アーカイヴの破損による影響で昏睡した贖ノ森 火城が、七人のロストナンバーたちの活躍によって目覚め、世界司書としても彩音茶房『エル・エウレカ』の料理人としても、日常を取り戻してから数日が経った。 その日は特に『導きの書』による予言もなく、『エル・エウレカ』のほうでも設備をメンテナンスするとかで料理人の出番はなくて、火城は司書室の整理整頓に精を出しているところだった。 せっかちということもないが、ずっと腰を下ろしてのデスクワークよりも、身体を動かしていたほうが性に合う火城としては、何もせずぼんやりしているというのはどうにもおさまりが悪いのだ。 よって、本棚を整理し、隅から隅まで掃いて、丁寧に拭き清め……と、プロの掃除業者もかくやの几帳面さで司書室を掃除していた火城だったが、そんな中、訪ねてきたのは、手土産を持ったラス・アイシュメルだった。 本人は知らないが、ラスは、先の昏睡で、彼を助けるために壺中天を用いて火城の過去の記憶へと潜入し、とある事実を知ったひとりでもある。記憶には残っていないものの、ラスに対する感謝の気持ちが火城の中に存在するのも事実で、彼はラスを歓迎し、丁寧にもてなした。「すまないな、散らかっていて」「いえ、充分きれいになっていますよ。火城さんは綺麗好きなんですね」「綺麗好きというか、神経質なのかもしれないな」 言いつつ、火城は楽しげだ。 丁寧な手つきで茶を淹れ、正確に切り分けた、柚子とクリームチーズのタルトをラスの前に置く。「それで、どうしたんだ? 前にも、話がしたいと言っていたな……?」 問うと、ラスは少し考える様子をみせ、「ロストメモリーになることは、火城さんを変えたと思いますか?」 そう、ぽつりと言った。「……?」 意図を掴めず、火城が首を傾げると、ラスはツイと視線を巡らせ、執務机の傍らに立てかけてある、手入れの行き届いた長剣を見つめた。「……あの剣、触らせてもらってもいいですか?」 火城は首を傾げつつ、無造作に剣を取りラスへ手渡す。 剣を他者へ渡すことに対して、何の警戒も気負いもしていない様子だった。「いいんですか? よく使い込んである……大切なものなんですよね?」「大切、なんだろうな。これを手にすると、妙に心が温かいから」「私に渡してもいいんですか? もしかしたら、これをこのまま壊そうとするかも」「剣が壊れたからといって、俺の中の温かさがなくなるわけじゃあないからな。それに、ラスはそんなことをするタイプじゃないだろう」「……」 剣を見つめたまま、ラスが沈黙する。 ラスの、どこか幼いような、寄る辺ないような横顔を見やり、「事情はよく判らないが、何か悩みがあるんだな。――いや、悩みというより、苦しみ、か」 つぶやくと、ラスの青眼がハッと見開かれる。「ああ、いや、すまない、お前に何が判ると言われてしまうかな」 火城は、ラス・アイシュメルという存在が抱える巨大な暗闇、絶望、燃えるように激しい怨嗟と憤怒、ままならない己への苦しみを知っているわけではない。ただ、彼の横顔に、どうしようもない、虚ろな孤独と絶望を見たような気がしただけだ。「俺は何を話せばいい、ラス。何が聞きたい? あんたにわけを話せと迫ることはできないが」 火城は、香りのよいお茶のお代わりをカップに注ぎながら、かすかに笑ってみせた。「あんたの望むものに、出来るかぎり応えたいとは思う」 その、かすかな笑みを、ラスがじっと、確かめるように見ている。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ラス・アイシュメル(cbvh3637)贖ノ森 火城(chbn8226)=========
