ブルーインブルーのとある海上都市に着いて船を降りると、素朴ながら華やかな音楽が少し遠く彼らを迎えてくれた。キリル・ディクローズが聞いて来た通り、そこでは今この都市特有の小さなお祭りが開催されているらしい。「ふわあ……、何だか楽しそう」 大きな目をきらきらと輝かせて軽く頬を上気させたのは、ゼシカ・ホーエンハイム。まだ人の姿は見えないが、伝わってくる楽しげな空気に知らず心が躍る。微笑ましげにその姿を眺めていた船員たちは出港準備が整ったのか、船に戻りながら坊主らと声をかけてきた。「じゃあ、俺たちは行くからよ。次に船が来るのは二日後だ、祭りを楽しむのはいいが忘れんなよ」「みゅっ。二日後、二日後、大丈夫。運んでくれて、ありがとう」「ありがとう、船乗りさんたち。えっとね、えっと、……よいたびを!」 かけるべきを探し出して笑顔になったゼシカに、一瞬目を瞬かせた船員たちはどっと笑ってありがとよと手を上げた。「嬢ちゃんも祭りではしゃいで怪我すんなよ」「だいじょうぶだもん」 ぷうと頬を膨らませて反論するゼシカに声を上げて笑った船員たちは、じゃあ二日後になと手を上げて今にも出航しそうになったのだが。「ちょっと待っておくれ」「その船は、ロヤンの側を通らんかね?」 まだ行かないでと声を張りながら駆け寄ってきたのは夫婦らしい二人連れで、転びそうになった老女にキリルは慌てて手を貸した。ありがとうと笑いながら肩で息をしている彼女をゼシカが心配そうに見上げている間に船に寄った老人は、ロヤンには行くかねともう一度確認している。「ロヤンって、あのロヤンか? 冗談だろ、じいさん、今あそこに近づく馬鹿はいねぇよ」「知らねぇのかよ、今あの辺の海域にでかい海魔が出るんだ。あれが何とかならねぇ限り、行こうとする奴はいねぇだろ」 肩を竦めるようにして突き放す船員たちに、老女が泣き出しそうな顔をする。「そのロヤンに、あたしらの一人息子がいるんですよう。毎年この祭りの時期には帰ってくるのに……、今年はまだ来てなくて」「っ、あー、あれだ、きっとそいつも出る船がなくて足止め食らってんだろ」 最悪の予想を避けて慰める船員たちに、老夫婦は何だか不安そうに揃って首を横に揺らした。「そんな聞き分けのいい子なら、どれだけよかったろう」「ここを飛び出す時、させたたった一つの約束だ。あの馬鹿息子、足を折った時も意地でも帰ってきおったもんだ……、今年もきっと」 止めに行かんと、と悲壮な決意を見せる二人に、ちょっと待てと船員たちのほうが慌てた。「ロヤンに行く気か!? やめとけ、息子には来るなって手紙でも出しゃいいじゃねぇか!」「だが今は誰もロヤンに近づかんのだろ、どうやって手紙を届けろと!」「だからって、じいさんたちが乗り込む意味が分かんねぇ!」「というか、あそこに近づく船がないのにじいさんらも行けるわけがねぇだろっ」 何を考えてるんだと口を揃える船員たちに、近くまででいいんだと老人が縋る。「近くまで連れてってくれたら、後はそこでまた考える。頼む、連れてってくれんか」「お願いします!」「やめとけって、死ぬ気か二人とも」「大体、俺らもそんな海域に行ける装備じゃねぇし、行かねぇよ」 頼むなら他所に頼めと渋い顔をする船員たちに、祭りでもう船は出んのだと老夫婦は頭を下げる。「頼む、この通りだ!」「だから、やめろって。頭なんか下げても無理、無駄!」 さっさと行くぞと老夫婦を置いて出そうとする船員たちに、待ってとキリルとゼシカの声が揃った。「おじいさんとおばあさんは、ここにいて。ゼシがお手紙とどけるから」 ポシェットの紐をぎゅっと強く握りながら告げたゼシカに、老夫婦はあからさまに困惑した表情を浮かべる。キリルはその二人を見据えて、だいじょうぶ、と生真面目に頷いた。「手紙屋、ぼくのお仕事。必ず、必ず届けます」「待て待て、二人ともここの祭りを楽しみに来たんじゃねぇのかよ。すぐそこで祭りもやってんだ、何もわざわざ危険な海域に行くことねぇだろ」 やめとけと強く勧めてくる船員たちに、二人して大きく頭を振る。