インヤンガイで死んだ御面屋が遺した品々の処分をしたいのだと、雨師は言った。 雨師は御面屋が作ったチェンバーを継いだ男だ。お互いのことを話し合うような機会もあまり無かったと言って笑う雨師は、御面屋が如何なる過去を持ち得てきたのかも知らないのだと言う。むろん形見分けというかたちを取ろうにも、ツーリストとなり出身世界から放逐された身であった彼に遺族がいるのかどうかすらも知れない。ゆえに、御面屋の遺品を片付け、このチェンバーをすっかり自分の住処として整えることを選択したのだ。 風に揺れる浅葱色の暖簾をくぐり、開かれた木戸の間から覗き見えたその空間は、かつては御面や駄菓子、根付きが並べられていた平台が置かれた三和土と、その向こうに続く畳敷きの一室。今は平台も下げられ、見目にもがらんとした物寂しい空間が広がっているだけだ。 眼鏡の奥、糸のように細められた双眸で笑みを浮かべ、雨師は畳の上に膝を折って座り、安穏とした調子で口を開く。「ようこそおいでくださいました。雨に濡れましたでしょう? さ、茶の用意が出来ています。中へどうぞ」 チェンバーの新たなあるじとなった雨師だが、彼があるじとなってから、このチェンバーには高確率で雨が降っている。 常に夜気が広がり、ひっそりと静まり返ったこのチェンバーには、今は雨音と庭木の葉が風にすれるおとばかりが広がっていた。庭に面した畳敷きの部屋に案内された客人たちは、テーブルの上に用意された茶や酒肴の品々が並ぶのと、畳の上に並んだいくつかの木箱があるのを目にとめる。 雨師は改めて膝を折り座ると、並べた木箱のふたを開けていく。収められていたのは数種の御面や根付けだった。「いくつか残りがありましてね。効果はまだ継続しているだろうとは思うのですが、なにぶんにも製作者はすでに死亡しておりますので、彼が生前時に扱っていたときと同じ状態での、……つまりは万全な効果が見込めるという保証はありません。根付けにいたってはもうただの根付けにすぎないようですし、御面の効果もおそらくはほどなく消失していきましょう」 それでも、と、雨師は続ける。「それでも、もしも皆さんさえよければ、どうぞお好みのものをお持ちになっていってください。僕自身にはあまり彼を悼む気持ちも……しょうじきなところ、それほどにはありません。しかし、それでも、せめて、彼が生きていたという証のためにも」 言いながらふわりと微笑んで、数拍の間を置いた後、雨師は御面に関する説明をし始めた。 狐の顔を模した面に付属する効果は、過去に体験してきた辛く悲しい過去の記憶に関する夢をもたらすもの。以前は色も様々あったが、今は白のものだけが残されている。 天狗の顔を模した面は経験したことのない風景の夢をもたらす。楽しい記憶、恐ろしい記憶。内容は様々だけれども、ただし、夢から覚めた後はその内容のすべてを忘れてしまう。 鬼の顔を模した面は、過去に体験した優しく穏やかな風景の夢を見せる。 ただし、その効果はいずれも製作者が生存していた時点でのもの。今はそれと同じ効果が約束されるわけではない。例えば目覚めた後に忘れているはずの夢の内容を、目覚めた後も克明に記憶し続けていくかもしれないのだ。 御面のひとつを選び、この場でかぶるのも良し。茶や酒肴を楽しみつつ雑談に興じるも良し。「さて、彼は確か来店したお客様にこう声をかけていたはずですね」 言った後、雨師は眼前に並ぶ客人たちの顔を見渡した後にゆるりと笑う。「さァさァ、どちらさんも寄ってっとくれ。欲しいのは夢かい? それとも現かい?」