鮮やかな紅色の茶が、あたたかい湯気を立ちのぼらせている。 ラス・アイシュメルは、それを見つめながらゆっくりと口を開いた。 「……誰にも口外しないと約束してもらえますか?」 初め、少し迷ったし躊躇った。 覚醒してからも誰にも話さなかった真実、己の根本を、あっさり口にしていいものかと。 「あんたがそう望むなら、もちろん」 しかし、火城が裏切ることは決してないだろうと知っている。あの時、あの『死』を選んだ男が、他者をたやすく陥れるような、卑劣な真似をするはずがないと、理屈ではなく判る。 そして、ラスの知りたいことは、彼の抱える根本に触れ、それを明らかにしなければとうてい引き出せるものではない。適当に言葉を濁し、簡単なたとえ話で反応を見たところで、それは己のほしい答えではないのだ。 それゆえ、ラスは、素直に話すことを選んだ。 「……迷っていることがあって」 「迷う?」 「私は、復讐のために生きていました。いえ、今も生きています。そのつもりです。ですが、それが……よく、判らなくなってきて」 ぽつりぽつりと言葉をこぼし始めると同時に、胸の奥から熱い塊が込み上げてきた。 手の甲を火城へと掲げ、そこにあるあざを示す。 「私は本来、人間とすら呼べない存在です。――つくられたモノなんです」 神と呼ばれる存在が、自分たちの不老不死を破る方法を探るためにつくった実験体、それがラスだ。十字のあざはそのあかしで、ラスを今も縛る呪いの紋様だった。 世界を手中にし、支配し、思うがままの栄華を極めた存在が、最後に求めたものが自らの死だったなど、滑稽な戯曲のようだと人は言うだろう。 「彼らは老いと死を克服し、すべてを欲するままに操り、使役し、創造し破壊してきました。彼らの思い通りにならないことなどひとつもなかった。――その時までは」 神々が、己が生に倦み始めたのはいつからだったか。 まさしく永遠無限に続く、終わりのないそれに疲れ、得るすべての方法で自分の死を試したが、それらはひとつも効果を持たなかった。 「……私は、そのためにつくられました。不老不死を与えられ、ありとあらゆる方法で殺され続けていたんです。何十年も」 自分がなぜ覚醒したのか、それが幸運だったのか不幸だったのか、今でもラスは判断に迷う。 「覚醒したことで私は世界の多様さを知りました。いろいろな在りかたが世界にはあって、さまざまな生きかたが命にはあり、そう許されているのだと」 しかしそれは、自分にはないものだ。 殺されるためだけにつくられた自分には、許されていないものだ。 その思いが消えないから、復讐心を募らせるしかなかった。 「今なら判る気がします。私は、羨ましかったんだ」 辿り着いた言葉を口にしたら、ぼろぼろと涙がこぼれた。 「ラス」 気遣いのにじむ声に、いっそう止まらなくなる。 ラスは掲げた手の甲に爪を立て、力いっぱい引き裂いた。 手加減のないそれに皮膚が破れ、血が噴き出す。火城は驚きに目を瞠ったが、それがあっという間にふさがり、傷痕すら残さず消え失せたことでさらに驚きの表情になった。 「ほらね? 私、死なないんです。神々が死ぬための方法を見つけるためにつくられたんです。殺されるために生まれたんですよ、私。滑稽でしょう?」 自虐的な言葉を口にするごとに激情が募り、思考が赤く染まる。 涙が止まらず、激昂するまま顔を覆って泣きじゃくる。 「――ボクは復讐したい! あいつらが情けなく慈悲を乞うような復讐を!」 それだけがラスの望み、そして生きる意味だった。 否、それ以外を知らないのだ、彼は。 「だけど……もう、どうしていいのか、ボクには判らないんだ!」 覚醒後流された世界で、特殊能力を駆使して身体的に成長し、知識を身に着けはした。外見や普段の言動からおとなびて見られるが、実を言うと、ラスの内面は十代前半程度でしかない。 多感で傷つきやすい、幼い心だ。 そしてそれは、助けを求めるすべを教われず、ただ泣くことしか出来ない、赤ん坊のような心でもある。 故郷では誰も助けてくれなかった。覚醒先では、弱味や真実を見せるわけにいかず、冷静で強い人間だと思われていた。誰も、ラスが、ずっと泣いていることに気づかず、ラスもどう伝えればいいか知らなかった。 それゆえに、募り募った苦悩と絶望だった。 