土曜日の夕方、雑居ビルの屋上。そのベランダから眺める夕焼けと街並み。近くの小学校は午前中で授業が終わるからか、この時間は驚くほど人通りが少ない。 いつものコンビニのレジもそろそろ、あれこれ話しかけてくる面倒なパートのおばさんから無口な店長に変わる時間。それに気づいてから、財布を持って部屋を出るまでは一瞬だった。 売り出し中の看板が立てられたまま誰の手にも渡っていない寂れた空き地の前を通り、買いたいものを思い描きながらだらりと歩く。この空き地をまたいで行けば最寄りの駅までだいぶショートカットが出来る便利なところだったが、考えることは皆同じなのか、半年ほど前に立入禁止の看板と鉄条網が追加されていた。まぁ、今日の道のりには関係が無い。そう思いながらふと空き地に目を遣ると、今日も、立っていた。 「(あ、またいる……)」 前に鍔の広い、濃い灰色の中折れ帽子。白っぽいような銀色っぽいような、何色と一言で説明しにくい色の、長い髪。真冬の空のように薄い水色の、とても裾が長いカーディガンを羽織っている。全体的な色合いと整った顔立ちのせいか、ほっそりとした印象の人。性別はどちらともとれないしどちらにもとれる。これくらいの時間帯に、時々この空き地でぼんやりと佇んでいるところを見るのはもう五回目だ。 不動産会社や建設会社から来たようにはとてもじゃないが見えないし、誰かと待ち合わせをしている風でもない。ただあの空き地に立って、時々無造作に置かれた土管に座って、何を見るでもなく、本当にただ、そこに居るだけ。 あのひとは一体何をしているんだろう。 そんな思いがつい、その人への視線となって表に出る。 見るのは五回目だと言った、それは向こうにとってもきっと同じことだったのだろう。ちらりと一瞥するだけのつもりが、同じタイミングで同じように目線を移動させたその人と、しっかり目が合ってしまった。 「こんにちは」 「……こんにちは」 微笑まれたことも、向こうから声を掛けられたことも、声を聞けば性別が分かるかなと思ったがそうではなかったことも。色々なことが意外だった。立入禁止の看板をまるで気にしていない風、もしかしたら読めていないのではないかと思える様子で立っているのが何故か、ひどく自然に見える。 「そこ、立入禁止ですよ」 「知ってますよ」 誰も注意しないから有名無実みたいなものかなって、とその人は笑う。確かにそれはその通りだ、道路に面した境界には申し訳程度に鉄条網が設置されているけれど、野良猫が獣道を作り、それを子供が追いかけて、結局は大人が楽に通れる大きな抜け穴が出来てしまっているのだから。 「まぁ、ボクも通るから大きなことは言えませんけど」 「この辺の人はみんなそうでしょう?」 それが、あの人……ククルカと名乗った人との、細く短いつきあいの始まりだった。 ◆ ククルカが空き地に現れるようになってから一ヶ月ばかり、言葉をかわすようになってからは二週間ほどが経った、木曜日。うちのビルを借りていたとある店子が退去をするとのことで、立ち会ってみたらなかなかに荒っぽい使い方をしていたことに閉口した日。そのおかげでハウスクリーニング代をかなり多めにぼったくってやれたが、いつも以上に念入りに現状復帰処理をしなければ次の借り手がつかないであろうことへの苛立ちが帰りの足をあの空き地の向こうのコンビニへと向かわせる。 このコンビニは小中学生もよく利用するせいか、5円や10円で買える駄菓子の類が他より多い。音の鳴るラムネや50円玉の形のチョコ、大袋入りの麸菓子にゴルフボールサイズのコーラキャンディと、さっきの苛立ちがちょっと一人では食べきれない量の駄菓子に化けていった。 「こんにちは、トオル。お買い物?」 「そんなとこ。買いすぎたからあげるよ」 「ありがとう、気前がいいんですね」 帰り道、行きの道では見かけなかったククルカが立入禁止の看板にもたれて今日もぼんやりと佇んでいる。いつも居るわけではないのは知っているが、どこから来てどこに帰っているのかが少しだけ気になった。が、その小さな引っ掛かりもすぐに思考の流れに消えてしまう。ククルカのことを考えるときはいつもだいたいそうだ。 そうだ、買ったものをお裾分けするんだった。思い出したように、レジ袋から無造作にごっそりとつかんだ駄菓子を差し出すと、ククルカはそれなりに嬉しそうに笑って、両手でそれを受け止めるのをなんとなく眺める。 「(指が……?)」 六本。 ククルカの指は片手に六本ずつ、合わせて十二本あった。 「(そういえばパンダも確か、六本目の指が出来かけてるとか何かで読んだな)」 そんなこともあるだろう、そんな人も居るだろう。 すぐさまそんな風にあっさりと結論がつき、心に納得が降りる。 「ねえククルカ」 「どうしました?」 とても、自然な会話。指が十二本ということへの驚きなど最初からなかったみたいな。 「この辺りで猫殺しが起きてるらしいんだ」 「物騒ですねえ」 「キミはよくこの辺りに立っているよね。何か知らない?」 「トオルはそれを知りたいのですか?」 