「お祭りはいいの、つぎもあるから」「お手紙、届ける。届ける。みゅっ。ロヤンに行く」 強く断言するキリルとゼシカに船員たちは顔を見合わせ、あーくそ、と頭をかいた。「子供二人にそこまで言われて引き下がったら、海の男を名乗れねぇ」「けどロヤンに近い海上都市までが限界だ、それでいいならこのまま送ってやる」 どうすると諦めたように笑って促した船員に、ゼシカはぱっと笑みを広げた。「ありがとう!」「けど坊やたち、まだ小さいのにこんな大変なことお願いするなんて……」 申し訳なさそうにする老女に振り返ったキリルは、お手紙くださいと手を出した。「ぼくたちが届けます、必ず届けます。二人とも、ここで待ってて」「本当に、頼んでもいいのかね」 一応出すつもりで手紙は書いていたのだろう、そろりと懐から出しながら確認してくる老人にキリルとゼシカは大きく頷いた。 男前な決意はいいんだがなぁ、とロヤンに程近い海上都市へと向かいながら船員が複雑そうな目を向けてきた。キリルがゆっくりと瞬きをしてその船員を見ると、縁に肘を突いた彼は口を曲げるようにして言う。「海魔に対抗できる船なんざ、そうそうねぇぞ? 俺らが行ける場所が普通の船の限界だ、その先どうするか考えてんのか?」「みゅ。海魔、退治する」「坊主ら二人でできるわけねぇだろ? このまましばらく海魔が居座るってんなら、近辺の連中が金出して退治の連中も雇うだろうが、坊主らはあっこの祭りが終わるまでに渡りてぇんだろ」 後二日くらいで終わるはずだぞと呆れたように突っ込んでくる船員の言葉に、ゼシカはドッグフォームのセクタン──アシュレーを抱えながらじいと上目遣いで船員を見た。「船員さん、」「だ、駄目だ駄目だ、そんな目で見てもこの船は無理だ! むざむざ海魔にやられに行く船なんてねぇよ!」 そんな目で見るなーっと必死で顔を逸らす船員の近くで、別の一人がそういえばと首を捻った。「ロヤンの近くに、何とかって海賊がいなかったか。あいつら、海魔を使うか退治するかって噂があったような」「あ? じゃあそいつらが、海魔を放ったのか」「知らねぇけど。ロヤンに行くなんて馬鹿を受けてくれそうなのは、そんな海賊くれぇしかいねぇよなぁ」「馬鹿、滅多なこと言うな! 坊主ら二人が海賊の前なんか出てみろ、いいカモだ!」 売られちまうのが関の山だと声を尖らせる船員に、そりゃそうかと相手も顔を引き攣らせた。「悪い、忘れてくれ。つーか、その手紙のことも忘れて帰っちまっても、誰も責めねぇぞ?」 寧ろそうしろと純粋に心配して勧めてくる船員たちに二人が答えるより早く、空を見ていた誰かが雲行きが怪しくなってきたと告げて騒がしくなり始めた。仕事に戻れと急かされて離れていく船員たちを見送って、キリルとゼシカは顔を見合わせた。「おじいさんとおばあさんからあずかった大切なお手紙、届けなきゃ」 帰らないよねと確認してくるゼシカに、キリルは大きく頷いた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>キリル・ディクローズ(crhc3278)ゼシカ・ホーエンハイム(cahu8675)=========
「ほら、見えたぞ。あれがロヤンに一番近いカルカナって海上都市だ。俺たちが運んでやれんのはあそこまでだ」 糸みたいに細く雨が降る中、遠く霞む港を指して船員の一人がそう教えてくれた。縁に両手で捕まって少し身を乗り出させたゼシカの隣で、キリルは手紙の入った鞄を抱くようにして押さえた。 仕事で海を渡るのは初めてだ、僅かに昂揚しながらゼシカの姿を確認して決意を新たにする。 (ゼシカのことも、しっかり、しっかり守らなきゃ。……じいじ、じいじがぼくをそうやって、守ってくれたように) ロヤンに渡るには、海賊の手を借りなくてはいけない。どんな人たちか見当もつかないが、ゼシカを傷つけるわけにはいかない。 「手紙屋さん、もうじきね」 ぽつりと、呟くようなゼシカの声で自分の手を見下ろしていたキリルは目を上げた。