屋根板を打つ雨音が響く。 畳の上に並べられた木箱の中に収められ、ひっそりと静かに、息を潜め眠りに就く瞬間に備えているかのように、数種の面が並んでいた。 アマリリス・リーゼンブルグは涼やかな双眸を眇め、畳の上に座したまま、手を伸べるともなく、並ぶ木箱を視線だけで検めていく。 このチェンバーを訪れたのは今回で二度目。百鬼夜行が姿を見せるという触れに招かれて足を寄せたのが一度目だった。あの日顔を合わせた御面屋の姿を思い出す。雨の降る庭の中、番傘をさし、キリルの頭を撫でていた。 肩越しに振り向き、背にした庭に目を向けた。あの日と同じく雨が降っている。あの日と同じく、雨降る庭の中にキリルが立っている。雨師から渡された番傘はあの日と同じものだろうか。両手で番傘を抱え持ち、何かを探すようなそぶりできょろきょろと辺りを見渡していた。アマリリスは目を伏せる。 ロストナンバーは時の移ろいから放逐された存在だ。齢を重ねることもなく、ゆえに必定、死というものからも遠ざかる。けれどそれは不死という久遠を得られたわけではなく。依頼の中には生命を脅かすほどの難易度をはらんだものも少なくはない。依頼の中で死を迎える者もいる。 伏せたまぶたの中、浮かぶのはマキシマム・トレインウォーで不帰の身となってしまった灰人の顔だった。 視線を持ち上げ、再び木箱の中に収まる面の数々に目を向ける。 「御面屋は逝ってしまったのだな」 こぼした声は、誰に向けたものでもない。答える者もいなかった。 アマリリスは小さな息をひとつ吐き、目についた面をひとつ指差した。 「これをいただいてもいいかな」 示したそれは鬼を模したものだった。雨師がうなずき、その面を収めた木箱ごと押してよこす。 御面屋が開業していた間、アマリリスは客としての来訪を得たことはなかった。けれど、牙を剥きそら恐ろしげな表情で顔を歪めるその面は、存外に自分に似合うのかもしれないとも思う。 木箱に指を触れる。小さな息吹を感じたような気がした。 ヒイラギは初めて訪れたチェンバーの畳の上に座した後、しばしの間視線を移ろわせていた。 何ということもない和風の小さな長屋だ。華美な装飾があるわけでも、調度品や家財が多くあるわけでもない。必要最低限な家具のみが置かれた部屋は、比較的こぎれいに整えられていた。 ここが彼の住まいだった場所ですか。 案内されたとき、ヒイラギは雨師に向けてそう言った。雨師は首肯を返し、彼の自室はこの奥にあるのだと続けた。覗いては見たが、その部屋もまた簡素な印象が色濃く漂うばかりの間で、工房らしからぬ場所だと、ヒイラギは心の中で小さな息をつく。 ヒイラギはインヤンガイで幾度か御面屋と顔を合わせたことがあった。彼が何を願っているのかを知りながら、彼が執った凶行の内容や目的を知りながら、それでも、なんとか彼をインヤンガイから引き離し、0世界に連れ戻そうと試みていた。結果、それがかなうことはなかったのだけれど。 持参してきた酒はテーブルの上にある。雨師が一口相伴にと言い、封はすでに開いていた。用意されている盃の数は六つ。そのひとつに酒を注ぎ、テーブルの端に置いた。 ――想う相手に殺されたのだ。それはきっと間違いなく、他ならぬ御面屋自身が強く望んだ結末だっただろう。彼がかつてシロガネとの間にどのような歳月を重ねていたのか、そのすべてを知ることはできない。それでもきっと、御面屋は幸福の内に末期を迎えたことだろう。 愛する者との再会を経て、愛する者に名を呼ばれ、愛する者の手によって終着を迎える。その幸いを推し量ることだけはできる。 それでも、 「死なせたくはなかったですよ」 しぼり出すように落とした独り言に、雨師が小さく頭をさげた。ヒイラギもまた小さく頭を垂れる。 雨の音が耳に触れる。夜の気配が部屋の中に満ちていた。あの街とはまるで違う、静謐で清らかな夜の匂い。 ヒイラギはしばしその音に耳を寄せた後、静かな夜の空と同じ色の視線を木箱に向けた。並ぶ面の数々を、ひとつひとつゆっくりと検めていく。わずかな間を置いた後、その目が天狗の面を捉え、止まった。 ひとしきり庭の中を歩き回った後、キリル・ディクローズはしょんぼりと肩を落とし、のろのろとした足取りで皆がいる部屋の中に戻ってきた。どこを探しても御面屋はいない。枝葉が揺れる音を耳にするたびに心を弾ませ覗いてもみたが、それはただ、夜風や雨雫が枝葉を揺らす音でしかなかった。 御面屋は死んだらしい。 