「……痛くなくても辛いだろう」 その手を、火城はそっと取ったのだ。 ラスは目を瞠る。 「傷は癒える。失った血もいつかは戻ってくる。それは誰でも同じかもしれないが。殺され続けて、心が平気なものはいないだろう。――痛かったな」 先ほどまで傷があった場所に、火城がぺたりと絆創膏を貼った。 それは、強面の、眼光鋭い火城には似合わない、パステルカラーの可愛らしい柄で、ラスは泣き笑いの顔をする。 「……絆創膏が、もったいないですよ」 「そうかな。こういうの、何となく、和まないか?」 「ああ……そうかも」 それで少し落ち着いて、ラスは話を戻した。 「死ぬことが日常だった私より死んだ経験のある人はそういません。でも、先日、羨ましいと思う死にかたを見たんです。初めてのことでした」 「羨ましい?」 「後悔せず、絶望せず、自分を貫いて死ぬ。こんな幸せなことが、他にあるとは、思えない。そう言ってその人は死にました。――衝撃でした。自分が今どこにいるのか、判らなくなるほどの」 身体が震えたのを覚えている。 殴りつけられるような衝撃を受けた。 「自分の命を誰かのために使って死ぬ。正直言って、馬鹿なことだと思いました。だけど、最期に臨んでの、その人の顔はとても綺麗だった。悔いも迷いも、怒りも恨みもなく、ただ満足して、感謝して死ねる。――あんなふうに死にたい、と、そのとき無意識に思っていたんです、私は」 口にしたら、背筋を氷のような悪寒が這い上がり、ラスはぐっと奥歯を噛んだ。 一度は和らいだ激情が、ふたたび込み上げてくる。 「怖い……」 「何だって?」 「怖いんだ、火城! 復讐のために生きてきたのに! それを止めたボクはもうボクじゃない! 復讐が終わったらどうするかなんて考えなかった! そのとき考えればいいと思ってた! でも……でも!」 また、涙があふれる。 あとからあとから零れ落ちて止まらない。 死を望む神々の、実験体たるラスを見る冷たい眼。 また死ななかったのか、役立たずめと罵られ、さらに殺される、あのぞっとするような絶望。 なぜ自分には心があるのだろう、なぜただの道具としてつくってくれなかったのだろう、なぜ自分は他の命がそうであるように愛されることも安らぐことも許されないのだろう。 根本的な疑問は、すべて、憎悪に取って代わられ、それがラスを駆り立てた。 復讐こそがラス・アイシュメルの意味で、意義で、彼自身をかたちづくるすべてだった。 「だけど、このままじゃあんな死にかたは出来ない。あんなふうに、安らいで、満足して死ぬことなんか出来ない。不可能なんだ、どんなに望んでも。――なら、いっそ、知りたくなかった! ボクがやってきたこと、やろうとしていることが、かすんで見える。ねえ、ボクはどうしたらいいの!」 いつしかラスは火城にしがみつき、号泣していた。 鍛え上げられた身体にすがり、広い胸に頭を押し付け、泣きじゃくっていた。 「たとえ復讐を果たせても、ボクの記憶の中で奴らは生きてる。あいつらは、記憶の中でも不老不死なんだ、きっと! 夢の中で、またボクは殺される、もういない奴らに、何度も何度も。そんなのは、もう嫌だ。殺されるのは嫌だよ、火城……!」 本当は死にたくなかった。 殺されたくなかった。 役立たずと罵られるのも、蔑まれるのも、八つ当たりのようにひどく扱われるのも、ただ死ぬための人形としてモノ扱いされるのも、辛くてつらくてたまらなかった。 さまざまな世界で見た、たくさんの人々がそうしているように、穏やかに愛されて、安らいだ命を生きたい。 けれど、誰も、ラスの願いを叶えてはくれなかった。 願うことすら、ラスには許されていなかった。 「苦しい、苦しいんだ、火城。いっそ記憶を消せばいいのかって思う。だけど……この苦しみ、この憎しみ、絶望もボクなんだ。これを消したら、もうボクじゃない!」 あまりに遠い復讐に、もう疲れたと肩を落とす自分。 復讐すら自分だと肩を怒らせる自分。 