ゼシカは縁に捕まったまま船員には聞こえないくらいの声で、海賊さんたちに会いに行かなくちゃと呟く。それから様子を窺うように向けられた大きな青を受け止めたキリルは、こちらも船員には気づかれないように注意しながら頷いた。 ほっとしたように微かに口許を緩めたゼシカがおずおずと出してきた手をぎゅっと握り、カルカナの近づいてくる港を眺める。 心配して止めてくれた船員たちには申し訳ないけれど、預かった手紙を確かに届ける為には少しばかりの無茶は覚悟の上だ。 カルカナで降ろしてもらったゼシカたちは出て行く船から、危ない真似すんなよー! と届いた警告に幾らか後ろめたく思いながらも頷き、手を振って見送った。見えなくなるまで見届けてから港を見回すと、活気に満ちた人たちが威勢良く走り回っていた。大声で叫び合っている人もいて思わず不安に唇を噛んだが、キリルが少し強く手を握ってくれたのに気づいて顔を上げた。 「ゼシカ、大丈夫、大丈夫?」 「うん……ありがとう、手紙屋さん」 はにかんだように笑って頷いたゼシカにキリルはほっとしたように頷き、手紙を入れた鞄を少しだけ開けて見せてくれた。そこに大粒の宝石が幾つかあるのを見て、ゼシカは何度か瞬きを繰り返す。 「これ……?」 「運んでもらう、お礼。交渉、交渉、これでする」 小さく教えてくれるキリルの言葉に、ゼシカもはっとする。危険な海域まで繰り出してほしいと望むのだ、分かりやすい見返りがなければ交渉にも至らないだろう。 「海賊さん……、どんな人たちかしら」 俄かに不安を覚えて眉根を寄せると、聞いてみる、と繋いでいないほうの手で駆け回っている人たちを示された。 「海魔を使うのか、退治するのか。知らないと」 「うん。いい人たちだといいね」 少しの期待を込めて言うとキリルは一度大きく瞬きし、それからほんのちょっとだけ口許を緩めた。 それに勇気づけられるようにして微笑み返したゼシカは、キリルと繋いだ手を離さないまま慌しく行き交っている人たちに近づいていく。 「ぼさっとしてないで、さっさと積荷を運んじまいな!」 一際大声で怒鳴るように命じているのはほっそりした女性で、あいさー! と答えたのは走り回っている全員だった。どうやら今目につく範囲にいるのは全員同じ船の乗組員らしく、大きな傘を差している鮮やかな赤い髪の女性が司令塔らしかった。 声をかけてもいいものかと戸惑って知らず足を止めると、視線に気づいたらしい女性が顔を巡らせてきて驚いたように目を瞠った。 「何やってんのさ、こんなとこに小さな子が二人で! ああもう、傘も差さないで風邪引いちまったらどうするんだいっ」 おいでと大きく手招かれるのでちらりとキリルと目を交わし、おずおずと近寄っていくと赤毛の女性はしゃがんで二人の上に傘を差し出してくれた。 「どうしたんだい、親と逸れたのかい?」 「ううん、……ゼシたち、御用があってきたの」 「みゅっ。この都市の、海賊、海賊。知ってる?」 続けて尋ねると、海賊ぅ? と嫌そうな声を出された。姐さんこそ濡れますよと別の傘を持ってきた周りの男たちは、彼女の態度に何故かくすくすと笑っている。問答無用で手近にいた一人を蹴飛ばした女性は、海賊ねぇ、と気乗りしなさそうな声ながら真っ直ぐゼシカたちを見つめる。 「海賊がどうしたってんだい」 「海魔を使うの、本当? 退治するの?」 「……そういう噂は聞くけど、それがあんたらにどう関係するんだい」 少しばかり呆れたように聞き返されたそれに教えてと二人で詰め寄ると、肩を竦めた女性はあんたぁ、と呼びかけながら振り返った。 「こうお聞きだけど、どうなんだい」 「は? 何で俺に振る」 聞いたのはお前だろとどうでもよさそうに答えたのは髭面で樽みたいな体型の男性で、酒精に濁った茶色い目を向けてきた。思わずびくっと身体を竦めると、男性は怒るではなくどこか楽しそうに目を細めた。 「海魔を使えるような連中、いやしねぇ。坊主らが聞いた海賊だって、ちょっとばかし海魔を退ける方法を知ってるだけだ」 そうだろと語尾を上げて見回した男性に、走り回っていた全員がけらけらと笑いながら、うーす、と答える。 