結局、あの面の下の顔を目にすることもなかった。でも、キリルの頭を撫でてくれた、あのあたたかな重みは今もかすかに残っている。 ――『行く道、帰る道、そして生きる道のりには必ず出会いと別れがある』 祖父の声が夜風にまぎれ、耳を撫でる。 キリルは手紙屋だ。世界のあらゆる場所を渡り歩き、荷物や手紙を届けるのが仕事だ。そうして、届けるのは必ずしもかたちのあるものだけとは限らない。時には言葉を届けるときもある。末期を迎えた者が遺した言葉を、その言葉が宛てられた誰かに届けたこともある。幸いな詞ばかりではない。時にそれはおぞましい恨み言であったりもした。けれどもその大半は、遠く離れた無二の相手に向けた感謝の詞だった。 ――『“出会いは大切だ”と詩人や文献はオウムのように語るが、手紙屋として旅に出るお前は』 別れ、別れることの大切さを知るべきだ。 キリルが旅立つ前、祖父はキリルにそう言った。 覚醒した後もいろいろな出会いと別れを重ねてきた。今はもう、祖父の言葉の意味を理解している。 けれど、それでも。 番傘を閉じ、雨を降らす夜空を仰ぎ見る。 頬を雫が流れて落ちた。 縁側のすぐ傍で佇むキリルを見つめ、シーアールシー ゼロはやわらかな銀色の目をまばたきさせる。 手にしているのは天狗の面。木箱に収まり並ぶ面の数々を検めた後、白い少女が手にしたのは、何という変哲のない、朱塗りの天狗面だった。 天狗の面は経験したことのない風景の夢をもたらすのだという。その内容は様々だけれど、いずれにせよ、目覚めればその内容のすべてを忘れてしまうのだ。――けれど、雨師が言うに、それは製作者が存命であった間にのみ約定されていた効果。御面屋が死に、遺品となった面の数々が備えた効果も、本来のそれとは逸したものとなっているらしい。 キリルは泣いているのかもしれない。もしかすると、いま、この場に座している者たちのなかで一番御面屋の死を悼んでいるのかもしれない。でも、もしもそうであったとしても、キリルを慰め、手を伸べるべきは自分ではないような気もする。 視線をキリルからはずし、手の中にある天狗面に落とした。幾度か目をしばたきながら天狗面の眼を覗き見る。感情など抱えているわけもない無機質なそれが、静かに笑んだようにも思えた。 雨の音にまざり、夜の風が吹き流れてきて、ゼロのやわらかな銀色の髪をゆるゆると躍らせる。その風に背を押されたような気がして、ゼロは静かに面を持ち上げた。ゆっくり、ゆっくりと、自分の顔に面をのせる。 ◇ <ゼロ> ロストナンバーとして覚醒し、ディアスポラ現象に遭遇し飛ばされた先は、マイナス下層――インヤンガイよりももっとずっと暗く、およそ希望などというものとは無縁な、暗色と絶望にのみいろどられた世界だった。 舗装などされているわけもない、荒れた路面。点在する建物らしい残骸は、少なくともゼロの視界に映るもののすべてが瓦礫と称するに相応しいものだった。 裸足で歩きながら、ゼロはその世界の構造を思う。なぜかは分からない、けれどその世界がどのような場所であるのかは理解していた。 壱番世界における宇宙の総てと比較しても、それすらも塵芥の類にしか思えないほどの広大な、気の遠くなるほどの無辺の世界。その世界ではあらゆる神々がないまぜとなり、開闢の時期も終焉の兆も知れぬほどの争いを続けている。神々がいて、それより上位の神々がいる。それよりも数段上位に在する神々がいる。魔神や悪魔がいる。力と力の衝突は世界を砕き、その端から世界は新たに広がりを見せていく。世界のどこに行っても争う思念や呪詛が満ちていた。 どれほどの歳月を経ても世界図書館はゼロを保護しに来てくれなかった。チケットも持たない身であるはずなのに、世界のあらゆる言語は解することができた。どこに行っても安寧など欠片もなかった。 幾度も世界の改革をと思い立ったこともあった。しかしゼロは他を傷つけることができない特性を持っている。幾度も世界に安寧をと訴求し続けたが、その特性ゆえに世界はどこまでも変わらないまま。