ゼシカ・ホーエンハイムはれっきとしたレディだ。レディの朝はクロワッサンとコーヒー、そしてふわとろのオムレツから始まる。といってもゼシカはまだ五歳だから、クロワッサンをちょっぴり焦がしてしまった。コーヒーは苦くて飲めないので、たっぷりの砂糖とミルク、ココアパウダーを投入した(これはコーヒーというよりカフェモカである)。オムレツは火が通り過ぎ、ぼそぼその炒り卵になった(スクランブルエッグではなく炒り卵だった)。 「うん。上手になった」 しかしゼシカはご満悦だ。何せ初めは卵を割ることもできなかったのである。 幼いゼシカが自分で朝食を用意するのには理由がある。レディは凛と自立していなければならないから――とはさておき、母はゼシカを産んだ直後に死亡し、父は失踪してしまった。ゼシカは父を探して旅をしているのだ。断じて迷子ではない。 朝食を平らげ、食器をきちんと洗って、とたとたと玄関ポーチに向かった。淡い金色の髪が柔らかく揺れ、葡萄の房の髪飾りが弾むように上下する。抜けるように白い頬は期待でかすかに上気している。 おうちの形の郵便受けがゼシカを待っていた。 「……よし」 胸に手を当て、息を吸い、吐く。ついでにもう一度吸って、吐く。 とうとう郵便受けの扉に手を伸ばした。 「きゃっ!?」 途端に中身がばさばさと落ちてくる。朝刊。チラシ。世界図書館の広報……。ゼシカが求める手紙は見当たらない。 透けるような青い瞳が潤み、震えた。 「……だいじょぶ。だいじょぶだから」 しかしゼシカは泣かなかった。新聞やチラシを丁寧に掻き集め、胸に抱く。セクタンのアシュレーだけが無言でゼシカを見つめていた。 ゼシカが郵便受けを気にするのには訳がある。 ことの始まりは数日前。 レディは自立していて、聡明でなければならない。自立の定義のひとつは自己の能力を冷静かつ客観的に見極めることだ。やみくもに自分で何とかしようとするのはある種の頑迷だし、手間と時間の空費にほかならぬ。他人に頼れることは素直に頼ったほうが効率が良い場合もあるのだ。 とゼシカが考えたかどうかはキリル・ディクローズの知るところではない。ともかくキリルは大張り切りだった。 「きみの手紙、手紙を、必ず届けます」 快活な髭はぴくぴくと揺れ、ふわふわの尻尾は弾むように上下している。つややかな鼻先は濡れて煌めき、大粒の瞳はきりりとした使命感で満ちている。 「郵便屋さん、よろしくお願いします」 直筆の手紙をキリルを託し、ゼシカは礼儀正しく頭を下げる。キリルはすんと鼻を鳴らして胸を張った。久々の仕事に背筋も伸びるというものだ。 「きみの、パパ、パパ宛てで間違いない?」 「うん。パパはゼシが赤ちゃんの頃にいなくなっちゃったの。きっとゼシと同じコンダクターになっちゃったんだと思う」 「コンダクター、コンダクター。了解、りょうか……みゅ?」 キリルの尾が動きを止めた。封筒には住所が記されていない。 ゼシカはきゅっと唇を噛み、ワンピースの裾を握り締めた。 「……どこにいるか分からないの……」 「……みゅ」 キリルの髭がぱたりと静止した。ついでに尻尾もうなだれた。 「で、でもね。パパは牧師さんなの。教会とか、お墓とかにいると思うわ」 「牧師、牧師。神父とは、違う?」 「えっとね、壱番世界の、キリスト教っていう……プロテスタントとカトリックがあって、ええと……」 「みゅー……」 キリルは封筒を見つめながら眉間に皺を寄せた。住所が分からないのでは配達は難しい。しかし、分からないなら探すまでだ。 「きみの言葉……気持ち、気持ちを、必ず届けます」 とはいえ、やはり簡単な仕事ではなかった。 「牧師、牧師、神父……違う、牧師、牧師」 キリルの手にはゼシカ作の父の似顔絵がある。ポシェットに入れて携行しているのとは別に、キリルのために描き下ろしてくれた物だ。