「海魔さんは、つかわないの? じゃあ、海魔さんが怪我したりしないのね?」 ほっとしたようにゼシカが聞き返すと、赤毛の女性が持ってこられたタオルを頭にかけてくれながら、それでと語尾を上げた。 「あんたたちは、それを知ってどうすんのさ? お願いって何だい」 「みゅ。ロヤン、ロヤンに行きたい。今そこに行けるの、その人たちだけ」 「「ロヤン!?」」 驚いたように全員に声を揃えられ、ゼシカはびくっと肩を震わせてアシュレーを強く抱き締めた。ほは、と息を吐くように苦しげな様子にも気づかないくらいふるふるしながら抱き締めていると、キリルが宥めるように軽く手を押さえてきた。 はっとして力を抜くとアシュレーはゼシカの腕を擦り抜け、足元に添った。 「海魔で大騒ぎの都市に行こうってのかい? 何でまた、そんな無謀な」 「仕事、お仕事。大事な手紙、届けます」 「手紙って、何もあんたらが直接届けるこたぁないだろ? それにしばらく待ってりゃ、」 「だめ。お祭りがおわっちゃう……っ」 それまでに届けないといけないの、とキリルの手をきゅっと掴んで怖いのを堪えながら主張すると、赤毛の女性は困ったように自分の頭をかいた。 「ロヤンに親でもいんのかい」 呆れたような問いかけに、ゼシカは一度口を噤んでから大きく頭を振った。 パパやママに手紙を届けられるなら、きっと頑張ってどこにだって行くけれど。きっとゼシカがそう思うほど息子を思って無茶をしようとした老夫婦の為に、同じくらい頑張って届けなくては。 「今海は危険、危険。無理して戻らなくていい、おじいさんたちの言葉、届けます」 真っ直ぐ女性の目を見て断言したキリルに、周りの全員が複雑そうな声を上げた。 「そんな理由であの海域に乗り込もうって、無茶すぎるだろー」 「つーか誰だ、がきんちょにそんな危険を押しつけんのは」 「おしつけられたんじゃないの、ゼシたちがかわりに行くって決めたの。おじいさんもおばあさんも、大変そうだからっ」 だからだもんっと老夫婦を庇って主張すると、女性が手を伸ばして柔らかく頭を撫でてくれた。 「しかし、あんたらにはちょっとばかし荷が重そうだねぇ。海賊に頼んで無事でいられるとお思いかい?」 何を請求されるか分かりゃしないよと語尾を上げた女性に、ゼシカは急いでポシェットを探った。中に入れていたキャンディを全部取り出して掌に乗せ、見せる。 「とっても美味しいキャンディなのよ。いろんな味があって、きれいなの。これ、全部あげるわ」 それとね、それと、とキャンディをぎゅっと握り締めながらできることを考える。 「ゼシにできることは何でもする。お食事の支度とか雑用とか肩叩きとか、大砲のお掃除も!」 みんな頑張ると必死に訴えるのに、周りの男性たちは顔を見合わせて苦笑している。 「っ、ほかにもできるもんっ」 泣きそうに反論して頭を捻っていると、何でもとか言うんじゃないよと女性が少し荒く、けれど優しい手つきでゼシカの髪をくしゃくしゃとかき回した。 「お嬢ちゃんみたいに可愛い子は、高く売れるんだよ? 船に乗せてやる代わりに売り飛ばす! とか言われたらどうすんのさ」 後先は考えなと少しだけ怒ったようにゼシカの頭を押さえたまま揺らした女性は、宝石、と口を開いたキリルに視線を変えた。 「宝石、幾つかある。手伝ってもらえたら、出せる」 そんなに沢山じゃないけど、と鞄を開けて一つだけ取り出して見せたキリルに、女性はああもうと頭を抱えた。 「このお子様たちは、自分にそんな付加価値ありますって宣伝してどうすんのさ! ただでさえ可愛いってだけで商品価値あんのにさー!」 もう本当に売り飛ばしてやろうかしらと顔を顰めた女性はけれどすぐに溜め息をついて、斜めがちにゼシカたちを見てきた。 「宝石は……一個は貰っとく、あたしらだって危険を冒そうってんだ、何かしら見返りがないとね」 言いながら軽く手を揺らした女性に、キリルは一瞬きょとんとしてから慌てて持っている宝石を渡した。