その特性がもたらす効力がどれほどに強大であっても、結局はどこまでも無力なままだ。 ゼロが持つ『他を傷つけない力』はまずゼロに『他を傷つけない特性』を付与するのに使われ、それから縮小に使われる。この順番ばかりはゼロ本人の意思でも変えることはできない。 自身の力ではこの世界に安寧をもたらすことはできない。そう悟った後に至った策は、世界の変革を忘れ、総てを思考の外に追いやって、淡いまどろみの中に身をひたすことだった。 ゼロはまどろむ。長いながい、途方もない時間の中、胎児のように手足を丸め、長いながい夢を見る。そうしてそのまま無尽蔵に巨大化していく。世界ゼロの上で戦いを続ける。いつしかゼロ自身が住人たちが暮らす世界そのものとなっていた。 そうして幾星霜のまどろみの中、ゼロはある日突然、世界の真理を思い出す。心を覆っていたもやは晴れた。縮めていた手足を久しぶりに大きく伸ばす。四肢の解放で喜びの軋みを響かせながら、ゼロの身体は更なる巨大化を重ねていく。ゼロの上で無限の戦禍に身を置き続けていたものたちは、足元の揺らぎと世界が急速に肥大していくことに慄き、その刹那、戦火は止んだ。それでもゼロの巨大化が止まることはない。無限倍ともいうべき倍率で巨大化し、世界繭を粉砕し、そうしてその世界に終焉をもたらしたのだ。 こうして、ゼロはようやく、世界に安寧をもたらした。ひとときの安堵。けれどそれは次の瞬間、新たな危惧へと姿を変える。 無に帰した世界の周囲には、無数に存在する数多の世界が存在していた。マイナス下層に相応しく、どの世界にも安寧など露ほども存在しない。無限の絶望、無尽の闇。どの世界も等しく滅びを待っている。 ゼロは両手で頬を覆い、無言のままに眼前の光景を検めた。 どの世界にも等しく終幕を、安寧をもたらさなくてはならない。 ゆっくりと歩みを進めた。銀色の双眸がやわらかな光を帯びてひらめいた。 ◇ <アマリリス> 小さく咳き込む声がする。 水差しを両手で包み持ち、アマリリスは咳き込む声の傍へと走り寄った。 汚れない真白な寝具で整えられた寝台は、長い歳月を女王として一国を率いてきた身であるにも関わらず、とても質素で、けれども臣下たちや国民たちから篤い支持を受けていた女王であることには変わりない。寝具には、目立たぬよう、ごくさりげなく、けれども手のこんだ見事な刺繍が施されていた。 翼人であるアマリリスが郷里を捨ててまで膝をつき、忠誠を捧げた唯一の存在。女王アメリア。出会った頃は壮健な少女であったアメリアも、齢五十を数え始めたころから病床につくことが目立つようになっていた。 それでも、初めのうちは無理を通し執務などをこなしてみせていた。笑みを浮かべ立ち続ける彼女の健常を、おそらくはアマリリスを除いたすべての者たちが信じていたに違いない。否、誰もがアメリア女王の喪失を想像することも出来ずにいたのだろう。女王は常しえに壮健で、美しく、朗らかであり続けるに違いないのだと、誰もが信じていたかったのだ。 けれどそれは叶うはずもない願いだ。人は誰もが等しく死という結末を迎える。アメリアを蝕む病もまた、日を重ねるごとに症状を重篤なものへと変じさせていった。女王を覆う死の影は、もはや誰の目にも明らかなものとなっていたのだ。 女王の座位はアメリアの娘ヴィオラが継いだ。ミモザとマトリクは姉を支える位置に立ち、三人で力を合わせ、母の威光を汚すことなく立派に任を務めている。アメリアは子どもたちの活躍を耳にして、深い安堵を得たのだろう。次第に、深いまどろみに沈んでいく時間が増えていた。 アマリリスは時間の許す限り、死の床につく無二の友の傍らに身を置いた。まどろむ彼女の呼気が幽かなものであれ、それを検めては安堵した。まどろみから浮かびうわ言のように口を開くアメリアの声をひとつも漏らすことなく耳にとめ、うなずき、笑みを返し、応えを述べた。冷たく、骨ばった手を恭しく両手で包み、己の熱で、己の生気で、友の命を救う手立てはないものかと、幾度も儚い思索を繰り返した。 