写真を見ながら一生懸命描いたそうである。キリルも懸命に似顔絵と睨めっこしたが、読み取れる特徴は少なかった。 「目、目が二つ。鼻、鼻と、口がある」 クレヨンで描かれた絵は五歳児らしく伸びやかで、別の言い方をすれば、まあ、へたっぴなのだった。 「みゃー……」 困った。これは困った。 しかし手紙屋として仕事を請け負ったのだ。届けられませんでしたでは済まされない。 鼻の頭に皺を寄せ、似顔絵をためつすがめつ検分する。どの角度から眺めても出来栄えは変わらない。そのうち、キリルの髭がぴくりと動いた。 父親の顔はひどく優しいのだ。どこがどうと問われると答えに窮するが、全体的な空気や雰囲気がとても穏やかで温かく思える。 「……どこか、どこかで?」 鋭敏な髭がアンテナのようにひくつく。しかしキリルはすぐに打ち消した。優しいコンダクターなど珍しくもない。 「そうだ、コンダクター、コンダクター。名簿、名簿に載ってるかも」 世界図書館へと足を向けた。 今朝のレディは手作りサンドイッチとはちみつ入りホットミルクだった。 昨日買ったバゲットを食べなかったのは硬さに辟易したからではないし、ミルクにしたのはコーヒーの苦さを嫌ったからではない。サンドイッチにはボイルドエッグをスプレッドにして挟んだ。もちろん卵は自分で茹でた。うまく殻を向けなくて白身が穴ぼこだらけになったが、潰してあえるのだから見た目はどうでも良い。 ともかくゼシカの朝はいつも通りだった。そう、変わったことなんて何一つ起こらなかったのだ。お皿も割らずに洗ったし、郵便受けに入っていたのは朝刊だけだった。 父からの返事はまだ来ない。 「……だいじょぶ。ゼシ、だいじょぶよ」 気遣わしげなセクタンを抱き締め、微笑んでみせる。こっそり鼻を啜った。 「何日でも待つわ。ちゃんと待てるもん。ね」 ゼシカはお散歩に出かけることにした。おうちの中にいると気分が塞いでしまうからというわけではない。適度な運動は心身に有益というだけの話……と彼女が考えていたかどうかはさておき、小さな体は存外軽やかに駅前通りを進んだ。知り合いとすれ違えばきちんと挨拶をしたし、時には雑談に興じることもあった。レディとはいかなる時でも微笑を絶やさぬものなのだ。例えばゼシカの母のように。 「ゼシカちゃん、こんにちは。今日はどちらまで?」 知り合いの老婆が声をかけてくる。 「こんにちは。え、えっと、お花を摘みに」 ゼシカは咄嗟にお出かけの口実を見繕った。老婆は波のような皺を深くして「そう」と笑う。 「シロツメクサかい?」 老婆の視線はセクタンのアシュレーへ注がれていた。アシュレーはシロツメクサの花冠をいただいている。 「はい。新しい冠を作ってあげるの」 ゼシカはまた咄嗟に答えた。 「そうかい、そうかい。冠なら沢山必要だねえ。いっぱい生えてる所、この辺であったかねえ……」 「公園はどうかしら」 「さっき通ってきたけどねえ……あ、そうだ。墓地にあったのを見たっけ」 「ぼち……」 石のように無機でひんやりとした語感に身震いする。しかしゼシカは努めて微笑んだ。 「お墓ね。ゼシ、行ってみるわ」 「ここをまっすぐ進んで、二つ目の角を左に曲がった所だよ。一人で行ける?」 「平気よ。ありがとう」 老婆の言う通りに進むとすぐに墓地が見つかった。 昼間の墓場は静かな公園のようなものだ。散策を楽しむ者も、花束を手にしている者もいる。しかしたゆたう静寂は絶対的で、耳鳴りのようにゼシカの足元に纏わりついてくる。 多種多様な墓石の群れがゼシカを見つめている。寡黙で重厚な彼らは雄弁に自らを主張している。ある墓標の前に老人がひざまずき、ゼシカには聞き取れぬ声で何かを呟いていた。呪文のようにも、聖書の文言のようにも思えた。 とても静かだ。耳が痛くなりそうになる。 