発生源だとか」 白い壁際に置かれた小さな二つのバケツ。絵筆の浸されたそれを覗き込んで、トオルは僅かに顔を歪める。器の底でくすみ、凝固する深紅。 「空になった輸血パックが近くのごみ箱から発見されたよ」 刑事が推測通りの言葉を告げる。 彼らの眼の前には、錆びた赤で描かれた絵が遺されていた。 「犯行声明か何かだろうと言われてるが、正直俺には意味が解らん」 狂っている、と朝丘は血色の壁画を見、吐き棄てるように呟く。 手を繋いで輪を作る六つの人影。一人分間が空いていて、輪は未完成のままだ。 「……ボクには子供の落書きに見えますけど」 背の高くないトオルから見ても低い位置にある絵。 禍々しい色彩の塗料に対して、その筆致は何処かあどけなく感ぜられた。 「輸血パックで絵を描く子供がいるか?」 「塗料が手に入らなかったとか」 先入観、というものだろうか。絵具の異質さが、無垢なばかりの絵を恐怖の対象へと変貌させている。トオルにはそう見えて仕方がない。 トオルの減らず口に朝丘は唸るように首を傾げ、まるで信じていない素振りで興味を外した。現場検証をしている警官に声を掛けている。もうひとつのバケツに少量残された真珠色の液体。それが毒の発生源と断定されたようだ。特定の薬液を混ぜ合わせ、有毒のガスを生み出した残滓。 刑事から離れ、トオルは根なし草のように回廊の奥へと向かう。 隔離病棟。ガスの届かない場所へ。 「おい、待てよ仲津。そっちには――」 知己の刑事が止める声をも、背中で聞き流した。 ◇ 402号室、と書かれた扉をノックする。 ややあって中から澄んだ声が聴こえ、トオルは静かに扉を開いた。隔離病棟で未だ使用されているのはこの一部屋だけのようだった。 「こんにちは」 声を掛ければ、白いカーテンに遮られた向こうから幼く優雅な笑い声が聴こえてくる。カーテンに薄く映る影は肩を揺らして、ひどく上機嫌なように見えた。 「こんにちは。あなたのお名前は?」 「仲津トオル」 「トオルちゃんね」 病室の主である少女はカーテンの向こう側で何度も彼の名を繰り返した。その舌に馴染ませるように。飴玉を転がすように。喪うものかと何かに抗うように。 「来てくれてありがとう」 淋しかったの、と少女は口を尖らせるように声色を変える。その貌は視えないというのに、表情の変化が手に取るように判る、素直な感情の吐露だ。 「淋しかった?」 「誰も、逢いに来てくれなくなったから」 隔離病棟であるが故に、少女はこの病室から出る事を赦されない。外の様子を知る事も出来ず、一人孤独にベッドの上で過ごしていたのだろう。 「……誰も?」 自分の前に刑事か誰かが現れなかったのか、という意味を籠めてそう問い返しても、少女は素直に頷いた。 「お医者さまも今日は一度も来てくれなかったの。お友だちも、いつもお昼には来てくれたのに」 少女の語る声に重なるように、高い音が等間隔で響いている。心拍数を映す心電図の音だろうかと考えを馳せるが、真相は白いカーテンの向こう側だ。 「キミと同じくらいの子供たちが、この病院に居たんだね?」 「そうよ」 少女はトオルに紹介するように、一人一人名前を挙げていく。全部で六人居たようだが――皆、昨夜の事件で命を落としたのだろう。 「二月くらい前に、初めてここへ来てくれたの」 院内の探検中に迷い込んだ少年たちは、同年代の彼女を見つけて安心したようだった、と懐かしむように語って、少女は微笑む。 「ペン持ってる? って聞かれたけど、その時は持ってなかったわ。落書きをするのに必要って言ってたから」 「……だから、輸血パックの保管場所を教えたり?」 トオルの問いに、少女は頷いた。無邪気で、虞と罪を知らない、澄んだ声がトオルの耳を穿つ。 