過ぎた歳月を懐かしく語る。瞬く間に流れていった追憶の、すべてがかけがえのないものに思える。取り戻すことが出来ないものだからこそ、留め置くことが出来ないものだからこそ、無二の友のすべてが愛しい。 ――王子様、私を攫って うわ言のように呟いたその声に、アマリリスはわずかに目を見張り、それからやわらかな笑みを浮かべた。 ――何処なりとも アマリリスの応えに、アメリアは少女のように頬を緩める。 きっとずっと、貴方が望むのならば、常しえの先にまでも連れていく 続けた誓いは、深い眠りについた友の耳には届いただろうか。 ◇ <ヒイラギ> 幼いころから、自分の総ては主のためにこそ有るのだと理解していた。 選王家のひとつに仕えるのを務めとする一門に双子として生まれ落ちた瞬間から、自分の命はもとより、持てるすべてのものは仕える主のためにこそ存在するものだったのだ。 主のために生きて死ぬ。自らの体をもって毒薬やあらゆる薬物に対する耐性を身につけることにも、何ら疑念を持ちはしなかった。 それでも、双子とはいえ、兄であるヤナギはヒイラギに比べ、考え方もひらめきもずっと柔軟なものだった。生真面目で頑固なヒイラギを相手にするよりも、ヤナギと共にいる方が、主もきっと気楽で楽しかったのだろう。 自分よりもはるかに主との親密度を高めていくヤナギに、ヒイラギは心のどこかで深く嫉妬の念を抱いていた。言葉にこそしたことはなかったが、ヒイラギが抱く暗い感情に、ヤナギも気付いていたかもしれない。けれどヤナギもそれを口にすることはなかった。ただヒイラギの肩を叩き、大丈夫だとでも言うように、笑みを浮かべるだけだった。 世界に存在するすべての存在は、動植物に至るまで余すことなく異能を保有している。強大で稀少な異能を持ち生まれた者こそが優位に立つことが出来る世界。生きていくためには力が必要だ。弱者は虐げられるばかり。虐げられるのを厭うならば、強固な異能を奪い、己のものとするより他に術はない。ゆえに世界には異能の奪取を目的とした殺し合いも日常的に起きていた。 ヒイラギとヤナギが個々に保有する異能はそれぞれに強固なものだ。双子ではなく、ひとりの人間として生まれていれば、分かたれた異能はさらなる威を誇り、存分に揮えていただろう。それを惜しむ者も少なくはなかった。けれど、そんな声を耳にするたび、眉をひそめ口を閉ざすヒイラギに対し、ヤナギは笑みさえ浮かべて言ったのだ。気に病むことはない。俺たちはすべて主のためにだけあればいい。主を護る盾は多いほうがいいだろう。俺たちはふたりで主の盾となれるのだ、と。 しかし、そんな日々はある日突然に幕引きを迎えた。 生じたのは異能の奪い合い。的とされたのはヤナギだった。ヤナギよりも強固な異能を有した者。それが狙い定めたのがヤナギであったのか、あるいはヒイラギであったのか。ともかくも、ヒイラギがそれに気付き足を向けたとき、ヤナギはすでに瀕死の状態にあった。 それでも命からがらどうにか逃げおおせてきたのだと笑いながら、ヤナギはヒイラギの腕を掴み、血泡を噴き出しながらも告げた。 ――俺の力を引き継げ 元来そうであるべきはずだったもの。これを機に、俺はお前とひとつとなるのだ。 拒もうとも考えた。異能を奪うという行為は、相手の命をも奪い取るということに値する。 けれどヤナギは繰り返す。 俺はこれからも主の盾となりたいのだ、と。 ヤナギの異能を継承し、ヤナギを襲撃した相手を粉砕し、半ば自失としたままに帰還を果たしたヒイラギを、皆は口々に褒め称える。 ヒイラギの死は悲しい。けれど戻ってきたのがお前でよかった、ヤナギ。 ヒイラギはかぶりを振る。俺はヒイラギだ、ヤナギじゃない。ヤナギが死んだんだ。声高に主張を繰り返す。けれど誰ひとりとして――主でさえも、ヤナギの生還を喜ぶばかり。死んだのがヤナギじゃなくヒイラギでよかった。そう言って笑みさえ浮かべる主に、ヒイラギは最大の衝撃を受ける。