「……ママ」 馴染みのある空気の中を彷徨う。しかしここが0世界であることをすぐに思い出した。ゼシカの母はここにはいない。 小さな足はシロツメクサの芝生へと向いた。 昔、父と母もシロツメクサの中を歩いたのだそうだ。 「大きい冠、作ってあげるね」 ゼシカは芝生の上にちょこんと座り、シロツメクサを摘み始めた。茎をちぎる度、爽やかな草の香りが広がる。腰に抱きついていたアシュレーが芝生の上に滑り降り、こてんとでんぐり返しをした。というより、転んだだけなのかも知れない。 「気をつけないと駄目よ」 ゼシカはちょっぴり気取って言った。セクタンにとってはゼシカもお姉さんだ。 シロツメクサを束ね、編んでいく。小さく不器用な手は時折束を引きちぎってしまった。その度にゼシカは唇を噛んでやり直した。ゆっくり、ゆっくりでいい。少しずつ繋げていけばいい。 彩りにクローバーを添えようとして、手を止めた。 「……あ」 三つ葉の群れの中に、小さな四つ葉が覗いている。 そうっと手を伸ばした。息を止め、注意深く摘み取る。しなやかで柔らかな四つ葉はゼシカの手の中にあっさり収まった。ゼシカはようやく心から表情を緩めた。 「いいこと……あるかな」 小さな幸福のシンボルに鼻を近付ける。愛らしい四つ葉は小鳥の肯きのように揺れた。 「名簿、名簿見に来ました」 「ああ、はい。お疲れ様」 司書は苦笑いと共にキリルを出迎えた。ここ数日、キリルは図書館に通い詰めだ。 ロストナンバーの登録は日々増え続けている。自然、キリルは旅客名簿を毎日調べることになった。といっても名簿だけを調べているわけではない。聞き込みも繰り返し行ったし、教会や墓地を片っ端から訪ねてもいた。キリルはくたくただった。 「……みゅー……」 名簿にめぼしい名前はない。困った。本格的に困った。 「誰探してるの?」 親切な司書が紙コップでお茶を出してくれる。キリルはありがたく喉を潤し、事情を打ち明けた。司書ならロストナンバーのことに詳しいかも知れない。 「うーん。そうだねえ……」 しかし司書の反応は思わしくなかった。 「毎日何十人、何百人と見てるから……牧師でコンダクターっていう人、結構いるし……」 「みゅー……」 キリルの耳が垂れる。司書は慌てて笑顔を作った。 「な、何か分かったら知らせるから。ね?」 キリルはこくりと肯いて辞去した。 さて、今日はどこを探そう。教会と名のつくチェンバーは片っ端から訪ね歩いた。墓地もあらかた調べ尽くした。 賑やかな声が脇を通り過ぎる。子供たちの列だった。手を取り合った子供たちはゴムまりのように弾みながらチェンバーへと吸い込まれていく。孤児院だ。 ゼシカの姿を思い出し、吸い寄せられるように中を覗く。そして目をぱちくりさせた。 十字架を戴く三角屋根が見える。あれは礼拝堂ではないのか――? 「ねえねえ。犬? 猫?」 気がつくとキリルは子供たちに囲まれていた。小さな手がキリルの尾を、背中を撫でくり回す。彼らよりちょっぴり背の高いキリルは口を引き結んで威厳を保った。くすぐったくて笑いそうだったが、こらえた。見る者が見ればキリルの髭が震えていたことに気づいただろう。 「みゅ……牧師、牧師さん探してます。何か、知らない?」 「牧師さん? 今はいないよ」 一人の少年の言葉に周りの子供たちが肯く。キリルの耳がぴこんと立った。 「前は、前はいた? 今は、どこ、どこに?」 「んとね、遠くのほう。先生が言ってた」 「みゅ……」 キリルは礼を言って立ち去った。 困った。本当に困った。 しかしキリルは手紙屋だ。預かった言葉は必ず届けねばならない。 手がかりを求めて近くの墓地へと足を踏み入れた。一度調べた場所だが、新たな発見がないとも限らない。 墓地は相変わらず静けさに満ちていた。墓場というのはどの世界でもこういうものなのだろうか。