毎度とそれを取り上げて立ち上がった女性は、いいよねあんたと髭面の男性に振り返った。 「いいも何も、お前が決めて覆した例があるかよ」 「ふふん、ないね。じゃあ野郎ども、この二人をロヤンまで連れてくよ、準備しな!」 言うと思ったーと嘆くよりは笑うような感想と一緒に、うーす、と気軽に返事が揃う。ゼシカとキリルは何が起きたのかと目を瞬かせ、顔を見合わせた。気づいた女性はにこりと笑い、顔を近づけると鼻先にぴっと指を突きつけた。 「あんたらがお探しの、カルカナの海賊はあたしらさ。ロヤンまでなら一っ走りだ、さほど手間でもないから乗せてもあげるさ。けど、何でも手伝うって言葉は忘れんじゃないよ」 周りの男たちに荷物を押しつけられ──と言っても一人で持てる程度の軽い物だけだったが──、船に乗り込んだキリルたちはモップで甲板の水を掃き出したり、積み上げた箱に番号を振ったり数を数えたりと忙しく様々な雑用をこなした。 ロヤンに近づくにつれ雨風が激しくなってきたので、ゼシカと自分を繋ぐ命綱をつける。縛り方に関しては拘束術でばっちりだ、後は船と繋げようとしたところに髭面の男性が覗き込んできて、へぇと感心したような声を上げた。 「上手いもんだ。けどそろそろガキ共にゃ風がきついだろ、下で料理でも手伝ってろ」 「まだ大丈夫、大丈夫」 手伝えますと意気込むと、ガキ共ー、と周りの船員たちが声をかけてきた。 「船長に逆らったら船から放り投げられんぞ」 「そうそう、下行って何か温かいもんでも頼むわ」 早く行けと笑いながら促してくれる船員たちに、ありがとうとゼシカと揃えて頭を下げると何故か笑いが起きる。苦笑めいていても嫌な感じのしないそれに送られて船室に下りると、すっかり濡れそぼっているゼシカに気づいて大量に用意してきたタオルとバスタオルを被せた。 「風邪を引いたら、大変、大変」 「手紙屋さんもね」 かけられた内の一枚をキリルの頭に被せてくれながら笑ったゼシカにありがとうと目を細め、それぞれに一生懸命拭いているとお疲れ様と声をかけられて手を止めた。さっきの赤毛の女性はカップを二つ持って近寄ってくると、どうぞと差し出してくれた。 「上で頑張ってくれたみたいじゃないか。もうじき海魔が出る領域だ、あんたらはこれ飲んで大人しくしてな」 揺れもひどくなるだろうから気をつけてと忠告する女性に、ゼシカはかけられたままのタオルを引っ張りながら、あのねと切り出した。 「海魔さんはね、おうちにおっきな船がやってきてびっくりしちゃって、それで暴れてるんだと思うの」 「そうだねぇ。けどあたしらだってそこを通らないと、ロヤンには着けないんだよ?」 どうしようねと悪戯っぽく目を細めた女性の尋ねに、ゼシカは一生懸命答える。 「このお船に、空樽や筏はある? それを海に浮かべたら一斉にばらばらの方向に動かすから、海魔さんがうろうろしている間に通り抜けられないかしら」 ギアのじょうろを取り出して、ちょっとの間ならできるのよと説明するゼシカに女性は何度か頷き、坊やはとキリルに視線を変えた。 「何か策をお持ちかい?」 「みゅ。海路から外れた岩場に、餌、餌を置く」 進路の妨げにならないように餌で場所を移動させれば退治する必要はないはずだと提案すると、女性は何だか楽しそうに声を上げて笑い出した。 「二人とも、何ともお優しい策を考えてくれるじゃないか」 あんな大蛸にまで慈悲を振舞うのかいと笑いながら立ち上がった女性は、試してみるかねと周りの船員に空樽を集めるように命じている。 「この雨じゃ、岩場に餌を置くのは難しそうだから樽に餌を入れて流すとしようか。まぁ、それで進路が開けば儲けものさ」 女性が不敵に笑った頃には部屋に空樽が並べられていて、ゼシカがギアで水をかけて一時的な命を宿した。 動くー! と面白がって運んでいく船員を手伝えずに見送ると、激しく雨が叩きつけてよく見えない窓へと駆け寄った。どこにいるのかしらと呟いたゼシカに、そこから分かるようじゃ船は沈んでるよと女性が笑って突っ込む。 