それきり、ヒイラギは自分はヤナギではない、ヒイラギだと主張する声を次第に弱めていった。 歳月を経るごとに、誰もヒイラギの名を口にしなくなる。ヒイラギは死に、皆の記憶から消えていく。 それでも、すべては主のために。 主が望むのはヒイラギではない。ヤナギであり続けなくてはならない。 主を騙している行為に罪悪感がないはずはない。嘘はいつかバレてしまうかもしれない。真実を知ったとき、主はどう思うだろうか。どんな顔をするのだろう。 ――身を裂くような恐怖を抱きながら、ヒイラギはヤナギとしての姿を演じ続ける。 <キリル> キリルは鬼の面を手にとった。 雨の雫が茶色の毛皮を湿らせている。雨師が手ぬぐいを用意したが、キリルはふるふると小さくかぶりを振っただけだった。 ――別れ、別れることの大切さを知るべきだ。 祖父は旅に出るキリルにそう言って聞かせた。キリルは猫のそれによく似た尾を揺らし、何度も深くうなずいた。祖父の言葉には深い意味がこめられている。祖父が嘘をついたことなど一度もない。だから、キリルは祖父の言葉を真摯に受け止め、記憶する。その場では、それが何を意味しているのか分からないことも多くある。けれどいつかきっと必ず、その言葉はキリルに新しい道を拓いてくれるのだ。 ――小さなキリルには、まだ分からないか そう言ってやわらかな笑みを浮かべ、大きな手でキリルの頭を撫でてくれた祖父の温もりは、片時も忘れたことはない。 その後赴いた旅の先、白い悪魔と呼ばれる者と出会った。 とある作家が、まだ幼いころに生み出した、蝙蝠型の妖精獣。少年が描いた絵本は箱庭のような世界で、現実を蝕む戦火から少年の心を慰めるように、妖精獣たちは息吹を与えられた。 けれどその白い悪魔は、真白な雪で覆われた真白な世界の中、ただひとりきりでうずくまり、怯えるようにしながら泣いていた。 ――寂しイ、悲しイ そう言いながら泣き続ける彼の顔を覗き込み、キリルは、祖父がそうしてくれたように、白い悪魔の頭をぽふぽふと軽く撫でたのだ。 手紙を届ける相手はその白い悪魔だった。キリルは手紙屋。務めはそれを届けるところまでで終わり。 白い悪魔は、ずっと、誰かを待っていた。それが誰なのか、キリルには分からない。 頭を撫でてやりながら、何度も口を開きかけた。 大丈夫、大丈夫。もう寂しく、寂しくない。 そう声をかけてあげたくて、でも、それはどうしても出来なかった。 泣き腫らしたまぶたを持ち上げてキリルを見上げた白い悪魔に、手紙を渡す。そうしたらキリルは彼をひとり置いて立ち去らなければならない。どんな相手でも、別れるときには必ず「さようなら」の挨拶を告げている。それを告げるのは、つまり、その相手との別れを迎えることになる。 寂しイ、悲しイ。そう言って泣き続ける白い悪魔に、もう大丈夫だよ、などと。もう寂しくない、などと。 ――言えるはずもなかった。 ◇ 天狗の面を木箱に戻しながら、ヒイラギは小さく唇を噛む。 現実では、誰もがヤナギと間違えたその中で、主だけは間違えることなく、ヒイラギの名を口にした。迷うことなく、ヒイラギの帰還を迎えてくれた。――見目だけで言えば髪の毛一本に至るまで、わずかな違和をも持たない双子だった。それを、なぜ見分けたのかは分からない。 ――本当は、ヤナギを助ける隙はあったのだ。 駆けつけたとき、ヤナギは致命傷を負う手前の状態にあった。フォローに入り、力を合わせれば、ヤナギは命を落とさずに済んでいたはずなのだ。 それを留めたのは、心の底でくすぶっていた嫉妬心だった。そんなもののためにヒイラギはヤナギを見殺しにしたのだ。 抱き続ける罪悪感や恐怖は、たった今夢に見たものとは違う類のもの。もっと醜い、暗い感情に類するものだ。 「どのような夢を?」 木箱のふたを閉じ、風呂敷で包みながら、雨師がヒイラギに訊ねかける。 ヒイラギは、けれど、わずかほどにも変調を浮かべることなく、ゆるゆると笑って首をかしげた。 「さあ……残念ながら覚えてはいないようです」 応えたヒイラギに、雨師は小さくうなずいた。 