キリルの被毛を空気が撫でる音までもがくっきりと聞こえてきそうだ。 墓石の列から逸れた場所にシロツメクサの芝生が広がっていた。 「……クロー、バー。クローバー」 壱番世界では四つ葉は貴重で、幸運のシンボルだという。 誰かが座っていたのだろうか、芝生はわずかに凹んでいる。キリルはひとしきり四つ葉を探した。ささやかでも、ゼシカの励みになれば良い。 しかし四つ葉は見当たらず、時間だけが過ぎていく。 「……みゅー……」 キリルはこてんと座り込んだ。 四つ葉は見つからない。届け先も見つからない。さて、これからどうしよう。 キリルは玄関チャイムを鳴らした。 「あっ? はーい」 こちらの訪れを予期していたのだろうか、弾むような声が返ってくる。名と用件を告げると、声は更に明るくなった。家の中から聞こえる足音の軽快さにキリルの胸がちくりと痛む。 「郵便屋さん、こんにちは」 弾けるような笑顔と共にゼシカが飛び出してくる。 「みゅ……」 キリルはたじろいだ。言葉が出ない。そのまままごついていると、ゼシカの笑顔が波のように引いていった。 キリルは正直に伝えた。 0世界では手がかりが得られそうにないこと。壱番世界に探しに行ってみるつもりであること。しかし壱番世界はとんでもなく広いから、長旅が必要になる。それでいったん中間報告に戻ってきたこと……。 「届けるの、時間、時間がかかる」 たどたどしく説明するキリルの前で、ゼシカの瞳が風の中の湖のように波立っていく。キリルは目を伏せた。人の、こんな顔を見るために手紙屋になったのではない。 しかしゼシカは泣かなかった。それどころか、とびきり愛らしく微笑んでみせたのだ。 「分かったわ。ありがとうね」 意外な、心からの言葉にキリルはおもてを上げた。目が合うと、ゼシカはポシェットの紐を握り締めながらもう一度笑った。 「郵便屋さん、とっても頑張ってくれたもん。ゼシも頑張る。もっともっと探す。だいじょぶよ。いつまででも待つわ。待てるわ」 そして、小さな両手で花束を差し出した。リボンでぶきっちょに結ばれた、数本の四つ葉のクローバーだった。 「お礼にこれあげる。ゼシが摘んだの。お願いを叶えてくれるのよ」 「……みゅ」 貴重な四つ葉の束を受け取り、キリルは思案顔を作った。 胸の辺りがもやもやとする。ゼシカの気持ちはとても嬉しいが、キリルはまだ仕事を果たしていない。しかし断ればゼシカを悲しませるだろう。でも……。 熟考した末に一本だけ抜き取った。そして、残りはずいとゼシカに返した。 「ぼくは、一本、一本でいいから。後は、きみが、きみが持ってて」 これはゼシカが持っているべきだ。自分の願いよりゼシカのお願い事が叶えばいい。 「きみと……きみの、パパ、パパに」 ゼシカの目がこぼれんばかりに見開かれ、やがて濡れた膜に覆われた。 「……うん。早くパパに会って渡したいな」 しかし小さなレディは泣かなかった。ただ笑いながら肯いた。我慢できなくて、水晶みたいな涙が転がり落ちてしまったけれど。キリルはもうまごつかなかった。ただ、手でそっと涙を拭ってやった。ゼシカはくしゃくしゃの、魅力的な泣き笑いで応じた。 「同じコンダクターなら。いつか必ず、必ず。会える、会えるって、信じてる」 「うん。うん。ありがとう。ありがとう……」 手紙はキリルが預かることにした。ゼシカが父と会えることが一番だが、それとこれ――手紙屋としての責任あるいは誇り――とは別だ。預かった言葉は必ずこの手で渡さなければならない。ゼシカも快く同意してくれた。 「きっと、届けて、届けてみせる」 手紙を厳重に鞄にしまい込み、ぱたぱたと尾を上下させた。キリルの手には四つ葉の押し花がある。 (了)
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