「心配しなくても成功したら知らせてくるよ、座って待ってたらどうだい」 のんびり構えている女性にそう促されたが、首を振る間も惜しんで眺めているとしばらくして船員の一人が駆け込んできた。 「姐さん、例の大蛸が餌入りの樽に釣られて動きました!」 「へえ。やってみるもんだね」 「けど速攻食べ尽くしてまたこっちに戻ってきそうですー!」 どうしましょーと別の男性が後ろから飛び込んできたのを聞いて、思わず耳と尻尾がぴくりと反応した。海魔を傷つけたくはないが、退いてもらえないと通れないのも事実。甲板に出ようかと動きかけた時、何か通ったわと外を窺っていたゼシカがびっくりしたように声を上げた。 キリルも思わず振り返って外を眺めると、黒い背鰭がすごいスピードで進行方向に向かっていくのを見つけた。 「鮫?」 目を瞬かせながら呟くと、残念と楽しげな女性の声が答えた。 「シャチさ」 言いながら女性も窓辺に寄ってきて、キリルたちの頭の上から外を眺めて続ける。 「気紛れに助けたシャチの親子が、ずっとついてきててね。今みたいに海魔なんかに遭遇すると、ああやって助けてくれんのさ」 「大丈夫なの? 怪我したりしない?」 海魔さんもシャチさんもと不安そうなゼシカの問いに、多分ねと女性が肩を竦めた。 「あの子らが海魔を引きつけてくれてる間に通り過ぎるだけだから、詳細は知らないけどね。通り過ぎたらすぐについてくるし、仕留めた海魔が浮いてるところも見ないしねぇ」 「それができたら、俺らもっとがっぽがぽですよ」 「確かに、海魔退治で食ってけらぁ」 けらけらと笑う船員たちに、そん時はシャチ以下のあんたらはお払い箱だけどねと女性が辛辣に鼻で笑う。大仰に胸を押さえて蹲る船員たちを改めて笑い飛ばした女性は、大きく縦揺れを受けたが転がることもなくキリルたちを支えてくれて、ふと目元を和ませた。 「さて、海魔を抜ければ後はロヤンまですぐだ、どうやら無事に着きそうだね。あんたらの仕事も完遂できそうかい?」 「ありがとう、ありがとう。大事な手紙、ちゃんとお届けできます」 「会いたいけど、無理をして死んじゃったりしたらおじいさんとおばあさんはずっとずっと哀しいまんまだもの。ちゃんととめるわ」 たとえ離れ離れでもどこにいても家族は一つだものと、どこか祈りにも似た強さでスカートを掴んだゼシカの足を、アシュレーの尻尾がふさりと撫でる。自分のセクタンを見て口許を綻ばせたゼシカは、女性に深々と頭を下げた。 「お船に乗せてくれてありがとう、赤毛さん」 「運がよかったねぇ、あんたたち。けどあたしらみたいな海賊は稀なんだからね、普通の海賊にのこのこ会いに行ったら売り飛ばされるよ!」 脅すように声を低めてから笑った女性にキリルも僅かに尻尾を垂らし、反省しながらこっくりと頷いた。ゼシカも同じように頷いてから真面目な顔をして、あのねと自分の服を掴んで女性と部屋にいる船員たちを見回した。 「……海賊さんにもパパやママや子供さん、家族がいるんでしょ? その人達の事、忘れないであげて、必ず会いに行ってあげてね。きっといっぱい寂しがってるから……」 一度ふらりと落とした視線を上げたゼシカは、にっこりと笑った。 「ゼシと約束よ?」 ね、と笑いかけるゼシカを抱き締めた女性の周りでは、家族なぁ、と複雑そうに船員たちが苦笑を交わしている。キリルの耳が、ぴくぴくっと動いた。 「届けます、届けます。手紙、気持ち、ぼくが必ず!」 会いに行けなくても書いてくださいと意気込んだ台詞と一緒に、尻尾がぴんと強く立っている。面食らったような顔でキリルを見た船員たちは何度かの瞬きの後、照れたような懐かしそうな顔で笑った。 「おう。書いた時は、坊主に頼むわ」 今回の借りで安くしとけよぉと笑うように語尾を上げられ、勿論と返して微かに口許を緩めたキリルの尻尾はどこか嬉しそうに小さく揺れた。 濡れないようにと用心の為に保存瓶に入れられた大事な手紙は、無事に届けられそうだ。
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