「そうですか。……さ、それではこちらを。あとはゆっくりと酒でも召し上がってください」 言い残し、ゼロの傍へと移って行った雨師に、ヒイラギは小さな礼をする。 雨師が木箱を風呂敷で包んでいくのを、ゼロはぼんやりと見つめていた。 「ゼロはこんな夢を見たのです」 言って、見てきた夢の内容を語っていく。雨師は包み終えた木箱をゼロに差し伸べながら、ゼロが語る夢の話に興味深くあいずちを打っていた。 「ゼロは今、思うのです」 面をかぶり、見てきた夢は、本当にただの夢に過ぎない。 でも、自分にはたくさんの仲間がいてくれる。ひとりで世界に変革をもたらそうと努めることなど、きっとめったにはないだろう。必ず仲間がいてくれて、共に力を合わせ、解決を導くことが出来るはずだ。 「ゼロは世界図書館と出会えて良かったのです」 そう言って陽だまりのような微笑を浮かべた少女に、雨師もまたふわりと微笑み、うなずいた。 面をはずした後、アマリリスは横目に雨師やロストナンバーたちの動向を確かめた。雨師はゼロの話を聞きながら木箱を包んでいる。ヒイラギは渡された風呂敷包みを指先で撫でながら、何事かを考えているように目を伏せていた。次いで、キリルの姿を探す。キリルは鬼の面を木箱に戻しつつ、泣き出しそうな顔でうつむいていた。 キリルに声をかけようとして、けれどその時、アマリリスは気がついた。――自分の目元に、わずかに揺れる雫があるのを。 幸いにも、誰にも気付かれてはいないようだ。アマリリスは髪を撫で付けるような仕草のついで、さりげなく目元を拭う。 自分がどんな夢を見たのか覚えていない。けれど、なぜかとても懐かしいものを見たような感覚だけが、胸の内にじわりと残されていた。 木箱のふたを閉めるキリルの傍に近付いて、キリルの頭を優しく撫でる。 「大丈夫か?」 短く問うた。 キリルは驚いたように顔をあげて、小さく「みゅ」と鳴いた。 「ぼく、ぼく、たくさんの人、たくさんの人と出会って、たくさん、たくさんの人と別れた」 キリルが落とすそれは独り言のようでもあり。アマリリスは黙したままに耳を寄せる。 一通の手紙を通し、たくさんの出会いと別れを目の当たりにしてきた。 さようならの挨拶を欠かしたことは決してなかった。別れることは大切なことだと言った祖父の言葉がもつ意味を知るために。 覚醒して、0世界で出会った女の子。ゼシカはずっと長い間、父親の帰りを待っていた。父娘の再会は長い長い曲折の後、ようやく果たされた。直後、父親は少女を遺して死んでしまった。 あの子がそれを理解しているかどうかは分からない。けれど少女は今も父親の帰りを待っている。 キリルは、少女の父親に手紙を渡すという務めを負っていた。務めは果たした。父親は幸いの内、光となって姿を消した。 あの子もいつか、父親がどこに往ってしまったのかを知るのだろう。もしもあの子が、父親に向けて、さようならを言うときが来るのならば。 キリルは思う。想像する。あの子のふわふわとした、天使のような微笑みを。 その時、あの子は、笑っているだろうか。それとも、泣いているだろうか。 けれど、永別というものは、あの子にだけ訪れたものではない。いつかきっとキリル自身にも訪れるものなのだ。 大好きなじいじ。そうして、――大好きな白い悪魔……ワード。 彼らに向けてさようならを告げる。 その時、キリルは、祖父の言葉が持つ本当の意味を理解できるようになっているのだろうか。 雨は降り続けている。 アマリリスの手がキリルを優しく撫でている。その手は祖父のそれとはまるで違ったものではあるけれど、それでもやはり、とてもとても暖かい。 夜風が庭の草木を揺らす。その音に思わず振り向いて、つかの間視線を移ろわせた。そこには誰の姿もない。 キリルは、けれど、そこに流れる夜風と雨の匂いに向けて顔を持ち上げた。 「御面屋さん、さようなら」
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