「そうだね、まあまあ知りたい。そうでなきゃ聞かないよ」 「では、何か見たらトオルにはお教えしましょう」 「よろしく」 猫殺しが横行しているのは本当のことだし、何とかならないかと相談を持ちかけられたのも本当のこと。ククルカが情報提供者になってくれる、それも何故か、すぐに忘れそうになっている自分がいた。 何かが、おかしい。 ククルカにまつわる記憶だけが、砂時計から砂が落ちるようにさらさらと消えてなくなる。 何故? 考えても答えは出なかった。 ◆ 頭のなかでだけ決着をつけようとするからおかしくなるのだと思い至り、猫殺しに関する情報とククルカについてのあれこれは全て紙に書いてまとめるようにした。すると、面白い……というか興味深い情報が次々と浮き彫りになる。 手の指が両手合わせて十二本あること。 夜でも眩しそうに目を細めていて、絶対に帽子を脱がないこと。 いつも同じ服を着ていること。 それなりに目立つ姿をしているのに、誰もククルカのことを知らないこと。 書き留めるほどに妙な人物だ。 目立つのに、誰の記憶にも残らない。まるで手品か催眠術をかけられたように。 自分すらも、書き留めていなければすぐに忘れていた。 ちいさな違和感が、少しずつ疑念の色をそなえて鈍く光りだす。 「ククルカ」 「こんにちは、トオル。聞いて欲しいことが出来ました」 「何? 猫のこと?」 「はい」 今日のククルカは空き地の真ん中に置かれた土管に腰掛けていた。 「何か見たの?」 「珍しい猫がいました。赤と白のまだらの猫です。赤い猫は珍しいですよね?」 「赤? オレンジや茶色じゃなく?」 「はい、真っ赤。背中が白くてお腹が赤い猫でした。あ、ほら。あれです」 ククルカが指差した先を見てぎょっとする。 確かに赤い、赤いけれど、あれは毛の色ではなくて血の色だ。 下腹部から後ろ足にかけてを血に染めてよたよたと歩く白い猫、この辺りでチビと呼ばれ飼われている猫だった。ククルカが涼しい顔でチビを眺める横顔が、この世のものではないように感じられる。 この時を境に、ボクはククルカのことを書き留めなくても忘れないようになった。 ◆ ククルカが血に染まったチビを『赤い猫』と言ったその日の夜。 飼い主と連絡を取り、動物病院に連れて行った甲斐があってチビはどうにか一命を取り留めた。鋭利な刃物で斬られたらしいとのことだった。命があってホッとしたのもつかの間、猫殺しは確かにこの街に居ることになる。そしてククルカに聞かなければいけないこともたくさんあった。いつも会う夕暮れではなかったけれど、足はあの空き地へと向かう。 「こんばんは、トオル。さっきは顔色を変えて、どうしたんですか?」 「ククルカはあの猫が怪我をしていると気づかなかったの?」 「怪我……? もしかしたら、ヒトに怪我を負わされたのですか?」 「どうしてそう思うの?」 ククルカはチビが怪我をしていることには気が付かなかったのに、何故かそれが人によるものだとは見抜いていた。 「今日は朝からここに座っていたのですが、太陽が頭の真上に来たくらいの時間に、この空き地をよく通る男性が、白い猫を掴んで遠くに放り投げていたのを見ました。投げたのに何故かそれを追いかけて、しばらくあの辺りでしゃがみ込んで何かしていたようなのです。そうしたら、白い猫が白と赤のまだらの猫になって出てきました。これはトオルが知りたがっていたことですか?」 「……ククルカはそれをずっと見ていたの?」 「はい」 ぐるぐると、頭のなかで理不尽な状況が積み重なっていく。 おそらく猫殺しの犯人はこの空き地を犯行現場にしていて、ククルカはその一部始終を見ていたであろうこと。だが、犯人は土管に座り目立つククルカに一切の注意を払わず犯行を行っていたこと。そしてククルカはチビが血を流しているということに何の違和感も抱いていないこと。 「おかしいよ」 「?」 __あ…… やっと、言葉に出た。 この状況がおかしいのではない。 ククルカの存在がおかしいのだと、口にした瞬間、快感にも似た理解と納得がすとんと落ちる。 「どうしてその人はククルカに気付かなかったんだろうね」 「さあ」 「ボクたちが話すようになったのはここ一ヶ月くらいだ、だけどもしかしたらそれよりもっと前に、ボクたちは会っていたんじゃないか?」 こんなに目立つ、こんなに異質なヒトを。 「このボクが気付かなかったはずが無いんだ」 猫殺しの犯人のことなどすっかり頭から飛んでしまっていた。 今知りたい疑問は、たったひとつ。 「キミは何者? ……いや、キミは何?」 ククルカがほんの僅か、目を見開いた。ボクの目ではなく、もう少し上……頭上のある一点を見つめ薄く笑っている。 「消える瞬間を初めて見ました。……意外とあっさりしているものですね」 「え……?」 所在ない旅人となった瞬間、真理数を失ったと気づくのに、少し時間が必要だった。 好奇心は猫をも殺すというのは、間違いではないのかもしれない。
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