「赤いから、絵具の代わりになると思ったの。教えてあげたら喜んでくれたのよ」 彼らがどんな絵を描いていたか、この病室から離れられない少女が見る事はなかったらしい。 それから、子供たちは頻繁に少女の病室を訪れるようになった。 病室で出来るささやかな遊びをして、少女の知らない外の世界の話をして、時折少女の提案した悪戯を彼らが実行する。そんな無邪気な間柄だったようだ。 「診察の時間にね、服の下にオルゴールを仕込んでおくの」 突然子供の心臓の辺りから聞こえてくるメロディに、聴診器を宛てようとした医者はさぞかし驚いただろう。少女の言葉だけでその光景が想像できて、トオルは思わず苦笑する。 「みんな、その時の話を楽しそうに聞かせてくれたのよ」 無邪気で上品な笑い声が、等間隔で鳴る鼓動の合間に響き渡る。トオルは相槌を打つように笑って、少女の影をじっと見つめていた。明るい筈の笑い声が虚ろで、哀しく聴こえるのは、彼女自身の抱え込む孤独からだろうか。 「それから、今日は――」 「……また、絵を描こうとしたんだ?」 少女の言葉を遮って、トオルが先に続くであろう言葉を口にする。それはあまりにも優しく、突き放すように冷たい告発だった。 「そうよ」 穏やかな追及を微笑んで受け止めて、少女は自らの罪を認める。そこにはひとひらの罪悪感もなく、トオルは背筋を走る悪寒を知らぬ顔でやり過ごした。 「輸血パックの代わりに、絵具になるものを彼らは探していた」 一度悪戯を覚えた子供たちは、ペンキやマジックペンを用いるだけではつまらないと思うようになる。だから、少女は新たな塗料を教えた。不思議な光沢を持つ、真珠色の液体を。 「二つの液体を混ぜたらどうなるか、キミは知っていたの?」 トオルの問い掛けに、少女の影は首を傾げたまま応えなかった。肯定のようでもあり、否定のようでもある仕種。 「わたしは独りだったの。ずっと昔から」 代わりにそんな、謎かけ染みた言葉を投げる。 「昔から?」 「みんなが持つものをわたしは持ってないから。みんなに見えないものが私には見えるから。――みんな、自由に外を歩けるのに、わたしだけ、ここから出られない」 ――それは、精神病患者の錯乱と片付けるには、あまりにも整然とした言葉だった。妄言と切り捨てる事もできず、眉根を寄せたままじっと聞き入る。 「みんなと一緒にお散歩がしたかったの。わたしも落書きがしたかった。……だから、少しの間でも、人が居なくなればよかった」 その願いは、或る意味で達せられたのだ。最悪の容を伴って。 少女は困ったように笑っている。全てを喪って、新しく生まれたばかりで――早くも路頭に迷ってしまった幼い子供のように。 「ねえ、トオルちゃん」 あまりにも優雅で、あまりにも苦しみに充ちた声。カーテンの向こう側で、少女が泣きそうな笑みを浮かべている。 「わたしは、なにから始めればいいの?」 生まれたばかりの少女の問いかけに、トオルは返す言葉を持たなかった。 白の境界を通して、二人は無言で対峙する。 重く澄んだ空気の中で、ただ、少女の生を意味する甲高い音だけが、静かに鳴り響いていた。等間隔にリズムを刻む、機械化された鼓動の音。 「……でも、やっとわかったの」 ふと、静謐に沁み込むように少女は声を零した。その言葉の意味を測りかねて、トオルは白に映り込む小さな影を注視する。 「窓から廊下を歩くあなたを見ていたのよ。あなただけが、わたしと同じだった」 響くリズム。鼓動の音が、緩やかに速度を落としていく。 「ありがとう、トオルちゃん。最後にあなたとお話できて、嬉しかった」 ひたひたと忍び寄る虚ろな気配を感じ取って、トオルは思わず、言葉を紡いでいた。 