世界は多彩で、人々は多様なのだから、自分も新しい道を探していいはずだと肩をすくめる自分。 たくさんの自分がせめぎ合う。 それが、余計にラスを混乱させる。 「教えてよ、火城。記憶を消した火城は、火城のままなの? ねえ……ボクはどうしたらいい? もう判らない。どうしたらいいのか、何が正しいのか、ボクには判らないよ……!」 しがみつき、泣き叫び、うわ言のように訴え続けるラスの背を、火城の大きな手がそっと撫でた。それから、ぎゅうっと、強く抱きしめられ、ぽんぽんと背中を叩かれる。 はじめての経験で、驚いたけれど、不快ではなかった。 むしろ、その温かさに安堵する自分がいて、ラスはまた涙をこぼした。 「俺には、あんたの苦しみすべてを理解するなんてことは、きっと出来ないが」 ラスの心に寄り添いたい、出来ることならその痛みを分かち合いたい、火城のそんな気遣いが、体温を通じて伝わってくる。自分が欲しかったのはこれなのかもしれない、と、ラスは漠然と思った。 「ロストナンバーのままでは果たせない何かがあると知った。だから俺はロストメモリーに、司書になった。記憶はなくとも確信はある。俺は俺の信念に従って、今、ここにいる。――もちろん、悩んだこともある。だが、後悔はしていない」 弱さも揺らぎも超越した、透徹した何かがそこにはあった。 「火城は火城だと思う?」 「ああ」 「……ロストメモリーになったら、楽になれるのかな」 「どうかな……それはきっと、誰にも約束できない。ラス、あんたには気になる人や、親しい人はいるか?」 「えっ……うん、いないわけじゃないよ」 ここまで取り乱してしまったのだ、今さら取り繕う必要もなく、ぐすぐすとしゃくりあげつつ素の口調のまま返す。 「ここにきてラスは変わったと言ったな」 「うん。いろんな人がいて、飽きないところだから」 「ラス、俺には、あんたに必要なのは、第一に休息だと思う」 「休息?」 「内面的なことを偉そうに言えたクチじゃあないが。魂とか心とか、そういうのもの休息だ。ラス、あんたはもっと大事にされていいと思うんだよ、俺は」 抱擁を解き、じっと目を見つめてから、火城が頭を撫でる。 ラスは洟を啜り、苦笑した。 「……子どもみたいだね、ボク」 「子どもであればいいと思う。子どもは大事にされるものだから」 言葉からは、武骨で朴訥な司書の、 「ターミナルにはいろいろな人がいるだろう。そこからは、いろいろなことが学べるし、知れるし、与えたり与えられたり出来る。ラス、それをもう少し、経験してみないか」 祈りのような想いが伝わってくる。 「ロストメモリーにはいつでもなれるが、後戻りはできないぞ。いろいろなものに触れてみてもどうしようもないなら、選べばいい」 「そう……なの、かな……」 「ああ。記憶がラスを苦しめるなら、そのときは傍で話をしよう。気晴らしに行くのもいいかもしれない。――だから、もう少しだけ、世界を見てみないか」 解決方法が示されたわけではない。 しかし、ラスは、少し落ち着きを取り戻していた。 心の奥底にある、重く凝った復讐心。それはまだ厳然としてあるが、その一角に、別の、感情が生まれたのも事実だ。 「うん……そうだね。ボクにはまだ知らないことがたくさんある。ボクはそれに触れることを許されてる。そういうこと?」 「そうだ」 故郷は彼に負の感情以外のものを何ひとつ与えず、また許してはくれなかった。 しかし、ここは違う。 そのことを、ラスは、初めて、実感を伴って知った。 「また、ここに来てもいい?」 「もちろん。茶房に来てくれれば、目いっぱいもてなすぞ」 「……うん」 ラスが静かに頷くのを、火城はやさしい笑みで見つめている。 ――その日から、火城の司書室には、ラスの姿がよく見られるようになった。 ほどなくして、彼は、彩音茶房『エル・エウレカ』の常連陣にも仲間入りしたという。
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