「――それは、」 ふわり。 何処からともなく流れた風が、カーテンを膨らませて。 「またね」 無邪気で、何気ない、この先も続いていくのだろうと思わせるほどの簡単な別れと共に、鼓動の音は響くのを止めた。 一瞬の静寂。 弾かれるように立ち上がり、トオルはカーテンの端に手を掛けた。惧れにも似た刹那の躊躇いを振り切って、勢いよく横に引く。――その向こうには、何もない。 無人の病室。未使用のまま整えられた寝台。 ベッドの奥、開け放たれた窓から風が緩やかに吹きこんでいる。 それを頭で理解するよりも早く、トオルは寝台脇のナースコールに手を伸ばしていた。すぐに看護師のものとは思えない剣呑な声が返る。 「誰だ」 「朝丘刑事に変わってください、早う!」 逸るあまり地の訛りが出てしまった事をも気にかけず、トオルが知己の刑事の名を呼べば、通信先の警官は一瞬閉口した後、朝丘へ取り次いでくれた。 「どうした、仲津?」 「犯人が逃げました! 十代の女の子なんです、すぐに周辺地域の封鎖を!」 焦るように言葉を重ねるトオルへ朝丘は面食らったように言葉を喪った。何を言っているのか、という疑念が通信越しとは言え伝わってくる。 「今ならまだ間に合――」 「――仲津。その病室はここ数年、誰も使っていないんだが」 探偵の言を遮って、刑事が冷静に事実を告げる。 動きを止める。言葉を喪ったのは、トオルの方だった。 「だから止めたじゃないか、そっちの病棟には誰もいないって。あんた、一体何を見たんだ?」 呆然とする彼の耳に、説明が続く。ナースコールから響いてくる声は、トオルの耳にどこか現実味を喪って聴こえた。 「……とにかく、早く帰って来い。あんたの言った通り、あの壁画は子供の悪戯だって断定されたから」 溜息と共にそんな言葉だけを残し、刑事は通信を打ち切った。 後に遺されたトオルはただ、虚ろな空間を見渡す。 中身を残したままの点滴。心電図など何処にもない。代わりに置かれた、枕元の小さなオルゴール。 ねじの切れたソレを開いて中身を検分する。最も端に位置する針だけを残し、残りの全てが丁寧に削ぎ落とされている。試しにねじを巻いてみれば、あの、偽りの生体反応(バイタルサイン)が無人の病室に響き渡った。 「……はは、」 虚ろな笑い声が喉を震わせる。 犯人は、少女はもう居ない。――消えてしまった。跡形もなく。じわりと、実感が血液を通して全身に行き渡る。もう此処にいても仕方がないのだと、トオルは独り踵を返した。 扉を抜けて振り返る。部屋番号の下に確かに在った少女の名前は消え、人の気配を残さない白い空間だけがその向こう側に広がっていた。 無人の病室。未使用のまま整えられた寝台。 ここには初めから誰も居なかったのか、それとも――。 ◇ 隔離病棟から帰る途中、再びあの白い回廊を潜り抜けた。 一面の窓硝子から差し込む光は美しく、柔らかに回廊を包み込む。白い壁に描かれた禍々しい血色の絵も、分け隔てなく澄んだ光が染め上げる。 「……」 ふとそちら側へ視線を向け、足を止める。遅れて、眼鏡の奥の目を僅かに瞠った。 血の色で塗り込められた壁画。 ――人影は、六つではなかったのだ。 光の加減でようやく判る、真珠色の人影が、欠けた輪の間を埋めている。ふわりと広がるスカートの容。血色の子供たちと真珠色の少女は、丸く輪を描いて手を繋ぎ合っていた。 賑やかな笑い声と、白面の奥へ駆けて行く後姿が目に浮かぶようだ。 トオルは暫しそれを見届けて、再び入口へと歩き出した。 ◇ ――さあ、なにから始めよう? <了>
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